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2:橋の話[前編]

「最近、うちの高校で流行ってる怪談があるんですけど」  依頼人である男子高校生、笛戸拓虎はどこか上の空な様子で口を開き、その怪談とやらを語り出した。  気づくと橋の上にいる。  橋の下には暗く淀んだ広い川。頭上を照らすは橙色の橋上灯。本来ならば車の絶えない四車線道路は静まり返っている。更に言えば、歩道には人影一つもない。  真っ暗闇の中、終わりすら見えない橋の上に、ただ一人で立っている。  何故自分は橋の上にいるのだろう。こんなところに用はないはずなのに。  妙な胸騒ぎを覚えながら立ち尽くしていると、ふと、耳が聞き慣れない音を拾い出す。  ひた、と後方から何かの足音が聞こえる。ひた、ひた、と何かが此方に近づいている。  嫌な焦燥感に背を押されるようにして歩き出す。ひた、ひた、と地を這う、重みを感じない足音。逃げるように歩みが速くなる。  一刻も早く、後ろのアレから逃れたい。その一心で走る。橙色の光の下を逃げ惑い、歯抜けになった欄干の隙間から這い上がってくる何かから目を逸らして走る。  ようやく、橋の終わりが見えてくる。あそこまで逃げ切れば助かる。確信に似た思いを胸に、尚も走る。  走って、走って、走って、最後、親柱の先へ抜けられたものはそこで目を覚ます。寝具の上で跳ね起き、汗に塗れ荒い吐息を零しながら、先程までの出来事が夢だったと気づく。  だが、抜けられなかったものは目を覚まさない。橋に囚われたまま、永遠に戻ってこれなくなる。  そして、この話を聞いた人は三日以内に同じ夢を「待ってください、同じ夢見ちゃうんですか!?」 「……けーちゃん、今お客さんが話してるところだから」 「いや、でも、同じ夢を見ちゃうんでしょう? 聞いたら駄目じゃないですか!」 「駄目だね。すみません、助手は話の腰を折るのが趣味でして」  今日も今日とて地獄のように暑い事務所内。ソファに足を組んで座る前条さんに摑みかかるも、彼は僕の悲鳴など御構い無しに笛戸に続きを促した。  依頼人である笛戸に配慮して声を抑えたのが制止力に欠けた理由かもしれない。聞かなければ良かった、とメモ帳を片手に唇を噛む。  別に、これがその辺で聞いたような怪談だったら、夜寝るのが怖いなあくらいで済む。だがここは前条さんの事務所だ。異能相談事務所。文字通り異能やら異常やらが持ち込まれる場所で聞いた怪談が、ただの怪談で済むはずがない。  どうしよう。今夜眠りについて、橋の上に居たら。  僕はちゃんと逃げ切れるだろうか。正直に言えば自信は無い。運動は苦手だ。  高橋なら逃げ切れるかもしれない。サッカー部エース、ハイパーリア充野郎こと高橋満晴の顔を思い出し、げんなりして頭を振った。現実逃避の先で更に辛い現実を思い出すなど本末転倒である。  もはやこれ以上、何一つも聞きたくないのが正直な心情だったが、前条さんが話の続きを促す以上、一応、仮にも助手などと呼ばれている僕が話を聞かない訳にもいかなかった。  実際はラッキーアイテムとして雇われているのだが、呼称された以上は何となく助手らしく振舞わなければならない気がしてくるのだ。厄介な性分。自覚はあるが変えられる気はしない。 「その『どうして目覚めない人が同じ夢を見たと分かるのか分からないオチの怪談』が依頼内容ということで? 聞いてしまったから夢を見ないようにしたいとか?」 「い、いえ、そうじゃなくて。実は……そう、俺、この夢を見たんですけど、見て、逃げ切ったんですけど……」  歯切れ悪く呟いた笛戸は、そのまま自身の足先に視線を落とした。 「夢の中で、橋の名前を見て。分かったんで……探して、見に行ったんです、友達と。深夜に」 「へえ、それはそれは」  前条さんの声がワントーン上がった。