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恵みの雨1

 連日の雨に鬱屈とした気分になる者も多いと聞くが、侑惺は違うようだった。なんでも、彼の祖父に当たる人物が変わり者で、大の雨好きだったらしい。  恵みの雨だという昔ながらの言い伝えに加え、雨に打たれた者は苦しみから救われると信じ込んでいたという。それを耳にたこが出来るほど聞かされ続けた侑惺は、つい雨の日に傘を忘れがちになる。  それを聞いた宵娯は、彼とは別の意味で雨の日が好きになった。電車で会うこともある彼と、運が良ければ学校まで相合傘をすることができるからだ。  その間、侑惺と仲の良い有沢と三人になることもあるが、何かを察してくれているらしい有沢は、あまり遭遇しないようにしてくれている。 「宵娯、電車が止まったらすぐに連絡してちょうだい。今日の雨は酷いみたいだから」  ニュースで予報を聞いた義母が、登校しようとしていた宵娯に声をかける。今は雨はそれほど降っていないが、雷鳴が轟いていた。 「分かった。行ってくる」 「気を付けて」  義母の声を背に家を出ると、大振りの傘を開いて歩き出したが、ふと侑惺の祖父の言葉を思い出して傘をずらし、雨に打たれてみる。  神聖な気持ちになるかどうかは分からないが、どうか侑惺と今日も登校できますようにと願いを込めてみると、叶うような気がした。  軽い足取りで駅のフォームまで向かうと、ちょうどタイミングよく到着した電車に乗る。雨の日は混雑しているのが常だが、何故だか今日に限ってはさほど混んでいない。それに気をよくしていると、何個目かの駅で待ち望んだ彼が乗り込んできた。 「侑惺」  すかさず声をかけるが、電車の音に紛れて聞こえなかったのだろう。侑惺はこちらに気づく素振りがなかったので、近づいて行った。目の前に立つと、ようやく宵娯に気づいた侑惺が、目線で隣に座るように伝えてくる。 「おは――」  電車の轟音に呑まれないように大きな声を出しかけたところで、侑惺が唇に指を当て、声を下げるように示した。そして、目線で隣を見るように告げる。  侑惺にしか目がいっていなかったせいで気が付かなかったが、隣には赤子を抱えた母親と思われる女性がいた。どうやら腕の中で眠っているらしく、これを起こさないようにと侑惺は言いたいのだろう。  思わぬ優しい一面につい笑みをこぼしてしまうと、侑惺がもの言いたげに宵娯を見た。その耳元に顔を寄せて告げる。 「優しいんだな」  すると侑惺は揶揄われたと勘違いしたらしく、むっとした顔つきをした。 「別に、そんなんじゃない」 「揶揄ったわけじゃない。そういうところは侑惺のいいところだ。ますます惚れてしまうな」  語尾を小さくすると、ちょうど電車の音に紛れて聞き取れなかったらしく、侑惺が間近で不思議そうに宵娯を見た。揺れでも起こって傾いてしまえばキスの一つは奪えただろうにと思うほど、無防備な距離だ。  しかしアナウンスがかかり、次の駅で到着することを知ると、自然とその距離は離れた。心臓が騒いで、どうしようもなく触れたくて堪らないのに触れられないという宵娯の葛藤を置き去りにして、滑るように電車は駅に近づいていく。 「桜庭、降りるぞ」  蹲って動機を鎮めていると、侑惺が声をかけてくる。顔を上げて侑惺を見ると、彼はさっと視線を逸らして先に立って歩き出した。  それを追いかけて駅を出ると、雨はいよいよ本降りになってきていた。  侑惺は天気予報など見たりしないのだろうか。やはり今日も傘を持っておらず、売店で買おうというつもりもないらしく、宵娯の傘の中に当然のようにして入ってくる。  大振りの傘のため、少し離れても肩が濡れることはないが、敢えて距離を詰めることにした。 「侑惺、得意科目はあるか」 「これというものはないけど、苦手なものもないな。強いて言えば、俺は理系に進もうと思っているから、そちらを特に頑張っている」 「そうか」 「桜庭こそどうなんだ。よく教師に呼び出されているようだけど、授業についていけてないとか?」  宵娯の事情を知らない侑惺は、単に勉強が不得意だから呼び出されていると思っているようだ。敢えて隠すことでもないが、何となく機会を逃してきた。  それに、今は伏せておくことで、後で学力を伸ばした時に伝えると驚かれるかもしれない。何しろ今、宵娯は勤勉と言われても過言はないほど勉学に勤しんでいる。  それは、多少は感心されることを期待してということもあるが、単に侑惺への気持ちを他へ向けることで紛らわそうとしているためでもある。そして、そのまま伝えないことに決めた。 「俺の成績が伸びてきているからではないかな。次の試験は赤点を取らない自信があるぞ」 「何だよそれ。かなり低レベルだ。勉強出来てない証拠じゃないか」 「いつかは侑惺を超えて見せる。待ってろ」 「言ったな。じゃあ超えた時は何でも一つ言うことを聞いてやる」  どういうつもりでそんな台詞を口にしているのだろう。宵娯が侑惺に願うことなど、決まっているというのに。  最も叶えたいことは、当然侑惺と恋人になることだ。その願いは今すぐにでも叶えたいが、それが叶わないことは知っている。だとしたら、せめて一度くらいは二人で出かけたい。  友人としてならそれも叶うだろうと、それを口に出してみると、侑惺は一瞬驚いた顔つきをして、何故だか困ったように笑った。 「そんなんでいいなら、いつでも叶えてやるから、もっと他にないのか」  期待させないでほしかった。人の気も知らないでと怒りをぶつけたくもなる。無意識にそうして宵娯を振り回しているなら、侑惺はとんだ魔性だ。  どこにもぶつけられないそんな八つ当りじみた言葉が頭の中を駆け巡り、上手い台詞を思い付かずに黙りこんでしまった。  そしてそんな宵娯を見て、侑惺はただ残酷に答えを待っている。憎たらしいのに愛しい、という思いを込めて見返すと、侑惺が急に俯いた。 「侑惺、俺は――」  辛い、苦しいと片想いの相手に訴えたところで、何になるというのだろう。互いが苦しむだけではないか。そう分かっていながら、ただ侑惺のつむじを見つめて告げた。 「いくら侑惺が振り向いてくれなくても、辛くても、ずっと好きでいると思う。俺の願いはただ一つ、侑惺に好きになってもらうことだ」  雨音に掻き消されないように、はっきりとした声で言いながら、侑惺の反応を待たずに、いつの間にかたどり着いた下駄箱で傘を畳む。そして侑惺を置いて、逃げるようにその場を後にした。  答えを聞くのが怖かった。拒絶されることを新鮮に思い、楽しんでいたあの頃に戻りたい。恋を自覚して初めて、嫌われるという痛みを知った。  いっそ侑惺に恋をしなければ、他の無条件に愛情をくれる誰かなら良かったと思ったところで、どうにもならない。  恋愛が自分でコントロール出来ないものだと身をもって痛感した。      

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