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第5話

 ◇   ◇   ◇  手の甲を誰かに撫でられている感触に、意識が微かに浮上する。それが徐々に腕を上ってきて肩に触れ、一度離れたかと思うと、今度は鎖骨をなぞるように往復してきた。くすぐったいからやめて欲しいと思うのに、体がぴくりとも動かない。ときどき頭を撫でられて、その温かい手が頬に触れ、そのまま唇を弄ってくる。微かに聞こえる衣擦れの音で、懐かしいような感覚を思い出す。 (父さん……)  今、雨宮に触っているのはきっと父だ。  そう思った。  震える内腿を撫でる手の感触。  羞恥と快楽と、そして焦燥。  それが順番に襲ってきて、けれど最後には快楽だけに支配されて、もっと強い刺激を欲してしまう。  そんな自分をいやらしいと思いつつ、だけどやめて欲しくないのだ。 「ぁ……、あぁ……や、やだ……、父、さ……ん、もっと……ぁ、ん」  遠くで自分の声を聞きながら、自分の意識が徐々に覚醒していくのが分かる。静かに目を開けると、天井から下がったシーリングファンが回っているのが見えた。何度か瞬きをして、ゆっくりと上半身を起こそうとする。しかし自分が思っていた以上に体が重くて、全く起き上がれなかった。 「あれ……なんで?」  力を入れ直してようやっと起き上がる。どうやらリビングのソファの上で寝かされているようだった。体の上には毛布までかけられてある。  リビングは広々としていて、なんだか殺風景だった。壁にかけられたテレビ、その横にはノッポなスピーカー。部屋の隅にある観葉植物と、小さなワインセラーがあるだけだ。  リビングの大きな窓から見える景色は青々とした緑で、この部屋とは不釣り合いな感じだった。  横澤と飲んでいて潰れたのだから、ここが彼の自宅なのだとおおよそ予想はできる。  死にそうなほど喉が渇いていて、喉に手を当てて何度か唾を嚥下すると、ぴりっと痛みが走った。ただ座っているだけなのに、体はまるで鉛のように重い。  深くため息を吐いて、右手で気怠げに額を押さえる。 「あ、起きた? 雨宮さんカクテル数杯で意識がなくなったんだよ」  隣のキッチンから姿を見せたのは、白Tシャツに黒いハーフパンツ姿の横澤だった。一緒に飲んでいたときは髪がツンツンに立っていたが、それが全てオフの状態で額を半分ほど隠している。 「はい、水。喉渇いたっしょ。そこそこ泣いてたもんな、あんた」  やたら砕けた口調で話しかけられて驚いた。どうやらプライベートはこんな感じらしい。 (俺、昨日どこで潰れたんだっけ)  思い出そうとしても記憶が途切れ途切れで繋がらない。横澤の差し出した水のペットボトルのキャップを開けた。一口、二口飲めば、胃に染み渡っていくのを感じる。雨宮は飲むのをやめられなくて、一気に水を飲み干そうとした。 「一度に飲みすぎ」  途中でペットボトルを取り上げられて、中身がボタボタとシャツの上に零れた。なにするんだ、と睨もうとしたが、自分が見覚えのないシャツを着ていて、下半身はボクサーパンツのままであるのに気づく。 「あの、もしかして、着替えまでしてもらったんでしょうか……」 「そうだよ。酔い潰れた雨宮さんを二階の俺の自宅まで引っ張り上げて、酒で汚れたシャツを脱がし、体を拭いて、洋服まで洗濯しましたよ」  母親のような口調で横澤がそう言って、雨宮が横になっている三人掛けソファの足元に腰を下ろす。  面倒くさそうな口調なのになぜか彼の表情はうれしそうで、雨宮は横澤が怒っているのか呆れているのかさっぱり分からなかった。 「すみません。本当にご迷惑をおかけしました。あんなにすぐ記憶がなくなるなんて思わなくて。俺、なにか変なこと言ってませんでしたか? どこか汚してしまったりとか。