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番外編① パティシエは甘い恋に戸惑う
仕事が終わり店を出ると、黒のジャガーが停まっている。幼さの残る年下の恋人は俺を見つけると嬉しそうに笑んで、紳士的に助手席のドアを開けた。
俺は何とも思ってない風を装い、黙って車に乗り込む。本当は待っていてくれたことが嬉しくて堪らないし、微笑みかけられるだけで馬鹿みたいに心臓が高鳴っているのに、だ。
シャルルはシートベルトを締め、俺の方をちらりと見てから、チェンジレバーをドライブにして、ゆっくりとペダルを踏み車を発進させた。
「お仕事お疲れ様です、クロードさん」
「ああ、今日も一日林檎のタルト三昧だったぜ」
シャルルが「ははは」と声に出して笑った。俺が疲れた顔をしてたから、きっと気遣って言葉を掛けてくれたのだろう。
目の前の信号が赤になっているので、車を停止させる。と、突然シャルルは俺の方に身を乗り出し、顔を近づけた。思わず身を硬くする。
「やっぱり、すごく甘い匂いがします」
そう言って身体を自分のシートに戻し、信号が青に変わると再び静かに走り出した。キスされるのかとちょっと期待した俺が馬鹿みたいじゃないか。
「……お前は油の匂いだろ」
そう言って深くシートに身を沈み込ませ、足を組んだ。
「ちゃんとシャワーを浴びて来たんですけど、匂いますか?」
くんくんとシャルルが鼻を鳴らす。肩透かしを食らって苛ついて言っただけで、実際匂いはしていなかった。
「それで、お前の方は良い絵が描けたのかよ?」
「はい、お陰様で個展にも間に合いそうです」
広告のデザインを何度か担当したことがある父親の仕事関係者から声を掛けられて、小さな画廊ではあるが、シャルルは人生で初めての個展を開くことが決まったのだった。今はそこに展示するための絵を描き溜めているところで、最近はアトリエと寝室を往復するような生活をしていた。
「お陰様って何だよ」
怪訝な顔でシャルルの横顔を見詰める。
「クロードさんのお陰ですから。こんなに楽しく絵を描けるのは」
素人だから絵の価値や表現についてはよく分からないが、以前見たシャルルの絵は暗い色や原色を使ったものがその多くを占めていたように思う。でもここ最近のシャルルの絵には、パステルカラーのような暖かさを感じる色も使われるようになっていた。
「僕、幸せなんです。ずっとクロードさんといたいと思うんです」
急に恥ずかしげもなく思いのままに言葉を紡がれると、心の準備ができていない俺の心臓は破裂しそうになり、沸騰しそうなほど顔が熱くなる。
「……でも、クロードさんは違うんですよね」
翡翠色の瞳が影を落として、悲しげに揺れた。
数日前にシャルルが珍しく俺の部屋に泊まった時のことだ。
「お邪魔します」
丁寧に靴の埃を落として部屋に入る。あの日以来シャルルを家に招いていなかったせいもあり、妙に緊張していた。
「カビ臭くて狭い部屋で悪いな」
部屋の鍵をテーブルの上に投げて、クローゼットからハンガーを取り出す。
「それ掛けるだろ」
「ありがとうございます」
シャルルからジャケットを受け取り半開きにしたクローゼットの扉に引っ掛ける。
「誰かから留守電入ってますよ。聴きますか?」
電話機を見るとちかちかと赤いランプが点滅している。
「ああ」
そう返事をした瞬間、もし今までに身体の関係があった男の誘いの連絡が入っていたら、と想像して血の気が引く。
しかし、シャルルがボタンを押して録音されていた音声は、壁紙のセールスの電話だった。
「この部屋、壁紙貼らないんですか?」
シャルルの絵と母さんの写真以外は白いペンキを塗っただけの壁だ。ここに住んでからずっとしつこくセールスの電話が掛かってくる。
「壁紙貼ったところで、カビ臭さは無くならねえだろ」
そう言うと、シャルルは目を輝かせて、俺の両肩を掴み真正面から向かい合った。どきっとして、翡翠色の瞳に釘付けになる。
「僕とあの家で、一緒に暮らしませんか」
冗談ではないと分かっていた。彼が真剣な眼差しで俺を見詰めていたから。心臓が早鐘を打つように高まる。
