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#2 ダーク・トリップ
「人狼は、狼憑きであるといわれている。狼憑き、すなわち狼化妄想症、またはライカントロピー(狼疾)ともいわれ、狼に似た鳴き声でうめき、四つ足で歩いたり、生肉を食ったりする。
伝承中に見られる人狼化には、ふた通りのタイプがある。自らの意志により人狼に変身するものと、呪いや呪術によって人狼に変身させられてしまうものである。
魔女や悪魔の計略によって変身させられてしまった、被害者としての人狼伝説も数多い。
人狼はヴァンパイアではないが、その関係は深く、よく一緒に引き合いに出される。
南ロシア、白ロシア、ウクライナでは、呪術師が死後、人狼になると信じられていた。
かつて狼は森に棲む強力な魔物であり、力の象徴でもあった。その力によって家畜や人に死がもたらされたため、狼を恐れたのである。狼はまた死の運び手でもあったのだ」
カウンセリングルームの扉が開いたため、ウィルクスはそっとネットを閉じた。スマートフォンをソファの、腰を下ろしている隣に置き、部屋に入ってきたカウンセラーを見上げる。ハイドは今日は白いシャツとグレーのコットンパンツで、黒縁の眼鏡を掛けていた。
「老眼でね」
そう言って微笑む。ソファの向かいに腰を下ろしたタイミングで、ウィルクスは尋ねた。
「ハイド先生は、おいくつですか?」
「四十一だよ」
「意外とお若いんですね」
「四十一は若いかな? 老けて見えた?」
「いえ、すみません。そういう意味じゃなく。髪が半分白髪なので、おいくつなんだろうかと気になっていて」
若白髪なんだよ、遺伝でね、と笑う。それからハイドは急に真面目な顔になった。
「会って二度目で、なれなれしいかな。年下だからつい」
口調のことだとわかる。ウィルクスは首を横に振った。
「敬語を使っていただかなくて結構です。おっしゃる通り、年下ですから」
「若いのにしっかりしている」
そう言って、ハイドは微笑んだ。紙を挟んだボードを膝に乗せ、眼鏡を外した。青い目と目が合って、ウィルクスは思わずどきっとする。
マフィアの関係者で、人狼。嘘だろ、と思う。
人狼なんて荒唐無稽だが、ウィルクスにはそれと同じくらい、目の前の男がマフィアであるという話も荒唐無稽に思えた。
しかし、刑事の自分が反対した。そういう人間は、市民にまぎれているものだ。いや、違う。マフィアはあくまでマフィアらしく生きているのか。
自分の知識が不足していることを羞じた。警察官なのに、偏見と先入観でしかものを見られないとは。押し黙っているウィルクスを見て、ハイドは首を傾げた。
「どうしたんだ? そんなシリアスな顔をして」
やっぱり、悩みごと? 心配そうに顔を覗きこんでくるハイドに、ウィルクスは思わず笑いだしそうになっていた。スーツのポケットを押さえる。煙草が入っていることがわかると、とりあえず安心する。
「なんでもありません。時間をとってくださり、ありがとうございます」
アーチャー主任警部に頼まれたから、というわけではない、と自分に言い聞かせた。話を聞いてほしかったからだ。主任警部の頼みを受けるかどうかは、まだ決められない。本当にマフィアの関係者だとわかっているなら別だが。
「うまく都合がついてよかったよ」とハイドは答える。テーブルには、やはり前回と同じようにルイボスティーを入れたガラスのカップが二つ置かれていた。今回、ハイドの分はホットだ。
「遠慮せずに、なんでも話してね。言いたくなければ言わなくてもいいし」
「言わないなら、カウンセリングに来た意味は?」
「悩んでいる状態を黙って共有する、それはそれでオーケーだと思う」
そう言って、ゆったりソファに体をあずけるハイドに、マフィアの関係者っていうのは主任警部の思い込みなんじゃないのか、とウィルクスは思った。そしてすぐに否定する。人は見かけにはよらない。偽ることができる。アーチャー主任警部は慎重な警官だ。
ルイボスティーを一口飲み、その芳香と味を愉しむかのように、ハイドはしばらく目を閉じていた。目を開け、あの低く落ち着いた声でささやいた。
「眠れてる?」
「はい」
「体調はどう? 前回から、三日経ったけれど」
「体調もいいです。忙しいし、禁煙はストレスですが」
「そっか。頑張ってるんだね」
