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第1話

 第一章 失恋の痛手  右足を踏み出すと、下ろしたばかりのモカシンがぐちゅりと音を立てた。ソックスも雨で濡れていて気持ちが悪い。デートのために購入した黒のチェスターコートも、水を吸って重さを感じる。  なんとか終電に飛び乗ったが、結局この駅止まりの電車で降りざるを得なかった。改札を抜けた先、秋雨にしてはかなりの雨が降っていた。 (あーあ、奮発して買った服と靴が。あと五つ先の駅だったら家だったのに、ここからタクシーはちょっとな。漫画喫茶かカプセルか。とにかく休みたい)  傘も差さずに夜の駅前をとぼとぼ歩きながら、雨宮(あまみや)和幸(かずゆき)はため息を吐いた。これ以上濡れるのは嫌だな、と思っていると、予想を裏切って急に雨は大粒になり始めた。さすがに雨宿りを考えて、足元の水を跳ね上げながら走りだす。  近くに軒のあるカフェを見つけ、足早にそこへ駆け込んだ。息を乱しながら、腕についた水滴を払う。暗い空はまだ雨を含んだ雲が満ちていて、この様子では当分止みそうにない。 「参ったなぁ」   雨宮が呟くと、雨がさらに激しさを増す。水は地面を打ちつけて跳ね上がり、辺りが白く煙り始めた。夏の雨なら分かるが、秋にこんな降り方をするのは珍しい。まるで雨宮の気持ちを代弁しているようで微妙な気持ちになった。  そんな空を見上げて、濡れないようにと一歩後ろへ下がる。  足元にある黒い看板に気づいて目を留めた。そこにはローマ字で『TOMARIGI』と書かれてある。それを見て張り詰めていた気が緩み、どっと押し寄せる疲労に息を吐いた。  今日は半年ほど付き合っている彼女と何回目かのデートだった。いつも洋服が野暮ったいと言われるので、ファッション雑誌を真似して頭から足先までまるごと購入した。それなのに新品を下ろして出かけたデートで、彼女に振られてしまった。 (今日のは結構、きつかったな。鬼門の三ヶ月を超えたと思ったのに)  二十四歳になった雨宮は、今日の彼女を含めて全て同じ理由で振られていた。だいたいは向こうから、好きだから付き合って欲しいと言われる。雨宮がOKして交際が始まるが、三ヶ月としないうちに相手側から、もう無理、と告げられてしまうのだ。しかも彼女たちの台詞は決まってこうである。  ――和くん、やさしくて格好いいけどさ、なんだかつまんないんだよね。男ならもっとリードしてよ。なんでも私が決めてるじゃん。  確かに彼女たちの言うことには一理あった。デートに行って入る店を選ぶときでも、食事のメニューを選ぶ際も彼女の意見を優先する。気に入ってもらいたいから、というのは表向きで、自分からこれがいい、と主張するのがあまり上手くないのだ。普通の人ならなんなくこなすことでも、雨宮には難しい。 (父さんの……影響かな)  小さい頃から全て父が決めたものを与えられ、口答えせず全て言われた通りにこなしてきた。自分の考えや意見は一切言わせてもらえなかった。そのせいで率先してなにかを決めることが極端に苦手になった。リードして欲しい、と言われたらどうしていいか分からなくなり、ただ困ったように笑うだけなのだ。  逆に指示されたり、相手の決めたことに従うのは苦痛ではない。 (どうしたらいいんだろう)  つまらないとか、男ならもっと引っ張ってよ、くらいならショックを受けはしても言われ慣れている。そんな免疫がつくのもよくないとは思うが、性格なのだから仕方がない。しかし今回の彼女はその次にこう続けた。  ――あなた本当は女性より男性の方がいいんじゃないの?  そんな言葉だったのだ。  どうしてそう言われたのか、その彼女はまるでひとり言でも話すように、呆れた口調でしゃべり始めた。  ――格好いいから連れて歩くのにはいいけど、中身は女の子みたいなんだもん。それに本当は女性には興味ないんじゃない? セックスだって……さ。  傷ついた雨宮の胸をさらに抉る勢いで指摘され、苦笑したまま固まった。彼女は少し馬鹿にしたような表情で雨宮を見ると、そのまま席を立って帰ってこなかった。  父が亡くなってからは一度もあの快楽を思い出したことはなかったのに、彼女にそう言われた瞬間、靄がかったセピア色の記憶がなぜだか一気に蘇り色づいた。 「まさかそんなこと、あるわけがない」  雨宮が呟いたとき、背後でかわいらしいドアベルの音が聞こえて、ハッとして振り返る。 「あっ」 「あれ?」  小さな窓のついた黒い木製の扉が開き、背の高い男の人が店の中から出てきた。電気が消えていたので閉店していたと思ったが、もしもまだ営業中なら入り口を塞いでいることになる。 