何を面白がってるんですかアンタは。  何やら愉快そうに身を乗り出した前条さんとは裏腹に縮こまる笛戸は、そのままゆっくりと、途切れ途切れに本題――この事務所を訪ねてきた理由について話し始めた。  笛戸とその友人、藤倉龍弥はちょっとした肝試しのつもりでその橋に向かったそうだ。  実際、笛戸の通う高校ではその夢を見たという人間が後を絶たず、同じ光景の橋の写真でも撮ってくれば怪談好きの話のネタになるだろう、と。  スマホを片手に何枚か撮影して満足し、帰ろうかと橋の半ばで踵を返したその瞬間、それは起こった。  藤倉の悲鳴を聞いて振り返った笛戸の目には、橋の下から伸びる無数の白い腕が見えたという。  歯抜けになった欄干、丁度橋の真ん中辺りで開いた隙間に引きずり込まれかける藤倉に腰を抜かした笛戸は、それでも恐怖を振り払い彼の学生服を掴んだ。  無我夢中で藤倉を引きずり出し、追ってくる白い腕から逃げ伸びた笛戸は、橋から少し離れた道路で転がっているところを運よく通行人に発見され、病院に担ぎ込まれた。  二人は熱中症と診断され、点滴を受けた。しかし、笛戸が目覚めてからも、藤倉は目を覚まさなかったそうだ。  かといって意識が戻らない以外に異常もない。  笛戸は確信した。藤倉はあの橋に囚われているのだと。自分が肝試しなんかに誘ったせいで、藤倉はあの橋に飲まれてしまった。 「それで……何とか、龍弥を助けてもらえないかと、思って」  ところどころつかえながら話し終えた笛戸の顔は真っ青だった。入って来た当初のどこかぼんやりとした顔つきは、精神的ショックによるものだったのかもしれない。  その時の情景を思い出したのか、笛戸は今にも吐きそうな顔で俯き震えている。対する前条さんは、普段通りの薄ら笑いを浮かべたまま小首を傾げた。 「助ける、というのはつまりその橋から貴方の友人を取り返し、体に戻してほしいということで?」 「…………そうです、出来ますか?」 「ええまあ。そこの助手が了承すれば」 「はい?」  え、なんで此処で僕が出てくるんだ? 突如話を振られて困惑するしかない僕に、二人分の視線が集まる。三つ目の視線が本棚からやってきている気がしたが、気のせいだと自分に言い聞かせた。地蔵はあっち向いてろ。 「そこの助手が私と一緒に橋までついてきて貴方の友人を運ぶ手伝いさえしてくれれば可能です。けーちゃん、その気ある?」 「え、は? いや、僕、」  反射的に躊躇った声を出してしまった僕に、笛戸は真っ青な顔のまま勢いよく立ち上がった。 「お、お願いします!! あの、俺、金これしか持ってないんですけど、でも、あとで必ず払います!! だからっ、どうかお願いします!!」 「ちょ、ちょっと待ってください、話がよく見えてなくて、」  唐突に前条さんから提示された条件の意図が読めない。全く分からない。分からないからすぐに受け入れる訳にもいかず狼狽えるしかない僕の前で、笛戸はカバンと財布を漁り、ありったけの金を広げ始めた。  お年玉の袋や小さな小銭入れ、くたびれた長財布の中から、ピン札の一万円やしわくちゃの千円札、その他大量の小銭がローテーブルの上に広がる。総額は恐らく五万にも届かないだろう。 「龍弥は俺のせいで巻き込まれたんです、俺が代わりになればよかったのに、このままじゃ、俺、俺……ッ」 「わ、分かった! 分かったから! 行くから、行きますよ大丈夫です! あの、ただ……もしかしたら、その、依頼料が……」  縋り付いてくる笛戸の勢いに押し負け頷いた僕の視界で、前条さんが皺だらけの千円札を摘まむのが見えた。  人差し指と親指で摘ままれた千円札を、前条さんが蛍光灯に透かして覗いている。なんですかその、一万円札以外は初めて見た、みたいなリアクション。買い出し用財布に入ってるんだから見たことあるでしょうが。  