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#1 カウンセリングルームの狼

 初めはただ、第一印象で「狼に似ている」と思っただけだった。 「初めまして、ウィルクス巡査。カウンセラーのシドニー・C・ハイドです」  そう言って微笑みを浮かべる目の前の男を見て、やっぱり狼に似ている、とエドワード・ウィルクスは思った。彫りの深い顔立ちは、どことなく賢い狼を思わせる。たいしてハンサムではないが、人目を惹く顔立ちである。どことなく、エキゾチックな雰囲気があるからだろうか。明るく輝く青い目も、狼の雰囲気を強めている。  見惚れていたことに気がつき、ウィルクスは身じろぎした。 「ウィルクス巡査。ファースト・ネームは?」 「エドワードです」 「『幸福の守り手』か。とても警官らしい、いい名前ですね」  父はおれに警官になってほしかったわけじゃないんですけどね。思わず皮肉っぽい言葉が出そうになって、唇を噛む。どうやら仕事と禁煙のストレスで、イライラしているらしい。  ウィルクスはグレーのサマースーツのポケットに手を触れた。一応、煙草は常備している。吸うか吸わないかは意志の問題だと思っていたが、要は単にニコチン中毒らしい。目の前の男の顔をじっと見る。そうやって見つめると、眼光鋭く強面の美貌を持つウィルクスのこと、相手はたいていどぎまぎする。後ろ暗い秘密を握られた小市民のように。  しかし、ハイドはそうではなかった。 「業務中に、お時間をとらせていますね。お忙しいことは理解していますよ」 「……いえ。上司に、あなたと面談するように言われました。仕事の一環と思っています」  ハイドはにっこり笑った。 「ありがとう」  その笑顔に、見惚れていた。柔らかくて、優しくて、穏やかで、心が緩みそうになる。その笑顔に向かって甘えたら、弱音を吐いたら、孤独を叫んだら、包みこんで受け止めてくれそうだ。ウィルクスはそう感じた。思わず目を細めていた。  しかし、すぐに我に返る。あの男もそうだった。それで、ついていったらどんなことになった? ちがう。おれは、寂しいだけだ。ずっと、一人ぼっちだから。  三か月前に別れた男のことを振り払う。あの男は、利己的だった。そしてこの人が笑顔なのは、仕事だからだ。  ハイドの髪を見る。半ば白髪が混ざった黒髪。いくつなのだろう。その半白の髪に、大人の男だという感じがした。  ハイドもまたウィルクスの髪を見ていた。茶色い短髪。前髪は眉より短い。男らしい凛々しい眉があらわになっていて、清潔感に好感を持った。  婉曲な探りあいは、仕事ではするが好きではない。ウィルクスは自分から進んで言った。 「上司に聞きました。私生活や、仕事で問題を抱えていそうな職員をピックアップして、カウンセラーと面談するように勧めていると。でも、ヘインズ警視の気のせいです。わたしは問題を抱えていません」  そう言って、じっとハイドの青い目を見つめる。その目は深く澄んでいて、ウィルクスは途中で怖くなった。だが、目を伏せると不自然な気がして、見つめたままでいる。ほとんど睨みつけていると言ってもいい。目を逸らさないことこそ不自然なのに、ハイドは気にした様子を見せなかった。  アイボリーのソファにゆったりと腰を下ろし、手に持ったボードにペンをそっと押しつける。 「ウィルクス巡査は、勤務して何年ですか?」 「二十三歳から警察官になりました。四年目です」 「今、二十七歳なんですね。ヤードの仕事はどう? SCO1(殺人・重大犯罪対策指令部)でしたね?」 「仕事は順調です。多少、忙しいですが」  それは嘘だった。多少ではない。気が抜けない激務で、さすがに帰宅できないということは最近は減ってきたが、重大事件が起こればそれにかかりきりになる。深夜に帰宅したり、イギリス中を移動することもある。ランチの時間がとれないことはざらだ。  なぜそんな毎日なのに、禁煙しようなんて思ったのだろう。ウィルクスは自分でも不思議だった。 「勤務に関することや、私生活でストレスを溜めることはないですか? 些細なことでも、なんでも」  ハイドの声は低く落ち着いていた。聞いていると、肉体の奥が淡く振動した。  よくない。ウィルクスはスーツの上から、自分の肘を強くつかんだ。そうやって、あの男とも付き合いだしたんだから。  ふと、腹から胸元を駆け抜けていく思いがあった。口にするには勇気がいるし、恥ずかしい。しかし、ハイドが尋ねるように、促すようにこちらを見ている。なにかあるはずだ、吐くんだ、と詰問するふうではなかった。ハイドの眼差しは、ウィルクスの羞恥や不安をそのまま受け止めて、寄り添うようだった。  