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第1話 再会

 白いレースのカーテンが揺らめいている。開け放たれた窓から柔らかな風が吹き込み、俺の頬を、曝け出した素肌の上を撫でるように通り過ぎた。  窓際の、大人になろうとしている途上の少年の横顔に、そしてその向こうに見える暮れていく世界に魅入る。振り返った少年は微笑んで、横たわる俺を見下ろした。  ――天使みたいだな。 「けーくん、また泣いてんじゃん」  目が覚めた。と、同時に聞こえてきた男――アサギ、という名前とSNSのIDしか知らない――の言葉に苛立ち、舌打ちしながら身体を起こす。 「病院行った方がいいんじゃね?」 「……うるっせえ。他人の寝顔見る暇あんならさっさとシャワー浴びとけよ」  煙草の火を消しているのを横目に見ながら、シャワー室に向かい熱い湯を全開で頭からぶっかけ汗でべたつく身体と、纏わりつく臭いを洗い流した。  と、扉が開く音と同時に後ろから抱きつかれぐらりと頭が揺れる。低血圧の俺は苛立ちが最高潮だったが、相手の方が背も身体も大きいので剥ぎ取るのは至難の技だ。 「けーくんまだ体力あるっしょ? あと一回しよーよ、ね?」 「ふざけんな、朝一から予約入ってる……って聞けよ」  アサギの手がもう俺の股間を弄っていて、臨戦態勢のイチモツが腰の辺りに押し付けられている。 「あのな、そのクソでかいやつどっかやれよ。カマ掘られそうで変な汗出るわ」 「あははっ、ごめん。けーくんの裸きれーでエロ過ぎんだもん」  右手で俺の竿を下から上へ、左手で袋を揉みしだき愛撫する。本人の気分とは関係なく勃起したそれを見て、興奮したのかアサギの熱い息が耳に掛かった。  シャワーを止め、身体を離す。場所を入れ替わると、アサギは片手を壁について尻を突き出し、急くようにもう一方の手で孔を拡げて見せた。 「次けーくんに会えるまで、形残るくらい奥まで突っ込んでっ……!」  セフレになって一年くらい経つのだ。相手も俺が煽りに弱いのをよく知っている。舌舐めずりをして、アサギの腰を掴み、ぽっかりと口を開けた搾まりに根本まで杭を突き立てた。 「……おはよーございまーす」  店に入ると、黒髪に柔らかいパーマをかけたミディアムヘア、整えられた髭の強面の男と目が合う。店長だ、と思った瞬間眉間に皺が寄って「おはよう」と言いながら俺の正面に仁王立ち。この人絶対感付くよな、と無理矢理笑顔を作ってみせるが、顔が強張る。 「(けい)君、また朝っぱらからやらしいことしてきたね?」 「……何でそんなの分かるんですか」  奥の部屋で俺の客用のパーマ液を準備していたのだろう、アシスタントの雪菜が笑いを堪えながら道具を載せたワゴンを押して出てくる。 「分かるね。今の相手と付き合い出してから、お楽しみの後は必ず精気搾り取られたって顔してるから」  一時間前の自分にこの言葉を聞かせたら、確実に中折れしただろうなと思いながら、店長が目配せするので、雪菜(ゆきな)に頭を下げた。 「朝一から入ってるのにちょっと遅くなった……すまん」 「良いですよー、別に慧さんが早く来てくれるとはハナから思ってませんでしたし」  スタイリングチェアの横にワゴンを置き、ドレッサーに雑誌を五冊並べると満面の笑みで俺を振り返る。専門学校を卒業したばかりのド新人で入ってきた一年前は何でも俺の指示を仰いでくる可愛い手下って感じだったのに、気がつくとトップスタイリストの俺をこけにするまでに成長を遂げた。 「……仕事はちゃんとやる」 「勿論。ちゃらんぽらんでも腕は確かなんですから」  さらっと凄いことを言って、レジの横のPCをいじり始める。夜の間に入った予約の確認だろう。 「さ、あと二十分くらいで来ちゃうよ。僕も新規客のカット入ったから頑張らないとね」  「はい」と返事をして持っていたクラッチバッグを控え室のロッカーに入れ、道具一式揃った年期の入ったシザーケースを腰から提げてフロアに出る。PCを見つめる雪菜の後ろから今日の予約をもう一度確認すると、午後一に客の予約が増えていた。 