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1:首の話[後編]

 扉を開けた先にいた依頼人は、岸水亜矢子という名前の二十代前半の女性だった。  染めたことの無さそうな黒髪と下がり気味の眉が優しげで、少し頼りない印象を醸し出している。実際気弱な性格なのだろう彼女は、扉を開いた僕に此処が『前条昂の事務所』であるかどうかを、か細い声で聞いてきた。  此処は確かに前条昂の事務所ですけれど、貴方の頼る場所は本当に此処でいいんですか? 合ってますか?なんて確認しかけた僕の後頭部を黒手袋が叩き──おいラッキーアイテムだぞ殴るなよ──、前条さんはにこやかに彼女を招き入れた。  相も変わらず鼻先まで癖毛で覆われているせいで怪しさは極まりなかったのだが、なんと驚くことに女性は少し戸惑ったくらいですんなりと彼の珍妙な格好を受け入れてしまった。やはり、こんな怪しい事務所に相談する程度には切羽詰まっている人なのだろう。  暑くてすみませんね、という割に温度を下げる気は無さそうな前条さんに代わり、僕は氷をたっぷり入れたアイスティーを差し出した。  礼を言ったものの岸水さんはグラスを手に取ることは無く、震える吐息を零してから、ゆっくりと口を開いた。 「此方で……除霊をしていただけると、聞いてきたのですけど……」 「ええ、まあ。似たようなことはやっています。もっとも霊現象に限らず、超常現象全般を取り扱っておりますね。呪いや霊障、ポルターガイストからテレパシーによる盗聴被害、予知能力者からのストーカー案件など、ご相談内容は多岐に渡りますが、概ね解決率は100%です、ご安心ください」  この一週間で聞き慣れた、常に揶揄るような薄っぺらい声とは少し違う、余所行き染みた甘い声が響く。  こうして聞くと、妙に耳馴染みの良い声をしているのだと気づいた。格好は相も変わらず胡散臭いままだが、その珍妙な格好すら何某かの実力者故のものなのでは、と思わせるような、謎の説得力がある声だ。端的に言えば詐欺師に向いている。  事実、今しがた吐き出されたどこをどう『安心』すればいいのか分からないような台詞ですら、何だか妙な安心感を生み出していた。  しかし、何分初めてのお客さんなもので、僕の役割としてどうするのが正解かも分からない。  とりあえず、この異常な熱気が立ち込める部屋で彼女が倒れてしまわないように、冷たい飲み物と保冷剤を用意しながら立ち尽くすことしかできなかった。  岸水さんはにこやかに語る前条さんに、はあ、と戸惑いがちに頷き、少し困ったように僕を見上げた後、それでも他に選択肢が無いのか前条さんに目を戻した。  ただ、そこから口を開く気配がない。口元に手を当て、何かを伺うように前条さんを見つめている。その目が、数秒ごとに逸らされては戻るのを三回確かめた前条さんは、小さな溜息と共に呆れの滲む声で呟いた。 「私に除霊する力があるのか、疑っておられるようですね」 「い、いえ、そんなことは……ただ、ええと……お話せずとも、見れば分かるのでは、と、その…………本物の方なら」  おずおずと吐き出されたそれは気弱な響きではあったが、確かな挑発を含んでいた。 「……なるほど」  にい、と薄い唇が吊り上がるのが見えた。  常に笑みの形を作っている唇が、明確な意思を持って引き上げられる。  首を傾けた前条さんの前髪が揺れ、僅かな隙間から暗い瞳が覗いた。何故か、妙な寒気を感じて足を引く。岸水さんもソファに沈めた腰を、ぎこちない動きで少し浮かせた。 「そりゃあ見れば分かりますがね、残念ながらテレパシーは持ってませんから。 “首” を落とした場所くらいは教えて頂かないと困りますよ、流石にね」 「…………首?」  揃えられた黒手袋の指が、見せつけるように水平に首を切る真似をする。  吐き出された言葉の意味が分からずに首を傾げた僕の前で、岸水さんははっと息を呑んでから慌てて頭を下げた。 「す、すみません! 試すような真似を……ただ、誰に言っても信じてもらえなくて、最後に知人に教えてもらったのが此処で……確証が欲しくて……」 「いえいえお構いなく。こんなところを紹介されれば誰でも不安になるでしょう。この程度で信頼頂けるのでしたら、いくらでもお試しください」  優しく、柔らかい声で返した前条さんに、岸水さんは慌てて謝罪の言葉を重ねた。  僕にはさっぱり訳が分からないが、どうやら岸水さんは今のやり取りで前条さんを信頼に値する、と思ったようだ。先程よりも随分と表情から強張りが抜け、緊張が解けたようにアイスティーに口をつけた。  それからも何度か頭を下げる岸水さんを手で制した前条さんが、顎に手を当て、ふと思いついたかのように問いかける。 「ところで、先にひとつ聞いておきたいんですが、今回の件の前に自宅に何か届いたりとかは、ありませんでしたよね?」 「自宅……ですか? 例えば、どんな?」 「招待状、と言いますか。まあチラシかもしれないんですけど、サーカスの」 「? いえ、特にそういったものは……」  一瞬、低く這うように呟いた前条さんは、不思議そうに首を傾げる岸水さんの反応をしばし見つめた後に、そうですか、と明るい声で流れを切った。今、僕の方を見やったように思えたのは気のせいだろうか?  一呼吸置くような間が空く。小さく咳払いをした岸水さんが、沈黙を裂いた。 「……ええと、それで、依頼なんですけど。見ての通り、私の首を取り戻したいんです」 「あー、失礼。私には理解出来るのですが、そこの助手はまだ新人なものでして。彼にメモを取らせますので分かるように説明してやってください」  全く訳が分からないまま見守るしか出来ない僕の不満が少し顔に出ていたのだろう、前条さんは今度ははっきりと分かる程度に此方へ視線を向けてから、その辺に転がっていた小さな手帳を投げて寄こした。  慌てて受け取り、ペンの挟まれたそれを開いて用意する。