催眠術にかかってしまったのかもしれない、とあとで振り返ったときは思った。しかしこのとき、ウィルクスはハイドに向かってこう言った。 「三か月ほど前に、恋人と別れました。それが、今でも尾を引いているんではないかと思います」  口にしてしまうと、自分でも信じられないくらいすっきりした。付き合っていた当時すら、そのことを誰にも話していない。会うのもこっそりとだったし、互いの家に行くくらいで、外でろくにデートさえしていなかった。  そのときのことを思いだすと、今でもウィルクスは後悔する。  あのとき、おれがもっとちゃんと、恋人らしく振舞えていたら。彼の期待に応えられていたら、せめて、もっとセックスが上手かったら、と。そうしたら捨てられることはなかったんじゃないか。  過去へのトリップを遮るように、ハイドが言った。 「失恋で悩んでおられるのですね、巡査」 「……ほんとは、ふっきりたいんですが。なかなかできなくて」 「ご友人や、ご家族に相談したりなどはしましたか? どなたか、話を聞いてくれましたか?」 「いえ。誰にも話していません。付き合っていたことも、誰も知りません」 「秘密の恋人」  ハイドはつぶやいた。 「そうですか。失恋というやつは、魂を蝕む。己の孤独をまざまざと見せつけられるから」  そのとき、ウィルクスはなぜか急に反抗したい気分になっていた。鋭い目でハイドを見据えて、「わかるのですか?」と言った。 「おれは、孤独じゃない。別に」 「わかりませんよ」ハイドは微笑んだ。 「人の心などわかるわけがない。でしょう?」  ウィルクスはなにも言えなくなった。 「失恋で、仕事や日常生活に支障が出ていますか?」 「たまに、ぼーっとすることがあるくらいです。仕事が手につかない、というわけじゃない」 「時間が解決する、とぼくは思います。でも、そんなことを言うのは残酷ですね。あるいは、新しい恋をするとか」 「新しい恋……」  今はとても考えられません、とウィルクスは言った。ハイドはうなずいた。 「あなたが恋愛体質であれば別ですが、そうでないなら、時間がかかるかもしれませんね」 「苦しいんです」  口にして、ウィルクスは自分でぎょっとした。冷房が効きすぎているかのように、片肘をつかむ。目の端に、箱庭療法に使う、棚に並んだおびただしい数の模型が映った。人、樹、動物、乗り物、建物、キリスト像、天使、悪魔。 「おれ、なんだか苦しくて。自分にぴったり合う相手だった、というわけではないと思う。今になって思えばですが」  そこで口をつぐんだ。うつむいて、胸苦しさに肩を上下させる。ハイドはなにも言わなかった。ただ、あたたかみのある気配を残して黙っていた。  ウィルクスは顔を上げた。これまで溜めに溜めてきた感情や気持ちが渦巻き、我先にと口から出ようと争っていた。 「おれ、あんまりいい恋人じゃなかったと思う。というか、おれが悪いと思うんです。うまくいかなかった。その……」  初めての男の恋人だったから。それを口に出すのが怖かった。イギリスでは現在、同性婚が認められる。LGBTに対する理解者やサポーターも格段に増えた。しかし、怖かった。 「とにかく、うまくいかなくて。振り返って、ダメだったことばかりが頭の中をぐるぐる回って」  ハイドはうなずきながら聞いていた。 「ダメだと思って、そのことばかり考えているんですね」 「ええ」 「あなたが苦しんでいるのは、自分を責めているからかもしれませんね」  わかっています、とウィルクスは答えた。 「それに、おれ……一人ぼっちだから」  スーツのポケットに触れ、笑った。 「だから、禁煙しようと思ったのかもしれない。なにかを変えたくて」 「そしてきっと自分に負荷を与えたいから。自分を苦しめてしまいたいから」  ハイドの青い目がじっとウィルクスを見つめている。その目に、ウィルクスは恐怖と同時に喜びを覚えた。なぜうれしいのかは自分でもわからない。 「ぼくも一人ぼっちですよ。あなたとは違うと思いますが」  そう言って、ハイドはまじめな顔になる。やはり、狼だ。ウィルクスは見惚れた。  ハイドは微笑んだ。 「ぼくは、ゲイセクシャルなんです」  ウィルクスの心臓がぎしりと鳴った。 「なかなかパートナーに巡り会えないし、自分が周りの男とは違うと思って、苦しんだこともありました」 「なぜ……それをおれに言うのですか?」 「誰にとっても、生きていくことは容易ではないと言いたかったんです」  この人なら、わかってくれるかもしれない。  ウィルクスは身じろぎした。目を逸らして、そうですねと言った。  扉にノックの音がした。  カウンセリングルームの事務員が顔を覗かせる。赤毛の、若い女だ。