「カラーとカットか……って、これ三人で回せるのか? 店長もカラー入ってて雪菜そっちのヘルプだろ?」  一週間前他店と掛け持ちで入ってくれていたアシスタントが急遽辞めたことをすっかり忘れていて、予約サイトに反映し忘れていたのだ。 「慧さん知らないんです? 今日から新人さん入りますよ。それも社員で」 「は?」  店長の方を見ると、今思い出したといわんばかりに目を丸くした後、控え室から紙を取ってきて俺に手渡す。顔写真の貼られた履歴書だ。 「一昨日慧君が早上がりだった時に面接して、その場で決めたんだけど」 「森繁……え?」  顔写真、と名前。交互に何度も確かめるように見てから絶句、混乱を極めた脳内は思考停止。 「おはようございます!」  出入り口から聞こえた大音量の挨拶にびくっと肩を震わせ、恐る恐る顔を向ける。 「森繁君早かったね。十時からで良かったのに」 「いえ、仕事のこと少しでも勉強しておきたくて」  心臓が破裂しそうなほど高鳴り、いっそこのまま止まってしまえばいいのにと願うくらいだ。ようやく塞がりかけていた傷口を抉られて、こんなに胸を締め付けられ、息ができないくらい苦しいなら。  ーーまた、あの日を思い出してしまうなら。  目が合った。そして驚いたように目を見張った後、笑みを浮かべる。 「お前……慧、だろ?」  以前と少しも変わらない無邪気な笑顔に、一瞬息を止められ、涙が滲んだ。  が、次の瞬間には俺は全速力で奥の部屋に駆け込んでいた。閉めたドアの向こうから、雪菜の慌てた声がする。  七年も前だ。生まれた子が小学校に上がるくらいの月日が流れているのだ。七年も、七年も経った、経ったのに。  どうしてまだあの時から少しも先に進めていないのだろう。  目を合わせなければ、顔を見なければ、まるで一ミリも知らない他人のように対応できるかもしれない。……いや、そうしなければ。今日という日を過ごしてはいけない。  仕事だ、これは。何が何でも、プロフェッショナルとしてやり通すのだ。お客様には何の関わりもないのだから。  例え、かつて俺が恋焦がれた末死んでしまいそうなほど憧れた友人が、突然目の前に現れたからといって。  強い決意と共に勢いよく扉を開くと、目の前に立っていた雪菜が飛び退いた。その向こうに呆気に取られている店長と新人店員がさっきと同じ位置で固まっている。 「新人の森繁茂雄(もりしげ しげお)、お前を今日からシゲと呼ぶ!」 「……お、おう、どうした慧――」 「俺は先輩だ、敬語使え! だから俺は慧『さん』だし、雪菜は雪菜『さん』! 分かったらさっさと準備しろ、控え室はそこでロッカーは空いてるところ使ってくれて良いから」  一気に捲し立てると、店内は一瞬で静まり返る。そして俺の方はというと、全くちらりとも森繁茂雄の顔を見ることはできなかった。ただ、視線を向けられていることだけは理解できる。 「……分かりました。準備してきます、慧さん」  と、駆け足で俺の横を通り過ぎる。自分でさん付けで呼べと言っておきながら、まるで知りもしない他人に向けたかのような言い方に胸がちくりと痛んだ。しかし、これが最良だったのだから、仕様がない。  その時カランと店のドアに付いているベルが鳴って、セミロングのブラウンの髪の若い女性が入ってきた。俺の固定客だ。美容師を始めて五年。スイッチの入れ方だけは誰よりも上手い。 「いらっしゃいませ! 竹田さん、一ヶ月振りですね。荷物お預かりしますよ」  笑顔で紺のベロアジャケットと白のショルダーバッグを受け取り、カウンターの奥の棚に札をつけて仕舞う。 「こちらへどうぞ」  さっき雪菜が用意してくれていた席に客を座らせ、髪に触る。毛先が痛んでいるが、それはカットでカバーできるからダメージケアをする必要はないだろう。 「今日はパーマとカットですよね。何か雰囲気変えたい感じですか」  半年ずっと担当してきたが、カラーリングとカットのみだった。大学生と言っていたから、もしかして近々合コンがあるとか好きな人ができたのだろうか。まあ、そういうのを直接的な言葉で聞くのは気に障る人もいるから、遠回しに訊ねる。 「そうなんです! 