「すみません……お店まだやっていましたか? 雨がすごくて、雨宿りさせてもらっていました」 「ああ、もう営業は終わっていますよ。風が出て看板が倒れたらまずいので、取り込みに来ただけで。それにしてもすごい降りですね」  彼が雨宮の隣に立って雨の様子を窺う。雨宮よりもずいぶん背が高く体格がいい。白い長袖シャツに黒いベストを身につけていた。高い位置にある腰に黒のタブリエを巻きつけた彼は、空を見上げていた顔をひょいとこちらへ向ける。 「結構、濡れてますね。雨宿り……中でされますか? まだ止みそうにないですし」 「え、でも、……もう閉店されているのにご迷惑じゃ、ないですか?」 「平気ですよ。店が終わったらいつも一人で晩酌してるので。あ、なんなら洋服が乾くまでそれに付き合ってくださってもOKですよ」  店内の間接照明が小さく灯されて、店主の顔がさっきよりもはっきり見えた。想像以上に格好いい店主に雨宮は驚いた。赤っぽい髪は硬質そうでヘアジェルでツンツン立たせたスタイルだ。吊り上がった切れ長の目と、筋の通った高い鼻に形のいい唇。一見すると雨宮が参考にしているファッション誌に掲載されていてもおかしくないような容姿だった。 「でも、あの……」 「これから予定とかありますか? もう終電終わってますし。あ、この近所に住んでますか?」  だったら濡れても帰りますよね、タクシーに乗ればいいだけだし、と彼はひとり言のようにそう口にしていた。 「ご迷惑じゃなければ……」 「よかった。じゃあどうぞどうぞ。こっちに」  彼は客を迎え入れるように軽く会釈をして、雨宮を店内に案内してくれた。  中はL字型のカウンターに椅子が七脚ほど設置されていて、テーブル席は四人掛けのものが三つほどだ。カウンターの上には吊るし棚が下がっており、そこには色々な形の酒瓶が並んでいる。  壁は白いモルタル塗りで、ワイングラスを逆さまに吊るした形の照明が、周辺をやわらかく照らしていた。 「靴と靴下、ジャケットも脱いで大丈夫ですよ。奥の部屋にかけておくので」 「すみません。初対面で初めて入ったお店でここまでしていただいて……。本当に大丈夫ですか?」 「あ、いやいや、全く平気だから」  軽いノリでそう言われ、彼は雨宮のジャケットを脱がせ始める。貴重品は手元に置いてくださいね、と念を押されたので、慌ててスマホと財布をジャケットから取り出した。彼は本当に靴と靴下まで持っていってしまう。 (なんていい人だろう。世話好き、なのかな?)  カウンターの椅子に腰かけ、もじもじと足先を動かす。こういう雰囲気あるお店はあまり来ないので心なしか落ち着かなかった。 「お酒は飲める人ですか?」  奥から戻ってきた彼が、カウンターに入ってそう聞いてくる。 「ええ、まあ人並みに」  雨宮の答えを聞いた彼は、手際よくなにやら楽しそうに酒を造り始めた。まるで鼻歌でも飛び出してきそうな感じだ。 「あ、俺はここの店主で横澤(よこさわ)宗(しゅう)っていいます。バイトでもう一人いるけど、彼女が迎えに来て今日はもう帰ってしまいました」 「そうなんですね。俺は雨宮和幸です。実は今日……デートだったんです」  名前を言ったあと思わず口走り、また彼女のあの言葉を思い出す。我ながら情けないな、とため息が零れた。 「デート帰りでその顔ですか? もしかしてなにかあったんですか? 愚痴とか聞きますよ? そういうのもバーテンの仕事ですし。ただし、俺の酒に付き合ってくれるなら、ですけど」  ウィンクを自然に飛ばしてくる横澤が、雨宮の前にオレンジ色が鮮やかなカクテルを出してくる。見た目は女性が好みそうなジュースのようだった。 「それ、ウォッカベースで度数ちょっとは高いけど、飲みやすいですから。甘いのは大丈夫?」  横澤の口調が砕けてきた。年齢はおそらく彼の方が少し上だろうが、でもあまり年齢でマウントを取ったりはしない。 「あ、はい。平気です。あ……おいしいですね」  口に含むと、甘いのにきちんとアルコールの味もして飲みやすかった。度数の強いアルコールが胸の辺りを熱く焼くような感覚もない。 「だよね。俺もそれ好きなんだよ。でも飲みやすいからって調子に乗ると、足に来るから要注意」  悪戯っ子のように笑ってみせた彼が、自分のグラスをこちらに掲げてくる。雨宮は慌ててグラスを持ち上げ、カチンとぶつけ合った。  彼の言う通りそれは甘くて口当たりがよく、あまりにおいしいので止まらなくなってしまった。喉が渇いていたのもあったのかもしれない。

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