そう言って微笑まれると、ウィルクスは体の奥が緩む気がした。頑張っている、と自分を認めるよりも、もっと頑張れ、と自分を追いこむことが常のウィルクスだ。労わられ、むずがゆさと共に体が芯からあたたかくなった。
「おれにできることは、そんなにありません。だからできることを精一杯しようと思っています」
「えらいね。しっかりしてる」
「そういう性格なんです」
「頑張り屋さんなんだな。でも、頑張ればうまくいく、とは限らないね」
その言葉に、ウィルクスは青ざめた。そうだ。頑張ればうまくいく、なんてことはない。こんなに頑張っているのに、なぜ。そう思ったことがこれまでの人生何度もあった。
「わかってるんです。うまくいくとは限らない。それがどうやら人生の真理らしい、って」
抑えた声は低かった。ハイドは穏やかな表情で、黙って聞いている。
「ときどき、頑張ることに疲れてしまって。でも、頑張ることをやめられなくて」
話していると、自分が惨めに思えてきた。ウィルクスは黒い革靴の爪先を見た。
「きみが失恋したのは、頑張りが足りなかったからだとは、ぼくは思わないけど」
ハイドの言葉に顔を上げる。年上の男の顔を見て、ウィルクスは自分の顔が崩れていくような気がした。表情筋が壊死していくような。
「いえ……ときどき、思うんです。もっとおれが恋人としてふさわしく振る舞えていたらって。もっと期待に応えられていたら、って。もっと……」
セックスが上手かったら、って。
別れた恋人との夜を思いだしそうになり、ウィルクスは力いっぱい自分の頬を叩いた。思い出はもはやトラウマだった。首を横に振り、嫌な記憶を追いだそうとする。ハイドは黙って見ていた。
「そんなに叩くと、痛いよ」
優しく言って、ハイドはそっとウィルクスの手の甲に手を重ねた。ハイドの手はあたたかく、重みがあった。ウィルクスは機械のような声で、「はい」と言った。
弱みを見せすぎている。赤の他人に。
この人はカウンセラーだから、それが仕事だから、この人の前では弱みを見せていいんだ。そう思うのに、ウィルクスの顔も体も強張ったままだ。
見透かすように、ハイドが言った。
「きみは、自分の弱い部分を表に出すのが苦手なんだね」
体が強張る。思わず、反抗した。
「いけませんか?」
「いけないなんて言わないよ。ただ、そういうふうに生きるのは、苦しいんじゃないかと思って」
静かに言うハイドの声に、鼓動が速くなる。この人は落ち着いている。おれが目の前で手首を掻っ切っても、こんなふうに落ち着いているんじゃないのか。もしそうなら、耐えられないと思った。
面倒くさいな、おれは。
「おれはそういう性格なんです。弱音は吐きたくない。いつもきちんとしていたい」
「そうか」
「だから、もしかしたら、捨てられたのかも……」
口にして、自分ではっとした。冷や汗が浮かぶ。きっと、そうだ。おれのこの頑固さに、あの男は愛想を尽かしたんだ。
うつむいて押し黙ったウィルクスを見て、ハイドは黙って様子をうかがった。スーツの膝の上で、拳がぎゅっと握りしめられている。
「ウィルクス君。しんどかったら、むりしないでね」
声を掛けられて、ウィルクスの背がひくりと跳ねた。また、過去へトリップしていた。
「……ハイド先生。先生がこれまでつきあってきた人って、どんな人ですか?」
「ぼくのつきあってきた人?」
「先生のいいところ、見つけてくれるような人でしたか?」
そうだね、とハイドは虚空を見つめた。狼に似た顔立ちに、穏やかな幸福が拡がっていく。
「みんな、ぼくのいいところを見つけてくれて、悪いところについてはそれほど深刻に受け止めなかった。こっちが悪かったことも、いっぱいしたし、傷つけられたりもしたけど。でも、いつも抱きしめて仲直りした。結局、いろんなすれ違いや事情でいっしょにはいられなくなったけど、いい思い出だよ。みんな美しかったし、自分の世界を持っていた」
この人は、自立している人が好きなんだ。ウィルクスはそう思った。自分と、別れた男のことを考えていた。いやでも考えてしまう。
初めての男の恋人は、名前をレイ・フェザートンと言った。
初めて寝るということになったとき、フェザートンはウィルクスに、下になってくれるかと聞いた。ウィルクスもそれでいいと言った。自分がバイだと気づいた少年のときから、女役になることに憧れがあった。
