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閑話①、②
【閑話①】
前条さんが石製の僕の首を持ち帰った次の日。
扉を開け、まず初めに自身によく似た頭を見て顔をしかめた僕とは裏腹に、前条さんは何だかひどく上機嫌に口笛を吹いていた。相も変わらず下手くそで頭が痛くなるような調子だが、限りなく上機嫌であることだけは伝わる。
何がそんなに嬉しいのか。うんざりしながらソファにカバンを下ろす。とりあえず仕事をしよう、と「朝ごはん食べました?」なんて聞いた僕に、前条さんは組んだ足の先を揺らしながら笑った。
「こないかと思った」
「……僕だって来たくなかったですよ」
「なんで来たの?」
「…………また明日って言われたので」
なんでってなんですか、来ない方が良かったですか。アンタが言ったんじゃないですか。そもそも仕事でしょう。たとえまともな仕事に思える内容が無かったとしても、仕事なんだから来ますよ。
まとわりつくような暑さにイラつきながら吐き捨てた僕に、前条さんは一呼吸置いてから何が面白いのかけたけたと笑い出した。ソファに転がり、腹を抱えて笑い、しばらくして噎せて咳き込む体を押さえつけるようにうつ伏せた。
なんだろう、やけにテンションが高い。別に出会った当初からテンションが低い人ではないが、今日は殊更に高い。言うならば酔っ払いに似ている。
「前条さん、もしかして酔ってます?」
「さあ、どうかな」
「やっぱり酔ってるでしょう」
朝っぱらから飲んでるんじゃない、全く。絶対どこかに転がっているに違いない酒瓶やら缶やらを探そうと目をやった僕は、そのままぎくりと体を強張らせる羽目になった。
「…………待ってください前条さん」
「ん?」
「あの、地蔵の、僕の、その、頭、動いてません?」
石製の僕の首。さっきは窓際のテーブルに置いてあったはずだ。今はソファの間のローテーブルの上にある。
いや、いる、と言った方が良いのかもしれない。良くない。
「ああ、俺が持って来た」
「……嘘でしょう、それ」
「うん」
うんじゃねえよアホ。
舌打ちをかました僕はソファに挟まれたローテーブルから目を離さないまま、置きっ放しだったカバンを素早く拾い上げ抱えて後ずさった。これさえ持っていればどこへ逃げても問題は無い。
「やっぱり捨てましょう! 絶対良くないものですよヤバイですよ呪われますよ!!」
「酷いこと言うなよ、こんなにけーちゃんにそっくりなのに。捨てるなんて可哀想だろ」
「僕に似てるから嫌なんですけど!?」
可哀想なのは僕だ。自分の顔にそっくりな地蔵の頭を飾られて、挙句の果てにそれが知らぬ間に動く様まで見せつけられている僕だ。可哀想に。可哀想に僕。
誰も労わってくれないので自分で自分を慰めていると、前条さんはわざとらしい溜息を零してからソファを降りた。事務所の奥、恐らくは備品庫だろう細い扉の向こうに消え、大した間も開けず片手に金槌を持って戻ってきた。
「全くしょうがないなあ、けーちゃんは」
「ちょっと待ってください、何をしようとしてるんです?」
「うーん、そうだな、鼻とかどうだろう? 誰もこれがけーちゃんに似てるだなんて言わなくなるよ」
「どうだろうと言われましても、いや、いや、いやいや待て! 待ってください!」
たん、たん、と黒手袋に金槌が触れる音が響く。手慰みに金槌を振っていた前条さんは、不意に手のひらから金槌を離すと、僕の鼻先で止めた。
「もしくは、けーちゃんがこれに似てなければいいとも思うけど」
「何も良くないです。何ひとつ良くないです。それやったら僕今すぐにでも辞めますからね、死んだって辞めます」
決死の覚悟で言い放った僕の台詞に、前条さんは低い声で笑った。ざらりと背を撫でるような感触。反射的に振り返るも、後ろには何もなかった。何もなくてよかった。ところで、なんですか今の笑い声。
何か良くないものに触れてしまったような、あと少しで道を違えてしまうような居心地の悪さを感じる。何か誤魔化さなければならない気がする。僕は何も悪いことはしていないと思うのだが、兎に角。
「……朝ごはん食べました?」
丸々三秒開けて問いかけた僕に、前条さんは金槌を置き、ご機嫌な鼻歌を響かせた。
目を離すたび、居心地の良い場所でも探すかのようにあちこちへと移動する石製の首は、結局終業間際にようやく、壁際の本棚の上から二段目、本と本の隙間に落ち着いた。
その間、僕の心は一切何ひとつ落ち着かなかったのは言うまでもない。
依頼人もなく、ただ地獄のように暑い部屋で家事をして過ごしただけの無為な一日を終えた僕を、ソファに寝転がったままの前条さんが見送る。
「けーちゃん」
「はい?」
「また明日ね」
何とも楽しげな声音が妙に腹立たしかったので、明日はコンビニバイトです、と言い捨てて事務所を後にした。
【閑話②】
「前条さんって怖いもの無いんですか?」
「辻打ち水」
「は?」