笛戸を落ち着かせてソファに座らせつつ、胡乱気な目つきで前条さんを眺めていると、彼は摘まんだ千円札をローテーブルに置き直した。 「とりあえずこれは手付金と言うことでよろしいですか?」 「よ、よろしいです、お願いします……!」  ここで断られる訳にはいかない、という強い意志と共に笛戸は勢いよく頷いた。  緊張と恐怖と不安でいっぱいいっぱいだったのだろう。半泣きで俯く笛戸にすっかり温くなってしまった麦茶を差し出し、背中を摩る。  二十四時間地獄のように暑い事務所だが、前条さんの体質――体質?のせいでお客さんには暑さを認識することすら出来ていないのが殆どである。知らぬ間に脱水症状なんかが起きてはたまったもんじゃない。  雇われてから二週間弱、依頼人の体調管理が僕の仕事になりつつあった。  その後、麦茶を二杯飲み干し、前条さんに件の橋の場所を伝えた笛戸は、カバンを手に取り帰り支度を始めながら、隣に座る僕へと目を向けた。 「あの、気になってたんですけど……櫛宮先輩ですよね?」 「……はい?」  櫛宮先輩。依頼人から呼ばれるには若干不自然な呼称に首を傾げていると、笛戸は少しだけ色を取り戻した顔で小さく笑った。笑うことで気を紛らわすかのような、ぎこちない形の笑みだ。 「覚えてませんか? 俺、囲碁部で、櫛宮先輩が卒業する前に交流戦したと思うんですけど……」 「え? ……そうだっけ? あれ、いつ? 確かに何校か、先生の伝手でそんなようなことした気がするけど、ごめん、覚えてなくて」 「去年の春とかだった気がします、あの、先輩の彼女が応援に来てて、可愛いなって思って」 「…………ああ、うん。元彼女ね」  現実逃避した罰だろうか。現実から傷を抉られる羽目になってしまった。遠い目になる僕の視界の端で、ぱっと、前条さんが弾かれたように顔を上げた。  黒い皮手袋が、ローテーブルに散らばったくしゃくしゃの札を寄せ集め、雑な仕草で懐に仕舞う。おもむろに立ち上がった前条さんは笛戸の肩を抱いてキッチンの方へと歩いていくと、追おうとする僕をもう片方の手で払った。 「けーちゃん、そこで待ってな。俺は笛戸君とお話があるから」 「なんの話ですか」 「いいから座ってろ」  黒い指先が力強くソファを指さすので、有無を言わせぬ勢いに僕は静かに腰を下ろした。キッチンの方からぼそぼそと前条さんの声が漏れ聞こえてくる。なんだ、なんなんだ。一体何を話しているんだあの人は。  すごく気になる。ものすごく気になるが、座っていろと言われたのだから座っていないと大変なことになるかもしれない、と思うと腰を上げることも出来なかった。 「もちろん、その話には二十万の価値がある」  ぼそぼそと続いた内緒話の中で、聞こえてきたのはこの一言のみである。笛戸を抱えて戻ってきた前条さんは、テーブルの上に残っていた小銭を笛戸に返して言った。 「とりあえず、無事に解決出来たら藤倉君からも依頼料を貰うと言うことで」 「はい、よろしくお願いします」  何やら話はまとまったらしい。友人が心配なのか何度も頭を下げながら事務所を後にした笛戸を見送った。  いやまさか、こんなところで知人に会うとは思わなかった。  あ、しまった。僕がこの口に出すのも恥ずかしい事務所で働いていると口外しないでくれと伝えておくのをすっかり忘れてしまった。  暑さとは別の理由で汗を掻き始めた僕は、いや、でもまさか笛戸から元同級生に話が回るなんてことはないだろう、と努めてポジティブに考えることにした。  それに、今は別に考えなければならないことがある。 「で、前条さん。どうして僕が橋についていかなければならないのか聞いても?」  そう。僕は何故か、前条さんと共に件の橋に行くことを笛戸と約束してしまった。約束してしまった以上は行くが、それでもどうして僕がついていかなければならないのかは知りたい。  