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もがき苦しむ男3
手首に残った痣はここ数年の生活でできたもので、決してエドウィンが手錠を外し忘れていたせいではないのだが、痛々しいものを見るような、申し訳なさそうな目をしていたことを思い出す。
突然解放された両手は羽が付いたように軽い。カーライルに促されるままにシャワーを浴び始めたのだが、握力が戻っていないのか、蛇口でさえうまく回せずに立ち往生した。
四苦八苦しながらなんとか汚れを洗い落とし、バスルームを出ると、やたらと上等な衣服が置かれていた。間に合わせのものらしく、サイズが合っていない。
これはエドウィン用の服ではないかと疑いながら着ると、眠気を誘うような高級感漂う仄かな香りがした。
それがエドウィンと同じ匂いだと思った瞬間、咄嗟に脱いだ。
「着替えた?サイズ確かめたいってカーライルが……」
ノックと同時にそんなことを言いながら、エドウィンが脱衣所を覗いてきて、ぱちりと眼が合う。
「………」
「………」
そして見つめ合うこと数秒、エドウィンはみるみるうちに赤面していき、脱衣所の扉を壊さん限りの勢いで閉めた。
同じ男の体だろうにと呆れながら自分の体を見下ろすと、股間に何も身に着けていないことに気が付いた。
それにしても生娘ではあるまいしと、何度目かの同じ感想を抱いて着替えた。
ようやくまともな格好をして脱衣所を出ると、顔を覆って呻いているエドウィンと、その横で何とも言えない顔をして立っているカーライルがいた。
「エドウィン様」
「何」
「エドウィン様」
「だからなに。僕は今、クールダウン中なんだって言って……」
顔を上げたエドウィンが、カーライルの向こうに立つルエルに気が付いた。そしてぽかんと口を開けた間抜け面を晒して、そのまま先ほどのリプレイのように数秒固まった。
「ルエル様、サイズはど……」
エドウィンを置いてカーライルが近づいて来た時だった。それを押しのけるようにして、エドウィンがルエルの目の前に立ち、言い放った。
「サイズなんてどうでもいい!絶対これだ!いっそ僕のおさがりを全部……」
最後まで言い終える前に、カーライルが大きく咳払いをして遮った。よく分からないが、何かエドウィンのスイッチが入ってしまったらしい。それも危険な類の。
「エドウィン様、この件に関しては私にお任せください」
「えっ、いやいや、ここは僕が……」
「エドウィン様」
カーライルが鋭い眼光をエドウィンに向け、きつく言い聞かせると、弱々しくはいと返事をして引き下がった。
「ルエル様、ちょっと採寸するので失礼します」
カーライルに大人しく計らせていると、エドウィンはうろうろと落ち着きなく部屋を行き来して言った。
「何もないな。この部屋。ルエル、欲しいものがあれば遠慮せず言ってね」
実際何も思い付かないのもあり、無言を貫いていると、エドウィンはそうだと手を打ってカーライルに言った。
「あれはもう準備してある?」
「はい。ですから先ほどお渡ししましたよ。ルエル様、採寸終わりましたのでもう動いて大丈夫です」
カーライルがルエルから離れると、エドウィンはテーブルに置かれた箱を持ち上げた。
「ルエル、これを君に。屋敷に籠っていれば不要かもしれないけど」
箱を開けると、血のように赤い携帯電話が入っていた。普通は男にこんな色をと思うところだろうが、ルエルの目の色を意識されたようなそれを一目で気に入った。
しかしルエルの表情から何も読み取れなかったのか、エドウィンは慌てたようにもう一つの箱を取り出した。
「やっぱり赤い携帯は女みたいで嫌だよね。黒いやつも用意しているから、好きな方を」
エドウィンが赤い方を仕舞おうとしたので、ルエルはひったくるようにそれを奪い取った。自分でもその行動に驚いたのだが、エドウィンやカーライルでさえも目を見張った。
取り繕うように咳払いをするべきかと思っていると、エドウィンが満面の笑みを浮かべてルエルの頭に手を乗せた。そのまま子どもにするように頭を撫でたかと思うと、はっと我に返った様子でわざとらしく時計を見て、慌てた声を出した。
「しまった。早く朝食を食べないと間に合わないよね」
「いえ、今日の予定は昼からで……」
「間に合わないんだよね、カーライル」
無言の圧力を受けた執事は察した様子で頷き、ルエルとエドウィンをダイニングルームへ案内するべく先導して歩き出した。
その際、携帯電話を取り出してアドレス帳を見ると、すでにエドウィンとカーライルの登録が済ませてあった。使用する機会が訪れるかどうかはともかく、この色を選んだエドウィンのセンスは素直に称賛した。心の中で、ひっそりと。
朝食を終えると、エドウィンは溜まった仕事を思い出したと言って部屋に引き上げていった。
屋敷の案内はカーライルに任せていたようで、ルエルが席を立つ頃合いを見計らって声を掛けられる。その後について屋敷を回っていくと、どうやらエドウィンは芸術に関心があるようで、あらゆる楽器を並べられた部屋や、巨大なキャンバスをいくつも置かれた部屋があった。
多種多様な絵がある中でも目に付いたのが、美しい景色でもなく、肖像画でもなく、暗闇で一人の男がもがき苦しみ、自分の背中にある漆黒の翼をへし折ろうとしている絵だった。これは悪魔を描いているのだろうと思うが、それにしては姿かたちはただの人間のように見える。
男は絵の中で生きていて、今にも飛び出してきて心臓を狙ってくるのではないか。そんな空想が浮かんで、知らぬ間に冷や汗を浮かべていた。
「その絵は、あるお方が描いたものです」
隣に立って同じように絵を見ていたカーライルが言った。説明を求めて顔を見るが、それが誰のことかは言うつもりがないようだ。
ただ、部屋を出る時にぽつりと、
「悪魔というのは、最も悲しい人間の姿なのかもしれませんね」
という、謎めいた言葉だけを残して。
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