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第2話
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歌う声が遠くから聞こえ、ぼんやりとまぶたを開く。
部屋の中だ。ベッドの上で横たわっている。寝起きの頭はなにも考えていなかったが、やがて、次々に思い出した。
事故に遭ったこと。
目が覚めたら森の中にいたこと。
妙な格好の、見知らぬ男たちに見つかったこと。
なにげなく視線を向けると、石壁の部屋の中には二人の人間がいた。
ひとりは森の中で見た男に似ている。髪色の明るい、若い男だ。
体格はすらりとしていて、腰高で、足がすっきりと長い。
着ているのは洋服だが、中世ヨーロッパのイメージだ。細いズボンに足の付け根まであるシャツのウエストを紐で絞っている。
もうひとりは、絵に描いたような『悪い魔法使いのおばあさん』だった。
全身を包む黒いケープとフード。見えている顔はしわくちゃで、細く突き出た鷲鼻は、先端が折れて見えた。
話す声も低く、しわがれていて、低いトーンで歌っているように聞こえる。それが薄気味悪い。
観察されていることに気がついたのは、そのおばあさんだった。
細長い指で指し示すと、そばにいた男が振り向いた。若々しく凜々しい顔立ちが近づいてきて、顔を覗き込まれた。
話しかけられても言葉がわからない。
しかし、心配しているらしいことは、雰囲気でわかる。
「あの……、言葉が……」
声を出した瞬間、自分の喉に手を当てた。肋骨に痛みが走ったが、
「あれ?」
もう一度、出してみる。その声は若かった。そして、わずかに高い。
(俺の声じゃない……)
「あー、あー……。どうして」
ぼそりとつぶやき、胸の痛みに耐えかねて浅く息を繰り返す。
男がなおも顔を覗き込んできた。
憐れむような目は優しい。そっと前髪を撫で上げられた。
男相手に優しすぎて気味が悪い。
すると、おばあさんが二人の間へ手を差し込んできた。低い声で歌い、男を部屋から追い出してしまう。
「あんた、飛んできたんだろう」
「言葉……」
ハッと息を吸い込む。
二人きりになった部屋で、おばあさんは日本語を話した。
ところどころイントネーションがおかしいが、言っていることは問題なくわかる。
言葉が通じることの喜びに身体が震え、涙がじわりと視界を揺らす。
おばあさんは冷たい笑みを浮かべ、低くしわがれた声で言った。
「あたしは、ヘルヤールだ。ここじゃ、錬金術師という意味だ」
「俺は……」
曲がったままの指に止められた。
「名前なんてどうでもいい。頼られても無駄だからね」
顔の見た目のせいなのか、言葉はストレートに嫌味だ。
「あたしたちヘルヤールは、ひとところに長くいられない。あんたたちは、さっきの男もそうだが、生まれてずっと年を重ねていくだろう。それが横へ流れる時間軸だとすれば、あたしたちはこのままの姿で縦に時間を流して生きている。どの時空の言葉もわかるし、文化も知っている」
「あの……、ここ、どこなんですか」
「質問なんて意味はない。知りたいことはわかっているからね。あたしもあんたがどこから来たのかはわからない。だが、こことは違う世界だ。この世の中にはいくつもの横線が流れている。あんたは、おあいにくさまだがね。そのどこかから、ここへ飛んできてしまったんだ」
口調は淡々としていた。同情のかけらさえ感じられない。
「おそらくもう帰れない。あたしたちと違って、あんたたちが時空を飛ぶのはごく珍しい。二度目があれば、魂が朽ちるだろう。元へ帰るより、ここで生きていく術を見つける方がたやすい。あたしが言えるのはそれだけだ」
「……たぶん、死んだんだ」
ぼそりと言って、身体に掛けられている布を握りしめた。
向こうの世界で車に撥ねられ、そして飛んできた。
アニメやライトノベルの異世界モノではよくある話だ。この頃の流行なら、チートな能力を手に入れるはずだが、そう簡単ではないだろう。
まず、言葉も通じていない。
「あんた、姿はこのままかい」
ヘルヤールが部屋を歩き回り、丸いものを胸に抱えて戻ってくる。鏡だ。ランプの明かりを柔らかく反射している。
「え……っ、たぁ……」
鏡に映った姿に驚いて飛び上がろうとした瞬間、身体に激痛が走った。のたうち回るにも痛くて動けない。
「うぐぐぐ」
若く澄んだ声で呻き、肩で息をしながら痛みをやり過ごす。ヘルヤールはあきれた顔で意地悪く笑うばかりだ。
鏡に映されたのは、見たことのない人間だった。
男か、女か、一目にはわからない。しかし、股間にはついていて、胸はない。
(……男だ。マジか……)
黒くつやつやとした髪は肩につくほど長く、濡れたように見える瞳も黒。まぶたのふちには、まつげがびっしりと生えている。年齢は二十代前半で、どこか物憂げな美青年だ。