実は大学のサークルに気になる後輩が入ってきて! 今日新歓コンパだからアピールしなきゃって」  予想は的中。好きな人ができたとか恋人ができたとか、振られたとか別れたとかで髪を切ったり色を変えたりする人は多い。気持ちは痛いほど分かる。俺だって、かつてそうだったから。 「どういう雰囲気とか決めてます?」 「全然分かんなくて、慧さんが似合いそうって思うのにして欲しいです」  「似合う髪型」を求められることはままあることだ。しかし実際俺が似合うと思っても本人が納得しないと意味がないので、一緒に髪型を決めていくのがベスト。ドレッサーに並べられた雑誌の中から今シーズンのヘアスタイルが特集されているカタログを手に取る。 「カットは毛先を整えるくらいで長さは変えない感じですよね」 「はい、できれば長いままで」  セミロングのヘアスタイルのページを開いて、「この中だと竹田さんに似合いそうなのは」といくつか挙げてその中から選んでもらう。が、それでも選べない様子だったので「個人的には」、と服装と化粧の仕方から考えてワンレングスをベースに中間からゆるくパーマをかけたナチュラルスタイルを勧めた。すぐに「じゃあそれで!」とあっさり承諾したので、恐らくそれがいいなと思っていたのだろう。  竹田さんにシャンプー台へ移動して貰う時に、客が慌てて店に駆け込んできた。店長が担当する新規客のようで、道に迷って遅れたことを謝っている。服装は特にお洒落に気を遣っているタイプではない、若い女の子だ。目の端でシゲが雪菜に何か教わっているのが分かったが、素早く意識を客に戻す。  シャンプーした後にベースカット、前処理剤とパーマ液の一剤を塗る。その間中竹田さんは大学生活と例の気になる後輩の話をし続けた。俳優の坂口に似たイケメンで男子校出身だから女の子に免疫が無く、話し掛けると顔を赤らめるのが可愛いのだとか。竹田さんの方は大学に入ってからすぐに彼氏と別れてしまったから、今年こそはと大学二年の春に賭けているらしい。純粋に恋愛をしている彼女が微笑ましく、どうにか成就して欲しいと思う。  パーマ剤を塗っている間に、雪菜がシゲに教えながらデジタルパーマ機の準備していた。できるだけ意識の外にやろうと竹田さんと話し込んでいたので、顔を見ることもなく助かった。  ロッドに髪を巻き付け、機械と一つずつコードで繋いでいく。温度を設定し、十分に壁に引っ掛けてあるタイマーをセットした。ふうと一息吐いたところで、横から見慣れない姿が割って入ってきたのでびくっと肩を震わせる。 「コーヒーと紅茶と烏龍茶、オレンジジュースのどれになさいますか」  きた、と出来るだけ悟られないぐらいの小走りで後ろで控えている雪菜に近づく。 「あれ、俺に近づけるなよ……!」 「は? 意味わかんないんですけど。知り合いなんですか?」 「知り合いというか……まあ……」  歯切れの悪い俺に明らかに苛立っている様子の雪菜は、「そんなの知りませんよ」と一瞥すると店長のカット客が帰った後の床を箒で掃除し始めた。 「アイスティーって、冷蔵庫です?」  気付くと目の前にシゲが立っていた。口から心臓が飛び出すかと思うくらいに驚いて、顔を背けながら「控え室」とだけ声を発することができた。  深呼吸を繰り返し気を落ち着かせようとしていると、カウンターに居た店長が何やら不穏な空気に感付いたらしく、半笑いでやってくる。 「もしかして……過去に何かあった系の、あれですかな」 「……いや、まあ……そんな感じのあれです」  隠し通すのは最早無理だ。だったら、本人のいないところで一回店長と雪菜には話しておいた方がいいのかもしれない。 「慧君のいないところで決めなきゃよかったかねえ。うちの店、恋愛禁止なのに」 「恋愛って、俺は別にシゲちゃんとどうこうする気は――」 「シゲ、ちゃん?」  目が線になるくらいの笑顔で店長が俺の顔を見つめる。こういう時は本気で怒っている時だ。  まずいと思った俺はシゲが紅茶を淹れて竹田さんに出しているのを見届けて、控え室に店長を引っ張り込む。 「だ、だったら、何でまず女性客しか来ないうちの店にノーマル雇ったんですか……!」  