手帳は普段から前条さんが使っているもののようで、見開きの左側には汚い字で何やら書き込まれていた。汚すぎて読めない。なんだ、『クーカメ』? まあいいや、今重要なのは、僕がこの話のメモを取る係に任命された、ということだ。  早く話したいらしい岸水さんが僕を見上げて確認を取ってくるのに笑みを返し、話の先を促した。  か細い声で語られた話に寄ると、二週間ほど前に三人の友人と共にとある心霊スポットに遊びに行ったことが、今回の依頼の原因だそうだ。  対岸町から車で一時間ほどの場所にあるその廃トンネルはネットでは結構有名で、クビナシトンネルと呼ばれている。  勿論、実際の名は違うが、そのトンネル内で起こる霊現象が由来になっているらしい。  なんでも、夜にそこを歩いて通ると、気づいた時には両脇に首無しの地蔵がびっしりと並んでいるのだとか。  懐中電灯の明かりを頼りに進む中、気づいたら両脇を首無し地蔵に囲まれる想像をしかけて、ペン先を動かすことに集中して振り払う。  そういえば僕は怖い話が駄目だった。  たった今思い出したが、もう遅い。聞くしかないのだ、ようやくの、仕事らしい仕事なのだから。日給二万円、日給二万円。よし。  密かに狼狽える僕を置いて、岸水さんは青白い顔で話を続ける。室内は馬鹿みたいに暑いと言うのに、彼女は今にも震えだしそうだった。  クビナシトンネルに着いた岸水さん達は、ネットの話の通りにトンネルの入り口で車を降り、そこからは歩きでトンネルの向こう側まで向かった。  懐中電灯を手にして、男女合わせて四人で横並びに歩いていく。書き込みによれば人数が少なければ少ないほど怪奇現象に遭う確率は高かったそうだが、面白半分で行っただけの岸水さん達にはそこまでする勇気はなかった。  遭遇すれば話のタネになるし、何もなければ無いで、怖かったね~で済んだちょっとした思い出で終わる。  そんな思いで、お互いにちょっかいを騒ぎながら四人でトンネルを半分ほど進んでいたその時、不意に全員が黙り込んだ。  持っている懐中電灯の明かりが消えたのだ。  何度スイッチを切り替えても明かりがつかない。故障したのかもしれないが、場所が場所だけに恐怖を煽られ、そろそろ戻ろうか、と誰ともなしに言い始めると同時に、岸水さんの隣にいた友人が震える声で呟いた。 『────向こうに、なんかいる』  全員が、その声に惹かれるようにトンネルの向こう側を見た。暗闇に塗りつぶされた視界の中、ぽっかりと月明かりを通して白い穴のようになっている向こう側を。  そこまで長いトンネルではない。半分まで進めば出口はそれなりに見えてくる。  その出口の真ん中に、子供ほどの背丈の『何か』が立っていた。  月明かりに照らされ、はっきりとした輪郭を現したそれは、まごうことなく地蔵だった。  誰かが言う。前に来たオカルトマニアが、悪戯のつもりで置いたんだろ、と。それが一番現実的で、冷静な結論だと理性は答えた。  けれど、本能が、あれはあそこに『いる』のだと、言った。  その場の全員が地蔵から目が離せなかった。首のある地蔵を、食い入るように見つめていた。  そして、全員が、その地蔵の首がゆっくりと傾き、ごとりと地に落ちるのを見た。  悲鳴を上げたのは誰だっただろう。  岸水さんも覚えてはいないらしい。とにかく、全員がアレは見てはいけないものだと察して、半狂乱になって逃げた。  車に乗り込むまで、後ろから、ずっと、何か丸いものが転がってくる音が響いていたそうだ。 「……それからです、みんながおかしくなったのは」  震える声で呟いた岸水さんは、膝の上に乗せた手を強く握り合わせ、ゆっくりと深呼吸をした。  メモ係の僕としてはもうこの時点で色々と限界だったのだが、どうやらまだ続きがあるらしい。室温以外の理由で汗を掻き始めた僕の手から、ペンが滑り落ちる。急いで拾って、手汗を拭いた。 「涼子も、翔も、浩平も……みんな……その、首を…………」 「吊った?」  こくり、と岸水さんが頷いた。  拭いたばかりの手汗がぶわりと滲んだ。  え、何? 今なんて言った? 吊った? 首を? ……首を?  不味いぞこの仕事、思ったよりやばいやつだ。こんなことなら一生依頼人なんて来ないままで良かった。二万円払えなくなっちゃったから解雇ね、とか言われたかもしれないし、僕の方から言い出せたかもしれないのに。  もはやメモを取ることなどすっかり頭から抜け落ち、立ち尽くす僕の前で、二人は続ける。 「次は私の番だって、分かるんです。前条さんにも分かりますよね? 次は私なんですよね? 大丈夫ですか? 私、助かりますか? 他の、他のみんなみたいに、なりませんか……?」  歯の根が噛み合わないのか、微かに歯の鳴る音を響かせている岸水さんは、握り締めていた手で口元を覆うと、俯いて静かに泣き始めた。  冗談や悪ふざけで言っているようには見えない姿だった。冗談や悪ふざけだったら良かったのに。  そんな岸水さんを、相も変わらず口角を少し上げた、笑みの形をしただけの表情で見守っていた前条さんは、不意に場を締めるように手を叩いた。  布地に阻まれて鈍く響いたそれに、岸水さんが顔を上げる。前条さんは、ひらひらと両手を振りながら、なんとも明るい声で言い放った。 「事情は分かりました。だーいじょうぶです、何の心配もありません。ご友人は――残念でしたが、少なくとも貴方は大丈夫ですよ」 「ほ、本当ですか!?」 「ええ。今、お祓いしましょう。なんてことはないです、ただそこのモノを、よいしょってするだけなので」  よいしょ!? よいしょって。よいしょってなんだ。  先程までの重く沈んだ、どこか寒々しい空気が一変して阿呆丸出し空間になってしまった。気温差についていけない。いや、この部屋はいつだって地獄のような暑さだけれども。  ぽかん、と口を開いた僕と岸水さんの前で、前条さんはそれ以上何の説明もすることなく、するりと黒い手袋を外した。  爪先まで青白く、色のない死体のような手が現れる。あまりに白いのでマネキンか何かのようだった。  