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第4話
しばらくすると、老婆は別の召使いに呼び出された。
ひとりになったライラは、窓辺に近づく。外を眺めた。
夕暮れはとっくに過ぎ、辺りは暗い。部屋からはパーティー会場の明かりさえ見えなかった。
(クッキー、もう少し食いたい……)
見上げた空はすっかり群青色だ。星がきらきらと瞬いている。
老婆はいつ戻るのか、わからない。ひとりで取りに行こうと決めて、部屋を出た。
迷うことなく会場までたどり着く。人が増えたのか、あちらこちらに明かりを吊るした野外会場は混雑していた。人垣の向こうでは、ダンスが始まっている。
眺めてみたかったが、割り込んでいける隙もない。
すぐにあきらめて、手近な深皿を手に取った。木で作られた皿だ。
クッキーはまだたくさん残っていた。大胆に掴んで皿に載せ、発泡酒のグラスを掴む。
さっさとその場を後にした。
部屋に戻らず、池へ足を向けたのは、パーティーの賑やかさのそばにいたかったからだ。久しぶりに大勢の人が集まっているのを見て、人恋しい気分になっている。
かといって、フェルディナンドとは一緒にいたくなかった。
白い屋根の東屋で、クッキーをかじりながら、ため息をつく。
外見が良すぎるというのも考えものだ。
いまさら美人の苦労を知る日がくるとは思わなかった。
『このまま、ここにいるってのも、考えものなんだよなー』
日本語で言いながら、酒のグラスを掴んで、中身をぐびっと飲んだ。甘い発泡酒だ。花の蜜のような香りが鼻に抜ける。
アルコール度数もほどほどに強く、飲み応えがある。
『このままじゃ、やられちゃっても文句言えなさそう』
もちろん、そんなことになれば徹底的に抵抗するに決まっている。
でも、キスぐらいは奪われてしまいそうだ。
『冗談じゃない。だいたい、俺は三十八なんだぞ』
自分で言っておいて、ぐったりする。
三十八年間。たいしたことをしてこなかった。人生全般においても言えるが、特に、シモの方での後悔は深い。
(まさか、この顔じゃ女役しかできないってことじゃ……。マジかぁ、それはイヤだな)
と思ったが、
『この顔なら、女も寄ってくるだろ』
思い直して声に出す。
グラスを置いて、東屋を出た。
月夜だ。池の真上に輝いた月は、向こうで見ていたものよりも大きく見える。
この世界は、天動説なのか、地動説なのか。
そんなことを考えながら、池のほとりに近づいた。覗き込んで見ると、東屋に掛けられたランプの明かりで湖面が照らされ、ライラの顔が水面に映っていた。
「女が欲しいなんて言ったら」
フェルディナンドはどう答えるだろう。
性的な欲求不満の解消なら自分が相手をすると言い出しかねない。
もしかしたら、身体だけの関係の方がフェルディナンドにとっては、都合がいいのかも知れない。
本気で男に惚れているとは思えなかった。
お互いに言葉が通じないし、交流と呼べるほどの深いやり取りもない。
好きになることに男女の違いはないと説明されたが、本当に常識なのかも不明だ。騙され、言いくるめられている可能性もある。
「まぁ、いいけどね」
水面に指先をつっこんで掻き回す。波が立った。どこまでも波紋が広がっていく。
アルコールの酔いが心地よく身体を巡り、ライラの声で日本の歌を口ずさむ。
かつての自分が歌うより、よっぽど上手く聞こえるのだから不思議だ。
一番を歌い、続けて二番を歌う。調子に乗って感情が入り、揺れながら目を閉じる。
泣き出しそうな寂しさを胸の奥に押し込めた。
帰れない事実が、ただ悲しくて、帰ったとしても死んでいるとわかっているから、胸の奥がじくじくと疼く。
最後まで歌い上げ、思いっきり効かせたビブラートを少しずつ小さくした。
ライラの声は理想的だ。こっそり始めた筋トレの甲斐があり、声量も出るようになった。
満足の笑みを浮かべ、汗でしっとりと濡れた前髪をかきあげる。
そのとき、パチパチとかすかな拍手が響いた。
誰もいないと思って夢中になっていたライラは、小さく飛び上がった。
