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#3 暗闇の楽園・一

 土曜日。  ウィルクスは午後三時までヤードで仕事をして、いったんミルバンク地区にある下宿のフラットに戻った。汗をかいていたのでシャワーを浴び、着替えをする。  白いTシャツと、オリーブ・グリーンのチノパンツにスニーカーを選んだ。ファッションに興味がなく、廉価品の、似たような服ばかり持っている。ハイド先生はまたシャツで来るのかな、と思う。私服でシャツを着るのは苦手だった。どうやってもおしゃれにならず、妙にかっちりしてしまう。  いっそスーツで行けたら楽なのに。でも、汗もかいていたから、と思う。  アーチャー主任警部の指示に従っているだけなのに、デートのような気がしてそわそわした。  通勤で使っているリュックを背負い、七時十分前にエンバンクメント駅の前で待つ。近くにはテムズ川が流れ、ヴィクトリア・エンバンクメント・ガーデンという公園もある。樹々と花が豊かな気持ちのいい公園だ。日の入りはまだ一時間ほど後で、ロンドンは夏、十時ごろまで明るい。公園では親子連れやカップルがそぞろ歩いている。ロンドン・アイが悠然と夏の空に浮かび上がっていた。 「ウィルクス巡査」  後ろから声がかかって、ウィルクスは振り向いた。ハイドの格好を見てどきっとする。白いボタンダウンシャツにグレーのジャケット、揃いに見えるコットンパンツと黒いローファー。ネクタイはなし。喉元のボタンが一つ開いていて、逞しい首筋が覗いている。 「あ……もしかしておれの格好、カジュアルすぎましたか?」  不安になって尋ねると、ハイドは「大丈夫」と微笑んだ。 「格式ばったところには行かないからね」  そう言って、ジャケットを脱ぎ、手に持つ。少しでもカジュアル・ダウンしてくれた、ハイドのそんな気配りにウィルクスの心が緩んでいく。 「この近くに、『マリー・キャット・キッチン』っていうカフェ兼レストランがあるんだ。シーフード料理が美味いよ。シーフードは大丈夫? 若いから肉のほうがいい?」 「いえ、シーフード、好きです」  そう言ってウィルクスが笑うと、ハイドはほっとしたように柔らかい表情を浮かべた。 「よかった。じゃあ、行こう」  そう言って、歩きだす。ウィルクスもついていく。  私生活、交友関係、家族構成。アーチャーに言われたことを反芻する。世間話をすれば、こういったことはなんとなくわかるものだ。浅い深いの程度の差はあれ。主任警部が求めているのは、きっと深いことだ。もし本当にハイド先生がマフィアなら、そう言ったことは話したりしない。探っていることがわかれば、むしろミスリードするようなことを言うはず。 「ここだよ」  ハイドの声に、ウィルクスは我に返った。いつのまにかレストランにたどりついていた。灰色の石造りの頑丈な、武骨な建物だが、赤いマドラス・チェックのオーニングテントが可愛らしい雰囲気だ。看板には大きくグレーの猫の絵が描かれている。  ハイドに連れられて店内に入った。活気があり、茶色い木のテーブルと椅子の席はほとんど埋まっている。みんな食事とおしゃべりに忙しい。二人は部屋の隅の、日差しがさんさんと降り注ぐ海岸を描いた巨大な油絵の下の席に腰を下ろした。メニューを眺める。二人で吟味した料理をウェイターに注文した。 「シーフードサラダ、スカンピ(手長エビ)のグリル、牡蠣のグラタン、サーモン・ステーキ。飲み物はなににする? ビール? ワイン? もちろん、ソフトドリンクでも」 「ビールにします」 「じゃあ、ぼくもそうしよう」  ウェイターが行ってしまうと、「ここは禁煙でね」とハイドがささやいた。 「おれに気を遣ってくれたんですか?」 「煙草の匂いがすると、ぼくも吸いたくなるから。最近、量が増えてきてね」  テーブルにグラスとビールの瓶が二つ置かれる。一口飲んで、ウィルクスは生き返った気がした。そのとき初めて、自分がどれだけ緊張していたかを知った。  まずは、私生活。 「ハイド先生は、民間のカウンセラーなんですよね?」 「ああ。ストランドに事務所があって、そこをカウンセリングルームにしている。嘱託を受けているのはヤードだけだよ」 「じゃあ、週二日以外はストランドのカウンセリングルームに?」 「そう。それほど激務というわけでもないし、いいペースで働けている。きみのほうがずっと忙しいんだろう? ウィルクス巡査」  ウィルクスは口ごもった。情報を集めるはずが、尋ね返されてしまった。ウィルクスは刑事として仕事をしているとき、質問はするが、答えはしないというやり方で話を進めてきた。だが、ハイドに尋ねられたら、思わず正直になってしまう。素直に、興味を持ってもらったことがうれしいのだ。 「おれは、たしかに忙しいです。でも、まだ下っ端ですから。上司……警部や警視なんかは、もっと忙しいですよ」  もし、万が一にもハイド先生がマフィアの関係者だったとしても、これくらいの事実を言うのはいいよな、とウィルクスは思った。 「最近はどんな仕事をしてるんだ?」 「連続殺人犯の取り調べをしています。