取り出したくしゃくしゃの千円札を伸ばすことに執心している前条さんに問いかけると、彼は顔を上げないまま何とも朗らかな声で答えた。 「そりゃ、よいしょってする相手が必要だから」 「また僕によいしょってする気なんですか!?」  また、あの、アレをする気なんですか!? 思わず、強くテーブルを叩いてしまった僕に構うことなく、前条さんは二枚目の千円札を広げ始めた。 「だーいじょうぶだって、今回のは別にけーちゃんが呪われる訳でも死ぬ訳でもない。ただちょっとの間、その藤倉君とやらを乗っけて運ぶだけだ」 「い、いやでも、それなら僕じゃなくても前条さんが運べば問題ないでしょう?」 「問題しかないから頼んだんだよ」 「何がどう問題なんです」 「藤倉君がまだ生きていることが問題」  全ての千円札を伸ばし終え、なんだか満足そうに畳み直した前条さんは、さっぱり分からない、とでかでか書いてある僕の顔を見ると、少し困った様子で口元に手を当てた。 「藤倉君が死んでもいいなら別に俺が受け取っても構わないんだが、今回は生きて帰さなきゃいけないから無理だ。別に俺だってけーちゃんに嫌がらせしようと思って毎度連れて行ってる訳じゃ――……、…………」 「なんで黙ったんです? ねえ、なんで黙っちゃったんです!?」 「兎に角、今回のは本当にけーちゃんに協力してもらわないと困る。けーちゃんだって知人を悲しませるような真似はしたくないだろ?」 「ええそれはそうですけど、とりあえずどうして今黙ったのか聞かせてもらってもいいですか!?」  もしかしなくても嫌がらせでやったんですか!? というか今、『今回のは』とか言わなかったか!? この、こん、こんにゃろう!! クソ野郎!!  ラッキーアイテムってのはもっと大事に扱うもんなんじゃないのか!? 僕はラッキーアイテムとして雇われたはずなんだが、碌に大事にされている気がしない。別に大事にされたい訳じゃないけど。でも、一個五百円のお守りみたいにぼろぼろになるまで使い倒されたらどうしようか、という不安はあるのだ。  憤慨と共に詰め寄った僕に、前条さんは相も変わらず軽薄な口調で言った。 「分かった分かった、心配すんなよ。ちゃんと俺が守ってやるからさ」  今一つ信用にかける台詞だったが、信じる以外に解決法はありそうになかった。      液体みたいなものだ、と前条さんは言った。  僕らが幽霊だとか魂だとか呼んでいるものは液体みたいなもので、よほどのことがなければ不定形で流動していて、器にでも入れないと碌に運べない代物らしい。  生きた魂を運ぶのには生きた人間が一番向いている、のだとか。だから僕の身体が必要で、それでいて、前条さんでは駄目なんだそうだ。  一応前条さんだって生きてる人間じゃないですか、と言ってみたが、笑いながら首を振られてしまった。別に心臓だけの話じゃない、と前条さんは続ける。  仮に前条さんに心臓があったとしても、彼は生きた魂を運ぶのには向いていないのだという。というか、生きていなくても運ぶという行為自体に向いていないそうだ。  向いていないとはどういうことか、僕にはよく分からなかったのだが、興味本位で聞いたら「知りたい?」と愉しげに返って来たので丁重にお断りしておいた。わざわざ藪をつつくことも無い。  僕にとっては、この同行に意味があるのならそれでいい。厳密には全くちっとも、これっぽっちもよくはないのだが、それでも理由があるのなら良しと出来る。  笛戸のことは結局朧げにしか思い出せなかったが、過去に顔を合わせ言葉を交わしたことがあるのなら手を貸す理由には充分だ。  そう納得し、前条さんについてやってきた。の、だが。 「なんっで陽が沈んでから来る羽目になってんですか……!」 「笛戸君が来たのが遅かったから?」 「明日でも良いじゃないですか!」 「けーちゃん今日寝れんの?」  