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1:首の話[前編]
きっかけはくだらないことだった。
高校を卒業して五か月経った頃、三年間付き合った彼女に振られた。理由は、高卒で働き始めた僕に未来を感じないから、だそうだ。
『働いてるのは偉いと思うけど、司って未来がないよね。私、そういうのちょっと無理かな』
彼女は嘲るように吐き捨てて僕を切り捨て、高校で女子に人気だったサッカー部のエースである高橋と付き合い始めた。なんでも、高橋は彼女のことをずっと好きだったらしい。
『高橋君、どこに進学したと思う? ××大学の医学部だって。しかも高校卒業したら一人暮らししてるし、大人って感じで、偉いよね』とか何とかほざいた彼女は、それきり僕を着拒した。
幾ら連絡しても繋がらず、後日共通の友人からストーカーめいた真似はやめろ、などと言われてしまった。浮気して僕を捨てたのは彼女なのに、気づけば何故か悪いのは僕ということになっていた。
別れた女にしつこく付きまとう高卒フリーター。同級生の間では、僕はそういう評価になってしまっていた。相手が高橋だったのも良くなかった。サッカー部のエースで現役医学生のイケメンなんて絶対に勝てない。事実が捻じ曲げられた今、十人が十人、高橋と彼女の肩を持つだろう。
そもそも告白してきたのは向こうの方なのにどうして僕が振られなければならないんだ。僕が「初恋のお姉さんが忘れられなくて……」と零した時に「綾音の方が何倍も司くんのこと好きになれるよ!」と縋り付いてきた彼女はどこに消えたんだ。幻覚だったのだろうか。ああ、こんなことなら、一生初恋のお姉さんを思い続けて死ぬまで一人でいればよかった。
三年間の信頼もクソもない終わり方、終わらせ方をされた僕が腐るのは必然だった。我慢がならなかった。三年間付き合ったくせにあっさり僕を捨てた彼女にも、何から何まで親の金で揃えてるくせに自立してますみたいな顔した高橋にも。
何が未来だ。何が医学部だ。何が一人暮らしだ。
全部親に面倒見て貰ってする一人暮らしのどこが偉いんだ。そんなん僕にだって出来る。余裕だ余裕。
情けなさと悔しさから鼻を啜りながらアパートを借り、当てつけのように一人暮らしを始めた。両親は元より僕に興味がなく、一人暮らしをしたいと申し出ても反対も賛成もしなかった。好きにしなさい、と言って終わりだ。
別に一人暮らしをしたことで彼女が戻ってくるだなんて思っちゃいない。言わば、吹っ切れるための一人旅のようなものだ。あんなものを人生最大の恋だと信じようとしていた僕に別れを告げるための儀式。そういうことである。
実家から電車で一時間。『対岸 町』という名のこの街は、都会というには今ひとつ足りない凡庸な街だが、適当に決めた割には案外居心地は良かった。
古く寂れたアパートは、医学部で小綺麗なマンションに住んでいる高橋と比べると悲しいくらいに倹しい住まいだったが、それでも一人暮らしは一人暮らしだ。さほど貯めていた訳でもない貯金は殆ど使い果たしてしまったが、バイトを幾つか掛け持ちすれば問題ない。
外観こそ古いが内装はそこまででも無いし、立地も良かった。駅から十五分だ。近所にはスーパーと家電量販店とデパートがあって、欲しいものは大抵揃う。中々に良い場所で、順調にいけば彼女のことも高橋のことも忘れて平穏に暮らしていけそうだった。
