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2:橋の話[後編]

 夢か何かでも見ていたかのようだ。呆然とする僕がゆっくりと瞬いた――その時、静寂を切り裂くようにして後方でベルが鳴らされた。 「――――危ねえだろ何やってんだ!」  男の怒鳴り声が響く。 「はいっ!? すいません!!」  地面にへたり込んだままの僕が欄干に身を寄せるのと同時に、身体の脇を自転車が走り抜けていった。走り去っていく自転車の背を眺めながら、突然のことに動悸が激しくなった心臓を抑える。  ふと周りを見渡せば、いつの間にか車道も歩道も往来が戻っていた。ヘッドライトの明かりが行き交う車道を眺めながら、僕は欄干に寄りかかったまま深く息を吐いた。 「し、死ぬかと思った……」  涙の残る目を擦って拭う。何度か深呼吸してもまだ乱れる呼吸が落ち着く頃になってようやく、立ったまま欄干に寄りかかる前条さんが随分と静かなことに気づいた。 「……前条さん?」  手袋を嵌め直し、口元を拭った前条さんは、ぼんやりとした様子で橋の下を見下ろしていた。身体を引き抜いた時にニット帽を持っていかれたのか、癖のある黒髪が風に吹かれて揺れている。 「あの、前条さん、大丈夫ですか?」 「……ん? ああ、うん、大丈夫。藤倉君も、まあ、半分は無事だし、戻せば何とかなんだろ」 「いや、そっちじゃなくて、そっちも大事ですけど……その……、…………なんか吐いてましたよね、さっき」  何、と言えない気味の悪さと共に問いかけると、前条さんは緩く小首を傾げ、合点がいったように自分の手を見下ろした。拭った黒い液体がついているのだろう手袋。 「これな。気にすんなよ、いつものことだから」 「い、いつものことなんですか」 「向いてないって言ったろ? 俺に乗っけると大体こうなるんだよ、生きてても死んでても関係ない。けーちゃんが居心地のいい布団だとしたら俺は圧搾機。上から出るだけマシだな」  前条さんは分からせるつもりが一切ない口ぶりで説明すると、はあ、と疲れの滲む溜息を零した。 「向こうから突っ込まれるのはあんまり無いけど、まあカミサマだからなあ。あー……でもこれ、謙一がうっさいだろうな……」  うんざりした様子で橋の下を見下ろした前条さんは、数秒の後に全てを放棄した声でまあいっか、と零し、僕の手を掴んだ。  汚れてはいない方の手だ。それでもびくついてしまったのは、偏に先ほどの光景があまりにも異様だったからである。  前条さんは、身体を強張らせた僕の前でにんまりと唇の端を持ち上げると、有無を言わせない強さで僕の腕を引いて歩き始めた。 「――――あの、前条さん!」  橋の真ん中から出口に辿り着く間、前条さんは計三回立ち止まって黒い液体を吐いた。蹲り、吐き出し、ふらつきながら歩み出す。おかげで橋には点々と黒い液体が撒き散らされていたが、前条さん曰く「放っておけば消える」そうなので、僕も気にせず彼の後を追った。  吐き出された液体は無論気にならないと言えば嘘になるが、今はそれよりも、僕の腕を掴んで歩く前条さんの体調が気になった。  橋の出口までやってきて、駐車場へ向かおうと足を進める前条さんの背中に呼びかけると、僕の腕を掴んだ手のひらに更に力がこもった。 「……えっと、逃げないんで、一旦放して貰えませんか」 「………………」  立ち止まって吐く間も、一度も離されなかった手。痛い程に掴んでくるそれが、僕を逃がすまいとしていることくらいは簡単に察しがついた。  振り返った前条さんが無言で僕を見つめている。首を傾けたせいで前髪の隙間から覗いた瞳が、僕の本心を読み取ろうとしているのか頭のてっぺんから足先までを撫でて行った。  手が離される気配はない。 「……ま、まあ、そりゃ、ちょっと怖かったですし、ぶっちゃけやばいなって思ったんですけど、でも、あの、ええっと、ほ、ほら、帰らなきゃいけないですし、そんな、ここで逃げたりとかはしないですし、」 「ここで?」 