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序幕

 夜道を男が歩いている。後頂辺りで結われた銀を交えた黒い長髪は(あで)やかに揺れ、冷淡な眼差しは感情を露ほども写していない。ただ立っているだけでも色香が漂っていると錯覚しそうなほど美しいその姿は、老若男女問わずに人目を惹くだろう。一見すればどこかの役者か、それとも夜の営みを生業(なりわい)とする者ではないかと思う者もいるかもしれない。  しかし、一見すれば男は人ではないと分かる。  首から下を見れば人と変わらない。なのにその額からは立派な角が対に二本生えている。角の生えた異形を人間は鬼と呼ぶ。人間ではないならば、その美しすぎる容姿も納得がいく。なにより、男が歩を進めているこの場所は人の住む世のものでは無い。迷い込んだり、こちらの理を知る者であれば相見(あいまみ)える事はあるかもしれない。  しかしこの異界と呼ばれる場所の道は多い。何も知らない者が迷えばそこで灯を消すだろう。今は迷いなく歩を進める鬼ですら、齢数百にしてようやく迷わず歩けているのである。迷いなく踏みしめるその足がたまに弱小な妖のようなものを踏むが、そんなのは男にとってどうでもいいことだ。今、男の中にあるのはその身を投げ打ってでも、命を燃やす事になってでも仕えると決めた唯一無二の主人の息子である星月(ほしづく)の事である。優先順位で言えば主人には敵わないが、星月も男にとって無二だ。  現在、その二人の元を離れて一人歩を進める原因を思いだすだけで男は我知らず唇を噛み締める。鋭い牙で破れた場所から溢れた血が紅のように男の唇を濡らした。 「許すこと適わず…」  意識する度に漏れる言葉は怨嗟に塗れていた。思わず足を止め、どろどろとした激憤しか映していない瞳で見上げた夜空にはいつも通り綺麗な二つの満月が男を冷たく見下ろしていた。  一つの月は人も、動物も、妖もその姿を変える事なく空にあらわれる。しかし、鬼だけはもう一つの月が見える。それは始祖の鬼が空に残した片目だと子供の寝物語に伝えられている。生まれながらの鬼だけが空に二つの月を見る事ができた。  だからこそ鬼には己の名に月の字が入る事は何よりの名誉となり、その鬼の強さを表す印となる。  誰もいない異界の道で空を見上げる美しい鬼の名は雨月(うづき)といった。彼は激しく地を打ち付ける雨にも関わらず、雲一つない空で二つの満月が強く輝く夜に生を受けた何よりも強く美しすぎる鬼であった。

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