そう。
暮らしていける予定、だった。
「××××××!! ××!? ××××××!!」
「えっ、ええ、ちょっ、何言ってんのか分かんないんですけどッ!?」
平穏な生活で傷心を癒やすつもりだった僕は今、早口で聞きなれない罵声をまくしたてる外国人に胸倉を掴まれ、路地裏の壁に押し付けられている。
怒声を上げる男の後ろには、仲間らしき男が三人ほど、嫌な笑みを浮かべながら立っていた。
耳が痛い程の怒鳴り声だと言うのに誰一人として入ってくることはない。逆か。耳が痛い程怒鳴っているやつがいたら、そりゃあこんな場所は避けるか。
僕の胸倉を掴む外国人の男の右手には、画面の割れたスマートフォンが握られている。
先程、僕とぶつかったこの男が落とした物だ。彼はそのせいで酷くご立腹で、僕の右頬は腫れているし、このままだときっと左頬も腫れることになってしまう。
軽く肩がぶつかって落ちただけでこんなに割れるだなんて思えないので、元から割れていたに違いないが、今の僕にはそれを指摘する余裕も力も無かった。
夕飯の買い出しに行った帰りに、とんだ災難に見舞われてしまった。新生活頑張るぞ!なんて僕の意気込みは、落ちた袋から食み出た長葱と同じく踏みつぶされている。
「×××××!! ×××××、×××××××!!」
「はいっ!? す、すみませんすみません! 僕が悪かったんで放して下さ……!!」
言葉は分からないが適当に謝って何とか許してもらおう。涙目で必死に愛想笑いを浮かべていた僕の左頬に、先ほど喰らったのと同じ衝撃がやってきた。
一瞬何が起こったのか分からなくなって頭が混乱し、痛みで生理的な涙が零れる。ひゅ、と鳴った喉からはもう、言葉らしいものは出てくる気配もなかった。
なんで僕がこんな目に。それもこれも、全部彼女のせいだ。彼女と別れなきゃこんなことにならなかった。いや、そもそも彼女と付き合わなきゃこんなことになってなかった。畜生。
何が『司は将来子供何人欲しい~?』だ。何が『結婚したら海が見えるマンションに住みたいな~』だ、ふざけやがって。
なーにが、『綾音は子供が三人は欲しいから、フリーターじゃ絶対無理だし』だ、ほんとに、ふざけやがって!
くらくらする頭で元彼女を罵倒する。現実逃避だ。喧嘩なんてドラマか漫画の中で見たことしかない僕には、この状況をどうすればいいのか見当もつかない。無様に抵抗したとしても、このままボコボコに殴られて、財布から金を取られるのが関の山だろう。
新生活一週間目にして既に帰りたい。
呆れかえった母さんの顔を思い浮かべ、情けない息子でごめん、と縋るような謝罪を胸中で呟く。
歯を食いしばり次なる衝撃に耐える準備をしていた僕はしかし、次の瞬間眼前に振り降ろされた足に、間の抜けた顔を晒すこととなった。
「×××ッ!?」
僕の胸倉を掴んでいた男の腕が、振り降ろされた足に当たって嫌な音を立てて折れ曲がった。黒いデニムの足を視認して、けれどもその意味が理解できずに固まる。
男の手は胸倉を掴んだままなものだから、必然僕の襟も引かれ、変に体勢を崩しかける。だが、倒れ込むより先に、黒い手袋が僕の顔面を掴んで壁に押し付け直した。塞がれた視界にいっそう訳が分からなくなる。打撲音が響く。あと、ざわめく男たちの声。
は? え? いや、なんだ? 何が起きているんだ?