もっと可愛い顔で小柄だったら、振り向いてくれる男もいるんじゃないか、と昔から思っていた。可愛い顔じゃなくても、振り向いてくれる男ができた。そのとき、ウィルクスはすべてを捨ててもいい、この男の望む女になりたいと願った。
だから、初めての夜を迎える日から数えて、二週間前のデートでフェザートンからアナルプラグを渡されたときも、自分から進んで受けとった。おれの体を気遣ってくれたのかと、感激すらした。あとから思ったら、レイは単にセックスを満足のいくものにしたかったのではないか、という気がした。相手が処女だから、よけいにだ。
ウィルクスも、男というものとのセックスを占うような気持ちだった。
初めての夜、指で慣らしていたときから、肉体の限界は感じていた。気持ちいいとはとても思えなくて、覚悟していたことなのに、尻の穴を触られて怖かった。自分が汚いものになった気がした。自分で望んだことなんだ、と自らに言い聞かせても、恐怖や嫌悪感がぬぐえなかった。
それでも、尻に怒張を突き立てられて初めて、幸せを感じた。奥まで掘ってほしかった。荒々しく。少しずつ快感を感じはじめ、それを上回る勢いで、やっと女になれたという幸福を感じた。
ぱん、ぱん、ぱん、とフェザートンの怒張が腹の奥に叩きつけられる。
「っ……、……っ!」
シーツを噛んで声を堪えていると、フェザートンは後ろから耳元でささやいた。初めてのセックスの体位は、バックだったのだ。
「声、聞かせて。エド」
「っ……、っ……!」
「なあ、気持ちいいって言えよ」
長く深い射程で底を掘り起こされ、内臓が剥がれそうなその荒々しさに、ウィルクスは狂っていた。フェザートンの手が彼の顎をとらえ、むりやり顔をシーツから引き剥がそうとする。ウィルクスは噛んだままこらえて、シーツがびりっと音を立てて裂ける。しかしついに引き剥がされ、犯されるまま乱れた。
「っあ……! あ、ああ、はぁ……っ!」
肩を上下させ、低い声で喘ぐ。その声がだんだん裏返っていく。
「ひっい、ん、ひっ! は、あぁ……っ」
初めてなのに。自分の本当の姿を見せられるのは、怖いのに。男はそんなデリカシーなどなく、ただウィルクスを責め続けた。彼が苦痛と快楽のはざまでよがり声をあげると、「ほらみろ」というふうに奥まで突き刺した。
声も枯れて、精液をさんざん搾り取られ、ベッドに伸びたころ、フェザートンはいまいちだという顔をしていた。
自分だけが乱れていたことが恥ずかしくて、ウィルクスは恋人が眠りについているあいだこっそり泣いた。
それでも、フェザートンが起きるころには涙は止まっていたし、「お掃除フェラして」と言われたときには、むしろ進んでしようと思った。ウィルクスは自分に厳しい分と言おうか、向上心があった。男のモノを口に咥える、という体験は初めてだったし、目の前にあるそれに緊張したが、自らこうべを垂れ、恋人の男根を口に含んだ。
しかし、含んだ瞬間えずきそうになった。口の中いっぱいに拡がる肉のボリューム感と、独特の臭いと、味。口から出そうとすると、恋人に頭を押さえつけられた。
「咥えて。そう。……下から舐め上げて」
もう、下手だなんてがっかりされたくない。ウィルクスは自分を追い詰め、犬のようにフェザートンのペニスを舐めた。最中は、とても惨めだった。飢えた野犬になった気分だった。
ぼろぼろになりながら、男に頭を押さえられてなんとか舐め、しゃぶり、結局顔に射精された。
目を閉じ、喘ぐように息をする。長い睫毛にも、通った鼻筋にもねとねとした、濃い臭いを放つ白濁がまとわりついていた。
男とのセックスは、気持ちいいのに、気持ちよくない。
ウィルクスは自分で顔をぬぐいながら思った。
だが、この自分を大事にできない関係に、どうしようもなく溺れ始めていた。
過去へのトリップから帰ってくると、ウィルクスの耳に血がのぼった。真っ赤になった耳を見て、ハイドはかすかに目を丸くした。
「先生」
ウィルクスはハイドの目を見つめ、すがりつくように言った。
「あの、おれ……」
先生が本当にマフィアの関係者なら、自分がバイであることを言うのはまずい。弱みを握られる、とウィルクスは思い込んでいた。現在のイギリスでは同性婚すら認められるとしても。
それでも、これまで抑え込んでいた感情や思いがほとばしった。ウィルクスは強張った体のまま、拳を両膝の上に置き、抑えた低い声で言った。