笛戸から教えられた橋に着く頃には空は殆どが藍色に染まり、もう十分もすれば地平線際の橙も溶け消えるかというところだった。  車は近くの駐車場に置いてきたので徒歩である。日没を迎え急速に暗くなっていく空に不安を煽られながら、前条さんと共に橋の出口に立っている。橋名板を眺めながら不満を述べた僕に、前条さんは端的な問いを向けてきた。  今日寝れるのか。そう問われれば、答えは無論NOである。絶対に寝れない。  例の怪談が笛戸の言った通りなら、僕は三日以内にこの橋の夢を見る羽目になる。三日以内、つまりは今日見てもおかしくないということだ。 「今日中に片付けてぐっすり寝るのが一番だと俺は思うけど、別に明日でもいいなら明日来てもいいぜ」 「ぐっ、く、きょ、今日行きましょう!」  正直地団太を踏んで嫌だと駄々を捏ねたい気分だったが、ちらほらと通行人が居たので堪えた。そう、まだ人が居るのである。心霊スポットに前条さんと二人きり、などという状況よりは百倍マシだ。  橋上灯も行く先を照らしている。懐中電灯が必要ない、というのはそれだけで有難く思えた。  四車線もある広い橋である割に、人がすれ違うのもやっとな歩道を歩み始める。下に広がる川まで随分な高さがあるせいか、白い欄干は幅の狭い柵になっていた。この中に、歯抜けになった柵があるらしい。 「真ん中あたりって言ってたよなあ、あの辺か?」  時折向こう側から歩いてくる人や自転車とすれ違いつつ、前条さんと共に進む。腕とやらが出てくる場所を探すのは前条さんがやってくれているようなので、僕はひたすら彼の後ろにくっついて通行者に気を配るに留めた。 「けーちゃんの高校って学ラン? それともブレザー?」  不意に前を行く前条さんから問われ、僕は一瞬面食らってからほぼ無意識に答えを返した。 「うちは女子も男子もブレザーでした」 「ふうん、確かにけーちゃん、ブレザー似合いそうだね。ブレザーっぽい顔してる」 「なんですブレザーっぽい顔って」  どうやら、暇なので道すがら雑談を交わすつもりらしい。緊張を紛らわすには丁度いいので素直に乗ることにした。 「笛戸君なんかは明らかに学ランっぽい顔だったろ? 五分刈りの真面目な好青年」 「茶髪の不真面目な軟弱野郎には似合わないと」 「そこまで言ってないだろ」 「すみませんね文化部軟弱野郎で」 「なんだよ、やたらと噛み付くな。そうそう、けーちゃん、囲碁部だったんだね」 「ええまあ、結構強いですよ。今度やります?」 「俺、囲碁も将棋もルール分かんねえんだよなあ。確かババ抜きなら前に一回やった、変な遊びだよな」 「一回って、どんだけ友達いないんですかアンタ」 「失礼だな、一人はいる」 「一人」 「ああ、でも向こうは友達と思ってないな」 「実質ゼロ人じゃないですか」  おかしいな、と思い始めたのはこの辺りである。  度々向こうからやってきては僕らとすれ違っていた通行人が、全く来なくなった。  日も暮れたし、そういうこともあるだろう。そう思って納得しようと思ったのだが、車道も静まり返っているのは一体どういう訳か。自分を納得させるだけの理由が見つけられないまま、歩を進める。 「そういうけーちゃんはどうなんだよ、友達いんの?」 「いますよ、……いましたよ。いなくなりました、実質ゼロ人です」 「俺とさして変わんねえじゃん」  けたけたと笑う前条さんは上機嫌に前を行く。もはや向こう側から来る人間は一人もいない。見当たらない。  それなれば隣に並んでも問題はないだろう。謎の焦燥感と共に足を速めた僕が前条さんの隣に並んだのと同時に、後方から耳慣れない音が聞こえた。  ひた。  前条さんの腕を掴んだのはもはや反射である。どんなに減らず口を叩こうと、この場で頼れるのは前条さんだけだ。  頼れるのが彼一人だろうと口が減らないのは、もう、アレだ、最初の出会い方が良くなかった。