「か、帰ってからも。もちろん」  大げさなまでに頷いて見せるも、前条さんは僕の言葉に興味を失くしたように視線を前方へと戻した。 「ほっ、本当に! アンタに肩貸そうと思ってるだけなんですって! ふらふらじゃないですか、も、もう、何吐いてたとかどうでもいいんでとりあえず一旦放してください!」  ほんの少し力の緩んだ手からもがくようにして腕を引き剥がし、脇の下から入り込むように肩を貸すと、迷いなく足を踏み出そうとしていた前条さんがわずかにたたらを踏んだ。 「え? ん? ……けーちゃん?」 「ほら、行きますよ。早く帰って休みましょう」  妙に平坦だった声音が、呆気に取られたようにトーンを上げる。さっきまでの変に薄気味の悪い空気がどこぞへと消えたのを感じてほっと息を吐いた僕の耳元で、前条さんは小さく笑った。  やっぱりけーちゃん170ないだろ、などと。笑った。笑いやがった。  ムカついたので足を踏んでおいた。  事務所に戻った前条さんは顔面を雑にタオルで拭うと、ソファに寝転がった。下手したらそのまま寝入ってしまいそうなほど疲弊して見えたので、一応声をかけておく。 「毛布とか用意しておきます? というか、そろそろベッド買った方が良いと思うんですけど」 「買ったところで置く場所がない」 「変なもんばっかり置いてるからでしょ」  日頃からソファで寝ているらしい事務所にはベッドの類いがない。パーテーションで区切られたキッチンと風呂場以外に生活スペースと呼べるような場所も無いので、端から置く気もないのだろう。  片付けようにも壁際に並んだ本棚と数多くの暖房器具、それと備品庫から食み出している段ボールによって室内の殆どが占拠されているので、今度はそれらを置く場所が無くなる。まあ、前条さんが此処でどう過ごそうと前条さんの自由だ。彼の事務所なのだし。 「けーちゃんもう上がっていいよ、藤倉君を戻すのは明日やるから」  寝転んだまま雑にブーツを脱ぎ捨てる前条さんに引っ張り出した毛布をかけてやると、軽い溜息を吐きながら終業を告げられた。 「え、明日ですか」 「うん、明日。どうせ今からじゃ会えないし。何か問題? ……ああ、夢か。見ないだろうから心配ないよ、もしも目覚めなかったら俺が叩き起こしに行くから」  それだけ言い残すと、前条さんは意識を手放すかのようにして眠りについた。ひらりと振られていた手が力なく毛布の上に落ちる。どうやら、僕が思っていた以上に疲れていたらしい。  僕がいる内に寝入るのは初めてのことだった。電気とか戸締りを見てから帰った方がいいんだろうか、鍵は貰っているので締めて帰ることは出来る。  冷蔵庫の中身と消耗品の在庫を確かめてからソファまで戻ってきた僕は、そこでふと、前条さんの頬が薄黒く汚れていることに気づいた。  自分じゃ拭いきれなかったんだろう。ローテーブルに放られたままのタオルを手に取り、右頬に残る汚れを拭い去ったところで、小さく呻いた前条さんが僅かに首を傾けた。  帽子で押さえつけられていない前髪がさらりと横に流れる。見れば、髪の先も僅かに汚れていたので、ついでに拭っておくことにした。  起きる気配のない前条さんの前髪を掻き分け、タオルで先端を拭――――うわ、この人、めちゃくちゃ綺麗な顔してるな。ビビッてつい身体を引いてしまった。 「え、うわ、ええ……世の中不公平だ……」  超常現象カウンセラーなる胡散臭い仕事についている人をラッキーアイテム扱いで振り回す男が、こんな綺麗な顔をしていて許されるのか。神様は何か采配を間違えたんじゃないだろうか。今さっき、『カミサマ』とか呼んでいた存在の指を噛み千切った人ですよこの人。  顔色が最悪であることを差し引いても十二分に美しい造りだった。そのまま、魅入られるように眺めてしまう。そう、端的に言って、好きな顔立ちだったのだ。 「…………? ……けー、ちゃん?」 「へっ、ぁ、はい!?」  僕があまりにも食い入るように見つめていたからか、人の気配が近くにあったからか、少し眉を寄せた前条さんがゆっくりと瞼を持ち上げた。  