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第1話
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北島(きたじま)来人(らいと)は歩いていた。
とぼとぼと、軽くもなければ重くもない足取りでさまよっている。
夜の国道沿い。
コンビニもカフェもレストランも途切れ、街灯だけが足元を照らしている。
見慣れない駅の表示が、道の向こうに見えた。
彼は今年で三十八歳の成年男子だ。大手ディスプレイデザイン会社に勤務して十五年。海外事業部を統括する部署の課長として数々の案件に関わってきた。ようやく仕事中心の生活を省みる余裕ができ、身を固めようと心に決めて、今夜、プロポーズを敢行した。
相手は二十代後半の女子だ。三年前、合コンで知り合った。
スーツの上から斜めに肩掛けした通勤用バッグの中に、給料一ヶ月分にも満たないダイヤモンドのエンゲージリングが入っている。
彼は、指輪を選んだときの高揚感を思い出していた。
そして叫び出したくなる。髪を掻きむしった。
さっぱりと刈り込んだ髪は、清潔感しかない。
黒々とした眉に、ワイシャツの襟が食い込みがちな太い首。
スーツを着た肩も、見た目からして筋骨隆々と逞しい。ジュブナイル小説好きの、ひ弱なオタクとして過ごした十代から二十代前半のコンプレックスの反動だ。二十五歳を過ぎて急にボディメイクに励むようになった。元がオタク気質だから、ついついのめり込んでしまう。
彼女との仲も同じだったのかも知れないと思った。
プロポーズのために指輪は用意したが、さすがに花は買えなかった。思い描いた場面は、仕事に追われながらも夢中になったライトノベルのラストシーンだ。主人公は指輪とバラの花束を用意していた。ありがちなプロポーズだから嬉しいと言ったヒロインを彼女に重ねていたかも知れない。
バラの花よりかすみ草が似合うと妄想していたこともいまは悲しい。
きょとんと、していた。
大きな瞳が見開かれ、やがて、それは一種の驚きに変わった。
じわじわと戸惑いが滲み、嫌悪と憐れみを混ぜた瞳で彼女はまばたきを繰り返した。
キラキラと淡く輝くパールを塗ったまぶたと、くっきり引かれたアイライン。
長いまつげが震えて見えた。
「え? 付き合ってないよね……?」
レストランのテーブル越しに、彼女はぐっと肩を引く。
気持ちをすっ飛ばして、相手の身体が『引く』のを初めて見た。
嫌な汗がじわっとワキの下に滲む。
行き場をなくしたダイヤの指輪を、片付けたいのに片付けられず戸惑ってしまう。
付き合っていると、思っていた。
今日は来人の誕生日だ。彼女は自分からスケジュールを空けて、店を指定した。
席に着くと、おめでとうと微笑んでプレゼントを渡してくれた。
でも、それは来人の手元にない。
いたたまれずに逃げ出した彼女が持ち去ったからだ。
身体の関係は少なからずあった。
少なからず。
はっきり言えば、挿入はしていない。でも、それに近いことはいくらもあった。
一緒に食事をして、休日を過ごし、風呂に入ったり、ベッドでいちゃついたり。
結婚したら子どもは何人欲しいか。式をするなら、緑に囲まれたチャペルがいいと笑って話したのは、彼女の方だ。
これを付き合っていると言わないなら、いったい、なにが『付き合っている』ことになるのか。
混乱が収まらず、顔を上げて、車のテールランプを目で追う。交通量は少ない。
携帯電話が震えた。彼女からのチャットメールだ。勘違いを謝ったメッセージへの返信だろうと思い、慌てて開く。
画面に目を走らせた来人の背中に悪寒が走る。ぞくっとした。
信号が青に変わり、横断歩道へ足を踏み出す。
歩いていないと、膝が震え出しそうだった。
文面を何度も確かめる。硬質なフォントが文章を綴っていた。
『あのガチムチオタク、まじでキモい。勘違いしてゴメンね、だって! おっさん、顔見てから来いってハナシ。ダイヤはもらっても、よかったかも』
誰に送ったメッセージなのか。それはわからない。しかし、蔑まれているのは、明らかに自分だ。
膝が笑いそうになり、震える息を、なんとか吸い込んだ。
パッと視界が明るくなる。ライトのまばゆさに驚いて振り向く。
ドンッと大きな音がして、身体が浮き上がった。
見えたのは、星のまばらな都会の夜空だ。
走り去るテールランプが視界の端に消える。
携帯が手から飛んでいき、身体が地面に叩きつけられた。
***
息をするだけで苦しい。
肺が痛い。肩も痛い。腰も痛い。指は動く。足先も動く。
やっぱり、胸の辺りが猛烈に痛い。
肋骨が折れたかも知れなかった。
でも、それで済んだのなら、不幸中の幸いだ。
激しい痛みに悶えることもできず、細い息を震えるように繰り返し吐く。
吐けば、息が入ってくる。
不思議と、物音を感じなかった。
人通りの少ない道だが、そのうち、車が通るはずだ。
薄暗がりの中だから、今度は轢かれてしまうかも知れない。
恐怖を感じて、身体をひねった。