黒い袖先から食み出る作り物めいたそれを呆然と眺める僕らに、前条さんは笑いながら「ちょっと失礼」と岸水さんの顔へとその手を伸ばした。  女性の顔に触れるとは思えない無遠慮さで、彼女の鼻から上を掴むようにした前条さんは、引き剥がすかのごとき動きで手のひらを放し、次いで僕の顔面を思い切り叩いた。 「はィッ!?」  結構な勢いだったので、普通に痛かった。いきなり顔面をぶっ叩かれた僕が混乱している間に、前条さんは部屋の後方に設えられた事務机を漁りに行き、何やら手鏡を持って戻って来た。 「これでどうでしょう? 問題ありませんね?」 「え……こ、こんな簡単に……嘘ですよね……!?」 「嘘かどうかはそちらを見て頂ければ分かります。それで、依頼料なんですが今回少々手間でして、事後処理がありますので通常より上乗せで税込み三十万となります」 「さ、三十……」  額がじんじんする。せっかく外国人チンピラに殴られた傷が癒えてきたところだというのに。というか、これ雇い主からの暴力なんだから訴えたら勝てるのでは?  痛みによる怒りで思考がどんどん攻撃的になっていく僕を他所に、前条さんは今回の依頼料の話を進めていた。三十万、と聞いて狼狽える岸水さんの声を聞きながら、少し冷静になった僕も同じように狼狽える。  三十万!? この、額をえいってやって、よいしょしただけで!? っていうかよいしょって何だよ! 「まあ、少々高いと感じるかもしれませんが、生きてりゃいつかは取り返せる金ですよ。命より高いと思うか安いと思うかは、お客さん次第ですかねぇ」 「……分かりました、お支払いします」  依頼を達成して猫を被る必要がなくなったからか、少し普段の揶揄が出てきた前条さんに、岸水さんは神妙な顔で頷いた。  嘘だろ、払うのか? この胡散臭い男に三十万も払うのか!? 嘘だろ!?  金というものの概念が壊れてしまいそうだった。額への一撃の衝撃から戻って来た頭が、今度は別の混乱に引きずり込まれる。全く訳が分からない。依頼人が来れば理解できるかと思った仕事は、結局一切、僕の理解の範疇外だった。  手鏡を何度も確かめていた岸水さんが、依頼料の支払いについて話し終え、事務所を後にする。  灼熱地獄に残ったのは僕と、ソファでご機嫌に足を組んで揺らしている前条さんだけだ。呆然と、叩かれた額を摩りながら閉じられた扉を見つめていた僕は、全ての答えを求めて前条さんへと視線を向けた。 「え、前条さん、今なにしたんですか? 何が行われたんですか? これで仕事終わりなんですか?」 「事後処理するって言ったろ、聞いてなかったの? あ、だから、けーちゃん明日は絶対空けておいてね。コンビニバイト被ってないでしょ?」 「おもくそ被ってますけど」 「じゃあお休みしなよ。行くなら昼間が良いだろ?」 「休める訳ないでしょ、ただでさえ急にシフト変えて嫌な顔されてるのに!」 「そしたら夜に行くしかないけどいい? いいよね? それでもいっか、困ることないし」  何だか訳が分からないまま話がまとまりかけている。なんでこの人はこう、言葉が足りない喋り方をするんだ。  精神的疲労から起こる頭痛を感じて溜息を吐いた僕に、前条さんは仕方がないなあ、と言わんばかりに肩を竦めながらローテーブルに放っていた手鏡を取った。 「はいこれ」 「? なんです?」 「見てみ」  見る? 見るって何を。  不思議に思いつつ渡された手鏡を言われた通り覗き込んだ僕は、一瞬の間を空け、事務所内に響き渡るほどの叫び声を上げた。  首が無かった。  僕の。  首が。首から上が。綺麗さっぱり映ってなかった。どこにもなかった。 「はあ!? なんっ、何!?!? 何ですこれ!? 僕の首ッ、なんで!?」  慌てて空いてる手で顔を触る。そこには感触があった。ひとまず息を吐くも、やはり鏡には映らない。  一瞬で血の気が失せ、冷汗に塗れる僕に、前条さんはなんてことのない声で言った。 「そりゃお前、お客さんからお前によいしょってしたからな」 「なんで僕によいしょってしたんです!?!?」  そもそもよいしょってなんなんです!?  手鏡をソファに放り投げ、優雅に足なんぞ組んでいやがる前条さんに掴みかかる。胸倉を掴んだ僕は、にやにやと笑みを浮かべたまま反省の色すら見せないクソ野郎を揺さぶりながら尚も怒鳴った。 「えっ、これ治るんですよね!? 治りますよね!? ていうか業務内容にこんなこと書いてなかったじゃないですか!! 何してくれてんですか!!」 「だってけーちゃんが、『僕……何もしないで日給二万とか貰いたくないんですけど……』って言うから~」 「限度があるでしょうが限度が!! 日給二万で首失くしたくないですよ!! あれ、待って、これってもしかして、あの、このままだと僕が首を……?」 「吊る」 「嫌だぁぁぁぁああっ!! 馬鹿ッ、ばっ、馬鹿じゃねえのアンタ!! 馬鹿じゃん!?!?」  一切抵抗することなくがくがくと揺さぶられている前条さんの前髪が揺れている。晒されることの少ない暗い瞳が楽しげに弧を描いているのが見えて、途方もなく腹が立った。  何故だ、何故僕はこんな目に遭っているんだ? ただ彼女に振られた腹いせに一人暮らしを始めただけでどうしてこんな目に? 何故……?  実家に帰りたい、と思ったが、ついこの間電話したら『あんたの部屋、理沙の衣裳部屋にしたからね』と言われてしまったので帰る部屋も無い。いくら息子に興味が無いからって、それはあんまりだろ母さん。衣裳部屋ってアイドルか何かかよ。まあ、家の中限定でアイドルだな、僕の妹は。  あまりのショックで思考があちこちに飛んでいる。恐怖のあまりほろほろと泣くことしか出来なくなった僕に、前条さんは手袋を嵌め直しながら、こともなげに呟いた。 「大丈夫だって。言ったろ? これから事後処理するって。別にあのままお客さん連れて行ったって良かったけどよ、トラウマになってる場所にもう一度連れて行くほど俺も鬼じゃないしなあ」 「…………本当ですか?」 