開かれる瞼の動きにすら見とれてしまって、ろくに誤魔化せないままばっちり目が合ってしまう。  思わず肩が縮こまった。いや、だって、これだけ綺麗な顔をしているのにあれだけ前髪を伸ばすって、要するに見られたくありませんよ、と言ってるようなもんだ。それを、善意からの行動とは言え勝手に覗いたのだから、これはもう怒られても仕方ないというか、怒られる前に謝っておいた方がいいというか。  しかし、あたふたと両手で空気を掻き混ぜ始める僕の焦りをよそに、前条さんはぼんやりとした視線を数秒僕に向け、ふわりと微笑んだ。 「おやすみ、けーちゃん」 「おっ…………やすみ、なさい」  僕の返事を聞いた前条さんが満足げに目を閉じる。寝息を立て始める彼の前髪を直し、マフラーを巻き直し、暖房器具の点検と消灯をして、僕は自宅まで全速力で自転車をこいだ。  この、何かとんでもなく煩い心臓に、煩くなるだけの理由をつけてやらねばならなかった。残暑が厳しい夜である、全速力で漕げば死ぬほど暑い。息も苦しい。顔も赤くて当然である。  そのまま風呂にも入らず布団に潜って、寝て、起きて、僕ははたと気づいた。  心臓が煩かった理由が分かった。  前条さんの顔は僕の初恋のお姉さんに似ていた。 「前条さんってお姉さんか、妹さんいますか」 「いや? 兄弟も姉妹もいないけど、それがどうかした?」  早朝、シャワーを浴びながら『出勤したら真っ先に聞こう』と心に決めた問いを単刀直入に投げた僕に、前条さんは首を傾げながら問いを投げ返してきた。  帽子が無いのでいつもより前髪の揺れる幅が大きい。思わず目を逸らす。あの下にあの顔があるのだと思うとどうにも落ち着かなかった。 「じゃ、じゃあ、従姉弟とかは」 「んん? 何を聞きたいのか知らねえけど、存命の親族は伯母だけだな」 「え、あ、そ、そうなんですか……あの、すみません変なこと聞いて」  さらっと聞いてはいけないことを聞いてしまった気がする。気まずさに口ごもった僕を見て、前条さんは気にすんなよとけらけら笑った。  どうやら体調はすっかり戻ったらしい。いつも通り、悪夢のように暑い部屋で熱々のほうじ茶なんぞを啜って一息ついている。見慣れ始めてしまった光景にほっと安心するような、げんなりと気疲れするような気持ちになりつつ腰を落ち着けた。落ち着けてから、対面に座ったのは間違いだったかもしれない、と思った。 「……そう、いえば、ニット帽持ってかれちゃいましたね。もう被らないんですか」 「まだあるから適当に違うの使うよ」 「今被らないんですか」 「まだいいかな。今日は調子いいし」 「はあ、調子」  何のだ、と思って訝しむ僕を見て、前条さんは機嫌よく頬杖をつきながら笑った。隙間から覗いた瞳に見据えられて、慌てて首ごと視線を逸らした。 「良い夢見たんだ、だから調子が良い。まあ、耐えられなくなったら被るけど」 「へ、へえ……夢……なるほど……」  夢と調子の因果関係はさっぱり不明だったが適当に頷いておく。前条さんがにやにやしながら僕を眺めている気がしてなんだか居た堪れない。妙に小さくなってしまう。  カバンを抱きしめたまま挙動不審になる僕に喉を鳴らして笑った前条さんは、懐から携帯を取り出すと、画面を確認してから二つ折りのそれを閉じた。 「面会時間に合わせて笛戸君から連絡来るから、それまで飯にしよう。俺、今日は鮭の気分」 「……味噌汁とご飯でいいですか」 「お麩」 「あー、はいはい、入れます」  この場を離れる理由が出来たのは有り難い。なるべく普段通りに返事をしつつ、僕は足早にキッチンに向かった。  実を言えば僕は初恋のお姉さんについて殆どのことを覚えていない。  いつどこで出会ったのかも、どんな声だったのかも、名前さえ知らないのだ。  覚えているのは彼女の美しく、それでいて悲しげな笑みだけ。幼い僕は一瞬でその美しさの虜になり、恋に落ちた。  要するに面食いだったのだ。