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第5話 いつもと違う朝を

 朝起きると頭が痛かった。完全に二日酔いだ。  そこで、ベッドの上に寝ていることに気付く。隣には安らかな寝顔で寝息を立てるシャルルの姿があった。一応身体の異変を探ってみるが、何事もなかった。  朝起きて隣に愛しい人が寝ている。ただそれだけのことが、幸せと感じた。いつもと違う朝が来た。  俺はシャルルの額に口づけて、朝食の準備をする。材料を適当に拝借して、ベーコンの簡単なサンドイッチを作った。 「ボンジュール」 「……おう」  朝からシャルルは笑顔で迎えてくれた。それにどう答えればいいのか、どういう態度を取ればいいのか分からない。キスがしたい。そう思っても、彼に拒否されるのが怖くて、何もできない。こんなことでいつもどうやって人と付き合っていたんだろうか。本当にセックスしかしてなかったみたいだ。 「サンドイッチですね」 「……野菜苦手とか、そういうのあった?」 「好き嫌いは無いんです。それに、クロードさんが作ってくれたものを食べないなんていう選択肢は、僕にはありません」  ああ、朝から何てことを言うんだ、こいつは。そういう甘い言葉を語られて、俺はどうしたらいいんだ。ただ顔を真っ赤にして、俯いて……まるで初恋でもしているみたいだ。  サンドイッチを一緒に食べて、俺はアパートに帰った。シャルルは送ってくれるって言ったけど、もう心が揺さぶられるのは勘弁して欲しかった。  アパートに帰ると壁に『運命の道』が掛かっていた。それを見るだけで、シャルルの顔が浮かんでくる。会いたいと思ってしまう。もう、嫌だ。まるで、恋してるみたいじゃないか。そんなの、十代で卒業したはずなのに。  制服を引っ掴んで、家を飛び出す。これ以上あの部屋にいたら頭が変になりそうだ。  朝から日が暮れるまで、俺はただ林檎のタルトを作り続けた。早く終わればいいと思った。四六時中あいつのことが頭から離れない。会いたくて仕方ない。そんな自分が嫌になるけれど、恥ずかしいと思うけれど、こんな気持ちになるのは人生で初めてだったから、抑え方が分からない。  九時。後片付けもそこそこに店を飛び出す。明日怒られることは百も承知。足は俺の気持ちのままに真っ直ぐに道を行く。『ロトレック パリ画廊』。  鈴を鳴らすと、シャルルが玄関を開けて出迎えてくれた。いつものあの笑顔で。 「クロードさん、夕食取りました?」 「……まあ、まかない出るし」 「じゃあ、上で一緒にクッキー食べませんか。父からもらったものなのですが、とても美味しくて。クロードさんにも食べて欲しいな」  抱き締められたい、キスして欲しい、そんな気持ちを全部かわされる。こいつは俺と会って嬉しいとか、そういう気持ちになったりはしないんだろうか。それで、「好き」と言えるんだろうか。  あの時無理矢理身体を重ねたことを後悔する。もしかしたら、本当に恐怖を植え付けてしまったのかもしれない。  三階の部屋に入る。テーブルの上にはクッキーの入った箱が置かれていた。シャルルはソファに腰を下ろし、カップに俺の分の紅茶を注いだ。  俺は茫然とそれを眺めていた。心にもやがかかっている。シャルルの気持ちが分からない。どうしたらいいか分からない。  シャルルの隣に座り、彼の顔を眺めた。愛しい、愛しい。感情だけが溢れた。 「シャルル、本当に俺のこと好きか」 「はい」  一瞬の躊躇いもなく笑顔で即答する。俺は真っ直ぐにシャルルの顔を見つめ返した。 「だったら、どうして俺に触れないんだ? セックスしたいとか思わないのか?」 「必要ない、と思っています」  どういう意味か分らなかった。何が言いたいんだ、こいつは。「必要ない」って、俺と一生セックスするつもりないってことか? 「だって、僕はクロードさんのことが好きだし、相手を思う気持ちがあれば、性交渉する必要はないと思うんです」  シャルルの言っていることは分かる。