4 / 4

#3 暗闇の楽園・二

 二人はのんびり歩き、ハイドの自宅兼事務所にたどりついた。灰色の煉瓦を積んだテラスハウス。 「あがって」とハイドが先に立って言う。 「二階が事務所とカウンセリングルーム、あと居間も兼ねてるんだ」  ウィルクスは二階の居間にあがった。きちんと整理されている。窓際にマホガニーの大きな仕事机があった。他に、キャビネットがいくつか。壁には天井まで届く本棚が設置されていて、本がぎっしり詰まっている。読書家のウィルクスは胸をときめかせた。  窓際には他に、紫とブルーがストライプになった優雅なソファが置かれている。 「ロシア土産なんだ」  ウィルクスの視線の先に気がついて、ハイドが言った。彼はウィルクスに椅子に座るように勧めた。ソファに座ろうとして、ウィルクスはぎくっとする。銀色の、長い毛が落ちている。 「友達が犬を連れてきてね」  ハイドはそう言って、ジャケットを掛けに部屋を出た。  狼の毛か? ウィルクスはハイドがいないあいだに、ハンカチのあいだに獣の毛を挟んだ。ズボンのポケットにハンカチを押しこむ。  ハイドが戻ってきた。彼はソファのそばの、背もたれが丸い緋色の椅子を選んだ。腰を下ろす前に、言った。 「なにか飲む? ウィスキーがあるよ」 「いただきます」  ハイドは背を向けて、部屋の隅にあるサイドボードの中からウィスキーの瓶を取りだし、隣に置いてあった小型の冷蔵庫の中から炭酸水のボトルを取りだした。彼がウィスキー・ソーダを作っているあいだ、ウィルクスは部屋を眺めまわした。一枚だけ、壁にレンブラントの『テュルプ博士の解剖学講義』の複製画が掛かっている。少々グロテスクだが、気品があり、ハイド先生らしい、とウィルクスは思った。他に、レコードプレーヤーが置いてあった。  殺風景といえば殺風景だが、居心地のいい部屋だな、とウィルクスは思った。脚を伸ばしてソファに座る。そのとき、気づいた。仕事机のそばの棚に、写真が飾ってあるのを。身を乗りだし、見る。 「家族だよ」  そう言いながら、ハイドがグラスを手渡してくれた。 「子どものころですか?」 「ああ。ここに写っているのが父と母」 「お父さん、すごくハンサムだ」 「父の取り柄は顔と体でね」  ハイドの言う通り、恵まれた美貌と肉体だった。はっとするほど。微笑む顔に魔力がある。体つきは、ハイドと似ている。大柄だ。幼いハイドを挟んで座る両親。母親は優しい雰囲気で、美人で、口元のあたりが少しハイドに似ていた。二人とも黒髪だ。 「こっちの写真は? ご兄弟ですか?」  ハイドはうなずいた。幼少のハイドと共に、金髪の少年と、黒髪の少年が写っている。黒髪の少年は父親にそっくりだ。二人とも背が高い。 「黒髪のほうが長兄のアイザック、金髪のほうが次兄のフレデリックだよ。腹違いだけどね」 「この女性は?」  大きな目の女性が微笑みを浮かべて、少年のハイドと並んで座っていた。 「乳母のアニーだよ」  ハイドは写真立てを手に取り、しばらく眺めたあと、椅子に腰を下ろした。 「きみがたくさん話してくれてうれしかった。笑顔を見せてくれて、安心したよ」 「おれ、そんなに笑ってませんか?」 「ヤードのカウンセリングルームにいるときは、とても苦しんでいるということが伝わってきた。だから、よかった」  そう言って、ハイドは酒を飲んだ。賢い狼のようなその顔に、ウィルクスは見惚れていた。 「……ハイド先生」 「ん?」 「ゲイで、やっぱり苦労しましたか?」  唐突に口から出た言葉に、ウィルクスは自分で自分にはっとした。慌てて言葉を重ねる。 「すみません。不躾だった」 「いや、いいよ」  ハイドは穏やかな表情を浮かべていた。 「そうだな、やっぱり、苦労はしたかな。ただ、ぼくは自分がゲイであるということを、比較的早い時期に受け入ることができた。だから、それほど悩まなかったと自分では思っている。きみはどうだ?」 「おれは……い、今でも、あんまりちゃんと受け入れてないかもしれない」  これはカウンセリングの続きか? もっと楽しい話がしたい。それでも、ウィルクスの口から言葉がほとばしっていた。 「初めて男とつきあったけど、そのこと、誰にも言わなかった。相手にも、誰にも言うなと口止めしたんです。自分のことも受け入れられないし、人に、おれがバイだって知られるのも怖い」  ウィルクスは手のひらに顔をうずめた。 「意気地なしなんでしょうね、きっと」 「誰も、きみにそんなことを言う資格はないよ。きみも、自分を責める必要はない」  顔を上げ、ハイドの顔を見る。ふだんは優しく穏やかなその顔が、今は引き締まっていた。 「きみは苦しんできたし、偏見というのは根強いものだ。自由に生きようとする人を害す。きみが用心深くなるのは当然のことだと思うよ」 「でも、カミングアウトできる人間もいる。ゲイであることに誇りを持てる人間もいる。おれはそうじゃない」  そこで、ウィルクスはウィスキー・ソーダを飲んだ。なぜだろう? この部屋に来て、酒がひどく回った気がする。 「せ、先生。楽しい話をしましょうよ」 「いいよ。なにについて話す?」 「先生は、セックスのときアッパー(男役)ですか? ボトム(女役)ですか?」  ハイドはしばらく黙り、脚を組み変えて、「アッパー」と言った。