「これも本当だよ。なんだよ、前条さんがそんなに信じられないか?」 「信じられないです」  一週間しか付き合いはないですけど、アンタに信じる要素を感じた覚えがないです。信じるほどの信頼関係も築けてないじゃないですか。そもそも築く途中なのにこんなことされたら、信じられるものも信じられないでしょうが。  即答した僕に、前条さんはちょっとだけ困ったように首を傾げて、指先で所在なさげにニット帽の耳当て部分を弄った。 「うーん……まあ、絶対大丈夫だから、そんなに心配すんなよ。バイト頑張ってこい」  安心させるようにか、頭を撫でてくる前条さんの手を思いきり振り払う。お前が元凶の癖に優しくするんじゃない。  あまりにも腹が立ったので、僕はその日、終業まで「寒い」と文句をいう前条さんを無視して部屋の設定温度をいつもより十五度下げて仕事してやった。  前条さんは本当にちょっと半泣きになっていた。ざまあみろだ。   3  翌日。コンビニバイトに身が入らず、店長に「最近の子はやる気が足りないねえ」なんて嫌味を言われつつ日没まで仕事をした僕は、前条さんに呼び出されて、異能相談事務所前までやってきた。  ビルの前の道路に、古い軽トラックが止まっている。どう見てもオンボロで、あと半年もしたら廃棄しなければやばそうな代物だった。 「……これ、前条さんの車ですか? ボロすぎませんか」 「俺の車だけど、まあ、使ったら捨てる用だから。ほら、変なの連れてきたら潰さなきゃいけないしな」 「…………待ってください、あの、僕今日の行き先聞いてないんですけど」  昨日のことは錯乱していてまともに覚えていない。  促されるままに助手席に乗り込み、シートベルトまで締めたところではたと気づいた。昨日前条さんが何と言っていたのか。  岸水さんがトラウマになっているだろうところに連れて行くのは気が引ける、だとか、何だとか、言っていなかったかこの人は。待てよ。そもそも岸水さんからよいしょっとされた何かのせいで僕はこうなっている訳で、つまりこれから行く場所はひとつしかない訳で……。  恐る恐る、運転席の前条さんを見やると、彼は口元に浮かべた笑みを深くして言い切った。 「そ、クビナシトンネル」 「嫌です! 帰ります! 帰らせてください!」  こんな時間からそんなところ行きたくありません! もう日が沈んでるじゃないですか! 向こうに着く頃には夜じゃないですか! 心霊スポットじゃないですか!!  半狂乱で暴れ始める僕を片手で抑えつけた前条さんは、問答無用でエンジンをかけ、にやにやと笑いながら車を発進させた。 「帰るなよ、帰ったらもっと困ったことになるぞ」 「これ以上困ったことって何です!?」 「死ぬ」  あまりにも端的だったので、僕は一瞬で黙ってしまった。流れていく景色と、前条さんが、涙で滲む。  そりゃ、そんな、分かってますよ。岸水さんが言ってましたからね、みんな首を吊ってしまったって。今現在僕は全くちっともこれっぽっちも首なんか吊りたくない訳ですけど、あの話が本当なら、首を吊ってしまうんでしょうよ。  でも、だからってわざわざ夜に行くことないじゃないですか。夜じゃなくても行けそうな雰囲気出してたじゃないですかアンタ。なんなんですか。 「明日とかじゃダメなんですか……」 「駄目なんじゃねえかなあ。だってほら、けーちゃん見てみなよ、自分のカバン」 「はい?」  駄目元で聞いてみた僕に曖昧な返事をした前条さんに言われるまま、いつも使っている肩掛けのカバンを見る。外側は何の変哲もない。だとすると、内側の話だろうか?  不思議に思いつつカバンを開く。普段からスマートフォンと財布くらいしか入っていない。中身を確かめるのにさして時間がかかるはずもなく、僕の指先は数秒とかからずに『それ』を引きずり出した。  縄が入っていた。 「………………」  縄が入っていた。  念のため言っておくと、入れた記憶はない。だが入っている。一瞬、前条さんの嫌がらせか何かかと思ったが、僕は今日このカバンを身体から離した覚えはないし、今日バイト先に行く時には縄なんて入ってなかった。いつ入れたのか、記憶にない。 「ほらなあ?」 「…………ほらな、じゃなくて……うう……」 「泣くなよけーちゃん、大丈夫だって。お客さん相手でもけーちゃん相手でも、やること変わんないんだから」  もしかしたら、いや、もしかしなくとも本格的にやばい。このやばい状況が『よいしょ』で作られてしまったのもやばいし、全体的にやばいとしか言えない僕の精神状態もやばかった。  前条さんは時折僕を慰めるような言葉を吐きながら運転を続けた。途中まではまばらにすれ違っていた車が、ある地点を過ぎた頃から激減し、辺りが街灯もない山道になった頃には、真っ暗闇を走るのは僕らを乗せた軽トラックだけになってしまった。  もはやカバンを抱えたまま震えるしかない。縄は窓から放り投げておいた。ポイ捨てするなよ~、なんて声が隣から聞こえてきたが、無視しておいた。うるさい。アンタ、僕が突然この場で首を吊り始めたら責任取れんのか。取れないだろ馬鹿。取ってくれよ馬鹿。アンタのせいだぞ! 「ほい、着いた」  一時間後。日没と共に段々と気温も下がり、じっとりと張り付くような中途半端な暑さになった頃、僕らはクビナシトンネル前に辿り着いた。  つけたままの車のヘッドライトに羽虫が集っている。少し風があるせいか、周りの木々が葉を擦り合わせる音がやけに大きく響いている気がした。  何かを抱きしめていないとおかしくなりそうで、カバンを抱えたまま車から降りる。ところどころ割れて躓きそうな段差になっている道路の先には、古びたトンネルが在った。  本来なら、入り口からでも小さく向こう側が見えるのだろう、あまり長くはないトンネル。だが、今日は雲が多いせいか、全くの真っ暗闇にしか見えない。  いつの間に手にしたのか、懐中電灯を持った前条さんがカチカチと電灯の調子を確かめていた。 「普通に使えるな。よし、じゃあ入ろうか」 「えっ、あの、前条さん。