1 / 40
第1話 悩めよ、DK
――悩めよ、若者。そう、彼は言っていた。悩みなどという代物はいつだって、どこにだってあるものだ。それをどう乗り越えていくのか、それが成長するということだと。彼は青空を見上げながら言ったのだ。そこには涼風を得た爽快さがあった。
「はい。読むのそこまででいいぞー。えー、ここで、この作者が言っていた、三十四ページのところに戻るわけだが……」
悩めよ、若者……か。
リアルはさ、悩み事抱えながら「爽快さ」なんて味わえるわけがないと思うけど。
「この若者の悩みを青空とをくっつけて青春を表現して……」
悩みと青空もくっつかないと思うし。
少なくとも、今、教室の窓の外に広がる夏空を見上げながら考えたことには「爽快さ」を俺は感じない。感じるとしたら、暑そうだなぁとか。今日、プールよな、とか。アイスって食べてもその時だけが涼しくて、効果が持続しないんだもんなぁとか、その程度で。
「えー、それでは次のページ」
悩みなんて、今、その悩みの表現方法を語る現国の先生にも、この教室で勉強している皆にも。
もちろん、俺にも。
「この作者の意図を……」
悩みは誰にだって。
「おーい、こら、そこ」
「!」
いきなり、その現国の阿部がこっちを指差すから。びっくりした。
「珍しいな、お前がボーっとするなんて。ページもう次だぞー、酒井(さかい)」
「……すいません」
けど、注意をされたのは俺じゃなくて、お隣の席の酒井だった。注意を受けて、俯くと、教科書をめくり指示されたページを眺めた。
席替えから今日で五日目、今のところ会話はゼロ。よくクラスメイトに囲まれてて話題の中心人物って感じ。
人気者の酒井。
女子からも、男子からも。
そんな酒井にも悩みってあるのかな。
誰にだってあると思ったけど、酒井には悩みってなさそう。顔良し、短髪爽やか系のスポーツ万能、背も高くて、一年の頃からバスケ部レギュラーだったはず。成績もいいらしい。他人のテストの結果を覗くような趣味はないから、よく知ってるわけではないけど。ハイスペック。あ、あと、もう一個。一つ下、酒井も所属してる男バスの女子マネージャーから早々に告られたとかって話を聞いたことがある。すごい可愛い子ってちょっと二年男子の間でもアイドル的存在で、彼女が男バスマネをやるってわかった時、数人が入部を希望したくらい。そんな女の子に好きって言われたらしい。けど、どう返事をしたのかっていう話はこっちまで流れてくることはなかったから知らない。
やっぱ、なさそうだ。悩み。
俺の中でだけど、「日向男子」ってこっそり命名しているイケテル酒井には悩みなんて、無縁そうだって、外の、入道雲がアイスクリームみたいな青空を眺めた。
日が当たってポカポカしているところは人が集まるし、そういうところにいると皆も笑顔になる。
酒井の周囲はまさにそんな感じ。だから、日向男子。
俺は日向男子じゃないから悩み、あるよ。
しかも二つ。
「おーい、桂(かつら)くーん」
「はーい」
「夏のクラブ地域別会、今回出ないの? 器械体操部のとこ、桂君の名前なかったけど」
俺を呼び止めたのは、あけぼのスポーツクラブのおじちゃん。
三歳の頃から通っていた。もう俺はかなりの古株生徒で、このラストのレッスンの受付兼清掃を請け負ってるおじさんはほぼ親戚感覚で話しちゃうくらい。けど、そんなふうにもなる。俺は三歳、おじさんだって、当時は十四年分若くて、毛がふさふさしてた、らしい。三歳の頃の記憶はないから、あくまで聞いた話だけど。
「あー、うん。その辺り模擬があるから、やめとこうかなって」
「そっかー、高校二年生だもんねぇ、こーんな小さい頃から見てるけど、そっかー、そろそろ大学生かぁ」
「あはは、それちっちゃすぎ」
長身一センチくらいじゃんって、おじさんジョークに笑って、ずいぶんボロボロになって、「あけぼの」のロゴも欠けてきた二代目ボストンバックを担ぎ直した。
「そんじゃーね」
「おー、怪我せんようにな」
「はーい」
