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第6話 シゲちゃん

「おつかれー」 「お疲れさまです」  最後の客が七時で帰ったので、片付けも八時になる前には終わった。雪菜がマネキンでカット練習をして帰るというので、戸締まりを頼んで店を出た。店長は自家用車で自宅へ、俺はそれを見届けてからこっそり持ち出したシゲの履歴書を手に歩き出そうとした、その時だった。 「慧」  恐らく俺の人生において、これほど明瞭に耳に入ってくる声もないだろう。俺は履歴書を鞄に隠して、その声のする方を見た。そこには俺に長きに渡って呪いをかけた男が立っていた。傍らの赤いコートを着た小さな女の子の手を握って。 「仕事じゃないから、慧でいいだろ」  そう言って笑うシゲの顔を見詰めて、捨て去ろうとした想いが、刺さった棘の痛みに耐えかねて声を上げる。 「……うん、シゲちゃん」  呼んではいけなかった。この瞬間にまるで、あの甘く苦い感情が舞い戻ってきたように、心臓がどくんと跳ねた。 「パパ、この人がくまちゃんのパパのけーちゃん?」  シゲによく似た黒髪の、瞳の大きな女の子が俺を指差す。 「ああ、そうだよ」  くまちゃんのパパ、とは何のことなのか一瞬わからなかった。が、女の子の手の中に見覚えのあるあみぐるみを見つけてはっとする。 「これな、桜子のお気に入りなんだ」  薄汚れて、毛玉だらけのくまのあみぐるみを、桜子というらしい女の子が嬉しそうに見せてくる。普通ならとっくに捨てられているはずのものがまだあることに、感動や喜びや疑念が混ざったよく分からない感情が込み上げてきて、言葉を失った。 「晩飯まだだろ? 家すぐ近くだから、一緒に食わねえ?」  全く予想していなかった展開に戸惑っていると、桜子ちゃんが俺の手を握って引っ張る。 「けーちゃんご飯一緒に食べよー。カレーだよー」  人見知りをしない子なんだなあと思いながら、その強引さが可愛く「うん」と笑みを返した。  美容室から十分くらい歩いたところのアパートだった。桜子ちゃんに手を引かれて入ると2DKの二人で生活するには十分な広さの部屋で、まだ引っ越してきたばかりなのか段ボールがあちこちに散乱してる。 「そこに適当に座って」 「手伝うよ」 「じゃあ、飲み物だけ」  食器棚にあったコップと冷蔵庫に入っていた麦茶をソファの前のテーブルに並べる。桜子ちゃんはくまを隣に置いてソファに座り、テレビのアニメチャンネルを点けた。俺を見てこっち、と隣をぽんぽんと叩くので、桜子ちゃんの隣に腰かける。 「カレー出来てすぐ行ったんだけど、タイミング良かったな」  桜子ちゃん用の小さな皿と二つの大皿に盛られたカレーをテーブルに並べ、シゲはフローリングの上にビーズクッション置いてテーブルの角に座った。カレー独特の食欲をそそる良い匂いが漂ってくる。 「いただきまぁす!」  お腹が空いていたのかカレーを勢いよく食べ始める。時間を見るともう八時。子供はもう寝る時間だ。俺と一緒にご飯を食べるために待っていてくれたんだなと、「ご飯遅くなってごめんね」と桜子ちゃんの頭を撫でる。 「いいの、わたし、けーちゃんと食べたかったから」  口の回りにカレーを付けて黒目がちな瞳が見詰める。しっかりした子だなと感心しながら「ありがとね」と笑いかける。 「いただきます」  手料理を食べるのは実家を出て久しくなかった。毎日帰りが遅いので自炊も稀だ。家庭の優しい味に舌鼓を打つ。  ご飯を食べ終わってすぐ、桜子ちゃんが舟を漕ぎだしたので、シゲは慌てて歯磨きだけさせて奥の寝室に寝かせた。父親も大変だ。その間に俺はご馳走になってしまったので、手持ち無沙汰だったのもあり食器を片付けた。 「悪いな。忙しなくて」 「全然いいよ。桜子ちゃん可愛いし」  シゲが冷蔵庫から缶ビールを二本持って俺の隣に腰掛けた。桜子ちゃんのお陰で意識せずに済んでいたが、俺は今シゲと隣り合わせにソファに座っている。缶ビールの蓋を開ける小気味いい音だけが部屋に響いて、心音が早くなるのを感じた。俺は缶ビールを受け取り蓋を開けて少しだけ口に含む。 「先月四歳になったんだ」  四歳、ということは二十一の時の子供か、と下世話にも逆算してしまう。 「よく喋るし、よく笑う。