もし、弁償しないとだめな物があったら……」 「はいはい、ストップ」  横澤がソファの空いているスペースに座ってくる。雨宮の足はソファの背と彼の背中に挟まれる格好になった。まだお酒が抜け切れていない雨宮を、まるで子供を寝かしつけるかのように再びソファに沈めてくる。 「今は水分取って横になってな。別に迷惑じゃないし。それ以上に俺、あんたのこと気に入ったし」 「え?」 「まぁ覚えてないだろうな。自覚なさそうだったし。普通は初対面の相手には言えないようなこと、口走ってたからな」  横澤はソファの背もたれに体重をかけ、立て膝の格好で寝ている雨宮を見下ろしてきた。彼の指先が毛布越しに雨宮の膝頭に触れる。まるで誘うかのようにそれがゆっくりと円を描いて動かされた。 (え……? 俺、なにを言ったんだ? どうなってるんだろう。横澤さんの印象が昨夜と全然違う)  嫌な予感が雨宮の胸を覆い尽くす。初対面の人には言えないようなこと、というのが引っかかる。口走ったとすれば、今でも記憶の底に眠っている父のことしかないのだから。 「あの……俺が、なにを言ったのか、教えてもらえますか?」 「どうしようかなぁ。ただで教えるのはちょっとな」  にやにやと下卑た笑みを浮かべ、膝頭を撫でていた指先がするすると腿を下りてきた。 「どうすれば、教えてくれるんですか? あの……」 「そうだなぁ。じゃあ、一回だけ試させてくんない?」 「試す……?」 「そう。無理にとは言わないけどさ。キスのひとつくらいなら、減るもんじゃないだろ?」  冗談なのかと思いきや、横澤は予想外に真面目に言っているようだった。しかしなぜキスなのか、と酔った頭で考えて、彼が言わんとすることをようやく飲み込んだ。 「ああ、キスくらいでいいのなら、別に……」 「あっさりしてんね。じゃあ、気が変わらないうちに遠慮なく」  そう言いながら、雨宮の体の上へ重なるようにして覆い被さってくる。もちろん彼は自分の体を左腕で支えているから雨宮に重さは感じない。だが想像以上に大きな影にびくっとする。 「そんな構えんなよ。別に取って食いやしねえし」 「……は、い。……んっ」  顔が近づいて、大丈夫です、と言おうとした口を横澤に塞がれた。思ったよりもやわらかい唇の感触が雨宮の唇に触れる。うっすらと口を開くと、そこから強引に彼の熱い舌が入ってきた。 「ぁ……、んんっ、ぁっ、んぅ……」  あっという間に雨宮の舌は横澤に絡め取られ、攫われた。強く吸われて舌の根が痛いくらいで、でも次の瞬間にはやさしく撫でるように愛撫される。気持ちがよくて、雨宮は無意識に彼の背中へ両手を回していた。 「あんた、エロい顔すんなぁ」 「な、に……、なん、ですか……」 「キス、好きなんだな」  彼の言っている意味が分からなくて、とろんとした目で横澤を見つめる。これでもう終わりなのかと思っていると、それは再び始まった。 「んっ、んんっ……、は、ぁ……んんっ」  今度はさっきよりも激しくて、横澤の舌が口腔で暴れ始めた。鼻翼呼吸だけでは追いつかなくて、思わず声を漏らして喘ぐように呼吸する。体が熱くなるのを感じ、なにかが変だと気づいた。熱が下半身に集約し、その塊はゆっくりと快感に変化したのだ。 (だ、だめ……これ、だめだ!)  彼はなにかを探すように歯列をなぞり、頬の内側を無遠慮に撫で回す。彼のペースに飲まれ、あまつさえ快楽を覚えてしまった。そして口蓋を突かれたとき、雨宮は思わず腰を浮かせていた。 「あっ、んっ!」 「なんだ、その、エロい声」 「あ、あの……もう、もういいですよね?」  キスだけで雨宮の息は上がっていた。そして違和感はとんでもない部分を大きくしている。  彼女とキスをしただけで、こんなふうに勃起したことはない。ましてや二日酔いのときは勃ちにくいはずなのに、横澤のキスに感じて大きくしてしまった。 