(すげぇ……。けど、チート能力の方がよかった)
鏡に映る自分に見惚れながら、考える。
(いや、待てよ。これからチートに目覚めるワンチャンスもあるかも……)
「そんなものは、あるわけがないだろう」
心で考えたことに、答えが返る。目を見開いてヘルヤールへ向けた。
「これまで、なにをやってたか知らないがね、生きていくためには、それなりに努力が必要だ。その顔かたちを幸運にするか、不運にするか。生き方は自分で選ぶんだよ」
言われて初めて、女性めいた美形の危うさに気づいた。
さっきの男がいい例だ。
心配そうだったのも、優しげな手つきだったのも、この顔立ちだったからだろう。
森の中から救出してくれたのも同じ理由に違いない。
(ケツを狙われてるって、ことか……。マジか……)
相手も決して、不細工ではない。でも、男だ。
「あたしはケガ治しの薬を持ってきただけだからね。美味しくはないかも知れないが、骨から治せる良い薬だ。心してお飲み」
そう言うと、やはり意地悪く、ひっひっひっと笑う。ついでに痰を喉に絡め、ゲホゲホとえずいた。
(死にたいとか、思わなかったらよかったのかもな)
ヘルヤールの曲がった腰を眺めながら、ぼんやりと考えた。
付き合っているつもりの女に振られ、しかも勘違い男と罵る間違いメールを受け取ったのだ。あの一瞬、確かに消え入りたいほど恥ずかしかった。
惚れていた女の横顔がふっと脳裏に甦る。
恋い焦がれた清楚な顔立ちよりも、何倍も何十倍も美しく生まれ変わってしまった。
(どうせなら、イケメンの男がよかった、な……)
「なにをクソ生意気な。おまえは欲が深い。動物でなかっただけ、よかったと思え」
(え。それもあり……?)
「心で話すな! おまえたち年齢を重ねる存在は、どこへ行っても、ヒトならヒトだ。おまえの薬は、よく効くようにしておいてやる」
ヘルヤールはふんっと鼻を鳴らし、部屋を出ていった。
それきり、ヘルヤールの姿を見ることはなかった。残されたのは、痺れるほど苦い、胃に入ると吐き気がする『良薬』だ。
最初のうちは飲むだけで死ぬと思った。一度目で動かなくても続いていた疼く痛みが消え、三度目からは身体を動かしても鈍く響く程度の痛みになった。
ただ、飲んだ後はもう、半日動けない。
嫌な匂いが鼻を突き抜け、脳まで痺れる。
身の回りの世話をしてくれたのはのんびりとしか動けない老婆だったが、あの若い男は毎日、二回も様子を見に来た。
会話はままならないから、主にジェスチャーで意思疎通をはかる。調子の良し悪しぐらいは伝えることができた。
彼の名前は『フェルディナンド』だ。
間違っているかも知れないが、そう発音するとうなずきが返ってきた。
そして一週間。悪魔のような良薬を、十四回も飲まされた。
いつまで経っても慣れない味だったが、肋骨の鈍痛は残らず消えた。叩いても痛くない。
しかし、歩くことは不便だ。
横たわっていることが多かった上に、前の身体とは違ってすべてが華奢だ。体力もなさそうだった。
ベッドの上部に積んだ枕に背中を預け、老婆の歌うような声を聞いていると、フェルディナンドが部屋に入ってきた。
礼儀正しくノックもするし、一礼も挨拶も忘れない紳士だ。
なにを言っているのかはわからないが、とにかく歌うような口調だから耳に優しい。
フェルディナンドはにこやかに窓へ近づく。ガラスの扉を上に押し上げる。部屋の中へ空気を入れて、開いた窓の向こうを指差しながら「外」と言った。
単語ぐらいなら聞き取れる。指差し会話で、身近なものから少しずつ覚えた。
向こうの世界でも、英語は習得していたし、仕事で使うこともあった。
教科書も辞書もない独学だが、その気になればなんとかなるものだ。元々、オタク気質なので、新しい設定を習得すると思えば苦にもならない。
なにかに必死になっている方がよかった。いままでの暮らしについて思い出しても、帰りたいと感じてしまえば苦しい気持ちしか生まれない。勘違いの恋も勘違いのプロポーズも忘れて、まずは語学習得だけを目標にすると決めた。
パニックになっても、鬱々としても、なにひとつ先には進まない。
フェルディナンドの誘いにうなずいて了承の返事をする。老婆の手を借りて立ち上がると、膝が笑った。がくがく震えてしまう。
筋力が極端にないからだ。
鍛えた自分の身体が恋しくなり、努力して奮い立たせている気持ちが萎える。惜しんでも現状は変わらない。
けれど、目を閉じて眠る前にはいつも、なにもかもが夢だったらいいのにと思った。しかし目が醒めても、見えるものは慣れ親しんだ安普請アパートの天井じゃない。
知らない文化の、見慣れない建築物の中にいるだけだ。
石の壁に、木の天井。
飾られた花だけが、どこかで見たような姿をしている。
「ライラ」
柔らかく呼びかけられ、身体がふわりと宙に浮いた。フェルディナンドに抱き上げられたのだ。