たらりと首筋を伝う汗の感触に気味の悪さを覚えながら、響き渡る叫び声を唇を噛みながら聞き流す。最初は確かに怒声だったのに、途中から明らかに聞くに堪えない悲鳴になり始めている。
僕の本能が、『これは恐らく、“助かった”って状況ではないな』と察していた。危機が一つ去り、また新たな危機が訪れた予感。
五分後。悲鳴の一つも聞こえなくなり、辺りに掠れた呼吸音が響くのみになった頃合いで視界を覆っていた黒手袋が離れた。
押さえつけられていたことでぼやけていた視界を瞬きでなんとか鮮明にし、目の前に立つ何者かを見やった僕は、五分前の予感が間違ってないことを瞬時に察した。
目の前に、僕より頭一つ分高い男が立っている。
耳当て付きの黒いニット帽に、同色のマフラー。厚手のコートと黒手袋、ごついブーツ。鼻先までを覆い隠す癖の強い黒髪。
どこからどう見ても不審者だった。極めつけにもう一つ。
今は八月だ。
「…………」
完全に、完璧に、どこからどう見ても不審者だった。心臓が嫌な音を立てて騒いでいる。
真夏に全身真っ黒で冬装備の男。駄目だ、僕の理解の範疇を超えている。暑さ以外の理由から、汗を掻いてしまう。
更に不気味なことに、この男、僕より五倍は着込んでいるくせに、汗一つ掻いていないのだ。
ああ、駄目だこれ。なんか、とても良くないものだ。今すぐにこの場から逃げなければならない、そういうタイプの存在だ。
だがしかし、この男がたった今、僕を助けてくれたことも事実なわけで。助けてくれた人にお礼を言わないで立ち去るなんて真似は出来ない。たとえそれがどんなに不審な男だったとしても。
「……あの、」
意を決して口を開いた僕に、男は無言のまま微かに首を傾けた。常に口角が上がっている、そんな印象を受ける唇が僕の目の前で傾く。
「ええと、助けて下さってありがとうございました。その、では、あの、僕はこの辺で!」
金でのお礼はしたくとも出来ない。しがないフリーターの僕には家賃と光熱費と通信費を払ったらさもしい食費しか残らないのだ。
身を屈め、逃げるように長身の脇をすり抜けようとした僕の腕を、黒手袋が掴んだ。ひ、と喉が鳴る。正直に言って、言葉の通じない外国人に絡まれるより何倍も恐ろしかった。
今日は厄日なのかもしれない。家から出なきゃよかった、と心の底から自分の行動を恨み始めた僕の耳に、能天気な、それでいてどこか薄ら寒い声が届いた。
「けーちゃんさあ、このピンチを助けてもらってお礼だけで済まそうってのはどうかと思うよ?」
「……は、い?」
言葉の意味より何より先に、けーちゃん、と言う聞きなれない愛称に首を傾げてしまう。
けーちゃん。僕のことだろうか。僕の名前は櫛宮司で、けーちゃんのけの字も入ってないんだが。
「あの、誰かと勘違いしてます?」
「勘違い? いやいや、だってホラ、黒縁の眼鏡に茶髪で、白いTシャツとチノパンでしょ。合ってる合ってる、どこからどう見ても俺のラッキーアイテム」
「……ラッキーアイテム?」
指さし確認で僕の頭の先から足のつま先まで、特徴を挙げていった彼は、元より上がっている口角を更に上げて、ご機嫌に笑った。
「ケツの毛まで毟られる羽目にならなくて良かったな? さて、けーちゃん、お礼は身体で払ってもらおうか」
獲物を前にした肉食獣めいた、低い笑い声を聞きながら、僕は逃げられないことだけを理解した。
スーパーから歩いてニ十分、とある十階建てのビルの四階へ僕を連れ込んだ男は、前条 昂 と名乗った。
前条昂。二十六歳。職業、『超常現象カウンセラー』。は? 超常現象カウンセラー? なんだそりゃ胡散臭い。聞いた瞬間に腰を上げかけた僕の肩を、黒手袋が強く押さえつけた。
「まあまあ、不審に思うのは分かるけどとりあえず話を聞けよ」
「はあ、ええと、不審なのは確かなんですけど、僕が席を立ちたいのは不審だけが理由じゃないと言いますか」