何よりも前条さんの性格が悪い。  ひた、ひた、ひた。  何かが後ろから近づいている。水気を含んだ足音だ、と気づくと同時に、その音がやけに軽いことにも気づいた。  脳裏に浮かんだのは、笛戸が言った白い腕だ。濡れた手のひらが地面を撫でる音と言うのは、丁度、こういう具合になるのではないだろうか。  前条さんは構うことなく歩き続けている。僕もつられて歩く。後ろを振り返った方が良いのか、悪いのか、分からないまま震える足で前条さんについていく。 「あった、真ん中」  後方の足音など微塵も聞こえていないかのような態度で歩調を変えることなく足を進めた前条さんは、歯抜けになった欄干の柱を見つけるや否や、黒手袋を引き抜いた。  どうして補修されないのか不思議なほどに開いた隙間の遥か下に、墨のような水面が覗いている。月明かりすら飲み込むような黒い水面。水気を含んだ足音が脳裏をかすめ、目を逸らすように欄干を注視した。  小さな子供なんかは下手したら落ちてしまいそうな隙間だ。かなりの高さがあるのだし、これを直さないのは問題があるんじゃないだろうか。申し訳程度に残っているビニールテープの切れ端を見つめながら眉を寄せる僕の耳に、疑問に答える声が届いた。 「直そうとすると事故が起きるから諦めたんだとさ。何人かは腕に引きずり込まれたとか喚いて最後にはまともに口も利けなくなって、今じゃ不気味がってまともに直そうとしない。そもそも橋を架ける時にもひと悶着あったとかなんだとか、なんだったかな」  橋を架ける時にひと悶着、ということは川が曰く付きなのか。暗く淀んだ水面が途端に圧迫感を持った気がして変に息が詰まった。 「けーちゃん、ちょっとこっちで屈んで」 「あの、前条さん、後ろの……やつはどうにかしなくていいんですか」 「いい、こっちが本命だから時間の無駄だ。おいそこ、人のもんに勝手に触るな蹴り飛ばすぞ」  胸やけにも似た嫌悪感を覚えつつ唇を噛んでいた僕に、前条さんが片手で伏せるように示してきた。ついでとばかりに後方に罵倒を吐く。  途端、背の辺りにあった張り付くような湿気が消え失せた。思わず後ろを振り返りかけてしまったのだが、それより先に前条さんが僕の頭を押さえつけた。どうやら振り向かないのが正解だったらしい。ん? ちょっと待て、誰が誰のもんですって?  力任せに屈まされた僕が咄嗟に欄干の柱のひとつを掴み、訂正を口にしようとした瞬間、前条さんはそのまま掴んでな、と言い捨て、欄干の隙間に片腕と頭を突っ込んだ。 「……………え?」  突っ込んだぞこの人。今しがた『何人かが腕に引きずり込まれた』とか言ってた欄干の隙間に、頭から突っ込んでいったぞ。 「えっ、ちょっ、前条さん!?」 「そっちの手で俺の背中も掴んどけ。もう少し奥に行くから、くそ、狭いな、無駄に成長してしまった弊害が、あー、一回抜けるからけーちゃん行ってくれる? そしたら俺がこっちから、」 「絶対嫌です!!」 「けーちゃんの方がちっちゃいし行けると思うんだけど」 「いや僕こう見えて175センチありますから絶対に無理です高身長なので」 「は? うっそだぁ、けーちゃん170も無いだろ。俺ブーツ履いたら190超えるんだぜ、いつも差がこんくらいだろ? 165?」 「しっ、四捨五入すれば170センチです!!」 「175は鯖読みすぎだな」  何がツボったのか肩を震わせる前条さんの笑い声が暗闇に飲まれていく。  こんくらいだろ?などと言っている前条さんは恐らく指先で幅を表していたりするのだろうが、残念ながら彼の腕は橋の下から伸びる白い腕の群れに半分ほど飲まれているので、どんくらいなのかはさっぱり分からなかった。  気づいた時には、橋の下、川底から折り重なるようにして這い上がってきた腕の群れが、前条さんの肩まで飲み込んでいた。  