一八五センチを超える二人が揃って座っているのを目にして、その圧迫感にかすかに目を丸くした。銀の盆に、赤い液体が入ったガラスのカップを二つ乗せている。  事務員がカップを二人の前に置いた。ウィルクスが戸惑う目になる。ハイドは微笑んだ。 「よかったら、飲んで。ルイボスティーです。ノンカフェインで、体に優しいですよ。少し、ゆっくりして帰ってください」  仕事があるので、とウィルクスは言ったが、「ヘインズ警視から許可はもらっていますよ」とハイドは言った。 「行きたかったら、行っても大丈夫。ゆっくりしたかったら、ここで少し休んでいってください」  そう言って、ルイボスティーを一口飲む。カップの中には氷が浮いていて、清々しく穏やかな香りがした。  ウィルクスも黙って口をつける。飲みこむと、体の奥が緩んだような気がした。 「ぼくも、煙草を吸うんです。たまにだけど」  ハイドはのんびりしゃべる。 「禁煙って苦しいですよね。煙草を止めたら五キロ太ってしまって。そんなに本数は吸わないからまあいいかって、また戻ってしまいました」  ウィルクスはハイドの体つきを見た。引き締まって筋肉質だ。ネイビーのピンストライプのシャツの胸元が張っているのがわかる。  舐めるような目つきになっている気がして、怖かった。ふいに、別れた男との夜を思いだす。頬を平手で叩き、忘れたい記憶を追い払おうとした。  いきなり自分を殴ったウィルクスを見ても、ハイドは目を丸くしたりしなかった。ウィルクスは黙ってルイボスティーを飲み干す。 「ごちそうさまでした。行きます」  ハイドはうなずいた。 「ぼくは週二でここのカウンセリングルームに来ています。もし、引き続き話をしたいと思ったら、いつでも予約を入れてください。待っています」  にこっと笑って、笑顔で送り出された。カウンセリングルームを出た瞬間、ウィルクスの体は震えはじめた。誰にも言えないことを言ったからか。感情をわずかでも解放したからか。ハイドさんが優しかったからか。わからなかったが、脱力と震えに襲われて、しばらく扉の外でぼうっとしていた。  お茶を持ってきてくれた事務員が心配そうな顔で見ている。  また、歩きだす。カウンセリングルームと事務所を擁した部屋の扉を開けると、もうヤードの廊下だ。五階の、目立たない場所にあるとはいえ、外は覇気と戦闘意欲に満ちている。  カウンセリングを受けたことも、精神科にかかったこともない。なにもかもが初めてで、カウンセラーに会ったのも、職場でメンタルヘルスの研修を受けたのを別にして初めてだ。  もしかして、あの人ならわかってくれるかもしれない。  胸の中で何度も繰り返し、そしてそのたびに打ち消しながら、ウィルクスは自分が所属するSCO1のオフィスに向かった。  オフィスの中はいつも賑やかだ。むしろ、なにかに駆り立てられていると言ったほうが正しい。活気にあふれている。書類や参考資料のぎっしり詰まった本棚のそばに、ウィルクスの席はあった。オフィスではデスクが並べられ、パソコンや電話を前に刑事たちが仕事をしている。窓の外は八月。ケンジントン・パークで日向ぼっこを愉しむのがいい日だろう。仕事は好きだが、公園でのんびりしている親子連れや恋人たちをうらやましく思う。  冷房が効いていた。昔は滅多に三十度を超えなかったロンドンも、このごろは異様に暑い。設定温度は低めだ。  ヘインズ警視が近づいてきた。恰幅がよく、灰色の髪で整った容貌だ。凄腕と評判で、面倒見がいいのと共に厳しかった。横からウィルクスを覗きこみ、声を潜めて、「面談はどうだった?」と尋ねた。ウィルクスは体を警視のほうに向け、「どうもこうも」とつぶやいた。 「わたしは、なんの問題もありませんよ、警視」 「そう言うな」  警視は悪びれる様子がない。 「なんだかこのところ落ち込んでいるように見えたからな。少し、ミスがあったようだし」 「……それはわかっています」 「今、職員の心の問題を早期発見し、メンタルヘルスを向上させようというキャンペーン中なんだ。回覧を見ただろう?」 「見ましたが。あれは、積極的にカウンセリングルームを利用しましょうというお知らせでしたよ」 「心配がある職員には、こっちから声を掛けることになっている。ハイドさんは、けっこういいカウンセラーだという評判だよ」  ウィルクスは目を伏せた。 「たしかに、心の内を話させるのに長けているとは思いました」 「悩んでいることを話せたか?」 「……少し」 「ほら、やっぱり行ってよかっただろ? また、予約をとってあげるよ」  ウィルクスは慌てて首を横に振った。 「いえ。かまいません。話しても、解決することではありませんし」  時が解決してくれるんです、とつぶやく。警視は目を丸くした。 