「いや~、どうも最近羽振りが悪くてね。知り合いの占い師を頼ったら、『八月二十日の午後六時ニ十五分にスーパー玉木の横の路地裏で茶髪に黒縁メガネをかけた白いシャツでチノパンの男を拾え』と言われたもんで」
「勝手に話を続けないでください」
「そんで実際に行ってみたらどうよ、聞いた話そのまんまの君がいたと言う訳だ。しかも質の悪いチンピラに絡まれてると来た、俺のラッキーアイテムになんちゅうことしてくれてんだ、と助けたんだけども、君、一応人間なわけだし、俺の事務所に置くなら許可貰わなきゃならないだろ?」
「一応じゃなく人間です。あの、その話自体もアレなんですけど、とりあえず外に出ても、」
「だからさあ、けーちゃん俺に雇われてくんない?」
「外に出ても良いですか」
この、室温四十度はありそうな部屋から出ても良いですか。
下手したら外よりも暑いだろう部屋で、だらだらと汗を垂らしながら脱水症状手前の這うような声で言った僕に、前条さんはきょとん、と首を傾げた。
『きょとん』じゃねえよ、『きょとん』じゃ。なんだこのクソ暑い部屋は。そして何故アンタはこのクソ暑い部屋で相も変わらず汗一つ掻いてないんだ、コートどころか帽子すら外してないって言うのに。
部屋の暑さと前条さんの薄気味悪さで気分が悪い。このままじゃ本当にぶっ倒れそうだ。
「別に、良いけど。逃げたら困ったことになるから逃げないでよ」
「初対面の人間に真夏の我慢大会させられる以上の困ったことってなんでしょうね」
苛立ち任せに吐き捨てた僕に、前条さんは何やらご機嫌に口笛を吹きながら僕を事務所の外へと連れ出した。
暖房地獄から解放され、ようやく沈み始めた夕日を眺めながら大きく深呼吸する。外は外で暑かったが、それでも夕方ということもあり、人工的な暑さよりは大分マシだった。
掴んだシャツで汗を拭いながら、僕の後ろに立つ前条さんからどうやって逃げようか考える。どう考えたって頭のおかしい人だ。真夏に暖房をガンガンに利かせた部屋で全身着込んだ男に『ラッキーアイテムだから雇っていい?』と言われる。頭がおかしくなりそうだ。
「寒いねえ」
……頭がおかしくなりそうだ。
水が欲しい、と思いながら唾を飲んだ僕の後ろで、心底凍えたように呟かれたそれに、反射的に振り返っていた。耳のすぐ後ろで虫の羽音がしたような、そういう、嫌悪感と恐怖を呼び起こす声だった。
「…………なんですって?」
「寒いねって」
「………………」
「はいはい逃げない」
わき目も振らず階段を降りようと走り出した僕の肩を、前条さんは滑らかな動作で掴んで引き寄せた。逃げたら困ったことになる。先ほど言われた台詞が脳裏を過るが、この状況以上に困ったことなんてあるだろうか? いや無い。
「はっ、放してください! 帰ります!! 帰らせてください!!」
「待てって。まだ契約内容の話をしてないだろ?」
「そもそも雇われるとも言ってませんが!?」
何を勝手に雇用契約を結ぼうとしているんだ。法律ってもんを知らないのか。そもそも、こいつに法律などという、その、常識的なものが通じるのだろうか。不安になって来た。
首だけで振り向いて怒鳴ると、からからと楽しそうな笑い声が響いた。両肩を掴んだ手のひらに力が込められ、ぐい、と後ろに引かれる。
「日給二万でどうだろう」
「………………」
絶句した僕に、前条さんは血色の悪い唇の端をにんまりと持ち上げた。
僕は自分のことを、それなりに馬鹿ではない人間だと思って生きてきた。
高校の成績は中の上で、ごく当たり前の真面目さとごく当たり前の不真面目さを持ち、人生の目標は持ち合わせず、目的が無く勉強にも向いていないので早々に働くことを決めた。端から見れば馬鹿と呼ばれてもおかしくないのだろうが、僕という人間の生き方としては割合賢い選択なんじゃないかとすら思っていた。
幼い頃、具体的に言えば十歳くらいの頃までは両親にも期待されていた記憶がある。妹が生まれた辺りから様子が変わり、誰も僕に期待をしなくなった。出来の良い妹と、ごく平凡な兄。期待を向けられる妹に比べ、何処となく余所余所しい態度を取られることも増えた。