あの、ウィンポール街の……」 「ああ、あの事件か。あんな大きい事件を担当しているんだね。やっぱり、きみは将来有望の刑事なんだな」 「ヘインズ警視は、若いころは無茶をさせろというモットーなんです。いや、『むりするなよ』とは言ってくれますが。早いうちに、壁にぶつかってみろという。そのあとのサポートはしっかりしてくれるんですが」 「いい上司みたいだね」 「ええ」  ウィルクスは微笑んだ。 「おれがSCO1に配属されたときから、お世話になっています。ところで……」  ウィルクスは話題をむりやりハイドに戻した。 「ハイド先生は、なぜカウンセラーに?」 「父がカウンセリングを受けていて、興味があったんだ。父はとてもじゃないが、いいクライアントではなかったけどね。カウンセリングの必要なんか感じず、たまに家に来るものわかりのいい男と世間話をしている、くらいにしか思っていなかったと思う」  家族構成。 「先生は、今は一人暮らしをされているんですか? それとも、ご実家で?」 「一人暮らしだよ。結婚相手や、同棲しているようなパートナーはいない。ここ二年はフリーでね」  そう言っていたずらっぽく笑うハイドを見て、よかった、とウィルクスは思った。 「ご実家はどちらですか? おれは、ダラムです」 「ぼくはヨークだよ。ダラムか。いい街だね。ダラム城と大聖堂、行ったことがあるよ」 「おれも、ヨークへ行ったことがあります。子どものころ」  料理が運ばれてきた。スカンピのグリルを食べながら、二人の会話も弾む。 「父が医者なんです。たまたま、以前診ていた患者がヨークに移住していて。どうしても父に診てほしいと頼んできたから、はるばる往診に行ったんです。そのとき、ついていって。きれいな街でした」 「お父さんは医者なのか。跡を継げとは言われなかった? あ、言いたくなければ言わなくていいからね」  ウィルクスは笑った。 「平気です。父には、医者にならないのは仕方ないから、なにか人の役に立つ仕事をしろと言われて。それで、警官になったんです」  ビールを飲む。少し、きついビールだ。だからだろうか? 口がすべった。 「早く家を出たかった。だから大学に行ったタイミングで、家から離れました。父との二人暮らしは息が詰まる」  そうか、とハイドは言った。 「牡蠣も食べて。美味しいよ」  はい、とうなずき、ウィルクスはグラタンを食べた。口の中に滋味が拡がる。元気が出る味だ。たしかに美味い。  二人は酒を飲み、できたての料理を食べて、くつろいだ時間を過ごした。  そして、結局、たいしたことはわからなかったな、とウィルクスは思った。  ハイドは一人暮らしで、パートナーはおらず、仕事も一人でしている。ストランドに事務所とカウンセリングルームがあり、休日は映画を観たり、公園を散歩したり、ドライブして過ごす。好きな作家はアメリカの推理小説作家ジョン・ディクスン・カー。ウィルクスも好きな作家なので、うれしかった。  両親はすでに他界していて、兄が二人いる。子どものころはシャーロック・ホームズに憧れていたけど、今はカウンセラーだ、と笑っていた。  巧妙に張りめぐらされた偽りなのか、ウィルクスには判断ができなかった。まったくの嘘ということはないのではないか、と思う。  ウィルクスも、気がつけばいろいろなことをハイドにしゃべっていた。  食事が終わると八時四十分だった。ずいぶん時間をかけて食事をしたと、ウィルクスは驚く。ハイドとの会話も、食事も、楽しかった。ロンドンには友人がおらず、いつも職場と家を往復しているウィルクスにとっては、眩しい時間だった。  会計をすませ、外に出る。風が心地いい。ロンドン・アイがブルーにライトアップされていた。 「腹いっぱいになったよ」  そう言ってにこにこするハイドを横目に、うちに誘おうか、とウィルクスは考えていた。  もっと話がしたいからって。ここで帰るのは、少し寂しいからって。  いつも自制心の強いウィルクスにしては、素直に言葉が出そうだった。でも、とも思う。おれは、ただのクライアントだし。そこまで踏み込んだら、迷惑かもしれない。警戒されたり、嫌われるかもしれない。そうなったら、耐えられない。  何度も、口を開こうとして黙る。ハイドはロンドン・アイと、それが映るテムズ川の水面を見ていた。  心を決められないままハイドの後ろ姿を見ていた。広い背中に触れたい衝動に駆られる。ハイドは振り向いた。 「ウィルクス巡査。……外で巡査って、変かな?」 「好きに呼んでください。呼び捨てでも、なんでも」 「じゃあ、ウィルクス君」  ハイドは微笑んだ。 「うちに来ないか?」 「え?」  鼓動が高鳴る。ハイドの顔を見ようとして、目を逸らした。なんだかとても眩しくて、できなかったのだ。だが、勇気を出して、顔らしきところに視線を向ける。 「言っただろう? うち、ストランドで、この近くなんだ」 「行っても、いいんですか?」 「うん。このまま別れるのは、少し名残惜しいからね」  もっと話がしたい、とハイドは言った。

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