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第7話
豊かな緑が広がっていた。楓は現実に見たことがない程に、一面が豊かで美しい緑の野原だ。小さな可愛らしい野花も無数に咲いている。
穏やかで長閑な風景だ。知らないはずなのに、どこか懐かしい。眼前に広がる美しい自然も、踏みしめる草木の感触も、頬を撫でる風の香りも、何もかもが懐かしくて、恋しかった。
顔がぼやけて見えないが、年若い青年と草原を走り回っている。青年は昔の装束のようなヒラヒラした服を着ていた。髪も長く、今の女性のように高い位置で一つに結んでいる。誰だかはわからないが、とても懐かしく安心する存在であるのに、彼を見ていると胸が締め付けられるように痛んだ。顔がぼやけて見えないのに、彼が微笑んでいるのがわかる。悲しいことは何もないはずなのに、目頭が熱くなるほどに胸が痛んだ。幼子のように泣いてしまいそうな自分がいる。そんな楓を温かな何かがそっと後ろから包み抱きしめた。力強い腕に抱きしめられて、大きな掌でそっと両目を覆われる。暗闇に閉ざされて、楓は確かな安寧と埋まることのないポッカリと空いた胸の空洞を感じた。
目を覚ませば、頬が強張っていた。眠りながら泣いていたのだろう、乾いた涙が独特の不快感を楓に与えた。ゴシゴシと指で頬や目元を執拗に擦る。それでも消えない不快感に楓は諦めて起き上がり洗面所へ向かった。勢いよく出した水を手で受け止めて顔に叩きつける。理由のない、訳の分からない感情にもやもやと苛立ちが募り、一つ一つの動作が乱雑になっていく。それでも時は待ってはくれないので、手早く着替えて出勤した。
どれ程仕事に打ち込んでももやもやは晴れない。どこか不機嫌で重たい空気を背負っている楓に周りも遠巻きに見ることしかできなかった。楓も一応はそれに目がいく。そして周りに自分の内心を悟らせている不甲斐なさと、感情に左右されている未熟さに自らが情けなくて仕方がない。気分はどんどんと落ちていった。
定時になりさっさと準備を整えて退社する。こういう時は長く残ったとしても何もできないことを楓は知っていた。何もできないならまだしも、失敗などしては余計な仕事を増やすだけである。さっさと帰った方が得策というものだ。
足早に歩く楓は、ふと懐かしい緑の香りを嗅いだような気がした。思わず足を止めて振り返る。ふわりふわりと漂う、どこか懐かしいこの香り。それに誘われるように、楓は踵を返した。
香りに誘われるままに足を動かす。どんどんと帰路からそれていくが、それでもかまわなかった。薄暗い道を歩き、人気のない場所に出る。そこは都会にあっては珍しく草木の生い茂る場所だった。太く立派な大木が幾つもそびえ立っている。どうやら懐かしい香りはこの大木が放っているようだ。楓はゆっくりと近づき、大木にそっと手をついて頬を寄せた。
サワッと大木が脈動する。水の流れる音、空気の結晶が浮かび上がって、大木が生きていることを耳に感じた。楓は目を閉じてその生命の音に聞き入る。なぜだか一筋の涙が零れ落ちた。
懐かしい息吹だ。命の鼓動だ。懐かしくて、こんなにも切ない。
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