身体をよじって逃げようとしたが、舌打ちに似た音で黙るように促される。ここではそれが、「しーっ」と指先を立てて静かにするのと同じ意味を持っているのだ。
フェルディナンドの腕はしっかりと力強い。身体に回った手が、いやらしく動き回ることもなかった。
「行こうか、ライラ」
言葉の通じないライラの返事を待たずに、フェルディナンドが歩き出す。
彼が発音すると、『来人』の名前は『ライラ』になってしまうのだ。何度も訂正したが、彼には発音できなかった。最後の音を下げることができないからだ。
まるで女性の名前だと思ったが、この世界では特に問題がないらしく、それなら『ライ』の方がいいと訴えても、やはり語尾に巻いたような音が入って『ライラ』と聞こえる。
しつこいやり取りを交わした後で、力尽きてあきらめた。
抱かれたまま、真ん中に長い絨毯が敷かれた廊下に出る。人の声も気配もせず、シンと静まりかえっている。そこまでは、知っていた。部屋から覗いても、わかることだ。
しかし、大きな階段を下りた先は知らなかった。
ロビーホールが広がり、開いた大きな扉の向こうに部屋があった。暖炉が見え、布張りのソファが置かれている。
どこからともなく人が現れ、外へ出るための重厚そうな扉が開かれた。
まず見えたのは遠くの緑だ。それから、屋敷の前に作られた噴水が目に入る。
フェルディナンドは静かに歩いた。
階段を下りて、噴水を抜け、開けた視界に向かう。芝は青く茂り、近くには林がある。遊歩道がくねりながら作られていた。
しばらく行くと、池が見えてくる。
奥行きがあり、両際に生えた木々の緑が映り込んでいる。
晴れた空を映した薄青の水面が涼しげに美しい。
フェルディナンドは慣れた足取りで池のそばを歩いた。白い屋根の東屋に入った。
やっと下ろされて、備え付けられたベンチを勧められる。
手を借りてゆっくりと腰を下ろす。座ると、池が一望できた。
フェルディナンドが歌い出し、驚いて視線を返す。
話しかけているのだと、すぐに理解した。
でも、内容はわからない。
わからなくてもいいから話しているのだろう。
ベンチの肘掛けにもたれ、フェルディナンドの歌うような声を聞きながら、きらめく水面へ目を向ける。
ときどき投げかけられる視線から顔を背けるためでもあった。
相手が醸し出す妙なムードから全力で逃げて、むっすりと不機嫌な振りをした。
あの夜、偶然に出会い、助けてもらったおかげで、こうして生き延びることができた。
恩は感じているが、身体で返すことになってはたまらない。
(身体は男だしな……)
相手を勘違いさせる曖昧な笑みを浮かべることもなく、ただじっと景色を見つめる。
その黒い瞳は憂いを帯び、孤独と絶望と、そしてほんのわずかな色気を秘めていた。
「ライラ……?」
心配そうに呼びかけられても、すぐには振り向かない。
うつむいて、桜貝のような色をした手元を見つめる。骨格は男だ。細くて華奢に見えるが、節くれている。
女の指を思い出し、ぞくりと身体が震えた。
(好きだったのにな……)
勘違いだった恋を思い出し、彼女に会うこともないのだと思い知る。
ガチムチでオタクな冴えないおっさん。それが彼女からの評価だ。
思い出すと、視界がゆらりと揺れ、涙がぽとりと手の甲に落ちた。
悲しいといえば、彼女よりも親のことだ、と思い直す。
たいした親孝行もできず、三十八歳になるまで独身で、浮いた噂のひとつも流せなかった。
離婚してもいいから、まず結婚して欲しいと言った、無神経な母親の視線を思い出す。
そこそこの学力と給与があっても、結婚できない。それが現代社会だと、何度言ってもわかってもらえなかった。
向こうの世界で事故死しているのなら、バッグの中に入ったままのエンゲージリングを見つけるだろう。振られたことも知られてしまう。
不憫がられるのはたまらないと思ったが、死んだ息子をかわいそうに思うことで悲しみがやわらぐなら、それもいい。振られたことに気づかず、好きになった女がいたと思い込んでくれたなら、なおいい。
風が吹いて、東屋の背後に立つ木々の枝が揺れる。
ざわざわと鳴った葉擦れの音は、暗闇の森の中で聞いたのとはまるで違っていた。
フェルディナンドが目の前でひざまずき、手を伸ばしてくる。
涙を拭おうとしていることに気づいて、その手を払った。つんと澄まして顔を背ける。その頬にも涙は流れていく。
(俺が生きられるのは、もう、ここしかない)
死ねば帰れるとしても、命を絶つような度胸はない。
痛いのはもう嫌だった。
静かに息を吐き出して、自分の拳で涙を拭う。
フェルディナンドがハンカチのように折りたたんだ布を差し出してくる。それも断って、ライラは大きく息を吸い込んだ。
元の世界よりもはるかに心地のいい空気が、胸いっぱいに入り込んでくる。
水と緑と、花の匂いがした。
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