僕の分は?」 「しっかり掴まってろよー」 「僕の分は!?」  電灯ひとつしかないんですか!? なんで!?  車に戻ってもうひとつを探そうと踵を返しかけた僕は、次の瞬間には軽やかな足取りで迷いなく進み始めた前条さんに置いて行かれるのが怖すぎて、急いでその黒いコートの腕を掴んだ。  スマートフォンを取り出してもいいのだが、右手は前条さんで、左手は鞄で埋まっているので、無駄な動きをしてどっちかを掴み損ねたらと思うと何も出来なかった。謎の鼻歌を歌いながら歩いていく前条さんに着いていくことしか出来ない。  つーかなんでこの人はこんなに上機嫌なんだ。僕をこんな目に遭わせておいて。腹が立つな。  腹を立たせることで目の前の暗闇への恐怖を和らげる試みは、トンネル内に踏み入れた瞬間にあっさりと失敗した。  カツン、カツン、と円形の壁に反響するブーツの音が怖すぎる。変に響く鼻歌も怖い。今すぐに音を発するのをやめてほしい、と思ったが、実際に隣に立つ前条さんが何一つ音を発さなくなったら発狂する自信があった。  右手で掴んだ腕を絶対に離さないようにしっかりと掴む。出会って一週間、前条さんに触れたことは数えるほどしかない(初対面の時に顔面を押さえつけられたのと、よいしょの時に叩かれたのくらいだ。あれ、どっちも顔面に張り手喰らってないか?)が、前条さんは案外しっかり筋肉のついた身体をしているのだな、と思った。思うことで現実逃避をした。 「前条さんって結構鍛えてるんですね」 「ん? ああ、筋肉がついたら体温が上がるって聞いたから、ちょっとね」 「上がったんですか」 「それが全く。これっぽっちも。泣いちゃう」 「そもそも、なんで前条さんには心臓が無いんです?」 「今聞くの? 後にしない?」 「後になったら話してくれるんですか」 「うん、まあ。けーちゃんにも分かるように話してあげるよ」  出会った当初の衝撃が強すぎて、そういうものだ、と思い込んでいた事柄について尋ねてみたら、ちょっと興味を惹かれる答えが返って来た。  前条さんは心臓が無くても生きていられる人らしいが、どうやら、心臓が無いことにも理由があるようだ。気になる。気になるな~~気になりすぎて、今この場の不気味な空気は一切気にならないな~~……ということにはならなかった。  前条さんがちらちらと揺らす電灯が、明らかに壁以外の物を映し出している。明らかに、壁ではありえない凹凸の陰影を生んでいる。両脇にちらほらと現れているそれは、僕の目から見ても段々と増えている。見たくないので顔を伏せるが、本能的に光を追ってしまうのでどうしても視界に入ってくるのだ。 「ぜん、前条さん……あの……じ、地蔵が……」 「あるねえ」 「あるね、ではなくてですね……」 「その割に向こう側には何もいないな。ビビってどっか行ったのか? ったく、浅知恵つけやがって。これだから嫌なんだよなあ、ネット発祥の輩は。まあいいや、さっさと探そう」  何やら不満げに呟きながら懐中電灯で地蔵をひとつひとつ照らしている前条さんの声には微塵も恐怖が感じられない。僕の鼓動はこんなにもうるさく、冷汗で背中もびっしょり濡れているというのに。  元々、早くなる鼓動も無いせいかもしれない。でも寒くて泣く感情はあるんだろ。意味が分からないなこの人。ただ、この人の意味の分からなさが目に付くおかげで、少しは僕の恐怖もマシになっている気がする。気がするだけだ、と次の瞬間に思い知った。 「お、在った」  懐中電灯が照らした先。壁際に並んだ首無し地蔵のひとつに、どう見ても僕の顔が乗っていた。  石で出来た僕の顔だった。  目を閉じ、微かな笑みを浮かべた僕の顔が、地蔵の上に乗っていた。  気絶しなかったのは奇跡かもしれない。 「けーちゃん? 息してる?」 「してません……」 「大丈夫、出来てる出来てる」  よしよし、と僕の頭を撫でた前条さんに、安心するより先に、懐中電灯を持った方の手でやらないでください明かりが不安定になるでしょうが、とキレそうになってしまった。  だがそれでいいのかもしれない。僕の首が乗った地蔵を見なくて済む。恐怖から浅くなる息を何とか整えようともがく僕に、前条さんは相も変わらず薄っぺらい声で言った。 「アレぶっ壊せば、けーちゃん死なずに済むからな。さっさと壊して帰っちまおうな」  前条さんの言葉を理解するのに、丸々十秒を要してしまった。十秒かけて理解し、何一つ言葉にならず、ただただ無言で頷いた。  さっさと帰りたい。こんなところから一秒でも早く出たい。  縋り付いたまま震えることしか出来ない僕の横で、前条さんは再度僕の首が乗った地蔵を照らして確かめた。そして片足を引くと、そのまま軸になっている方の足に重心を乗せ、って、アンタ一体何をしようとしているんです? 「ちょっと待ってください前条さん、アンタ今地蔵を蹴り抜こうとしてます?」 「あーうん、この靴鉄板入りだから」 「そういうこと聞いてんじゃないんだよなあ!?」  鉄板が入っていようが地蔵を壊すための力はアンタの身体が生み出すもんでしょうが! 嫌ですよ僕、そんな蹴りを繰り出す男にしがみついたまま、変に巻き込まれるの! 「大丈夫だって~、上手くやるからさあ~」 「うるせー馬鹿! 信用できるかそんな言葉!!」 「ええー、それじゃどうする? 俺から離れとく? けーちゃん怖くて泣いちゃうでしょ?」 「泣かねーよさっさとやれ!!」  小ばかにした台詞を聞いて怒りのあまり手を離したその時、前条さんに突っ込みを入れるのに忙しい僕の胸の内から、一瞬だけ恐怖が消えた。  何故かついでに懐中電灯の明かりも消えた。  正直、少し漏らした。そして少しどころじゃなく泣いた。  マッハの前言撤回と共に、僕は急いで傍に立つ前条さんにしがみ付いた。 「ぜ、前条さんッ!」 「おっ、おいでなすったか。うーん、暗いし見つけづらいし、別にあっちぶっ飛ばしてもいいんだよなあ。けーちゃん、しっかり掴まってろよ?」  掴まっていられなかったらどうなるんですか。