「おれ、バイなんです。振られた相手も、男で。もっと、おれが彼を満足させてあげられたら。セックスがうまかったら。そんなことばかり考えて、苦しいんです」
「そうか」
ハイドはうなずいた。その優しい青い目に、ウィルクスは自分が涙ぐんでいることに気がついた。
「きみはバイなんだね。ぼくはゲイだ。似てるね」
「はい。……はい」
「きっと、苦しかったね」
「はい」
泣いたことも恥ずかしくて、涙をぬぐう。ウィルクスは顔を伏せた。ハイドの静かで穏やかな声が、日差しのように頭上に降り注いだ。
「セックス・カウンセリングは専門ではないから、もし必要なら専門家を紹介するよ」
「いえ。ハイド先生に、これからもカウンセリングしてもらいたいです。おれが許せないのは、自分の性格なんです。たぶん、セックスが問題というよりも」
「ちゃんと、自分で問題を把握してるんだね。すごいよ」
いい子、いい子。ハイドは確かにそう言った。そう言って、ウィルクスの頭を撫でた。
ふわん、とウィルクスの顔が緩む。言ってよかったと思った。楽になった。それに、ハイド先生はこんなにも優しい。
この人と寝たら、きっと、おれが下手でもあからさまにがっかりした顔なんて、しないんだろうな。
ウィルクスはすぐに我に返った。この人と寝たら、って。なに、間違ったことを考えてるんだ。たしかに、先生はゲイだ。おれと似てる。でも、ただそれだけだ。
おれなら、先生の昔の恋人たちみたいに、先生のいいところいっぱい見つけられる。
ウィルクスは平手で頬を叩いた。頬がぴりぴりする。うつむき、しばらく沈黙したあと、顔を上げて言った。
「先生。ご迷惑かもしれませんが……」
「ん?」
「外で、一度お会いできませんか? 食事とか。先生と、もっといろいろお話ししたくて」
感情を曖昧にしたまま、顔だけは愛想笑いをつくって言う。
アーチャーの指示に従ったのだ。ハイドさんともっと親しくなれ、それにはカウンセリングルームの外で、もっと話をするようにと。そして、アーチャーはこうも言った。
もし彼が本物の、まともなカウンセラーなら、クライアントからのそういった頼みは断るはずだ。
しかし、ハイドは微笑んでうなずいた。
「ああ。いいよ。今度、食事しよう」
拍子抜けしたような、うれしいような、かえって警戒するような。ウィルクスは次々せめぎあう感情の波に翻弄されて、結局、美しい顔に微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、先生」
「二日後の夜はどうだ? ちょうど、土曜日だし」
「いいですよ。時間は?」
「七時。ヤードの最寄り駅の、地下鉄エンバンクメント駅に集合。それでいい?」
「はい。……楽しみにしています」
「ぼくも楽しみにしているよ」
そう言って、ハイドは机に置かれた時計を見た。
「そろそろ、今日のカウンセリングの時間は終了だ。言い残したことは?」
「おれが話したこと、誰にも言わないでください」
「もちろん。きみの上司にも、同僚にも話さないよ。またおいで」
いや、とハイドは笑った。
「二日後に、またね」
はい、とウィルクスは答えた。
デートの約束ができたようで、うれしかった。自分の思いに気がついて、ウィルクスはまた自分を責めた。恥を知れと思った。
レイと別れて、寂しいだけだ。誰でもいいのか?
カウンセリングルームから戻ってくると、アーチャー主任警部が待っていた。SCO1のオフィスの入り口でウィルクスをつかまえ、「どうだった?」と聞いた。
「主任警部。ハイド先生がマフィアだというのは、なにかの間違いではないか、と……」
「先生、か」
アーチャーはつぶやいた。眼鏡の奥の瞳が静かに燃えている。
「外で会う約束は取りつけたか?」
「はい。二日後に」
「彼の私生活について探ってくれ。交友関係や家族構成なんかも」
「わたしにもっと詳しい話をしてください」
「きみが今度のデートから帰ってきたら、話すよ」
ウィルクスは黙った。アーチャーは耳元にささやいた。
「それから、彼は人狼だ。気をつけるんだぞ」
「人狼なんて、本当にいるんですか?」
「いる。だからわたしは、妻をあの男には近づけたくない。人狼は凶暴で見境がない。いいか。注意するんだ」
そう言って、アーチャーは去っていった。
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