道の端に逃げようとして、思いのほか、暗いことに気づく。目が見えなくなったのかと恐怖を覚え、仰向けに転がった。
身体中に痛みが走り、呻きながらまぶたに触れる。指でごしごしとこすった。
頭上に星が見える。真っ暗な空に、砂を撒いたように星が輝いている。
どうにもヤバイと感じた。これはもう、死んでいるかも知れないと思った。
大都会ではないが、田舎でもない。こんなにたくさんの星が見えるはずはない。
細い息を繰り返し、視線を巡らせる。心臓が早鐘のように鳴り響き、死んでも心臓の音は聞こえるのだろうかと不思議に感じた。
やがて目が慣れて、周りが見えてくる。
木が生えていた。道路はどこにもない。
視界は狭く、夜空は重なり合う木々のほんのわずかな隙間に見えていた。
風が静かに吹き抜ける。木々はかすかに揺らいだ。
葉擦れの音が、人のささやきに聞こえたが、恐怖は感じない。そんな余裕もない。
国道沿いの横断歩道で車に跳ね飛ばされた自分が、どうして、こんな山の中にいるのか。
しばらくは、小さい星空だけを一心に見つめた。
やがて呼吸が整い、痛みが緩和されていく。
月が辺りを照らしていた。
片側の闇が岩肌であることにも気づく。身体の下には草が生えている。
指で揺らして長さを確かめ、ぎゅっと掴んで引きちぎる。
顔のそばに持ってくると、生々しい植物の匂いがした。
「……生きてる」
身体がぶるっと震え、肋骨に痛みが走る。
折れていると思ったが、痛みは奥歯を噛むだけでこらえることができた。
激しく打ったのか、ヒビが入ったのか。
どちらにしても『重体』ではない。
呼吸を整え、身体を起こす。痛みで息が止まりそうになり、またしばらく息を整えた。
今度は、ゆっくりと立ち上がってみる。
痛む肋骨を手のひらで押さえて、顔をしかめた。
よた、よた、と歩く。靴の裏に、草を踏む柔らかな感覚がある。
近くの木に手を伸ばし、もたれかかって休んだ。
「テレポート、かよ」
悪態をついただけで骨が痛み、重いため息をつく。
確かに、町を歩いていたはずだ。こんな山奥にいた覚えはない。
夢だとは思わなかった。なにもかもがリアルだ。
とにかく人を探さなければならないと思った。
人と会えたなら、ここがどこなのかもわかるだろう。
もしも人里離れた山奥だったら、と考え、足がすくんだ。車に跳ね飛ばされ、証拠隠滅のために山奥へ捨てられたという可能性もある。
もしも、野生動物と遭遇したら、素手で戦えるだろうか。
すでにケガを負った身では無理だと悟る。そもそも格闘技の心得がない。身体を鍛えていたのは筋トレが好きだったからだ。
ひたひたと忍び寄る夜の闇に、息を細く吐き出した。
歩くたびに山奥へ迷い込んでしまうのだとしたら、朝が来るまで動かない方がいいのかも知れない、とも思った。
手にしていた携帯電話は車がぶつかった衝撃で飛んでしまったらしい。
肩から掛けていたバッグも見当たらなかった。
服はそのままだが、上着がボロボロに破れている。気温が低くないことに気がつき、このまま寝転んで朝を待とうと決めた。
草の生えている場所へ戻ろうとよろめきながら方向転換をした。そのとき、背にした向こうから、かすかな物音が聞こえた。
人の話し声だ。たまらず叫ぼうとしたが、力を入れると骨が痛む。
声が出せず、ただ耳を澄ませた。
葉擦れの音かと怪しんだが、それは確かに若い男の声だった。
目をこらした先に、ランプの明かりが揺れて見える。
(人だ。人がいる)
逸る気持ちを抑え、ゆっくりと歩いた。木から木へと注意深く進み、明かりを目指す。声はどんどんと近くなったが、会話の中身は聞き取れなかった。
日本語ではなく、英語でもない。
まるで歌っているかのような、不思議な抑揚だ。
太い幹の裏に隠れ、そっと覗き込んでみる。
細い木の間に、男たちの姿が見えた。
男は二人いた。暗がりの中では、他に人間の影は見えない。ひとりは明るい髪色で、背中を向けている。もうひとりは顔が見えた。
頬からあごにかけて、ヒゲが生えている。
鼻が高く、日本人ではなかった。その男が話し出す。
声は背中を向けている男より低く、笑い方がどこか卑屈だ。
また風が吹く。今度は強い風だった。
ざわざわと木の枝が揺れ、溜まった水滴が落ちてくる。
「わぁっ!」
緊張していた分だけ、驚いた。
思わず声を出してしまってから、自分の口を手で押さえた。
男たちが色めき立つ。
逃げようと思っても、機敏には動けない。大きな声を出しただけで肋骨辺りに痛みが走る。だから、すぐに見つかってしまう。背中を向けていた男が駆け寄ってくる。
やはり鼻筋がすっきりと高い。眉を吊り上げて迫ってくる。衣服は見慣れないものだった。まるで古典演劇の衣装のようだ。
勢いに圧倒されて後ずさった足が、木の根の上で滑った。
そのまま仰向けに倒れると、衝撃的な痛みに全身を襲われ、一瞬、息をするのも忘れてしまう。喉が引きつり、細い悲鳴がかすれる。
かろうじて無事だった肋骨が折れたと思った。
その瞬間、視界が黒く塗りつぶされ、気を失った。
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