家でもそうだし、学校でもそうだ。僕は思春期を迎えた辺りから、誰かから期待されることが殆どなくなった。何の取り柄もなく影が薄いものだから、教師からも周囲の人間からも覚えが悪く、挙げ句仕事の面接でも落とされることが多い。
僕は出来の良い人間では無いが、それならそれで、別に構わない。期待されないなりの生き方を選べる程度には馬鹿ではなかった。
けれども、それでも、そうやって諦めていたくせに、彼女──綾音に惹かれたのは、彼女だけは僕にまだ何かしろの期待をしていたからかもしれない。
諦めたふりをしていても、自分がまだ期待される人間なのだと思いたかったのだ。
『どこそこに連れて行ってほしい』だとか、『恋人らしくこういうことがしたい』だとか、『結婚したらどうこう』だとか、彼女はそういうことを僕に期待してくれた。まあ、結局それは僕自身への期待というより、彼女が求める理想への期待だった訳だけれど。
綾音がそういう女だと見抜けなかったのは少し馬鹿だったかもしれない。けれどそれはまだ許容範囲内の馬鹿だろう。
なんたって今の僕は、完全に許容範囲外の馬鹿をやらかしている。
具体的には、この、真夏に全身黒ずくめの、見ているだけで暑苦しい不気味な男が差し出した契約書にサインをしてしまった。
契約書自体はよく読み込んだからセーフ、とか、そういう問題じゃない。そういう問題じゃないぞ、十秒前の僕。
サインをしてしまって、それを手早く奪われ、どうにも出来なくなってしまってから、何とも嫌な汗を掻く。
冷静な判断が全くできていなかった。日給二万円の魔力が強すぎる。貯金を切り崩し、日雇いのバイトと合わせて何とかしていたが、面接で落とされる事の多い僕が得られる金銭は多くは無い。やけくそとは言え自分で決めて始めた一人暮らしだ、何としても維持したいが為に、どうしても金が必要だった。
「はい、じゃあこれでけーちゃんは俺の物ということで」
「……妙な言い方しないでください、寒気がするんで。あと僕の名前は櫛宮司です。けーちゃん要素はゼロです」
「え? 温度上げる? これ以上上がるかなあ」
「やめろ馬鹿野郎!」
クソ暑い事務所に戻ってきて数分。水を貰ったものの既に限界が近い僕の嫌味を、本気で受け取ったらしい手がリモコンに伸ばされる。慌てて叩き落した。
絡んでくる外国人には暴力が振るえないのに、このどこからどう見ても怪しい男には気軽に手が出せてしまうのは何故なんだろう。多分効きすぎた暖房のせいだ。
何もかもが効きすぎた暖房のせいだ。こいつが僕から冷静な判断力をことごとく奪っていく。汗で服と髪が貼りついて気持ち悪い。
「あの、前条さん」
「うん?」
「この暑さどうにかなりませんか。僕、ここで働くのかなりキツいんですけど」
週五の日給二万。一日八時間、と書かれていたのは読んだが、その不味さを理解したのは今だった。畜生、やっぱり頭が働いていない。今からでも断れないだろうか。
用意された水を飲み干すが、この室温では最早とっくに温くなってしまっている。人が死ぬ暑さじゃないのかこれは。
百歩譲ってラッキーアイテムとして働くのは良い、いや全然よくないんだけど別にいい。ただ、職場の環境改善だけは求めておきたかった。
「キツい? 無理そう?」
「無理です」
「ああ、そう。まあ、けーちゃんがそういうなら、多少は我慢するけども……あんまり下げると俺、寒くて泣いちゃうから程々で許してね」
ひらりと手を振り、本心から許しを乞う声音で言った前条さんは、リモコンを手に取ると悩むように唸りながらぽちぽちと温度を下げ始めた。
ガンガンに暖気を吐き出しているストーブにも歩いていき、設定温度を変える。戻って来た彼が置いたリモコンの画面には二十八度と表示されていた。
その設定温度でこの暑さに勝てるとは思えなかった。正直、もう十度くらい下げてほしい。口に出すより早く、前条さんがこれ見よがしにマフラーを巻き直したので諦めた。