躊躇いなく廃屋の扉を開く前条さんの背中に、恐怖心を誤魔化すための問いを投げかける。八つ当たり染みた物言いで気休めを求めた僕に、前条さんは明滅する懐中電灯を雑に振りながら答えた。
「だから、辻打ち水」
「なんですそれ」
「打ち水中、道を歩いているだけの善良な市民に水をぶちまけてくるタイプの老婆が心底恐ろしい」
「は、はあ……」
辻打ち水、と呼ぶのか。それは。辻斬りの亜種みたいな? そこはかとなくダサい。が、前条さんのネーミングセンスへの期待など初めて会った日から皆無に近い。
「例えば、零度を下回る日に突然道端で水をかけてくる老婆が居たら怖いだろ?」
「めっちゃ怖いです」
「俺の体感だとそうなる」
「それ、は、確かに、怖いですね、ええ、ほんとに」
腐り落ちた木造の床の端、幾つも開いた穴の一つから覗いた顔を無視して、前条さんの腕を掴んだ。
僕は何も見ていない。何も見ていない。どうして碌な明かりも無いのにはっきり見えるんだ。
何も見たくないので下を見ずに足を進めた僕は、次の瞬間床に開いた穴に片足を突っ込んでいた。情けない叫び声が口から飛び出る。半泣きでしがみ付いた僕に、前条さんはちゃんと下見ないからだよ、なんて言った。うるさい。見たくないんだよ。
大体なんだ。『心霊スポットに忘れ物しちゃったから取ってきて欲しい』って。なんだそれは、それ、それ依頼として成り立つのか。なんでそんな依頼に10万も払ったんだ。馬鹿なのか。なんでそんな依頼受けたんだ。馬鹿なのか。なんで僕はついてきちゃったんだ。馬鹿なのか。馬鹿ばっかりだ。
靴下と足の間で何かがちくちくと暴れまわっている。わあ、あー、あああわわ、と喚き出す僕に、前条さんは僕を抱きかかえるようにして引き上げた。僕を抱えたまま踊るように華麗なターンを決め、床下にブーツの踵を振り下ろす。叫び声。僕のではない。いやもう、僕のだったということにしたい。僕は何も聞いていない。
お留守番しててもいいよ、と前条さんが口にした瞬間、僕の後ろに地蔵の首が動いてさえ来なければ、僕だって素直にあの地獄のような暑さの事務所で留守番してたのに。
帰れば良かったんじゃないか?と今更ながら気づいた。あまりにも今更であるが致し方あるまい。あの時の僕の前には、『事務所で地蔵と留守番をする』か、『前条さんと廃屋に忘れ物を取りに行く』の二つしか無かった。何と言うんだっけ、こういうの。
「一階、全部見終わったけど何も無いね。二階かな」
なんとかかんとか。駄目だ何も出てこない。たとえ恐怖で頭が鈍っていなくとも出てこなかっただろう。
諦めて思考を放棄していた僕は、真っ直ぐに伸びる廊下の奥、一際暗い二階へ続く階段の前までやってきて、そこでようやくはっとして前条さんの腕を引いた。
「……上がるんですか?」
「そりゃ、見つけて持って帰らないといけないし。けーちゃんどうする? ここで待ってる?」
「馬鹿言わないでください」
絶対に離すまいと腕にしがみついた手に力を籠める。前条さんは笑いながら踏み出し、一段目に足を乗せた。
途端。こつん、と軽い物音。
こつん、こん、こん、こつん。
弾みをつけて連続する音に体を強張らせた僕と裏腹に、前条さんは気の抜けた声を出した。
「はあ、ええと?」
え?だの、うん?だの言いながら身を屈め、爪先に転がって来たそれを拾い上げる。
指輪を照らし、内側に依頼人のイニシャルが刻まれているのを確認した前条さんは、珍しく、心底呆けたように呟いた。
「帰れってさ」
楽でいいけど、拍子抜けだし折角だから上がっておく?などと言いながら歩を進めようとする前条さんを引っ掴んで止め、車まで戻った僕は心底偉いと思う。
すみません、ごめんなさい、お邪魔しました、となるべく住人を刺激しないように繰り返しながら廃屋を後にした。僕にとっても心底恐ろしい出来事だが、『彼』にとってもきっと前条さんが恐ろしかったことだろう。
変な同情をしてしまうのは、妙に人間味があったからだ。土足で上がり込んだ人間の求めるものを差し出してまで一刻も早く帰ってもらおうとする態度。僕も彼の立場だったら同じようにしたに違いない。共感は恐怖を軽減する。かといって、毎度使える手でもないのが辛いところだ。
「……思ったんですけど、今回僕がついていく必要ありました?」
事務所近くの駐車場で車を停めた前条さんは、げんなりと呟いた僕に片手を差し出した。
「けーちゃん、手ぇ繋ごうぜ」
「え、嫌ですけど」
「まあそうだろうな」
何を企んでいるかも分からないので即答で拒否した僕に、前条さんは差し出した手をひらりと振って笑った。
そしてそのまま僕の問いに答えることなく、けらけらと笑いながら事務所へと向かっていく。足取りが妙に軽いのがなんとなく腹立つ。
もしかしてあの人は僕を怖い目に遭わせるのが趣味とかなんじゃないだろうか。それならまだ、ラッキーアイテムだから、とか適当めいた声で言われた方がマシだ。
有り得そうで困る恐ろしい想像を胸に抱えつつ、夜道に溶け消えそうな前条さんの背中を慌てて追いかけた。
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