「……いや、いい。ここの方が落ち着く」
その返事を聞いた時の、シャルルの打ちのめされたような表情は今思い出しても苦しくなるものだった。この時にちゃんと、俺は話しておくべきだったのだろうが、要らぬプライドが邪魔をして何も言わなかった。
シャルルが「いいお部屋ですからね」と無理に笑ってみせたので、変な雰囲気にならずに済んだせいもあった。
「ロトレック・パリ画廊」まであと二ブロックのところで、交差点の赤信号に捕まり車を停止させる。ここの信号は変わるまでが長い。
隣で悲しげな表情を浮かべる恋人の横顔を見て、俺はついに腹を決めた。
「……心臓がもたねえんだよ」
「え……?」
何の話をしてるのか分からないといった様子で、俺の顔を覗き込んできたので、窓の外に視線を移す。
「シャルルが笑いかけてきたり、甘ったるい台詞を言ってきたり、キスされるんじゃないかって思うだけで、俺の心臓は破裂しそうになるんだ。それでお前と暮らしてみろ。命がいくつあっても足りねえよ」
言いたくなかった本音をぶちまけたせいで、顔から火が出そうになる。目の端で、シャルルがシートから身を乗り出して、俺の顔を覗き込んでいるのが分かった。
「こっち向いてください」
「……嫌だ」
「キスがしたいです、クロードさん」
絶対に顔を向ける気は無かった。家に辿り着いてシャワーを浴びて落ち着くまで、俺の無様な面を見せたくは無かった。
だが、俺の紳士的な恋人が甘えるようにねだるのを無視できるはずも無く、俺は顔をゆっくりとそちらに向けた。
シャルルはそばかすのある頬を少し赤らめて、俺の頬に手を添え、優しくふわりと触れるように唇を重ねた。
「……はは、僕の心臓も酷い」
苦笑するシャルルの胸に手を当てると、服の上からでも分かるくらい心臓が跳ね上がっていた。表情に現れないだけで、彼も俺と似たような無様さだった。
「だから……もう少し時間をくれ。幸せ過ぎて、死にそうなんだ」
「……はい」
信号が青になって、シャルルが自分のシートに座り直す。車が滑るように緩やかに発車する。
「じゃあそれまでに父に紹介しないと」
「はッ?」
座席から飛び上がるくらい驚いて、シャルルの方を見ると、涼しい顔でハンドルを握っていた。
「あの家は父さんの所有物ですから。一二階の画廊で展示を行う時は、毎日くらい訪問しますし、一緒に暮らす恋人を紹介しないのは変ですよ」
男女の恋人同士なら、それは普通の流れかもしれない。しかし、俺が男である限り、そんなに容易く同意できなかった。俺は実の父親にゲイだとカミングアウトして、最悪なことになったからだ。
「大丈夫です。どんなことがあっても、僕はクロードさんと生きていきます」
俺の心を読んだのかのように、諭すように優しい声音で言うシャルルに、俺は小さく「うん」と頷いた。
「ロトレック・パリ画廊」。見慣れた看板の前で車が停まる。俺が降りるよりも先に車のドアが開いて、シャルルが「どうぞ」と笑みを浮かべて立っていた。
シャルルが家のドアの鍵を開けるのを見ながら、いつか俺がこの鍵を持つ日が来るのだと思う。そして、「お帰りなさい」と年下の恋人に笑顔で迎えられ、「ただいま」とくすぐったくも応える俺がそこにいる。
それは気恥ずかしくも素晴らしい想像だった。
シャルルの後ろについて部屋に入る。画廊の何もない真っ暗な部屋の電気を点けた。
「シャルル」
呼びかけると振り返ってその美しい翡翠の瞳で俺を見詰めた。
「……俺もお前と、生きて行くから」
シャルルは俺の言葉を受け取って子供のように無邪気な笑みを浮かべると、駆け寄ってきて俺を強く抱き締めた。
今この瞬間の、嘘偽りのない愛と幸福に包まれて、この時が永遠に続けばいいと思った。最良の時に最悪を考えるような男だから。
それでも、自分から俺を抱き締めたシャルルの想いは間違いなく真実で、永遠の愛を信じてしまうくらいには、俺を恋に盲目にさせたのだった。
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