振り向いた先に、いつのまにか、男が立っていた。
そばに馬がいて、池の水を飲んでいる。
「異国の言葉だな」
柔らかな布地のジャケットを着ている男は、馬の首を優しくポンポンと叩き、歩くように促してライラに近づいてきた。
すらりと背が高い。フェルディナンドと同じか、それ以上ありそうだ。東屋の明かりが届く距離にまで近づいてきたとき、お互いが黙り込んだ。
相手はライラの顔を見て、そしてライラも相手の顔を見て、息を飲む。
男は美形だった。闇にも輝く金色の髪は首の後ろで結ばれている。
ライラとは違い、男性的で凜々しい顔立ちだ。
ルブローデ国の若き君主だと、ライラでもすぐに気がつく。一目見てわかるぐらい、彼は特別に見えた。
「あっ……」
どう振る舞えばいいのかわからずに、後ずさる。
「そなた、名は。わたしの言葉がわかるか?」
声にも強さがあった。すべてがしなやかだ。
こんな人間には会ったことがない。
「ら、らい、ら……」
本名を口にしようとして、舌がもつれた。
「ライラか。良い名だ。どうしてこんな薄暗いところにひとりでいるんだ。ラレテイ家の敷地とはいえ、今夜は人の出入りも多い。そなたのように……」
王は黙り、ふっと微笑んだ。
「失礼した。異国の者よ」
そう言うと、自分の胸に手のひらを当て、背筋をピンと伸ばした。
身長は、ライラよりも頭ひとつぶん大きい。
「我が名はジェフロワ=バルデュス。ルブローデの王だ」
堂々と言われ、ライラはひざまずこうとした。
正しい作法ではないかも知れないが、彼を前にすると、そうしなければいけないような気分になる。
しかし、膝がつく前に止められた。
「必要はない。ここには身分を隠して寄っている。大仰にはしたくないんだ。……フェルディナンドはどうした」
ジェフロワの声はなめらかに低い。それが歌うように聞こえるので、ライラは言葉が上手く聞き取れずにぼんやりしてしまう。
「逢い引きの約束でも?」
微笑んだ男の瞳に、ライラが映る。色は碧だ。
意味がわからず、首を傾げてみせる。
「彼とは、どこで、出会った?」
ジェフロワは腰を屈め、手話のようなジェスチャーをしながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「森の、中で」
「森? ずいぶんとロマンティックだ」
肩をすくめて笑ったのと同時に、フェルディナンドの声が聞こえた。
「ライラ! こんなところにいたのか! ずいぶんと探したんだ……」
林の中から息せき切って駆け寄ってきたが、声はだんだんと小さくなる。
足取りだけはズカズカと大股だ。
ライラの胸の前で腕を伸ばし、後ろへさがらせた。すっと腰を落とす。
「王よ。この者がなにか、致しましたでしょうか。記憶を失い、言葉もわからぬのです。どうぞ、お許しください」
「かまわぬ。ラレテイの別荘に美しい鳥が迷い込んだと噂に聞いて、見物に来たまでだ。よもや、見せびらかすような真似はしていないだろうな」
肩をそびやかした王が、フェルディナンドに視線を向ける。
「おまえは、すぐに自慢をしたがる」
急に言葉がくだけた。悪い癖だと言いたげな口調に、フェルディナンドはライラを振り向く。弱い微笑みを浮かべ、
「迷惑だったか?」
申し訳なさそうに言った。
「いえ……」
とっさに言葉が出てこず、首を振る。ここでうなずけるほどの強心臓は持っていない。
「そのようなことは勘違いです」
ライラの援護を得て、フェルディナンドは強い口調で抗議した。
王を相手に強気すぎると慌てたのはライラだけだ。
当のジェフロワは肩をすくめて笑う。
「釘を刺しておきたくなっただけだ」
気安く笑って、フェルディナンドの肩を叩いた。
「……感謝いたします。もうよろしいでしょうか。どうぞ、パーティー会場の方へ。みな、喜びます」
話を切り上げ、王を案内しようとしたフェルディナンドの腕が、ライラの腰に回る。まるで恋人同士のように引き寄せられ、とっさに飛びすさった。
しかし、池端だ。湿った草に足を取られて身体が傾いだ。
「あっ!」
叫んだ腕を、強い力で引かれる。頬が相手の胸にぶつかった。