ウィルクスの顔が緩む。 「おれは、ボトムです。まだ、経験した人数は一人だけど。たぶん、これから先もボトムだと思う」 「ボトムが好きなのか?」 「ええ。ボトムだったら、可愛いって言ってくれるんじゃないかと思って。おれ、子どものころから、可愛いって言われたくて。こんな顔なのに、おかしいですよね」 「きみは凛々しい美男子だからね。でも、笑顔は可愛いよ」  ウィルクスは笑った。どうしたんだ? 顔がとろける。自分でも制御できなかった。甘ったれたような、媚びた目になる。 「おれ、十五歳のときに、実家のそばのドラッグストアに勤めてる年上の男に、体を触られたんです」  酒を飲み、過去を思いだしながらつぶやく。 「性的暴行とは思わないでください。う、うれしかったんです。可愛いねって言われて、触られて。だから、いつか誰かの女になりたいと思ってきた」  ハイドはしばらく黙っていたが、腰を上げた。ウィルクスの隣に座る。心臓が跳ねて、ウィルクスは思わず年上の男の顔を見つめた。 「きみは、女性になりたい願望があるのか?」 「いいえ。トランスジェンダーではないと思う」 「じゃあ、きみは、やっぱりぼくと似ているのかもしれないね」  そうつぶやいて、ハイドは痩せた体をそっと抱き寄せた。 「ウィルクス君。きみは、愛されて大きくなったか?」  ハイドの胸の中で、ウィルクスは鼓動の速さに翻弄されていた。体温を感じて、苦しかった。胸が張り裂けそうなほど。グラスをぎゅっと握り、しばらく黙ったままでいる。肩を強く抱かれて、つぶやいた。 「わ、わからない……。虐待はされたことがないし、父はとても厳しい人だったけど、ちゃんと育てられたと思います。母は影のような人だったけど」 「きっと、きみは頑張って生き延びてきたんだな」 「な、なんで……」  ウィルクスは手のひらに顔を埋めてつぶやいた。 「ほ、褒めて、くれるんですか?」 「褒めるよ。頑張ってきたこと、よくわかるから」 「おれ、頑張れてない。もっともっと、頑張らなくちゃ、って……」  顔をうずめたままつぶやく。 「セックスだって、下手だし」 「キスは?」  ハイドの声に顔を上げた。鋭い顔が、しかしそれでも優しかった。  ハイドが頭を傾けると、ウィルクスは吸い寄せられるように顔を近づけた。ハイドがそっと身を乗りだし、唇に唇を重ねる。  触れるだけの軽いキスだった。それでも、その重みにウィルクスの体から力が抜ける。目じりに涙が滲んだ。 「せ、んせい……」  ハイドはなにも言わず、もう一度唇を触れあわせた。今度のキスは深かった。そっと舌がすべりこんでくると、ウィルクスは口を開けて受け入れた。互いに、暗闇で手を繋ぐように、舌を触れあわせる。見えない姿を探すように、互いのいちばんいいところを見ようとするように、舌を絡めた。  ハイドの舌は優しく、荒々しいところはどこにもなかった。別れた恋人、レイ・フェザートンとのキスを思いだし、ウィルクスの体は震えた。荒々しく、激しいキスが好きだった。痛めつけられ、むりやり奪いとられるような。だが、今のキスをもの足りないとは感じない。ハイドとのキスに、ウィルクスは暗闇の楽園を見た。  舌を絡め、触れあって、ハイドの手がウィルクスの背中を抱く。ウィルクスも、ハイドの背中に腕をまわした。互いにぴったりくっつきあって、キスを堪能する。口の中はあたたかく、湿って、二人は濡れた蛇のように繋がった。溺れるようだった。  慰めるだけではない、性的な意味合いのあるキスに、ウィルクスはとろけた。股間が力を得ていくことに、諦めにも似た思いを抱いた。  ハイドは静かに舌を絡め、軽く舌先を噛んでくる。ウィルクスも応えて、ハイドの上唇を噛んだ。ぴりぴりした痺れが舌から歯に伝わり、顎から飛んで性器に触れた。  終わってほしくなかった。しかし、ハイドは唇を離した。 「キス、上手いよ。いや、上手いというよりは……」  赤く染まった耳元で、低い声でささやく。 「注意深くて、丁寧で、求めてくれていること、すごく感じた。ぼくは、そういう人とキスしたい」  微笑む。ウィルクスはその微笑みに見惚れた。  すべて捧げたい。  とろけていく心と体で、そう思った。  しかし、我に返った。 「ハ、ハイド先生、そろそろ、行かないと……」  ハイドも我に返ったように、腕時計を見た。 「もう十時近いな。引きとめて、ごめん」 「いえ」  ウィルクスは首を横に振った。自然と笑顔になる。その表情は、ふだんの顔とはかけ離れて緩んでいた。 「う、うれしかったです。いろいろ、話もできて。また、カウンセリングルームに行ってもいいですか?」 「待ってるよ。次の面談は、二日後の月曜日だね」  それから、また、食事しないか? そうささやかれて、ウィルクスはうなずいた。  ハイドに見送られて、玄関に続く階段を降りる。足元が少しふらついた。脚のあいだの要求を無視する。 「気をつけて帰るんだよ」  そう言って手を振られ、ウィルクスも振り返す。背を向けて、暗闇の中を歩きだした。  ダニエル・アーチャー主任警部の元に行くつもりだった。約束の時間は、十時。  ハイド先生は、マフィアでも、人狼でもない。  それを否定したくて、たまらなかった。

ともだちにシェアしよう!