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第2話
お酒の種類は横澤にお任せで、店が閉店したというのに酒の肴まで用意してくれた。
「これはサーモンとクリームチーズと野菜の生春巻きな。ソースはピリ辛。で、こっちはうちで手作りしてる焼き豚。カクテルよりビールに合うのしか残ってなかったけど」
横澤がカウンターの向こう側から出てきて、雨宮の隣に座った。どうぞ、と皿を寄せられ、すみません、と軽く頭を下げる。アルコールがほどよく回っていて、頭がふわふわと浮いているようで気持ちがいい。
「で、デートの帰りなのに落ち込んでいる理由は?」
「はは、今日は何回目かのデートだったんですけどね……、恥ずかしい話、スッパリ振られたんです」
グラスに残っているカクテルをぐいっと呷り流し込むと、頭がグランと揺れる。顔が熱くて目のピントが上手く合わない。酔っている自覚は十分あった。
「振られたのか……そりゃ、雨の中を歩きたくなるわけだ」
横澤の同情するような顔に、なんとも言えない気持ちになる。初めて会った人に酔ってくだを巻きながら、失恋話を聞かせているのだから当たり前だ。それでも溜まっていた憤りのようなものが抑えられない。
頭の中でまた彼女の言葉がぐるぐる回り始める。全員が同じ理由で別れを切り出してきたのだから、きっと彼女たちの言うようにこちらに原因があるのだろう。
「歴代の彼女、みんな同じことを言うんですよ。あなたはつまらない、男なのにリードしてくれないって。でも、好きだから付き合ってと言ってきたのは、みんな向こうからで……。それなのに……」
男の方がいいんじゃないの? なんて一生忘れられない言葉で振られた。そこまで女性っぽいつもりはない。精一杯付き合っていたつもりだ。確かに優柔不断で決断力は弱いかもしれないが、それが別れる原因になるほどだと自覚はない。
自分は普通だと言い聞かせて、一番初めの彼女を作ったのは二十一歳の冬だった。父が亡くなって半年後のことだ。長続きしなかったのは、初めて付き合った人だし経験が浅かったのだろうと、そんな理由で自分を慰めたのを思い出す。
(じゃあ二人目は? その次は……?)
考え始めて、頭の中がこんがらがってきた。結局は自分の心の寂しさを埋めるために、彼女たちを利用していた、そんな結論にしか至らない。だとしたら、キツイ言葉で振られても仕方がないのだろうか。
「ふふ、ふはは……、結局、俺は……」
今頃気づいて、雨宮は途端におかしくなってしまう。笑うつもりはないのに、腹の底から笑いが込み上げてくる。酒のせいで箍が外れ、肩を揺らして笑った。
「俺、なんでこんなことになってるんですかね。父さんと、あんなこと、いっぱいしたから……かな。でも俺だって……何度も……何度もして……バカみたいだ」
酒の影響だと思いながらも、その境目が徐々に曖昧になっていく。そして脳裏に色々な光景が回り始めた。
父の厳しい顔、遺影の笑顔、雨宮の硬直を頬張り見上げてくる欲情した目。そして彼女の雨宮を見る冷めた視線。心に突き刺さった言葉がないまぜになって頭の中に響き渡る。
「おっと、グラスを割るなよ? ほらこっちに渡して」
力の抜けた指先からグラスが落ちそうになり、それを横から伸びた手がさっと奪い取った。
カクテルはこれで最後ね、と今度はスタウトの瓶を目の前に置かれる。それを乱暴に取り上げて口元へ持っていくと、瓶を傾けすぎて口の端からボタボタと零れてしまった。
「あっ……すみ、すみません……」
「いいよいいよ、っていうか、雨宮さん、お酒そんなに強くないね?」
タオルを持ってきてくれた横澤がそれを渡してくれたのに、掴み損ねて落としてしまった。
「あっ……あの、すみま……」
椅子から下りてそれを拾おうとしたが、想像以上に足元がふらついてしまった。目の前にあるボトルや横澤の顔がぼやけて見える。たった数杯のカクテルでこんなに酔うのかと思いながらも、雨宮の体は言うことを聞かず斜めに倒れていった。
「ちょ、ちょっと!」
横澤の驚いた声が聞こえて、ヘマしたかも、と考えるが体の反応は鈍い。さらに椅子の脚に自分の足を引っかけてバランスを失い、転倒は免れないはずだった。だが横澤に抱えられて、想像した痛みは襲ってこなかった。
「嘘だろ? 人並みに飲めるって言うから、あれを出したのに。ちょっと、雨宮、さん?」
「俺は……女性に興味がないでしょ、って……そんな、そんなこと……ない。男が好きだなんて、そんなの……嘘だ。……嘘だ。父さん……父さん……の……」
横澤にしがみついた雨宮は何度も父のことを呼んでいた。そんな雨宮に抱きつかれても、横澤は嫌がる素振りを見せない。それどころか雨宮を抱き返してくれる。
「そうか、色々あったんだな、分かるよ。鬱憤は全部吐き出してしまいな。俺が受け止めてやる」
やさしい言葉に涙が滲んだ。床の上で一緒になって座り込んで、子供のように泣きだした雨宮を彼があやしてくれる。
彼の肩口に頭を乗せていた雨宮は、近づいてきた横澤の顔をぼんやり見ていた。
「横澤、さ……んっ、んんっ」
唇を吸われ、口腔に舌が忍んでくる。驚いたのは一瞬だった。
キスされるのは悪い気がしなかった。頭の芯がジン……と痺れるような感覚に心地よくなりもっと欲しくなる。だから自分から舌を出して催促するように動かした。
「は、ん……ぁっ、ん、ふ、ぁ……」
「なに、あんた……結構エロい顔すんだな」
さっきまでとは違う横澤の口調に腰がゾクっと震えた。背中のシャツを捲【めく】り上げた横澤が、雨宮の素肌を探り始めた。だが酔いの回った雨宮はとても目を開けていられず、ふわふわした意識が徐々に途切れていく。そして瞼の裏で、自分の原点とも言えるような鮮烈な体験を思い出していたのだった。
中学二年の雨宮は、学校帰りに駅前の大きな本屋へ足を伸ばしていた。家の近くにある個人書店はほとんどがシャッターを下ろしてしまい、今はこの駅前の書店だけが手に取って本を買える場所になっている。
今日は受験のための参考書を買うために、この本屋へやってきた。
(えっと……三階だったっけ)
雨宮は階段を使って上へと向かう。店内の客はそれほど多くはないが、雨宮にとって人の多い場所は緊張するのでエレベーターは使わない。さすがに目的地が十階以上の場合は、なんとか我慢してエレベーターを使うのだが。
息を切らせて階段を上りながら、休日に来てしまったことを心なしか後悔した。
欲しい本があるフロアは三階だが、階段を上り終えてフロアに来てみると、そこは以前来たときとは全く雰囲気が違っていた。
(あれ? 売り場が変わったのかな?)