恐ろしくて目を逸らしたいのに、逸らした瞬間襲い掛かられたら、と思うとつい凝視してしまう。  どう見ても腕の形をしているのに、どう見たって腕ではありえない関節を無視した動きで前条さんに群がる白い腕。見ているだけで眩暈がしてきそうだった。  さっぱり分からない。何もかも分からなくなりたい。こんな光景、もののけ姫で見たな。半泣きで現実逃避に走る。 「藤倉くーん、どこー?」  とうとう顔まで突っ込み始めた。この人には怖いものは無いんだろうか。辻打ち水、という謎言語が脳内を舞った。 「っかしいな、まだ食い終わってないだろ吐き出せよ。はあ、カミサマ用の催吐薬って無いのかね」  それは千と千尋で見た。一人脳内ジブリ祭りを始めている僕の横で、前条さんが呑気な声で何やらぼやいている。  どこからどう見ても異常事態だと言うのに緊張感ってものがない。僕なんかもう、座っているんだか腰が抜けているんだかも分からないと言うのに。  掴んでろ、と言われた以上離すことも出来ずに見守っていると、不意に身体を強張らせた前条さんが焦りの滲む声を零した。 「あっ、やべ」  次いで、掴んでいた背中がびくりと大きく跳ねる。四つん這いになった足の先、鉄板入りらしい靴が派手な音を立てて歩道を叩いた。  前条さんが身体をねじ込んだ欄干の隙間から、彼の身体と支柱の合間を縫って白い腕が這い出そうともがいている。うねうねと果実を食い破る芋虫のような動きで這い出してくる指先に、一瞬でぶわりと冷汗が滲んだ。 「え、ちょ、ぜ、前条さん? あの、だ、大丈夫なんですよね? ちょっと、」  僕の聞き間違いでなければアンタ今、『やべ』って言ったと思うんですけど。  返事はない。  掴んだままの背中が小刻みに痙攣している。跳ねる度に苦し気な呻き声が聞こえる。  白い腕が一本、前条さんを押しのけながら此方に這い出てきた。  波打つ白い指先が舐めるように前条さんの背中を撫でる。ゆっくりと降りてきたそれが、縋ることしか出来ずに背中を掴み続ける僕の手に重なりかけたその時、前条さんの足が苛立ちをぶつけるように車道との境の柵を蹴り飛ばした。  金属同士がぶつかった打撃音が響く。白い手が一瞬、躊躇うような素振りで手首を持ち上げる。その合間に、碌に言葉の形を成していなかった呻き声がたどたどしくだが僕を呼んだ。 「けーちゃ、っ、ひっぱって」 「えっ? あ、はい!」  掠れた声に応えて掴んでいた背を引く。突っ込んでいなかった方の前条さんの手が欄干を掴み、僕が引くのに合わせて一気に身体を引き抜いた。  そのまま四つん這いで噎せる前条さんの肩に、幾本かの腕が爪を立てている。しがみつくそれを払うように腕を振った前条さんが、何かを探すように手のひらで空を掻いた。  下手したら橋の下の腕と同じくらい白いんじゃないかって手が、宙をさ迷っている。未だ身体を起こせないらしい前条さんが何を探しているのか察した僕は、背中を掴んでいた手で彼の手首を掴んだ。  相も変わらず、ぞっとするほど冷たい。反射的に放しかけるのを何とか堪え、探しているのだろう僕の顔まで導いた。  冷えた指先が額を撫でる。場所を確認したらしい手が一旦距離を取ったので、急いで眼鏡を外した。  狙いを定めた手のひらが僕の顔面を勢いよく叩く。ばちんっ、と緊張感の無い音が響いた。 「ぐっ、こ、これって他に方法ないんですか!? もうちょっとこう穏便に、ひぃっ!」  痺れるような痛みに歯を食いしばっていた僕は、そこでふと、欄干を掴んでいた手にぬるりと何かが絡みつくのを感じて掠れた悲鳴を上げた。 「え、ちょっ、ぜ、前条さん、終わったんですよねこれ!? じゃ、じゃあ帰りま――おわぁ!?」  怖くて碌に見れないまま逃げようと離した僕の手を、濡れた手が掴んだ。ぞっとするほど冷たい、ぬるついた感触がおぞましく、涙がにじみ出る。  