恐怖のせいで聞くことすら出来ない僕の横で、前条さんは僕の身体を支えると、半ば抱え上げるようにしながら一気に走り出した。 「えっ、ちょっ、えええ!? はいぃっ!?」  結構な速度で走る前条さんに引きずられ、もつれる足を慌てて動かす。涙が風で乾いていき、滲んだ視界が鮮明になり始めた。やばい、困る。いま視界がクリアになる必要はない。岸水さんの話の通りならば、この先には例の『首がある地蔵』がいる筈なのだ。見たくない。だが走る為には進行方向を見なければならない。詰んだ。  こういう時に限って眼鏡がずれているということもなく、僕の視界は至って良好だ。なんてこったい。雲間から覗く薄明りのせいで、出口で待ち構える『地蔵』が、はっきりと見えてしまった。  地蔵は、どこまでも柔和な笑みを浮かべている。どこにでもあるような、見慣れた地蔵そのもので、だからこそ、限りなく薄気味が悪かった。  しかしその薄気味悪さを受け止める時間すらない。なんたって全速力で走っている。何だこの状況。一体何をしようってんだこの人は。え、いや、まさかな? 待てよ?  僕を引きずるようにして走る前条さんの口元からは、時折、吐息に交じって低い笑い声が漏れている。その不気味さと来たら、出口に立つ地蔵と全く持っていい勝負だった。  とうとう、地蔵が目前に迫る。あと数歩、というところで、前条さんは途端に歩幅を縮めた。ぐ、と足に力を籠めるのが、寄せた身体から伝わってくる。 「まっ、待ってくださ、前条さん、あんた、いやいやまさか、そんな馬鹿な!?」  この力の籠め方は。片足に重心をかけ、もう片方を振りぬくこの動作はまさか。  嘘だろ、と思うより早く、前条さんの長い脚は、目の前で首を落としかける地蔵を蹴り抜いていた。  鈍い音が響く。鉄板と固い石がぶつかって砕けたみたいな。みたいというか、それそのものな音が。は? 嘘だろ?  ようやく止まったことで、一気に力が抜けてその場でへたり込んだ僕の横で、前条さんは蹴り飛ばしたばかりの地蔵の上に片足を乗せていた。  雲間から覗く月明かりに照らされた前条さんは僕を見下ろして、乱れた髪の隙間から、何とも得意げな顔で笑った。 「な? くっついてても上手いことやれたろ?」  無邪気な笑みに罵倒を返す元気も、お礼を返す余裕も、その時の僕には全くと言っていいほど足りてなかった。   4 「本当にこれで無事に済むんですね? 本当ですね? 信じていいんですね?」  緊張が解け、顔面を涙でぐしゃぐしゃにしながら前条さんに殴りかかった僕は、三十分後にようやく落ち着いて、二度と通りたくないトンネルを前条さんに抱えられて通り抜けて軽トラックへと戻って来た。  三十分前から百回ぐらい聞いている問いを尚も繰り返す僕に、運転席に座った前条さんは珍しくうんざりとした顔で唇を尖らせながら頷く。そんなに信用ない?と呟く声が聞こえてくるが、当たり前です、と即答しておいた。  ピンチのところを助けて雇われたとはいえ、命まで自由にされる権利はないはずだ。依頼のたびにこんな方法を取られるのなら、僕は全力で逃げる。マッハで引っ越す。絶対に、絶対にだ。日給二万だろうが、命には代えられないのだ。 「俺だって確証がなければこんな真似しないって。けーちゃんは俺のラッキーアイテムなんだぜ? 死んじゃったら元も子もないだろうが」 「……そりゃ、そうでしょうけど、死なせるつもりがなくても死ぬかもしれないと思わせたらそれはもう死なせたも同然なんですよ!」 「ええ~、死ぬってのは心臓が止まった状態のことを言うんだよ? けーちゃんは動いてるでしょ? 生きてんじゃん?」 「うるせえ!! いいから謝ってください!!」  何を『自分は悪いことしてません』みたいな顔してるんだよお前は。滅茶苦茶怖かったんだぞ。めちゃくちゃ。怖かったんだぞ僕は。怖いの駄目なんだぞ。クソが。  脇腹を思いきり殴りつけると、前条さんは何が面白いのかけたけた笑い出した。腹が立つ。大体僕はけーちゃんではない。けーちゃんって誰だよ。クソ腹が立つな。 「あー、ごめんね?」 「もっと誠意を込めて下さい。具体的には今日は日給五万円にしてください」 「いいよお、五万円な」 「マジですか。本気ですか。いいんですか」  苛立ち任せに言い放っただけだったので、思わずビビって聞き返してしまった。五万はふっかけすぎかな、とか思ってたんですけど、いいんですか?  先程までとは違った恐怖で怯える僕に、前条さんは軽トラックをUターンさせ、山道を下り始めながら頷いた。 「うん、いいよ。金払って許してもらえるならチョロいもんだぜ」 「やっぱり金は良いので誠心誠意謝ってください」 「え、ええ……」 「なんでそっちは渋るんだよ!!」  アドレナリンが出ているのか妙なテンションで怒鳴ってしまった。でもやっぱり、アドレナリンが出ていなくても怒鳴っていたかもしれない。悪いことをしたら謝る。これは世界の常識だろ。出来てないやつがあまりにも多すぎるけど。僕の彼女とか、僕の彼女とか。あと僕の彼女とかな。それと妹。  苛立ち任せに、抱えていたカバンを殴りつけ────あれ? ちょ、ちょっと待った。あれ? 「前条さん! すいません僕カバン忘れてったみたいなんですけど!!」 「あ、そうなの? 新しいの買えば?」 「戻ってもらえます!? 財布とかあるんで、持って帰らないと……!!」 「戻っても良いけど、俺もう疲れたからけーちゃん一人で取りに行ってね」  黙ってしまった。戻って、一人であのトンネルを通って、カバンを取り戻しに行く自分を想像して、思わず黙ってしまった。  だって絶対に嫌だ。何が何でも嫌だ。地球がひっくり返っても一人では取りに行きたくない。  ちら、と隣でハンドルを握る前条さんの横顔を見つめる。一緒に取りに行ってくれないかな~と期待を込めて見つめるも、絶対に視線に気づいているだろう前条さんは口元に笑みを浮かべたまま何も答えることは無かった。 