スパイスを混ぜた柑橘の匂いがして、ハッと顔を上げた先に男らしい頬のラインが見えた。
「興を削ぐつもりはない。今夜はこのまま消えよう……。ライラ、城に興味はあるか?」
抱き寄せられたまま、指先であごを捕らえられ、目を覗き込まれる。
「なにを言って……っ。そんな勝手なことは!」
焦って非難したのは、フェルディナンドだ。騒がしさを疎ましく思ったのか、ジェフロワの眉根にぎゅっとシワが寄る。
「ライラに聞いているんだ。おまえたちが恋仲なら野暮なことをした」
「違いますっ!」
思わず叫んだ瞬間、
「ライラッ!」
フェルディナンドも戸惑いの声を上げる。
「なにを言っているんだ、ライラ。きみは記憶もなくして……。ジョゼ、冗談はやめてくれ」
「記憶か……」
ジョゼと呼ばれたジェフロワは、小さく息を吐き出し、ライラのあごをそっと指先でなぞった。
「フェルディナンド。おまえだって、いつまでも別荘で遊んではいられないぞ。それとも、彼とここで暮らしながら登城するつもりか」
「問題ないでしょう」
「そんなことは婚約してから言うものだ。ラレテイの次男坊が身持ちの悪いことをするな。父と兄の名に傷がつくぞ」
ジェフロワから解放されたライラは、悔しげに顔を歪めるフェルディナンドを見た。
彼の両腕が伸びてくる。
「そんなことは問題ない。記憶が戻るまで、ここにいてくれ」
両手首を掴まれ、懇願するような目を向けられる。
ライラは戸惑った。彼の思惑は知っている。
時間をかけて距離を詰め、いつかは手に入れようとしている。
それが心なのか、身体なのか、両方なのか、そこは考えたくない。
男同士という以前に、フェルディナンドを恩人以上には考えられなかった。
「……フェルディナンド。みっともないことをするな」
ため息をついたジェフロワが、ライラの手首から指を剥がす。そして、言った。
「王として命じる。『フェルディナンド=ラレテイ。汝が保護した客人は、いま、このときを以て、後宮の客人とする』。書面の必要があるなら、明日にでも取りに来い」
強い口調だ。はっきりと断言され、ライラも戸惑う。
しかしジェフロワは意に介さず、ライラに向かって一礼をした。
自分のみぞおちへ引き寄せる手の動きが美しい。
「城の中は代わり映えがしない。しばらく話し相手になってくれ」
馬へと促され、一歩を踏み出す。
肩越しに振り向いたライラの視界に、ちらりとフェルディナンドの姿が見えた。
怒っているのかも知れなかった。身体のそばで握り込んだ拳が、闇の中でかすかに震えているようにも思える。
しかし、いまここで断れば、『外』を知る機会も失ってしまう。
フェルディナンドに囲われ、パーティーで見世物のように連れ回されるのは楽しいものじゃない。窮屈で自由がなかった。
「フェルディナンド。ありがとう」
とっさに大きな声で言った。
さようならという言葉を、ライラは知らなかった。
軽く手を振り、ジェフロワに言われるまま、彼の膝を台にして馬にまたがる。
乗馬は初めてだから、おっかなびっくりだ。
身体が安定せず、前のめりになる。
「失礼する」
一声かけてから、ジェフロワは馬にまたがった。ライラの後ろだ。自分のジャケットを脱ぎ、ライラの身体の前に回してくる。
「夜にシャツだけでは冷えるだろう。」
そのまま腕を通すと、知らないうちに冷えていた身体が暖かさに包まれた。
背後にはジェフロワの体温が寄り添う。
ライラはホッと息をつき、
「別れの言葉を教えてください」
と聞いた。
「『さようなら』だ」
言われた通りに口にして、無邪気に手を振った。
馬はゆっくりと歩き出す。
「つれないんだな。彼は好みじゃないのか」
ジェフロワに問われ、ライラはうつむいた。
(もしかして、一難去って、また一難、ってやつか)
今度は、王から言い寄られることになるのだろうかと考え、
「男は好きじゃない」
ぶっきらぼうに、はっきりと答えた。丁寧語を使うほどの知識もないが、それでもアプローチに予防線を張ったつもりだった。
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