そのまま、腕一本通るのがやっとという柵の隙間に引きずり込むように引っ張られた。しかし肩から先が通らない。がん、と欄干に左の米神がぶつかる。構うことなく、引きずりおろそうと幾本もの腕が絡みついてくる。 「あだっ、いだ、いだだだっ、待っ、ちょ、ッ、取れる! 腕取れるから!!」  怖い。心霊的な理由ではなく僕の腕がこのまま引きちぎられそうで怖い。腕だけが持っていかれそうで怖い。肩が悲鳴を上げている。  半泣きで踏ん張る僕の視界には、未だ顔を伏せてえずいている前条さんと、彼にまとわりつく白い腕しかない。他には誰もいない。何もいない。助けを呼べそうな相手は微塵もいない。自分で何とか出来る気もしない。  あれ、これ、絶体絶命というやつじゃないか?  一瞬で血の気が引き、呼吸すらままらなくなったその時、ひと際大きな咳き込みに次いで嘔吐音が響いた。  粘性のある液体が地面にぶつかる音が聞こえる。  吐き出されたものが地面を汚す音。合間に入るのは前条さんの呻き声だ。 「前条さん!? 大丈夫ですか!?」  もしかしてこの白い腕に何かされたんだろうか。先程から碌に身動きが取れていないように見える。勤め始めて二週間弱、大体の霊的現象には無敵なんじゃないかと思うほど平気な顔をしている前条さんのこんな姿は初めてだった。  不安と心配から前条さんに目を向けた僕は、蹲った彼が押さえた口元から零れ出たそれを見た瞬間、その場の不安とは別の理由で背中に冷汗が伝うのを感じた。  地面が真っ黒に塗りつぶされている。  夜だからそう見えるのか?なんて思って震える手で眼鏡をかけ直すも、やはり黒い。えずき続ける前条さんの口から黒い何かが零れている。 「う、げ、ぇっ、……ぇほっ、うぐ、ぅ、ぁっ、」  身体を強張らせた前条さんが、一瞬の間を空け、重ねて吐いた。黒い液体が更に広がる。  その直後、跳ねた液体がかかった白い腕の一本が弾かれるように前条さんから離れた。丁度、熱湯でも浴びたかのような動きで飛び退いていく。気づいた他の腕も、急くようにしてそれに続いた。 「あ、あ゛ー……ぅ、はあ、あー、クソ、……ッ、」  巣に戻る蟲に似た動きで欄干の隙間に戻っていく腕たち。だが、僕の手を掴んでいるやつらはまだ異常に気付いていないのか、それともこのまま逃げ際に持っていくつもりなのか、放す気配がない。  黒い液体が当たった瞬間、一瞬だけ力の弱まっていた腕が、再び力強く僕の身体を引き始めた。再度米神をぶつける。 「あだぁっ!」  駄目だ、こいつらやっぱり僕ごと引きずり込んで逃げる気だ。抵抗するも、腕の数は一対十、絶望的に勝ち目がない。なんか、なんか武器になるものは? まだ自由の利く方の手でカバンを探る。が、何もない。スマホと眼鏡ケースとバイト先の夢路先輩から貰ったチョコレートしかない。  チョコレート投げてみるか?などと混乱のなか腕の餌付けにチャレンジしようとした僕の耳に、背筋が寒くなるような声が聞こえた。 「触んなっつったろ」  視界に影がかかる。覚束ない足取りで傍らに立った前条さんは、僕の腕を掴む白い手の一つを無理矢理引きはがすと、じたばたと暴れるその白い指先に、躊躇うことなく歯を立てた。  黒い液体で汚れた口が白い指先を食む。残った指が暴れて前条さんの顔を掻くが、彼は構うことなくその指の一つを、力任せに食い千切った。  ひ、と知らず喉が鳴る。無意識に体が後退った。  暴れ回る腕を掴んだまま、前条さんは欄干の向こうに噛み千切った指先を吐き出した。途端、蜘蛛の子を散らすように腕が逃げていく。僕の腕を掴んでいた腕たちもそれに続く。  白い腕が闇に溶けるように消えていく。前条さんが掴んでいた腕を離し、逃げ遅れたそれが橋の下へと潜り込み、後には静寂が残った。

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