毎日成長してくのが楽しいよ」  桜子ちゃんのことを語るシゲの柔らかな表情を見て、七年前の最中の顔を思い出し顔が熱くなった。棄てるんじゃなかったのか、と数時間前の決意が早速揺らいでいる。 「桜子はさ、母親の顔知らないんだ。顔覚える前に男作って出てったから」  寝室の方に視線を移す。扉の向こうできっと夢を見ている天真爛漫な女の子のことを思う。 「卒業した後しばらくふらふらしてたんだけど、先輩が店始めるからって誘われてホストやってたんだよ。その時の指名客の一人がキャバ嬢やってた桜子の母親。泥酔しててヤッたかどうかも記憶にねえんだけど、起きたらホテルで全裸だったからまあヤッたんだろ」  ホストやっててキャバ嬢とデキ婚とは、まあよくできたクズだな、と若干引いたけどシゲの女癖の悪さは今に始まったものではないので、苦笑いくらいで済む話だ。 「俺達は似た者同士だった。クソみたいな親に捨てられて知らない夫婦の養子になった俺と母親の再婚相手に虐待されて育った女。とにかく誰でもいいから愛してくれって、そういう生き方しかできねえ。だから俺達はダメだったっていう話なんだけどな」  七年前、「好意を向けられるのが嬉しい」と言っていたことを思い出す。実の親から無償の愛を貰えなかった子供は、どうやってその穴を埋めていくのだろうか。きっと、親以外の無償でない愛でも何でも、その穴に放り込んでいくのだ。それがどれほど虚しいことか分かっていても、やめることなどできないのだろう。俺が失恋の果てに代替にしてきた身体の関係だけの相手も似たようなものかもしれない。 「あいつは変わらなかったけど、俺は桜子が生まれて変わった。三人で生きていこうって、ホストもやめてまともに働いたし。ま、それが気に入らなかったみたいで、あいつは店の客と駆け落ち。俺と桜子捨てて、行方知れず。離婚届だけは律儀に郵送されてきて、全く笑えねえわ」  シゲは缶ビールを一気に飲み干すと、缶を片手でぐしゃりと潰した。元妻への未練なのか怒りなのか、俺には分からない。二人の間に何があったのか、断面的な情報では理解できない。それでも、もし無償の愛を求めて伸ばした手を振りほどかれたとしたら、全く痛みを覚えないと言えば、嘘になるだろう。 「……桜子抱えながら考えたんだ。俺はどうやって生きていこうかって」  すると、唐突にふっと息を吐くように笑い、俺の顔を見た。間近で受けた不意の笑顔に、心が揺さぶられる。青春時代の淡い恋心の残滓が、もう一度、と芽吹こうとしているようだった。 「慧の顔が思い浮かんだんだ。それで、あああれは好きだっていう感情だったんだな、って気づいた」  息の根を、今止めてくれ、と思った。神様でも悪魔でも閻魔様でもいいから、もうこのまま終わらせてくれ、と祈った。昔習った百人一首の儀同三司母の下の句が、脳内を駆け巡る。 「お前の友達に言われたよ。店に来たのは偶然じゃねえよな、って」 「えっ……いや、偶然じゃ――」  言いかけた言葉はそれ以上継げなかった。シゲの唇で塞がれてしまったから。しかしそのまま押し倒されそうな勢いに理性が働く。 「……ちょ、ちょっと待て! 桜子ちゃんそこにいるし、意味分かんねえからっ……!」  必死で押し返して身体を離す。シゲはきっと真っ赤になっているのだろう俺の顔を見て噴き出した。 「ははっ、いくらなんでもそこまでしねえって」 「そっ、そういう問題じゃねえじゃん! 何で急に、き、キスすんのっ……!」  百人一首もどこへやら、情報過多で脳内がブルー画面のままフリーズしている。もういっそぶっ壊れてくれ。 「気持ちが高ぶったから?」 「馬鹿か! シゲちゃんほんとは誰でもいいだろ!」  恐らく地雷を踏んだのだ。笑っていたシゲの目が鋭く光り、その視線に釘付けにされて息を呑む。 「誰でも良かったら美容師にもなってねえし、お前の店に来るわけねえだろが。人が頭わりぃのにどんだけ苦労したと思ってんだよ」  思わず顔が強張る。そして、同時に七年間自分の中に溜め込んでいた感情が表に溢れ出した。 「知らねえよそんなことッ! この七年俺がどんな気持ちでいたかなんて知らねえくせに自分のことばっか言ってんじゃねえよ……!」  嬉しいのか辛いのか悲しいのか怒っているのか、頭の中がこんがらがってぐちゃぐちゃになって、今にもどうにかなってしまいそうだ。  