もう十四年だもんな。さすがに大学に行くタイミングでは辞めようかなって思ってたりはする。もちろんオリンピックに出られるほどの選手じゃない。全国大会での優勝もちょっと難しい。クラブ内での大会で優勝がせいぜい。
継続は力なり、とはいうけれど、力をつけても発揮する場所がないのなら、それは継続する必要があるのだろうか。っていう進路系の悩みが一つ。
もう一つは、ちょっと深刻、かな。ひじょうにパーソナリティーな悩みで、人に相談したこともないような……。
「こんちはー」
「おー、桂、もうレッスン始まってるぞー」
「すんません」
中に入るとずっと習っている渋川コーチが渋い顔をしていた。
慌ててストレッチに合流、軽い運動から入って、それぞれのレベルに合わせて技術向上のレッスンが始まる。
ストレッチはけっこう好き。軽い運動は、あんまり好きじゃない。レッスンは……どうだろ。普通、かな。
鉄棒、跳び箱、床運動、あん馬、とりあえず、これを一ヶ月に一つずつ習っている。一番得意なのは床、苦手なのは、あん馬。今月は鉄棒のカリキュラム。
鉄棒は、うーん、好きでも嫌いでもない。小さい頃は好きだった。校庭とかで自慢気に回転技とかぐるぐるできたりするから。けど、この歳になったら披露する機会はないし、いや、披露するつもりもないけど。
自分のちょうど目線くらいにある鉄棒にジャンプで上がって、まずは基本姿勢。そこから後ろ周りを二回、定位置に戻って、姿勢を五秒キープの後、前周り。んで、着地。
「よーし、じゃあ、休憩」
あー、なんか、回転の時、ちょっと速度が足りてない気がした。なんだろ、足の振りが悪いのかな。
「あー、それでな、桂、もし、良ければ、なんだがな」
「? はい」
休憩だから、水を飲みに自分の鞄のあるマットへ行こうとしたところだった。
「桂、臨時アルバイトやってみないか?」
「……へ?」
「いやな、明日からの短期集中レッスンを受け持ってたコーチが骨折でな、まるまる一ヶ月コーチングできないんだわ。かといって、急にっつってもなぁ」
一ヶ月の短期レッスン、キッズクラスならそういうのけっこう定期的にあったっけ。シニアになるともうないんだけど。
夏休み前なら集中スイミングレッスン、体操なら定期的に、学校の体育できなかった苦手を克服する短期レッスンが設置されてる。今だとなんだっけ? 体操レッスンの通年カリキュラムは基本変わらないから、俺らのシニアと同じ鉄棒なんだろう。
「それで、古株のお前に白羽の矢が立ったわけだ」
そしたらたぶん、逆上がり、とかかな。
「え、けど、俺、コーチングなんて」
「大丈夫! どうだ?」
「んー……親にも訊いてみないと」
「それはもちろんだ。時給はずむぞ」
「はい。やります」
即答に、渋川コーチが渋い顔をやめて、声に出してまで笑っていた。
「初めまして。今日から、一ヶ月後、カッコよく逆上がりができるよう、一緒に頑張っていきます! メインコーチの渋川と」
三歳から通ってるとこだから。全然余裕で、親のOKが出た。まだそう受験も本格化してないし。今日から一ヶ月、週二回、はずんだ時給、弾んだ俺の心。
教える相手が子どもだから、わかりやすくできるかどうか少し心配だけれど、あと、俺らのシニアクラスでは渋い顔をしてることが多い渋川コーチのテンションが子ども向けでちょっと笑いそうで我慢がしんどいけど、でも、ここでずっと習って育ったから大丈夫かなって。
教える技も逆上がりだし。
「サブコーチの、桂柚貴(かつらゆずき)……で……す」
大丈夫かなって。
そう、思ったんだ。
ざわつく子ども達。チラチラとその視線は真横の巨人を伺っている。
「……」
小学生低学年がほとんど。身長はばらばらだけれど、その中、一際目立つ、その巨人がこっちを見て溜め息を零した。
口を真一文字にして、眉を寄せて、真っ赤な顔。
「それでは、一ヶ月で逆上がり! 頑張りましょうー!」
そのチラ見されてる巨人の名は。
「「「おおおおおお!」」」
酒井公太(さかいこうた)という。ちょうど今日も、右方向に陣取り、イケメン日向男子として女子に話しかけられていた、俺のクラスメイトであった。
ともだちにシェアしよう!