いつか出会った名前も覚えていない美少女のことを、高校で綾音に押し切られて付き合うまで引きずる程度の重度の面食い。  つまり、何が言いたいかと言うと、その初恋のお姉さんに似た顔の男相手だろうと無駄にときめいてしまう程度には、僕の面食い具合は重症なのである。 「畜生……なんであんなに顔が良いんだ……!」  初恋拗らせ野郎に効きすぎるほどに効いてしまう程度に似ている。八つ当たり染みた手つきで米を研ぎながら悪態をつくも、昨日見た微笑みが脳裏から消えることはなかった。  なにせ赤子の頃から美人の顔を見せれば泣き止むとすら言われていた僕である。『あんたが電車の中で大泣きした時に、あたしじゃ泣き止まないのに綺麗なお姉さんが乗ってきた途端ぴたっと泣き止んじゃって、あの時は恥ずかしかったわあ』とは母の言だ。  ごめん、別に母さんが美人じゃないとか言うつもりはこれっぽっちもないから許してほしい。そもそも僕がまだ覚えてもいない頃の話だろそれ。許してくれよ。  ついでに言えば『幼稚園の時も可愛い女の子なら泥団子ぶつけられてもにこにこしちゃってて、将来変な趣味に目覚めやしないかと心配してたのよ』などと言われた記憶もある。余計なお世話だ。  何の話だったか。そう、兎にも角にも僕は綺麗な人に弱いという話だ。そして前条さんの顔は僕の好みど真ん中ストレートだということだ。具体的に言うと雇われて良かったかなとか思い出す程度にはど真ん中ストレートだ。自分のことは常日頃から馬鹿だ馬鹿だと思ってはいたが常軌を逸した馬鹿の可能性が出てきた。 「い、いやいやでもあれだよ女の人なら兎も角男の人相手にそんな気持ちになったことは今まで一度も――な、無いし、別に前条さんの面がめちゃくちゃに良いからって僕がされた仕打ちは変わらない訳だし昨日も結構危なかったし辞められるならこんなところ本当に辞めるべきだと思うしいやでも一枚ぐらい写真貰ってからとかていうかあの人本当に妹とかいないのかどう考えても」 「けーちゃん、お鍋噴いてない?」 「ワーーーーーッッ!!?!?!!!」  ひょこ、と顔を出してきた前条さんに驚いて飛び退いた僕は、そこでようやく、火にかけっぱなしだった味噌汁がぼこぼこに沸いていることに気づいて慌てて火を止めた。  しまった。完全に思考の波に飲まれていた。急いで水を足すも、汁は吹きこぼれて鍋の外側に焼き付いてしまっているし、小松菜は酷い色になっている。お麩は微妙に無事。やってしまった。 「……す、すみません、ちょっと考え事してて」 「火使ってる時は気をつけろよ。危ないから」 「はい、仰る通りです、スミマセン……」  珍しく滅茶苦茶真っ当な指摘を受けてしまった。項垂れる僕が味噌汁を作り直そうとするのを、前条さんは一匙掬って味見してから止めた。食べられるからこれでいい、と言う前条さんに、ますます頭が垂れる。  僕が望んだことではないとはいえ同意の上で雇われ給料をもらっている身である。仕事として作っているのだから失敗するなんて以ての外だ。しかも理由が雇い主の顔について考えていたとか、最悪にもほどがある。  深い溜息と共に再度謝罪を口にした僕を、前条さんは皿に盛った朝食をテーブルに運びながら振り返った。 「で? 考え事って何?」 「え? い、いや、別に大したことじゃ……」 「大したことじゃねえのに味噌汁噴き零すんだ?」 「…………」  ぐうの音も出ない。出ないので押し黙ってしまった僕に、前条さんは唇の端を吊り上げながら、ぐい、と顔を寄せてきた。ひぇ、と情けない悲鳴が零れる。 「けーちゃん、見たろ」 「え、ええ? な、何をです? さっ、さっぱり心当たりが……」 「なるほど、夢じゃなかったんだな。へえ、ふうん、見た上でそういう反応ってことは……思い出した?」 「はい?」  前条さんは僕より背が高いので、壁際に追い詰めるようにして身を寄せられると丁度下から覗き込めてしまう。  どぎまぎしながら目線をあちこちに逃がしていた僕だったが、予想していなかった言葉が降ってきたので、つい釣られるように前条さんを見上げてしまった。  