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第2話

*  婚礼の儀に向けての用意はつつがなく行われている。あたらしく父君となる人は、私をたいへん好いていてくれるし、家格もこれ以上ない相手だ。  それでも当事者である私は、この婚礼を素直に喜ぶことはできない。  私には心に思う女性がいるからだ。  促され重い足で乗り込んだ牛車は通りを進み、まもなく大きな屋敷へと入る。 「気持ちのいい夜ですね」  手筈通りに忍んだ先で、几帳越しに妻となる人に声を掛けた。  この屋敷で行われる宴に招かれた際、遠くからその姿を認めたことくらいはある。けれど人前に殆ど姿を見せないその方がどのような方なのか、私は彼女の兄から伝え聞いたことしか知らない。 『とても恥ずかしがり屋で人前に出られないという噂は嘘だよ。あの人は……君も聞いたことがあるだろう。発情する人のことを。あれなんだ。だから迂闊に外に出せない……というより、君も会ったことがあるはずだよ。まあ、これ以上は会ってのお楽しみだ』  中将は意味深い言い回しで締めくくり、それ以上を聞いても教えては貰えなかった。私も会ったことのあるというところも気にかかるが、それよりも……  妻となる人が稀有な発情期を持つ人だと聞き、心持ちが軽くなる。あの香りがする姫ならば、私も妻となる人を大切に出来るかもしれない。 「姫」  吐息すら聞かせぬ人の傍へと移る。流れ落ちる黒髪は薄明りにも美しく、たっぷりとしたその流れが指に絡む様を思えば、私の中の発情が僅かに首をもたげ始める。 「お寒いでしょう。こちらへいらして下さい」  背を向けたままの人の肩を抱くと、胸の中に崩れるだろう。  その意図でもって肩を抱くと、思いのほか骨太い感触に触れた。少し力を込めても私のほうに倒れこんでくることもない。思ったより力の強い姫のようだ。 「どうしたのですか? こうしてあなたにお会いできるのをずっと楽しみにしておりました。これから私たちは夫婦になるのです。仲良くしなければ父上が悲しみますよ」  今度は強くその身体を引き寄せた。俯いた顔を上向かせる。この人が私の妻…… 「あなたは……」  ようやく対面した姫の、きりと上がった眉と寄せられた眉間の皺には見覚えがあった。私はこの人を知っている。  しかし……この人がその人ならば、私と同じ男であるはずだった。 「橘さま」 「今はその名ではない」 「しかし……」  声も記憶にある通りだった。そして彼は違うとはおっしゃらなかった。中将の腹違いの兄弟であった橘さまであることに間違いはないということだ。  三年前にふつりと消息を絶たれ、神隠しということで大そうな噂となった。怪を恐れた内裏でも警護が強められ、帝の命で私も母の傍に詰めていた。  その人が、姿と名を変えてここにいる。 「形だけでいい。夫婦のふりをしてくれればいい。どうせ発情もこない。あれは何かの間違いだった」  私を睨みつけていた瞳が曇り伏せられる。  ああ、いつもそうだったと思い出す。中将とふたりでふざけていると必ず遠くから私たちを睨みつけ、目が合うとふいと行ってしまわれる。綺麗な顔はいつも強ばっていて中将の兄とはいえ、親しく口を聞いた記憶もない。  嫌われていると思っていた。 「発情されたから家に籠られるようになったのですか?」 「……外には出せないだろう。女なら道はある。けれど男が……」  発情した人がその熱を発散させるには、子種をその身の内に放たれる以外に道はないという。女でも、男でも。この人が発情する人だというのならば、その身体を誰かに慰められたことを意味している。  噂になっていないところをみれば、この屋敷かどこか身内のいる場所でのことだったのだろう。それからは屋敷に閉じ込められ、姫として生きることを決められたのだ。 「父もあなたを騙そうと思ってなされたわけではない。