代わりに、ずっと喉元で止めておいた台詞を吐き出す。
「……なんなんですかアンタ、頭がおかしいんですか?」
「身体がおかしいんだよ、見りゃ分かんだろ?」
自分の格好を見せつけるように両手を広げた前条さんの声音は、どこか自虐的にも聞こえた。今日聞いた中では一番感情が滲み出ている気がするそれに、僕はなんとなく気まずさを覚えて口を閉じる。
しばらく無言で見つめることしか出来なくなった僕の前で、前条さんは軽く首を傾げて苦笑し、そっと対面のソファから立ち上がった。
身構える僕の前に、屈み込んだ前条さんの首元が晒される。喉仏の位置まであるコートの襟を開けた彼は僕の手首を掴むと、その首筋に僕の手を押し付けた。
「残念ながらこんな身体なもので、寒くて仕方がない」
言葉の意味を理解するのに、僕は五秒を要した。
誰かの首筋に脈を取るという意味で触れることに慣れていなかった、というのもあるし、彼の首があんまりにも冷たいのでそっちに気を取られた、というのもあるし、何より、脈が無いのに動いている人間を見るのは初めてだったからでもある。
「……寒そうだね、温度上げる?」
青ざめた僕を気遣う前条さんの馬鹿みたいな問いに、僕は答えることが出来なかった。
2
住宅街の真ん中にあるサーカステントについて、この街の人間は殆ど疑問を抱かない。
関東の某県の片隅に位置する対岸町。都会、というには今ひとつ足りない凡庸な街の中心には、古ぼけたサーカステントが張られている。
何の為に存在しているのかも分からず、誰の所有物かも分からないのに放置され続けているサーカスのテント。
赤と黄色のストライプ柄で出来た馬鹿でかいテントは穴だらけで不気味極まりなく、至って普通の街並みの中では酷く浮いているのだが、この街に住み慣れるほど住人の中での違和感は薄くなり、単なるオブジェの一つとして捉えるようになっているようだった。
そんな住民性だからだろうか、夏場に全身黒ずくめのコート野郎が歩いていても気にされないのは。
けたたましく鳴く蝉の声を聞きながら、直射日光で焼けたアスファルトの上を前条さんと歩く。こんな不審者極まりない人と歩いているなんて、人に見られたら胃が痛くなってしまう。そう思っていたのだが、僕の予想に反して街の人の目はそこまで刺さってこなかった。
ちょっと変わった格好の人ね、くらいの目を、時折すれ違う人が向けてくるだけだ。もしかしたら既にこの人はこの街の名物か何かなのかもしれない。僕の地元にも居たな、三百六十五日真っ赤な傘を差してるお婆ちゃんとか、常に電信柱の陰に立っている男とか、そういうの。
ん? 待てよ、そうなるとやっぱり隣を歩くのはやめた方がいいだろうか。ちょっと歩く速度を遅めた。
「けーちゃん、俺のとこ以外にもバイトしてるんだっけ?」
「今はコンビニと、たまに日雇いで見つけてる位です。もう少し慣れてきたら、貯金が無くなる前に増やそうとは思ってたんですけど……見つかったんで、まあ、これ以上増やすつもりはないですね」
「コンビニもやめちゃえば? 俺のとこだけで充分生活できるでしょ」
「アンタの金だけで生きていくのが嫌なので嫌です。なんでシフト相談させてください」
「いいよお。ラッキーアイテムは大事にしないとな」
雇い主に対する態度とは思えない物言いに、けれども前条さんは特に気にすることもなく楽しげに頷いた。
まるでスキップでもしそうな足取りで、僕の五歩ほど前を歩いている。スーパーから、前条さんの持つ事務所までの道のりを。
スーパーからニ十分。対岸駅までは十分の位置にある、古びた十階建てのビルの四階が、彼の、ちょっと口に出すのが恥ずかしい名前の事務所だ。
『前条異能相談事務所』。やばい、恥ずかしい。こんなところで働き始めた、と彼女が知ったら一瞬で元3-Aのトークグループで拡散されてしまうだろう。そして高橋と一緒に笑いものにされるんだ。死にたい気分だ。