「……あの、ぜ、前条さん……その……一緒に取りに行ってもらえませんか……」 「やだよ、疲れた。お金だってあげるし、どうせ財布ったって碌なもん入ってないでしょ。捨てちゃえ捨てちゃえ」 「そりゃ確かに大した額は入ってないですけど、キャッシュカードとか保険証とか、無いと困るんですよ……!」 「困るのはけーちゃんで、俺は別に困らないしなあ。それに本当に困るなら男気出してカバンくらい取りにいけるだろ?」  クソ野郎の発言も良いところだったが、確かにそれは事実だった。僕が財布を無くしても、前条さんは別に困らない。困るのは僕なので、僕が一人で取りに行けばいいのだ。本当に困っているのならそのくらいは出来るはずだ。  なんて納得しかけて、すんでのところで頭を振った。 「そもそもアンタが僕によいしょってしなきゃこんなことになってないんですからアンタが取りに行くべきなんですよ!!」 「ありゃあ、気づいちまった」 「気づくわ!! なんで気づかないと思った!! クソが!!」 「わっはっは」 「笑ってんじゃねえ!!」  いかん、このままではハンドルを握っている男を本気で殴り飛ばしてしまう。荒くなる呼吸を抑えて必死に冷静になろうとする僕に、前条さんはちらりと目線を向けてから、片方の手を運転席の脇へと伸ばして何かを取り出した。 「はい、カバン」 「は?」 「ごめんね、けーちゃんが騒いでるのが面白くて隠してた」 「は?」  は?  一音以外発することも出来ずに固まる僕に、前条さんは何だかご機嫌に口笛を吹いた。ひゅーぅ。うるせえ黙れ下手くそ。脇腹を再度殴りつけてしまう。  再度と言わず五度くらい殴りつけてしまったが、特に文句は言われなかった。 「ああそうだ、俺の心臓の話聞く? 後で話すって言ったよね」  行きに通った道を半分ほど戻ったところで、前条さんは壊れてつかない車内ラジオの代わりにするつもりか、そんなことを言った。  取り戻したカバンをもう二度と離さないとばかりに抱きしめ、安堵で気が緩み微睡んでいた僕の意識が、その言葉に緩やかに浮上する。  前条さんの心臓の話。心臓が無くなっても生きている人の、心臓が無くなった時の話。興味が無いと言えば嘘になった。  垂れかけていた涎を拭い、姿勢を正して前を向く。ようやく、ちらほらと他の車が視界に現れ始めていた。戻って来たんだな、とほっと息を吐く。  三十分、ゆっくり座っていたせいだろうか。先ほどまでの妙に高いテンションは殆ど抜けていて、僕は割合素直な気持ちで前条さんに話を促せた。 「聞きたいです。なんでそんなことになっちゃったんですか? 無くなったってことは、元はあったんですよね」 「元はね。失くしたのは今から十年くらい前かな。十六の時だから」  記憶を思い起こしているのか、確かめるように何度か頷いた前条さんは、ふと口を噤むと、ほんの少しの間を空けて、僕に問いかけてきた。 「けーちゃんさあ、サーカステント覚えてる?」 「え? ええと、対岸町の真ん中にあるアレですか? あの、ちょっと不気味なやつ」 「……そう、それ。俺が心臓失くしちゃったのはね、あのテントが関係してんだよ」 「………どういうことです?」  あのボロいサーカステントが、前条さんの心臓と一体何の関係があるというのだろう。話の筋が見えずに眉を寄せる僕に、前条さんは前を向いたまま話を続けた。  今から十年前。十六歳の時に、前条さんは『対岸町のサーカス』から招待状を貰ったそうだ。  赤地に金の箔押しがされた招待状はとても煌びやかで、見ているだけで楽しくなってしまうような美しい装飾の施された、それはそれは素敵な招待状だった。  『前条昂様』と書かれたその招待状には、サーカスの場所と、日時と、入場料と、『必ずおひとりでいらしてください』と書かれていたらしい。  今から思えば怪しいことこの上ないが、当時の前条さんは家庭の色々な事情で心がとても参ってしまっていて、その招待状がとても素敵な誘いに思えたそうだ。だから、疑いもせず、煌びやかな世界に気晴らしを期待して、一人でそのサーカスへと向かってしまった。 「待ってください、前条さんって心が参ることあるんですか?」 「たった今、話の腰を折られて心が参っちゃったところ。黙って聞け」 「はい」  結果から言って、そのサーカスは素晴らしかった。  無重力かと思うようなアクロバティックな演技をする空中曲芸、今までに見たこともないほど美しい獣たちが芸を披露し、見る者を惹きつけてやまない愛くるしいピエロが場を盛り上げる。  十六歳にしては冷めている方だった前条さんも思わず心から拍手を送ってしまうような素晴らしい芸の数々に、会場に集められた子供たちは皆が皆、あっという間に虜になった。  辛いことも苦しいことも、全てを忘れられる空間だった。  こんな素晴らしい公演に招待してもらえるなんて、自分はなんて幸運なのだろう、と本気で思った。神様に感謝して、その後、それをすぐさま後悔した。  鳴りやまない拍手を浴び、何度も頭を下げて感謝の意を示していたピエロは、最後の最後、舞台に一人きりになったその時に、ゆっくりと口を開いた。 『皆サマ、本日ノ公演ハ 楽シンデ頂ケマシタデショウカ? 皆サマノ 心ニ残ル演技ガ 出来テイレバ何ヨリデ御座イマス。  サテ、ソレデハ皆サマ。タダイマヨリ、皆サマカラ “入場料”ヲ 頂キタク思イマス。上演中ニ 査定致シマシタノデ、招待状ノ 項目ヲ ゴ確認下サイ。  ソノママ、オ席デ オ待チ下サイマセ』  一礼したピエロが言い放った言葉に、小さなざわめきが広がり始めた。  全員が、招待状に書かれた入場料の項目を思い出したのだ。入場時には徴収されなかったその項目には、『適宜』とだけ書かれていた。  紙を開く音が、さざ波のように連なって聞こえてくる。全員が項目を確認し始めたのだ。当然、前条さんも同じように招待状を開いた。  そして、『適宜』と書かれていた項目が『心臓』と書き換えられているのを見たそうだ。 