許してほしい」 「それはどういうことですか?」 「……中宮さまが今上の寵愛を受けていらっしゃるのも同じ発情する人だからと。あなたも同じように私を愛するのではないかと考えられたのです……そんなことはないと申し上げたが聞いては下さらなかった。私が発情したのも一度きりだ。それから三年経ってもあれは起こらない。だから形だけでいい。どうか夫婦のふりを」  生真面目でつまらない方だと思っていた。身分の高くない方からお生まれになったとはいえ、左大臣家のお子であるのだからもっとおおらかに振る舞うべきだと。  それなのに私の手の中で僅かに震えながら願いを伝えられる姿は、いじらしい。透き通るような白い肌が更に青く、触れた指から凍りそうなほどだ。この人を温めてあげなければいけない。 「形だけなどとおっしゃらないでください」  熱を分けるように触れた。化粧のせいで赤いだけの唇は凛と冷たい。そこを丹念に吸い、私の熱を伝えていく。舌先でくすぐれば一層抱かれた身体は小さく固くなった。この人は私が怖いのだ。 「発情した時のことを教えて下さい」  袂から手を差し伸べると、柔らかさのない肌のひとところに凝ったものを見つけた。すべらかな肌についた汚れのようなそれを捻り取るように摘むと、合わせた唇のはざまから小さな呻きが漏れる。 「ぃやぁ……」 「そうおっしゃらずに。夫婦なのですから教えてください。発情するとどうなるのですか?」  肌から離れようとしない凝りを摘んでは捩じる。ぴくぴくと跳ねる肌を押さえつけるように、首筋に唇を落とした。 「ぁ、あ……」 「誰があなたを沈めたのですか?」  発情を沈めるには子種を注ぐしかない。問いながらしどけなく崩れ落ち完全に横になった人の衣を剥いでいく。薄物の下に隠れた身体は女のものとは違う、柔らかさの全くない骨ばった身体だった。けれど私より幾分も華奢な体つきに妙な興奮を覚える。真っ白な肌のなかで私の摘んだ小さなふくらみが赤く熟れていた。 「しらな……い。知らない。なにも覚えていない……ひどく身体が熱くなって息苦しくなって……頭の奥で欲深い言葉がわたしを駆り立てた。けれどそこから先は覚えていないのだ……」  顔を手で隠し髪が乱れるのも構わずに姫は首を振った。  見たい。  一度思えば止められなくなる。我慢のきかないところを父上に諫められたことが何度もあった。けれど私は恵まれた身の上もあって、我慢を覚えることなく過ごしてきてしまった。  この人が発情する姿を見たい。そうして私の手で鳴かせてみたいとの欲が身の内で暴れ出す。 「父君に聞けば教えてくださるだろうか。それとも女房たちのほうが容易いか」  あの固いばかりだった人がどのように相手を求め、抱かれ、鳴くのか。どうすればまた発情するのか。 「おやめください……あんな、浅ましい……」 「おや、浅ましいとおっしゃるだけのことを覚えておいでなのですか?」 「ちがう……違う……父に言われたのです。男があのように乱れる様は見苦しかったと。それしかやりようがないと聞き、やむをえず熱を放たせるために……」  震え出した姫がすすり泣いていることに気づき、胸を痛める。これ以上は酷なことと衣を引き合わせて隣に身体を横たえた。そうして包み込むようにしてその身体を抱いた。 「わたしも一度だけ発情した人を見たことがあります。浅ましいなんてとんでもないことだ。美しくて神々しくて目を離せなかった。とてもよい香りがして、眩暈がした。恋と欲情を覚えたのもその時です」 「それは……」  どなたかと問われる前に口をそうっと塞ぐ。そこは先ほどより僅かに暖かくなっていた。  しばらくすると泣いたことで疲れてしまったのか、姫は寝息を立て始める。睫毛に残る涙を指で払い、首筋に鼻先を埋めた。  けれどそこからは発情の香りなどくゆりはしないままだった。

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