後悔と羞恥で唇を噛み、力を抜く時に呪文を唱える。日給二万、日給二万。すごい呪文だ、心が落ち着いた。
「何か食べたいものありますか」
「あったかいものならなんでもいい」
事務所のキッチンで、冷蔵庫に食材をしまいながら聞いた僕に、前条さんはげんなりするようなことを宣った。
体感にして四十度の部屋であったかいものを作る。げんなりしない方がおかしい。まあ、仮に冷たいものを作るとしても、調理と言うだけで暑い思いはするのだけれど。
冷蔵庫から出る冷気で火照った顔を冷ましつつ、材料を確かめる。よし、しょうがない。肉うどんにしよう。僕は肉せいろだ。それが妥協案だ。
脈も体温も心臓もない、人間かどうかも怪しい存在である前条さんは、それでも一応、食事は取らなければいけないようだった。自分で料理もするらしく、調理器具はどれもそこそこ使い込まれている。天ぷらをしても少しも暑くないので、その点は便利だ、なんて言っていた。
本当は、このクソ暑い部屋で火を使うなどというクソ暑い作業は前条さんに任せてしまいたい。彼も、『食事の用意は業務に入ってないし、やんなくてもいいよ』と言われた。だが、僕はその業務内容故に、せめて料理くらいはしなければならない、と強く思ったのだ。
業務内容故。業務内容の無さ、故に。
ラッキーアイテムとして僕を雇ったらしい前条さんは、僕を『一日八時間拘束する』以外のことを一切求めてこなかった。
事務員として書類整理をするだとか電話番をするだとか、そういうレベルのことすら求めてこなかったのだ。
それで日給二万円。ぞっとする話だ。何の対価もなく金を得られるというのは夢のような話だが、やはり夢は夢のままで終わらせておかなければいけない。
この全身黒ずくめの怪しい男のせいで僕の金銭感覚が狂わされる、なんてことはあってはならない。僕は僕を強く持たなければならない。
きちんと働いて、その対価として金を貰って一人暮らしをしなければならない。ただそこにいるだけで金を貰って一人暮らしをしているなんて、そんなの高橋以下じゃないか。
そういう訳で、僕はこのクソ暑い部屋のキッチンで料理などというクソ暑い作業をすることを申し出たのだ。後悔していないと言えば嘘になるが、それでも働かずに金を得るよりは幾分マシだろうと思う。
「出来ましたよ、お好みで七味でもどうぞ」
「いただきまーす」
汗だくになりながらうどんを湯で終えてテーブルに運ぶ。前条さんの方にはアツアツの丼、自分の分の器には凍らせておいためんつゆの氷をぶち込んだ丼を置いて、向かい合わせで手を合わせる。
異能相談事務所で働き始めて、今日で一週間。食事を作ることにしてからは二日が経っていた。
前条さんの食事シーンを見るのは、これで三回目になる。昨日の昼食と夕食、そして今日の昼食。マフラーを下げて、クソ暑い部屋で熱いうどんを有難そうに啜る男。何度見ても不気味で、慣れない光景だ。いつか慣れる日が来るのだろうか。そもそも、慣れるまで自分は此処で働くんだろうか。
出来ることなら早々に辞めたいのだけれど、ラッキーアイテムらしい僕を彼が簡単に手放すようには思えなかった。
「うん、美味しい。けーちゃん、案外料理上手だね」
「そりゃどうも。人並みだと思いますけどね」
親子丼も味噌汁もチンジャオロースも、誰でもレシピさえあれば簡単に作れるような、そんな代物だ。褒められるような出来でもないので謙遜してみるが、聞いているのかいないのか、前条さんは油揚げを汁に浸してびたびたにしてから口に含んでいた。
汁気を含む食材が好きらしい。キッチンには大量の麩があった。
「あの、ずっと聞こうと思ってたんですけどいいですか」
「コーヒーゼリー? 俺のだから食べちゃダメだよ。付属のクリームはいらないからあげる」
「此処って具体的にはどんな仕事をしてるんですか? 僕が働き始めてから、誰一人として依頼人が来ませんけど」