けど、それは処女の言い訳に過ぎない。実際身体を合わせないと分からないことの方が多いんだ。あの日の夜のことを、お前だって忘れてやしないんだろう? 「好きだと言われるだけじゃ俺は足りない! 伝わらねえよ、何も! 言葉は理性で抑えられてる。嘘だっていくらでもつける。俺は、本能で感じる『好き』が欲しい」  不安なんだ。怖いんだ。自分だけが本気なんじゃないかと。自分だけがこんなに頭が変になるほど好きなんじゃないかと。  そしてまた、捨てられるんじゃないか、と。 「……クロードさんを傷つけてしまうのが怖いんです」 「どうして俺が?」 「僕の心を見たでしょう?」  僕の心――四階のアトリエのことか。あの空間はシャルルの心を表現したものだという。痛い、苦しい、辛い。そして俺には、「助けて」と言っているように思えた。まだ幼く弱い心が叫んでいるように、泣いているように思えた。何をそんなに苦しんでいるのか俺には分からないけど、少しでも彼の苦しみを和らげたいと思う。俺が客に菓子で幸せをあげられるように、シャルルにも俺と居ることで、俺が何かすることで、幸せをあげられないだろうか。  一人の人間のために何かしたいと強く願ったのは初めてだった。 「僕はあの部屋のように醜く汚い。そんな感情を貴方に向けて、傷つけてしまうのが恐ろしくて仕方ないんです。貴方が、大切だから」 「……それでいいのか、お前は。そうやって俺のことを思いやって、自分を傷付けてんじゃねえか」  彼は緑の瞳を大きく見開いて俺を見た。  シャルルは、俺と同じだ。自分を傷付けて生きてきたんだ。俺は自分を守るために、シャルルは他人を傷つけないために、知らないうちに自らにナイフを突き立てていた。そんな俺達が寄り添って、他人は傷の舐め合いだと言うかもしれない。それでも、痛みが共有できる人間なんてそういない。だから、理解できることも、助け合うことも出来る。  俺はシャルルの頬にそっと手を添えて、軽く口付けた。唇が震えた。 「触れよ」 「できません。怖いんです」  何をそんなに恐れてるんだ? 傷付けるというのとは、また違った問題のようにも思える。セックス自体を恐れているみたいだ。 「今まで、セックスしたことは?」 「一度だけ」  シャルルは微笑んで俺を見つめ返した。しかし弱々しい笑顔だった。 「十二歳の時に母の愛人にレイプされました」  どうして、彼はそんなことを何でもないことのように話すんだ? どうして笑顔で、痛みを隠すんだ? その告白で、できるだけ俺を困惑させないように気遣っているのだろうか?  俺はシャルルを抱き締めた。彼の笑顔があまりに痛々しかったから。これ以上無理をさせたくない。 「泣いていいんだぜ」 「無理ですよ。泣くタイミングを失ったから。どう泣けばいいのか分かりません。でも――」  シャルルは身体を離して、俺の頬に手を伸ばした。 「クロードさんに、触りたい」  彼の緑の美しい瞳は、俺に何かを縋るような、弱々しい光を放っていた。俺は彼が望むようにして、それが彼の慰めになるんなら、それでいいと思えた。癒えない傷の痛みを、少しでも忘れさせることができるのなら。  シャルルはゆっくりと俺の身体をソファに横たえた。彼の手が俺のシャツのボタンを一つずつ外していく。心臓が、弾け飛びそうだ。  首筋、露わになった胸に、シャルルは口付けた。こんな優しいセックスなんてしたことがない。身体は慣れていないせいか、それとも愛し合う相手にされているからなのか、異常なまでに反応してしまう。  シャルルの手がズボンに掛かる。ゆっくりとチャックが下される。 「あっ……」  彼の触れた部分から身体が溶けそうなほど熱くなる。彼の手は、執拗なまでに俺の雄を愛撫した。俺を見つめる翡翠色の瞳は、優しくそして切ない色をしていた。  俺はシャルルに手を伸ばして、ほんのりと汗ばんだシャツを脱がした。 「シャルル、もう……入れて」  このままでは入れられる前にイきそうだ。