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第5話 偵察隊の来訪

「おはようございます、慧さん」 「……おはよー……」  店の扉の軽快なベルの音が鳴る前から、カウンターにいる男の姿が目に入って気分が一気に落ち込んだ。やはり夢オチではなかったか。  俺の様子に目を光らせている店長に気づいて、丸めていた背中を真っ直ぐに伸ばし「おはよーございますー」とちょっと白々しい笑顔でさっさと奥の部屋に引っ込む。 「慧さん、シゲくんにちょっと意識し過ぎですよ。何があったか知りませんけど、仕事にならないんでほんとやめてください」  様子を見ていた雪菜が釘を刺して去っていく。溜め息を吐きながら、一応年上のシゲに後輩とはいえ「くん」付けする雪菜はかなりハートが強いなと思う。  荷物を置いてシザーケースを腰に提げて、気持ちを切り替える。目の前に居るのは、もう俺の知っているシゲではない。あの時に抱いていた気持ちは泡と消えたのだ。今俺の中にあるのは、消化しきれず吐き出すこともできないでいた残滓に過ぎない。今日一日かけて、整理して、棄てよう。  覚悟を決めてカウンターに向かい客のリストを確かめる。昼にゆうと思われる名前でカラーの予約が入っていた。ちょうどその時間店長の客のパーマと被っている。 「シゲ、今日昼のヘアカラー入ったんだけどヘルプ頼める? 昨日雪菜から大体聞いたと思うけど、分からなかったら聞いて」 「はい、分かりました」  「よろしく」とぽんと腕を叩いて、朝イチの客を迎える準備を始めた。仕事中なら、多少のボディタッチも軽くできることを確認する。  それから昼になるまで、俺は昨日今日会った人間のように振る舞った。顔をがっつり見るのは難しいが、それでも変な空気にはならない程度にやり抜いた、と思う。自分から「仕事にならないからやめて」と言っていたくせに、いちいち雪菜が心配そうに視線を送ってきたのでちょっと笑った。  ドアのベルの音と共に「いらっしゃいませ」と言いながら、出入り口を見ると背の高い金髪碧眼の男とこれみよがしに上から下まで同じブランドで固められた女風のやつが立っていて、思わず眉間に皺が寄る。 「けーくん、来たよー!」  満面の笑みで手を振るゆうに苦笑いを返し、受付に立っているシゲに視線を移した。コートとバッグを受け取り、自分のことをじっと見ている二人に「お席に案内しますね。同伴の方はソファに」と気にする様子もなく丁寧に対応する。 「ね、彼よね? ね?」  遠足気分のゆうに思わず溜め息を溢しながら、小さく頷く。完全に面白がっているとしか思えないのだが、仕事は仕事としてやらなければ。 「カラーは何か決めてる? 痛んでないからトリートメントは任意だけど」  クロスを掛けてゆうの長い髪を触り、ちゃんと手入れのされている艶のある髪だと感心する。首筋から気にならない程度の香水の臭いも広がり、ちゃんと女の子に擬態できている。 「ピンク系にしたいのー何か春っぽい感じで」 「じゃあ……ラベンダーピンクとかどう? 似合うと思うけど」 「良さそう! それでお願いしまぁす」  カラーチャートも写真も見ないで即決とは男らし過ぎると苦笑しながら、カズに茶を出していたらしいシゲに薬剤の指示出しをする。 「しかし二人とも平日昼間にうろうろできるとか仕事何やってんの?」 「言ってなかったっけ? 僕は小説書いてるの。大学の時に新人賞取ってからずっと」  あれ、それって凄くないかと固まる俺に続けざまに、 「カズはゲイビの男優でしょ? ね」  とちょうどこの気まずい単語が出たタイミングで準備が終わったシゲから薬剤を手渡されて凍り付く。 「そうだよー。ハーフって結構需要あって、仕事困らないからいいよ」  笑って答えるカズに、やばいと思って店長と雪菜の方を見ると、顔が明らかに強張っている。