幼さを残す大きな茶色の目で上を見上げると、そこには洋書・芸術と書いてあるのに気づいた。どうやら少し来ないうちに、いつの間にか店内の改装をしたらしい。それほどこの本屋に足を運んでいなかったのかと雨宮は思った。
改めて階段脇にある館内マップを見ると、雨宮が行きたいフロアは七階になっていた。それを確認して、もの憂げな表情になる。体力にはあまり自信がないから階段で行くのは骨が折れるし、かといってエレベーターは苦手だ。同じ気が重いなら、体力を使わない方で我慢するのを選ぶことにする。
仕方なく上矢印のボタンを押した。幸い狭い空間には人がいなくてほっとして乗り込んだが、途中からたくさん人が乗ってきてやはり辟易としてしまう。
七階に到着して扉が開くと、フロアは三階よりも人がいることに驚いた。コミックスなどが平積みされてあるエリアを足早に避けて、奥の棚のある方へ向かった。そこは比較的人がまばらだ。ほっとして目的の本を探し始める。
(どうして参考書とコミックスが同じフロアなんだろ)
そんな文句を胸の中で呟きながら、棚沿いに歩いていく。しかし目的の参考書がなくてさらに疲労は増した。重いため息も出るというものだ。
しかしここまで来て手ブラで帰るのも嫌だと思い、普段は行かない小説エリアに足を向ける。平積みになっている場所には、店員おすすめ! と書かれた煽り文句や、書店大賞などと書かれたカラフルなPOPが並ぶ。そのうちの一冊に雨宮は目を留めた。
(その夜、あなたはどこにいましたか? ……って、どんな話かな。おもしろいタイトルだな)
作者は那花(なばな)壮一郎(そういちろう)となっているが、雨宮は聞いたことがない。中学に入っても漫画や小説などはほとんど読まず、テレビもあまり見なかった。それは父の教育の影響なのだが、ずっとそういうものだと思っていたのだ。
けれど二年に上がってからは、周囲が漫画やテレビゲームに夢中になり、その話題ばかりになった。
学校では自分が取り残されている気がして、そのことを父に相談した記憶がある。しかし、そんなバカどもと同じになるな、とあっさり一蹴されて終わった。
全ては父に管理されている。それは幼少期から変わらず今も続いていた。小さい頃は窮屈に感じなかったことも、色々な情報に触れ知識が豊富になった今は、多少の不自由さにストレスを感じている。かといって父に反抗するなど、馬鹿な行為はしない。してはいけないと、そう躾けられてきたからだ。
畏怖する存在である父は、雨宮の全てだった。
家で読めるのは父が許した自然に関する本や、芸術に関する本だけだ。毎月もらう小遣いで、いつかこっそり自分の欲しいと思う本を買おうと思っていた。
(買ってみようかな)
どこかの街の風景が表紙で、漫画みたいにイラストではない。これなら父にはすぐバレないだろうと思った。迷わずその那花壮一郎の本を手にしてレジへと向かった。
思春期になって初めて自分で自分の好きな本を買うなんて、世間では遅すぎるのかもしれない。本屋に来るときは決まって参考書を買うためで、買ったものは必ず父が確認した。だから今日の行動はかなりの冒険なのだ。
ドキドキしながら支払いを済ませ、袋に入った本を隠すように鞄へと突っ込む。
早く読みたくて足早に書店をあとにして帰路に就く。父に初めて反抗した気分で少しの罪悪感と気持ちのいい解放感に心が躍った。
(この本、いつ読むのかが問題だな)
父は雨宮の様子を窺いに、よく部屋へ入ってくる。こんな本を勝手に買ったとなれば、きっとすごく怒られるだろう。もしかしたら捨てられるかもしれない。
(捨てられるのは、嫌だなぁ)
不安に思いながら家へ帰ってきて、ただいまも言わずに自分の部屋へと駆け込んだ。母はいつもと違う雨宮の様子に困惑していたが、学校で疲れただけ、と言って部屋には入れなかった。
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