お客様及び店員同士の恋愛を一切禁止しているこの店は、かつてある店員がお客様と不倫関係になって夫が乗り込んできたという大変な騒動になったことがある。  それがきっかけで店長――既婚で奥さまと一人息子を溺愛している――の方針が決まり、ゲイである俺が新人でも雇ってもらえることとなった。  その後は先日辞めたバイトの子、雪菜と連続で女の子を採用していて、今後もゲイでなければ女の子なのだろうという感覚で居ただけに、店長の決めたこととは言え納得がいかなかった。 「いやあ……だって、シングルファーザーだって言うから、大丈夫かなって」 「……シングル、ファーザー?」  言葉が一回頭の中に入ってきた後、拒絶反応で吐き出され、一瞬意味を理解したはずなのに、混乱して訳がわからないまま鸚鵡返しする。 「離婚した後、娘さんを一人で育てているんだってよ。手に職付けようって美容師資格取ったんだって。そんな人が恋愛禁止のルール破るとは思えないよ」  そうか、とどこか熱に浮かされていた自分が恥ずかしくなり、そして彼が普通に結婚していたということ、妻がいたということ、その人との間に子供をもうけていたことを一つずつ咀嚼していくうちに冷静になっていって、喉の奥に引っ掛かっていた痼が取れたような気分になる。  もう彼は、かつて俺が恋をしていた「シゲちゃん」ではないのだ。 「それなら、仕方ないです。俺のことは気にしないで大丈夫です。シゲの方もさして思うところもないでしょうから、店には迷惑かけません」  フロアからアラーム音が聞こえてきて、俺は店長に一礼し控え室から出た。竹田さんのデジタルパーマが終わったのだ。 「熱くなかったですか?」 「平気ですー」  笑顔で竹田さんの顔を鏡越しに見ながら聞くと、紅茶を飲みながら彼女の視線がシゲを追っているのに気付く。  そうだろうな、と納得しながら、いつもなら「どうしたんですか」と突っ込むところをスルーしてロッドの一つを取って掛かり具合を確かめた。問題無さそうだったので、全てのロッドを取り外すと機械と道具を雪菜とシゲが奥の部屋に持っていく。 「あの、今の人、新人さんですか」  竹田さんなら迷わず訊くだろうなとは思った。俺は張り付いた笑顔で、「ええ、今日入ったばかりなんですよ」と答える。 「イケメンですね! あっ、慧さんもイケメンですけど、ゲイだからついそういう目では見れないというかなんというか」 「はは、分かります。大丈夫ですよ」  シャンプー台へ誘導するとシゲが「代わります」と声を掛ける。本当は雪菜がやるところなのにと思いながら、俺は次の客の準備を始めているその後ろ姿を睨み付けた。  そこで店長の常連客が店に入ってきて、目の前を店長が笑顔で通過する。仕事だ、ちゃんとしろ、ともう一度心の中で叱咤して、ドレッサーに置かれた竹田さんの飲み終えたカップを片付けたり、次の客の年齢に合わせて雑誌を入れ換えたりした。  シャンプーを終えた竹田さんの髪をドライヤーで乾かしながら、メンテナンスの仕方を一通り教える。最後の仕上げと前髪をカットし、ワックスで軽く形を整えた。 「どうでしょうか」  鏡越しにバックミラーで後ろ側が見えるように映し確認すると、竹田さんが笑顔で「いい感じです」と答え一安心。カウンターでジャケットと鞄を渡し、会計を終えて「新歓コンパ頑張ってくださいね」と出入り口で声を掛けると竹田さんが振り返った。 「慧さんも頑張ってください!」  と、そうガッツポーズをして帰っていった。店のドアのベルがカランカランと軽快な音色を立てている。さて、竹田さんには探偵になったらどうかと今度話をしてみようと思う。  ふとシゲの方を見ると雪菜から色々と説明を受けているようだった。まだ、目が合ったのは最初の一回きりで済んでいる。この調子でやり過ごせば、なんとかやっていけるだろうか。  一息吐いた瞬間、ドアのベルの音と共に常連の安井さんが入ってきて、「いらっしゃいませ」と笑顔のスイッチを入れた。

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