カット中のお客さんは興味があるのか雑誌を盾に聞き耳を立てているようだった。 「僕は汀ゆうって名前で書いてるんだぁ」 「俺はKAZ」 「へ、へえ……」  もうどう反応するのが正しいのか分からないから、薬剤を毛先に塗りながらスルーしてしまった。しかし、小説もあまり読まないしゲイビもあまり見ないから実は知らないうちに読んでた見てたということがなくて良かったと思う。これでファンだったりしたらショックがでか過ぎる。 「汀ゆうさん、なんですか? 五年くらい前『遠岸の潮騒』って映画になりましたよね?」  横から急にシゲが話に入ってきて驚く。高校時代小説や映画に興味があったようには見えなかったが、意外とそういうことも知っているのだなと思う。が、多分これは女と映画を観に行ったパターンだと気づいて感心しそうになった自分に危ない危ないと落ち着かせる。 「あれねー! 映画のお陰で百万部も売れたんだよー。主人公を佐々木さんがやってくれて嬉しかったー」  俺を差し置いて話を始めたので、ちょっと集中して施術を進める。  よくよく考えると百万部とは大ベストセラーなのではないだろうか。ただの女装趣味のブランド好きな男、ではなかったのだ。さらにカズが出ているゲイビを見たことはないよなと脳内で記憶を手繰り寄せる。こんなところで暴露されるとは思いもよらなかった。  薬剤を全体に塗り、ラップを巻いて一定時間放置。シゲに飲み物を出させて、俺は奥の部屋で一休みすることにした。 「慧君、あの人たちすごいね……友達?」  カットの客が帰ったのだろう。店長も休憩にスタッフルームに入ってきた。 「そうですね」 「今あの三人で何か話してるけど……シゲ君も知り合い?」 「いや、そんなことはないですよ。シゲは高校の時なので」  探りを入れるなどとカズが言っていたが、何を話しているのだろうか。割って入っていくと面倒なことになりそうだから、時間が来るまでは放っておこう。シゲと業務以上の会話をしたいわけじゃないし。 「無理しなくていいけど、シゲ君とのことで話したいことがあったら何でも相談して」 「……ありがとうございます」  店長も雪菜も、ゆうもカズも、皆俺のことを心配してくれている。今日はあと半分。この溜まった廃棄物を片付けなければ。  タイマーが鳴ってフロアに戻り、ラップを外してゆうをシャンプー台へ誘導する。薬剤を洗い流しシャンプーした後、ゆうの希望でトリートメントをした。  ドレッサーの前に戻った時に何やらカズとシゲが話をしていたようだったが、気にせずにドライヤーで髪を乾かす。色が綺麗に出ていて、華やかな印象に変わっていた。 「どうかな?」 「わあい、きれーな色! ありがとぉ」  鏡を見ながら嬉しそうにしているので、こっちも気分がいい。美容師になってからの一番の喜びは、お客さんの顔が入ってきた時よりも明るくなっているのを見ることだから。 「じゃあ、また今度ねー!」  荷物を受け取り、支払いを済ませて二人で出ていった。特に俺に調査結果を教えてくれたりはしないんだなと拍子抜けする。まあ調査対象が真後ろに控えている状況で何も言えやしないだろうが。  と、振り返るとシゲが真剣な眼差しを俺に向けていて、不意にどきりとしてしまう。どうしたらいいかわからず、その横を通り過ぎようとした時だ。 「明日定休日ですよね」  普通の何ということはない質問のはずだが、つい身構えていたせいか反応が遅れる。 「……そうだけど、何かある?」 「いえ、確認しただけです」  そう平淡な言い方で返すとカラーリングに使った道具の後片付けを始めた。休みの話くらい店長がしたと思うのだが。不思議に思いつつ、いつのタイミングで昼食を取れるかスケジュールを確認した。

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