馬鹿みたいに七年前のたった一日の出来事に執着して生きてきた。愛情の伴わないセックスを繰り返せば、磨り減って消えていくと思っていた満たされない恋情も、削ぎ落とされ研ぎ澄まされて俺の深い部分に突き刺さった。そして森繁茂雄という男の真似をしているのだと気付いた時には、その楔は俺の一部のようになっていた。  今日一日で、終わらせようと思っていた。咲くことのない花を根から摘み取ってやろうと……それなのに。  シゲが俺を抱き竦める。いつの間にか涙が溢れていた。 「ごめんな」  暖かく力強い腕に抱かれて、恨み言のひとつでも言いたかったのに、喉元まで迫り上がってきた言葉を飲み込む。 「……別にいいよ」  そう言った俺の顔を覗き込むと、シゲは声を上げて笑って俺の頭をくしゃくしゃに撫で回した。 「慧ってほんと嘘つけねえな」 「うるせえばか」  と憎まれ口を叩きながら抱きつく。シゲは笑いながら俺の背中を宥めるように撫でた。 「やっぱ、好きだなあ慧のこと」  耳元で囁かれた甘い言葉に、心臓がどくんと脈打つ。そしてあの日、シゲの言った台詞を思い出した。 「……なんであの時、天使なんて言ったの」  まだ好きだとかそういう感情だったわけじゃない時に、どうしてそんな風に思ったのか、夢に見るほどずっと気になっていた。 「そっか、言ってなかったな」  思い出したように、身体を離すと俺の顔を真っ直ぐに見詰める。 「お前、高一の頃窓側の席だったろ」 「え……そうだったかな」  確か二学期の席替えの時夏場は日差しが暑いからって、窓側の席に追いやられたような気がする。俺は外の見える席が好きだったから別に構わなかったけど。それが一体どうしたんだろう。 「中途半端な時間に登校してさ、あちぃなあって思いながら校舎見上げると、お前がいつも外見てるのが見えたんだよな」  いつも外見てるって、授業聞いて無さすぎだろ俺、と思いながら当時のことを思い出す。その頃もう俺はホモだなんだと言われて「お前は違う」というレッテルを貼られていた。傷付きはしなかったが、気持ちのいいものではない。その頃が一番学校生活が嫌になっていた時期なのかもしれない。 「色白くて、顔も中性的だったし、男だと分かっても綺麗だなあってよく見てたんだぜ」  気付かなかった。今までずっと七年前の文化祭前の仲間との揉め事で俺という人間を認識したのだと思っていたから。  しかしそれが、俺がシゲと強烈な出会いをする前からだったというのは正に寝耳に水だった。 「その頃からずっと天使みたいだなーって思ってたからぽろっと出ただけで、特別なこともねえけど」  いや、それかなりの殺し文句だから止めてくれ、むしろ一思いに殺してくれ、と恥ずかしいのと嬉しいのとで心と身体がお祭り騒ぎだ。これだからモテる男は嫌だ。 「今思うと、もしかしたら、その時から慧のこと好きだったのかもな? 他人に興味のない俺が、セックス以外で興味が湧くっていうのも今考えたら可笑しいし」 「……分かった、もういい……これ以上は死ぬ……」  「天使」だと言った理由なんて聞かなければ良かったと、項垂れる俺の頭にシゲが顎を乗っけて「じゃ、最後に一つだけ」と言う。  「慧の口から、好きって聞きてえな」  そう言われて初めて、俺は一度だってシゲに気持ちを伝えていなかったことに気づいた。  初めから諦めて、身体だけ繋がろうとして、勝手に失恋して、自暴自棄になって、終ぞ気持ちを伝えることもなく終止符を打とうとした。  もし、俺があの日、シゲに想いを打ち明けていたら、この七年の片想いはどうなっていたのだろうか。  ――いや、そうじゃない。過去にしがみついて生きるのは今日で終わりだ。今目の前にあるものに手を伸ばさなければ、一生繋がることはないのだから。 「……シゲちゃんが、好きだ」  俺の顔を両手で挟んで上向かせる。目の前には優しい笑みを浮かべた恋しい人の顔。 「ははっ、また泣いてる!」 「泣いてねえよ……ばぁか……」  目を擦る俺の額に笑いながら口付ける。俺はしばらくシゲの腕に抱かれて、この持て余すほどの幸福感に浸った。積年の想いがようやく花を咲かせたのだから、少しくらい許してくれるだろう。

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