「ま、いいけどさ。でも雨宮さん、わりと好きでしょ? キスするの」 「す、好きじゃないですよ。だって、横澤さんは男性じゃないですか」  そうだけどさ、と彼の体が離れていった。ほっとしたのも束の間、雨宮の上にかけられてあった毛布をばっと捲り上げられてしまう。 「わっ! な、なんですかっ」 「あー、やっぱり。勃ってる。キスの気持ちよさに男も女もねえよ。ようは相性だろ?」  黒のボクサーパンツをしっかり膨らませ、おまけに先走りで布の一部分だけ濃い黒色に変わっていた。 「ちょ、ちょっと……あの、やめてくださいよ」  慌てて毛布を取り返そうと腕を伸ばしたが、間一髪、それをひらりとかわして遠くへ投げ捨てられた。なんて意地悪なんだと睨んだが、横澤はもっと鋭い視線でこちらを見据えていた。 「教えてやるよ。雨宮さんが昨日、俺に言ったこと」  まるで全てを見透かしてしまいそうな鋭い視線に、雨宮の鼓動は途端に騒がしくなる。みっともなく股間を両手で隠した状態で、雨宮はおとなしく横澤の答えを待っていた。 「男の方が相性が合うのかもしれない、って、あんたが言ったんだよ。だから試してみるか? って俺が聞いた。そしたら、うんって頷いてたな。かわいかったなぁ」  からかうような口調で言われ、酔っていたとはいえ自分の言動に恥ずかしくなる。 「え……あの、俺、そんなことを、本当に言ったんですか」 「言ったよ。酔ってたけどな。でもそれって本心じゃねーの? 酔ったときこそ出る深層心理、本音ってやつ」 「嘘だ、そんなの……そんな、の……」  雨宮はソファの上で膝を抱えるようにして座った。まさか自分からそんなことを口走るなんて信じられなかった。そもそも酒で記憶がなくなるほど飲まない。だから酔い潰れた自分がどうなるのかは知らないのだ。かといって、本当にそんなことを口走ったのなら、もうお酒は一滴も飲まないと誓いたい。  もしかしたら眠りから覚める前のあれは、夢ではなくて横澤がしていたのでは? とそんな考えが過ぎる。 「嘘じゃねーよ。嘘吐いてまで雨宮さんを陥れたって、俺にはなんのメリットもねえからな。でもさ、俺のキス、よかったろ? 二日酔いで勃起するくらいには」  にやっと笑われて、雨宮は恥ずかしくなった。確かに彼の言ったことは間違っていない。キスをされながら腰を振ったし、無意識に背中へ腕を回して彼のシャツを必死に掴んでいた。  快楽の種類が、過去のそれと似ていると気づいたとき、一気に雨宮の中で膨らんで体を支配したのは事実だ。 「父さんのときと、同じ……だ」  心の声が思わず口から転がり落ちた。はっとして慌てて口を噤む。どうやら横澤には聞こえなかったようだ。そしてふと思った。もしかして酔って記憶のない間、自分は父の話もしたのだろうかと。  そう思うと確かめたくて仕方なくなる。でも話したかどうかを聞いてしまえば、彼に追及されそうな気がした。結局は自分から打ち明けるハメになりそうで、どうしたものかと考えあぐねる。 「なに? その顔。妙に考えてるよな」 「あ、いえ……あの、変なことを言ってすみません。忘れてくださ……」 「試してみればいいだろ?」  雨宮の言葉を遮るようにして横澤が言う。なにを突然、とそんな眼差しで見やると、彼はやけに真剣な眼差しだった。 「試……す?」  今キスを試したのに? とそんな顔で横澤を凝視した。 「なにを? とかしらばっくれるなよ? あんたが言ったんだ。男の方が相性がいいかもって。だから試すか? と聞いた。嫌だと思ったら言ってくれていい。途中でやめる自制心くらいあるしな」 「だって、その……横澤さんって……」 「俺は男も女もどっちもいけるよ。でも最近は男ばっかりかな。女はなにかっていうと精神的なもんを求めるだろ? 男は体で発散したいときだってあるしな。