「それで心臓を徴収されたから、前条さんはそんな状態になったんですか? あれ、でもそれじゃあ、その場で集められた人達は、全員が前条さんと同じように、心臓がないのに生きて……?」 「いや、『適宜』の内容はそれぞれで違っていた。『兄』とか『財力』とか『名前』とか……肉親から概念まで、まあ色々だな。両隣と、前にいたやつのも確かめたから間違いない。それに、徴収された奴らも、全員が生きてる訳じゃないしな」 「…………それは、どういう、」  僕の問いに、前条さんは緩く首を振って答えることを拒否した。つまりは、答えたくないようなことが起こった、ということだろう。  前条さんは相変わらず前方だけを見ながら、続ける。  ざわめきに悲鳴が混じり始めるのは、それからすぐのことだった。あちこちから悲鳴が上がり、半狂乱になった子供たちは一斉に逃げ出した。  ピエロの姿は既に無く、どこまでも明るく優しい出口への誘導の声だけが響いていた。前条さんも逃げ出すべく立ち上がったが、その瞬間に胸に激痛が走り、一瞬で全ての体温が奪われるような、氷水に漬けられたような錯覚に陥ったそうだ。  そして、前条さんは立ち上がることも出来ず、逃げまどう子供たちを見ながら意識を失った。  次に目が覚めた時には、がらんどうの、ボロボロのサーカステントの中で倒れていたらしい。  そして、前条さんの身体からは脈動が失われ、常に氷水に浸けられているような寒気だけが残った。年を取らない訳ではないし、体に変化もあるし、普通の人間と同じく傷も負うので、不老でも不死でもないそうだが、それでも、少なくとも人間ではない何かにはなってしまった訳だ。 「そんで、心臓がなくなっちゃった前条さんは、あの素晴らしくクソったれなサーカスから奪われたもんを取り戻すために超常現象カウンセラーになったのです。おしまい」 「…………さらっと付け足しましたけど、超常現象カウンセラーってなろうと思ってなれるもんなんですか」 「なれるよ、俺が世界初の超常現象カウンセラーだぜ。超かっこいいだろ」  別にかっこよくはないし、それは資格とは呼べないのではないだろうか。思ったが、もはやどこからツッコミを入れればいいのか分からなくなったのでツッコミは放棄することにした。今日はもう、疲れてしまった。  それに、前条さん作の似非資格よりも重要なことがある。 「……本当にあのサーカステントが、その、『サーカス』のテントなんですか? なんで対岸町の人はあのテントを撤去しようとはしないんですか? なんなんですか、アレ」 「さあ、アレが何かなんて、俺にも分からん。ただ、アレが撤去されない理由だけは分かってる」 「理由? なんです?」  問いに答えるより先に、前条さんは異能相談事務所近くの駐車場に軽トラックを停めた。  僕に降りるように言ってくるので、素直に扉を開けて降りる。前条さんも後に続いた。 「あの『サーカス』に関わることは、『サーカス』に関わったことがある人間にしか完全には認識できないんだ。だから、『サーカス』に誘われたことのない人間には、あれはそこにあっても不思議じゃないオブジェにしか見えないし、そこにあっても問題はないし、聞いたところで覚えてもいられないし、俺の格好も人目を引くほど異様なものじゃないことになる。誰も気にも留めなくなる。そういうもんなんだよ」  さらりと言い放った前条さんは、眠気に負けつつある僕が、それでもしっかりと言葉の意味を理解したと察すると、常に浮かべている笑みを更に深いものに変えた。  その笑みが、どことなく寂しそうに見えるのは、僕の気のせいなんだろうか。考えてみるも、妙な汗を掻いた背中がじっとりと重く伸し掛かってきて、結論が出せない。 「……………………………」  前条さんは、無言のまま僕を見つめている。  鼻先までかかった癖毛の向こうから、何かを伺うように僕を覗いている。  彼の、今の言葉の意味が分からないほど、馬鹿ではないつもりだったが、それでも、今の僕には、その意味を噛み砕くだけの時間も、余裕も、──あとひとつも足りなかった。  だから、この場で言うべき『何か』を見つけることが出来ない。多分、きっと、確かにあるはずの、なければならないはずの言葉なのだけれど、今の僕にはそれを拾い上げることが出来なかった。 「…………あの、前条さん」  丸々一分黙り込み、ようやく掠れた声で呼びかけた僕に、前条さんは不意に弾かれたように「あっ!」と声を上げて、軽トラックの荷台を覗き込み、 “それ” を拾い上げた。 「そういやけーちゃん、これついてきたの、気づいてた?」  そこには石製の僕の首があった。  五センチぐらいその場で跳んだ。  叫び声は最早声にならなかった。 「どっ、ど、どどっ、ど、なんっ、なに、をっ、ををぉッ!?!?」  無音のまま丸々十秒叫んでじたばたと暴れ回った僕がようやく吐き出した奇声に、前条さんはけたけた笑いながら、赤子でも抱えるかのように石製の首を腕の中に収めた。 「えっ、だ、大丈夫なんですかそれ!! 大丈夫なんですかそれ!?」 「まあ、けーちゃんの首はちゃんとあるから、別に大丈夫なんじゃない? 寂しくてついてきちゃったんだね~、よしよし」 「よしよしじゃねえ!! 捨てろ!!」  全力の怒鳴り声を放ってしまったが、ビル街だったせいで特に怒られずに済んだ。良かった。良くない。何も良くない。具体的に言うのであれば、石製の首を抱えて事務所方面に駆けていく馬鹿の行いが良くない。  オイ待てコラ、悪趣味が過ぎるだろうがそれは!!  その後、前条さんを全力で追いかけた僕は「けーちゃんおつかれ~、また明日ねー」などとほざきながら僕の首(僕じゃないけど)を抱えて事務所に戻ろうとする前条さんと約五分間の死闘を繰り広げて見事敗北した。  そして、石製の僕の首は、体感四十度の部屋のインテリアになった。最悪だった。  この先、前条昂と関わる内に積み重なる『最悪』の中で、これが一番最初の『最悪』だった。   了

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