「付属のやつってなんかしつこくて嫌なんだよな。生クリームも嫌だし。牛乳合うよ牛乳、イチオシだね」
「異能相談事務所って、何をする仕事なんですか?」
冷蔵庫に常備されているコーヒーゼリーについては初日の時点で察していたので無視した。冷蔵庫に常備されている甘味が家主の物でなかったらなんだっていうんだ。
アンタのコーヒーゼリーの食べ方なんて知らなくても困らないし知りたくない。知りたいのは、この常時死ぬほど暑苦しい熱気に包まれた事務所が何をして金を稼いでいるのか、だ。この灼熱地獄を、事務所と呼んで許されるのかどうかだ。
冷えた肉せいろが温くなってしまう前に食べ尽くし、ずっと胸に抱えていた疑問をぶつけると、前条さんは残りの汁を飲み干してから、んー、と零した。
「逆に聞くけど、けーちゃんは何をする仕事だと思ってんの?」
「はい? え、ええと……なんでしょう、そもそもあれもよく分かってないんで、あの、超常なんたらかんたら……」
「超常現象カウンセラー」
「そうですそれです。超常現象って言われると、僕のイメージだと超能力とか、霊能力とか、そういうものかなとは思ってるんですけど……前条さんってなんかそういう、特別な人なんですよね?」
僕の問いには笑い声だけが返って来た。
ケトルのお湯を注いで粉末茶を淹れる前条さんが答えることなく、続けろと手で示してくる。
「だから、多分、オカルト的な事件を解決する……事務所? だと、思ってます。霊現象に悩まされてる人を除霊して助けたり、お祓いグッズを売ったり? そういう悩みを持ってる人が来るんですよね? 未だに一回も見てないんで分かんないんですけど、合ってます?」
「あー、まあやってることはそんな感じだな」
「……それで、僕はその、具体的に何をどうしているのかを聞きたいんですけども。あれですか? 前条さんって、その、霊能力者とか、超能力者とか、そういう類いの人なんですか? お祓いとかできちゃうんですか? 寺生まれなんですか?」
「んん~、けーちゃんって霊能力者とか超能力者とか、信じてる系?」
「信じるも何も、目の前に心臓が無いのに動いてる人がいるじゃないですか……」
「心臓が無くても動いちゃう人だとは考えないのか? いるかもしれないよ、心臓が無くても動いちゃう人。ていうか此処にいるしな」
ごちそうさま、と告げた前条さんが僕の器に自分の器を重ねてきた。片付けろということだ。器を持ってキッチンまで向かい、ざっと流して戻る。
冷凍庫から出した氷を口に含みながら、どこかバツの悪い思いでテーブルに着いた僕に、前条さんは頬杖をつきながら笑った。
「分かってる分かってる、けーちゃんの言いたいことはね。要するにあれだ、『この仕事は僕に日給二万円も払い続けられる程に稼げているんですか? お給料はきちんと出ますか?』ということを言いたい、そうだろ?」
「…………分かってるならコーヒーゼリーの話なんてしないでくださいよ」
「だって間違えて食べられちゃったらやだろ」
どこまでも薄っぺらい声で笑う前条さんは、椅子の背に体重をかけて揺らしながら続けた。
「心配しなくてもちゃんと給料は出すよ。なんたって俺のラッキーアイテムだ、大事にする。これは本当だ、信じてくれていい」
これは、って言ったぞ。
どうもこの人は格好のみならず言動も胡散臭い。まともな人間でないことだけは確かだった。信用ならない、という点においてあまりにも信用がありすぎる。
「信じたいのは山々なんですけどね、こうも依頼人が一人も来ないと信じようが────、」
ないです、と言おうとしたその時、チャイムが鳴った。
湯呑を置いた前条さんと、溶けかけた氷を噛み砕いた僕の視線が、真っ直ぐに扉へと向かう。
ひゅーぅ、と下手くそな口笛が響いた。前条さんだ。口笛が下手すぎる。
「流石はラッキーアイテム、効果覿面だな」
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