あ、俺、風俗は行かねえから」  横澤はなにかを思い出すように上を見上げ、一人で頷いている。そして聞いてもいないようなことまで話し始め、案外おしゃべりな人なんだなと思った。 (あ、バーテンの仕事してるなら、話すのは得意か)  そんなことを考えていると、彼の熱い手が雨宮の足首を力強く掴んできた。条件反射的にびくっとすると、怖がるなよ、とやさしい声で諭される。 「キス、よかったろ?」  股間を押さえている両手の甲を、上からそっと撫でられた。直接触られたわけでもないのに、自分の手の中で陰茎がぴくりと反応する。 「でも、あの……」 「うん、だからな、嫌だったら言いなって、言ってんの」  綺麗で誘惑的な顔が近づいてくる。それだけでさっきのキスを思い出した。横澤の目に見据えられると体が動かない。動かないことで雨宮が了承したものと思った彼が、やんわりと口を塞いできた。 「ん……、んぅ……」  やさしく労るような口づけに、雨宮はゆっくり目を閉じた。男性にされているのに嫌じゃないし、やはり二度目のキスも気持ちがいい。とろとろに蕩かされていくようで、体の力が抜けていく。 (なんで、こんなに気持ちいいんだ?)  くちゅくちゅと部屋に唾液が絡む音が聞こえる。雨宮の手の中で完全に勃起したペニスは、心臓の鼓動と連動するように脈打っていた。 「いい反応すんなぁ。これ、出さねえと辛いだろ?」  彼の指先が雨宮の手の隙間から入ってくる。布越しに触れられると、びくん、と腰が勝手に跳ねた。 「や、やめ……て」  羞恥で全身が熱くなるのが分かった。キスだけなら目を閉じればその感覚に身を委ねることができた。しかしそれ以外はどうしても思い出してしまう。  父に口淫をされ、乱れて腰を振った自分。  その快楽を欲して、自らそう仕向けた自分。  異常だと理解しながら父が亡くなるまで続けて、ようやくその沼から抜け出せたというのに、横澤とキスをしてその快感を味わえば、またアレが雨宮を支配してしまうかもしれない。そうなったらもう、普通には戻れない気がする。  それが怖くて仕方がなかった。 「やめて? 言葉と行動が伴ってないけど、いいのか? ん?」  雄をゆるゆると撫でられて、雨宮の腰がひくついた。この先をどこまで許したらいいのか分からない。理性と感情がせめぎ合い、雨宮は混乱していた。  閉じていた瞼を開くと、雨宮のシャツを捲り上げて腹にキスをする横澤の頭が見えた。自分の股間でペニスを咥えていた父とそれが重なる。  その瞬間なにかが弾けたように、ドクン、と鼓動が大きく跳ねた。 「だめだ……いやだ、やめてっ!」  一瞬で夢から覚めたように我に返り、雨宮は横澤の頭をぐいっと押し返した。彼の体は簡単に離れていってしまい、それがまた切なく感じる。 「あー、やっぱダメか」  彼はそう呟きながら、すっと雨宮の上から体を移動させた。そのまま床に座り込むと、ソファを背もたれにして頭を座面の上へと乗せる。 「残念」  こちらを向き、彼はまるで悪戯を企んでいるような子供の顔で笑う。しかしその目は獲物を狙う猛禽類のようでもあった。 「す、すみません……」 「いいっていいって。普通は無理だからな。でもあんた素質あるよ。っていうか、自分で気づいてないだけで、本当はこっち側の人間なんじゃねーの? もしそういうので困ったら、俺んとこ来なよ。やさしく教えてやっから」  どこまでが本気でどこまでが冗談なのか分からず、雨宮は頷きもせず、ただ楽しそうに笑う横澤を見つめるだけだった。  父に植えつけられたあの快楽を、雨宮は確実に思い出しかけている。  いや、もう体は完全に欲していた。  封印されていた背徳感に満ちた欲望は、雨宮の体の奥に再び澱のように積もり始めていたのだ。

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