シャルルは俺自身を解放すると、俺から身体を離して座り込んでしまった。 「どうすればいいのか分かりません」 「……やったことあるんだろ?」 「お尻……舐めるものなんですか。僕は、そうされました」  悲しい目をして、少し瞳を揺らして、そんなことを言わせてしまった。過去の傷を抉った。傷つけた。  俺は身体を起して、彼に抱き付いた。 「やっぱいい。俺が教えてやる」  強引にシャルルの手を取る。俺は彼の人差し指を口に銜えて、舌で舐め上げる。唾液が指に絡みつくように、少し弄ぶように。 「指、入れて。ここに」  俺は自分で蕾を拡げて指を入れる場所を指し示した。まさか、こんな恥ずかしい格好を自らするとは思わなかった。 「はい」  彼の返答と共に、指が中に入ってくるのが分かった。俺の中を指で掻き回す。それは愛撫するようでいて、俺の反応を見て弄んでいるようでもあった。 「は、あっ……」 「クロードさん……綺麗」  彼の瞳は俺を捕えて離さなかった。喘いでいる姿をこんな近くで真っ直ぐに、邪な感情無しに見られ、羞恥心に煽られて身体がいつも以上に感じてしまう。 「も、シャルル入、れて……身体が変、なるっ……」  シャルルは小さく「はい」と答えると、自分のズボンを下げた。目の前に突き出された彼の予想以上に昂ったそれを見て、身体が小さく震えた。シャルルが、俺に欲情している。そう思うと、堪らない気持ちになる。 「……好きです」  シャルルは耳元でそう囁くと、俺の腰を少し持ち上げ彼自身を押し当てた。 「ああっ……!」  相当我慢していたのだろうか。根元まで一気に入れてしまった。痛みに仰け反るが、彼は俺の腰を掴んだまま離さない。 「あ、ん……シャルル……」 「クロードさん……」  身体の中に、彼の一部を感じる。それは熱くて、今にも達してしまいそうなぐらい硬く大きくなっている。彼も早く、と求めているのか、腰の動きが速い。激しい。  彼の猛りが俺の内壁を擦りあげる度に、快感が一緒に突き上げてくる。シャルルの必死な表情が、余計に身体を感じさせる。  これが、本当の恋なんだと思った。俺は今まで体を重ねることで誤魔化してきたけれど、俺は今初めて本当の恋を知ったんだ。 「は、あん……シャルル、もっ、無理っ……!」  俺が絶頂に達すると共に、シャルルは俺の中に飛沫を放った。身体を倦怠感と、快感と、堪らないくらいの幸福感が満たしていた。  初めて、互いに想い合う人と一つになった。それが、自分では扱えないくらい嬉しくて仕方なかった。  シャルルは俺に口付けて微笑んだ。その眼に映った確かな愛を、俺は見逃さなかった。  朝、目が覚める。しかし、そこには昨日隣で一緒にベッドに入った人物の姿は無かった。  ――喪失感。そして仄かな恐怖感。いつもの朝が、来たのか? 俺は……捨てられた? 「あ、クロードさん! ボンジュール」  絶望する直前、笑顔のシャルルがドアから顔を覗かせた。いつものように子供のような無邪気な笑顔を向けている。  俺の隣に腰を下ろすと、両手で俺の顔を包み込んだ。 「……泣かないで」  初めて会った日、泣いた時よりも、ずっとずっと優しい声で、愛しい人を想うような声で、彼はそう言った。いつの間にか涙が、零れていた。  俺は強く、半分縋りつくようにシャルルに抱き付いた。 「お前、俺を本気にしたらこええぞ! 捨てたりしたらな、殺すぞ、本気だからなッ……!」 「はい」  シャルルは俺の前髪を掻きあげて、優しく指で涙を拭ってくれた。 「ずっと、傍に居て下さい」  一方通行ではない。俺を愛してくれる人がいる。俺だけを見てくれる人がいる。必要としてくれる人がいる。  俺は十近くも年の離れたシャルルという男に、感情を滅茶苦茶にされてしまった。しばらくそうして、俺はシャルルの胸の中で泣いた。その涙は温かく、心の中に幸せな気持ちを残して消えて行った。

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