「そうか? でも誠心誠意、話を聞いてもらえると楽になるって、よく聞くけどな」 「ハイドさんは、今後も相談したいと思ったら予約するように、と言っていました。でも、大丈夫です。いずれは、自然に解決していくことだと思っています」  警視は口をつぐんだが、「そうか」と言った。 「だが、むりはするなよ。わたしを通さなくても、カウンセリングの予約はカウンセリングルームの事務室へ言えば取れるからな」  そう言って、警視は去っていった。  ウィルクスはロックを掛けていたパソコンに触れた。もう、午後三時だ。電話しなくてはいけない事案が四つほどある。捜査員として、先日逮捕した連続殺人犯の取り調べを行っていた。その報告書を書く仕事もある。頭を切り替えて、仕事にとりかかろうとした。 「ウィルクス君、アーチャー主任警部があなたに話があるって」  先輩刑事のミランダ・ブルネッティが、ウィルクスに耳打ちした。扉のほうを振り返ってみると、ほっそりした影が見えた。  腰を上げ、主任警部の元へ向かう。金髪を撫でつけ、眼鏡を掛けている。警部というよりは、牧師に見える。人によって、ハンサムかそうでないか意見が分かれそうな顔立ちだ。だが、今日のこの日も静かな表情を浮かべてる。人の強さより弱さを見据えてきたような、そんな眼差しがウィルクスに向けられていた。 「ウィルクス、仕事中すまない。少しいいか?」 「なんでしょうか?」  ダニエル・アーチャーはウィルクスを廊下に手招きした。 「SCO1での仕事はどうだ?」 「順調です」 「うちも、なんとか回ってる。だが、人手不足だ」  アーチャー主任警部は現在、SCO7(重大・組織犯罪対策指令部)に籍を置いている。二年前までは、ウィルクスと同じSCO1に所属していた。突然呼び出され、ウィルクスがどうしたのかと尋ねる前に、アーチャーが言った。 「ハイドさんのカウンセリングを受けた、と聞いたよ」  ウィルクスは虚をつかれた。みんなしてなんで気になるんだ? 「ええ、受けました。でも、わたし自身特に問題を抱えてはおりません」 「そんなことはどうでもいい。……いや、この言い方は語弊があるな。きみがもしなにか悩みを抱えているなら、それはカウンセリングを受けるなり、病院にかかったりする必要があると思う。ただ、わたしが訊こうとしているのはそういうことではない。……どうだった?」 「どうだった、とは?」 「ハイドさんのカウンセリングを受けてみて。どんな人間だと思った?」  ウィルクスは目を瞠った。どうと言われても、とつぶやく。廊下の冷房が直接顔に当たって、顔をしかめた。 「落ち着いた人でしたよ。話を静かに聞いてくれました。笑顔が優しくて。こっちのテンポを待ってくれて」  ウィルクスはいいところを数えるように、アーチャーの目を見ないままつぶやいた。 「人の心などわかるはずがない、って言っていました」  それに、ゲイなんです。おれと同じなんです。  ウィルクスはアーチャーの目を見た。 「カウンセリングを受けたことがないので、比べることはできません。でも、いいカウンセラーだとは思いました」 「またカウンセリングを受けたいと思うか?」 「……それは、わかりません」  受けてくれないか、とアーチャーは言った。ウィルクスは目を丸くする。 「ですが、わたしは特に問題は抱えて……」 「わかっている。それでもいい。きみに協力してもらいたいんだ」  アーチャーの緑の目が静かに燃えるようにウィルクスを見つめていた。 「ハイドさんには、裏の顔が二つある」 「裏の顔?」 「まだ、調査している途中だから明言はできない。しかし、きみに手伝ってもらいたい。きみは優秀な刑事だ。公共の利益のために、頼みたいんだ」 「ですが、おれにどうしろと?」 「これからもハイドさんのカウンセリングを受けて、彼と親しくなってくれ。そして、彼が秘密を打ち明けるようなことがあったら、わたしに教えてもらいたい」 「でも、そんな……スパイみたいなことはできません」  ウィルクスが思わず言うと、アーチャーは左足に体重を移動させた。 「十九世紀、ヤード刑事部の黎明期も、刑事たちはスパイのようだと非難された。しかし、刑事とはそういうものだ。人々の平和のために、危険な秘密は明るみにさせる必要がある。協力してくれないか」  アーチャーの口調は静かだった。まるでミサで説教している牧師だ。でも……とウィルクスがつぶやく。 「わかった。あの男の裏の顔を話す。だれにも言わないでくれよ」  アーチャーはウィルクスの耳元に口を寄せ、低い声でささやいた。 「彼は人狼で、マフィアの関係者なんだ」

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