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一本目は辛らつに

 あ、殴られる。そう思って、とっさに目を瞑った。  中学一年と三年の差は大きい。この間まで小学生だった俺と、中学生がすっかり板についている三年では体格がまるで違う。きっと先輩のパンチは痛いのだろうなぁと痛みに備えても、一向に拳は飛んで来ない。  あれ、おかしいな。もう飛んで来たっていいはずなのに。さては、俺を油断させておいて目を開けた瞬間に渾身の力で殴る気か。  恐る恐る目を開けて、はっと息を飲んだ。  バスケットマンらしく短い黒髪。一点の曇りもない黒い瞳。下まつげが長く、少年から青年に変わりつつある整った顔立ち。百花中等部で知らぬ人はいないであろう有名人、上野四信(うえのしのぶ)が俺の顔に入るはずだった拳を受け止めていた。  この人、どっから来たんだ。屋上には俺と、俺を呼び出した先輩たちしか確かにいなかった。扉が開いた音もしていない。もしかして温室? 温室でサボっていて、もう部活の時間だと飛び起きたところに、この現場を見てしまった系? 申し訳なさすぎるやつだー、災難すぎでしょ、四信先輩。  四信先輩にとって、俺はなんの関わりもない後輩だ。なんなら四信先輩とは初対面だ。俺は一方的に知っていたけれど、四信先輩が俺のことを知っているとは思えない――いや、知っているかもしれない。  本郷七緒(ほんごうななお)は、白金三千留(しろかねみちる)広尾五喜(ひろおいつき)の腰巾着だという噂は有名だから。それならばなおのこと、俺を助けるべきではない。俺を助けることで、四信先輩にメリットはなにひとつないのだ。 「お前らなにやってんの? 一年ボコるとか先輩としてどうよ」  四信先輩は俺の顔を一瞥してから「お前らダセエぞ」と眉根を寄せる。  学校や行事で見た四信先輩はいつだってみんなの中心にいて笑っていた。その四信先輩が初対面である俺のために、同級生に怒りを露わにしている。それがどうしようもなく嬉しくて、視界がじわりと滲んだ。 「ちっ、ちげぇって上野! こいつさぁ、白金と広尾と仲良いだろ? だから仲取り持ってほしくて呼び出したわけ。なっ、そうだよな、本郷!」  そんなわけないでしょと思いながら、いっせいに視線が集まるとどうしたってへらりと笑ってしまうのが俺の長所であり短所だ。そうですね、と口からこぼれそうになった時、四信先輩が俺の肩に腕を回した。バスケットマンのわりに細いけれど、どこまでも力強い。 「取り持ってほしいって胸ぐらを掴むやつがどこにいるんだよ? お前ら、こいつの胸ぐら掴んでただろ。俺見てたんだよ、誤魔化すなよ」  俺を殴ろうとした先輩がぐっと息を飲む。  うわぁ、俺のせいで気まずい空気。最悪。なんとかしなきゃと四信先輩を見つめると、さっきまで怒っていたはずの四信先輩がニカッと歯を見せて笑っていた。それはすべての人を平等に照らすひだまりの笑顔。 「友だちに家柄は関係ない、俺を貧乏って知っていてもお前たちは俺の友だちでいてくれるだろ。その優しさを持っているお前たちなら、今こいつに言うべき言葉を知ってるよな?」  子どもの頃見ていた特撮ヒーローは、悪を悪と決めつけて切り捨てているように見えた。悪側に理由があるかもしれないのに悪の裏側を知ろうとせずに。  だけど、この人は、四信先輩は違う。誰のことも見捨てたりしない。自分の価値観で善悪を決めたりしない。俺が求めていた本当のヒーロー。 「……本郷、悪かった。腰巾着とか言っちまって。家柄なんて関係ないって上野のおかげでよく知ってたはずなのに、だせぇよな、マジで」  先輩たちは俺に頭を下げる。四信先輩に言われたからじゃない。心からの謝罪だということがわかるから、俺も一緒になって頭を下げた。 「俺がちるちるといっくんの周りをへらへらしてたから余計イライラしちゃったんすよね? わかりますわー、俺の笑顔ただでさえイラッとするって言われますもん! だから、おあいこっす!」  勢いよく頭を上げ、リーダー格らしき先輩に手を差し伸べる。俺を呼び出した先輩たちも、四信先輩も、一瞬目を丸めて次の瞬間弾けるように笑って、俺の手を握りしめてくれた。 「お前の名前なんだっけ? 俺は上野四信、中三でバスケ部部長! よろしくな!」 「俺は、本郷七緒です! 中一です! よろしくおねがいしゃす、ちゃんしーパイセン!」 「ちゃんしー? なんだよそのあだ名新鮮すぎだろー」 「オンリーワン感あってよくないっすか?」 「オンリーワン感ありすぎだわ!」  四信先輩の手がぽんぽん、と俺の頭を撫でる。  四信先輩に撫でられただけで、あらゆるものから許され、認められた気がした。だからこそ、もっと強くなりたくて、心を武装するためには見た目を変えようと決意。髪をピンクに染め、緑のカラコンを入れた。たったそれだけのことで、俺までヒーローになれた気がした。  あの日から四信先輩は俺のヒーローで、憧れの人。すべてをまるごと救う四信先輩のようになりたいと、その背中を追いかけて生きてきた。そうしているうちに、四信先輩への憧れが恋心に変わっていた。

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