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第5話

ちりじりになって去っていく塊。 またねー、じゃぁねーと声を掛け合いながらも、後ろ髪惹かれる事なく、僕は家路を急ぐ。 香山先輩がくれた番号をじっと見つめながら。 大下先輩の携帯番号を知らなかった事はどれ程僕たちが連絡を取らなかったかを示す。 雨が強くなってきた。あの日のように…。 ーーー あの夜の事を思い出す。 あの夜も雨が降っていた。 先輩と僕は傘を忘れて、終電も無くなったバイト終わりの夜、先輩は近くの僕の家に泊まる事になった。 二人でビショビショになりながら走って帰った。 玄関で水のたっぷり入った靴を脱いで、僕達はボタボタと雨水を床に落としながらあまりの濡れ具合に大笑いして部屋に入った。 ぐっしょり濡れた先輩の体を見ながら、電気をつけようとしたら、滑ってこけそうになり、先輩が僕の頭をかばい、下敷きになった。 ドサッ… 「ご、ごめんね先輩!。痛かった?」 「いや、大丈夫だよ。……矢田…凄いドキドキしてる。」 先輩が息の上がる僕の心臓に手を当てて言った。 「は、走って帰って来たからっ…。」 心臓の音が煩かったのも覚えている。その手の大きさを、暖かさを覚えている。 音のない暗い部屋で、二人の鼓動だけが聞こえる。濡れた体が冷たく震えていた。 先輩は僕の事をじっと見ていた。 そして僕も近づいてきた顔をじっと見つめ返した。 憧れてきた先輩…。 一緒に居たくて同じバイト先にした事を知っているだろうか。 いつも笑いかけてくれる度に心が躍る事を知っているだろうか。 ゼミでいつもちゃんと近くの席を確保しているのに、隣まで来て話しかけられる喜びは、わざと与えられているものだろうか。 お昼ご飯を一緒に食べれるように講義をサボったことがあるのを知っているだろうか。 今日傘を忘れたと嘘を言った事に気づいただろうか。 僕はもっと彼を知りたいのに、見えない壁が高く高くそびえていて、それに僕が怯えているのを知っているだろうか。 ……きっと彼はどれも知らない。 それなのに距離が近づく度に期待する心が痛かった。 ゆっくりと彼の顔が降りて来て、僕は瞳を閉じた。 柔らかい唇がそっと僕の唇に触れる。 唇の温かさを感じられるくらいの長さ、それは僕に留まり、ゆっくりと離れていった。 ただそれだけだった。 自然と僕の眼から涙が溢れると、先輩はそれを見て僕から離れた。 嬉しかったと伝えたかったのに僕には言葉が出せなかった。 喋ってしまうと、もう側にいれなくなる気がして。 2人のなにかを壊してしまう気がして…。 僕達は服を着替え、何事もなかったかのように一緒の布団で寝た。 次の朝、無邪気に僕の頭を撫でたのはいつもの先輩だった。 僕達の間には何もなかった。 ほんの少しの間、濡れた服のままで、床の上でした、触れるキス以外、何も。 僕にはそれが十二分すぎる幸運に思えた。 それからも先輩は変わらず僕に優しかった。 変わらず一緒にバイトした。 だけど会える日がどんどん少なくなっていった。 就職活動が忙しい、仕事が忙しい。 会わない理由はどんどん増えた。 僕達は社会人になり、そしてこんなに時間が経ってしまった。 なにをしていたのだろう。 彼の事ばかり考えるのに、何故電話一つできなかったのだろう。 僕は雨と涙に濡れながら家に着き、濡れたスーツのまま彼に電話をかけた。

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