きょとん、とした僕と同じくらいにきょとん、としている前条さんが緩く首を傾げる。 「約束は?」 「……約束、ですか?」  約束。何の約束だろうか。今度は本当に心当たりがなかったので幾分落ち着いて口にした僕に、前条さんは右上を見やって数秒思案してから肩を竦めた。 「あっそう。じゃあいいや、なんでそんなに不審な反応なのかだけ教えてくれよ」 「え、い、いや、別に何も不審ではないと思いますけどっ!?」 「どこからどう見ても不審だと思いますけど?」  揶揄うような声音でわざとらしく真似してきた前条さんを睨み上げるも、丁度ご機嫌な笑みを浮かべる彼とばっちり目が合ってしまって顔が赤くなって自滅する羽目になった。  喜色を乗せて目を細めた前条さんが、少し身を屈めて首を傾けてくる。白い指が、さらりと揺れた髪を半分、耳にかける。も、もう、こ、こいつ分かってるだろ!! 僕が挙動不審な理由、十分すぎるほどに分かってるだろ!? 「けーちゃん、顔赤いけど平気? ちょっと温度下げようか?」 「どっ、ばっ、お、お気遣いなく!!」  ワーーーッッ!! やめろ!! 鼻先が触れる距離で喋るんじゃない!!  お玉を握りしめて震えるしか出来ない僕が思わずきつく目をつむってしまったその時、着信音が響いた。 「…………はーい、前条異能相談事務所でーす」  あからさまにテンションが落ちた前条さんが携帯を取る。会話を続ける前条さんの言葉から察するに、笛戸からの連絡のようだ。面会時間になったので病院前で待ち合わせをしたい、という旨を聞いた前条さんは軽く了承の返事をすると、そのまま通話を切った。  僕はといえば、その間、お玉を握りしめて震えていた。  いや、だって、だってですよ。待ってくださいよ。アレってアレじゃないですか。もう、あの、要するにキスする距離じゃないですか。キスする距離だったじゃないですか、今の。  何やってんだよこの人。僕も何で逃げないんだよ。馬鹿なのかよ。ちょっとこのまましちゃってもいいかなとか思っちゃったよ。馬鹿だったよ。バーカ!!  パーテーションに寄りかかりながら震える喉で深呼吸をした僕は、今すぐ叫び出して事務所を飛び出したい気持ちを堪えつつ、至って冷静かつ普段通りに支度を終えて病院へと向かったのだった。 「けーちゃんなんで何も無いところで転んでんの?」 「転んでません良いから早く行きますよ!」 「病院そっちじゃねえけど」 「ええすみません越してきたばかりで知りませんからね!!」  いやもう、本当に、全く持って冷静かついつも通りに。はい。  病院に辿り着いてから依頼達成までは、拍子抜けするほど早かった。  いつもなら冷房が効いた施設には寒いから入りたくないと駄々を捏ねる前条さんが、浮き立っているのが一目で分かるような足取りで病室まで向かい、僕から藤倉によいしょと移し、無事目覚めた藤倉と言葉を交わした笛戸に泣きながら感謝される、というのを十五分で終えた。  早い。早すぎる。むしろ解決後の笛戸の感謝の言葉の方が長いくらいだった。  霊能者さんも櫛宮先輩もありがとうございました本当に感謝してもしきれません依頼料は必ず後で払いますもう遊び半分に心霊スポットなんて行きません本当にありがとうございます、と涙と鼻水を垂らしながら僕の手を握り述べ続けた笛戸に、ほとんどついて行っただけの僕は微妙な顔で笑みを浮かべることしか出来なかった。  その後、再び笛戸の肩を抱いて病室の隅に行き何やらぼそぼそ話していた前条さんの挙動が若干気にならないこともないが、まあそれも無事に解決したのだから気にするほどのことでもない。  今の僕には些細な事だ。  そう、事務所に戻ってくるなりソファに押し倒されている今の僕にとっては、全てのことは些事である。 「ぜっ、ぜんっ、前条さん!? あの、これは、一体……!」 「ん? いや何、ちょっと面白いことを聞いたもんだからさあ」  僕に覆いかぶさるようにしてソファに乗っている前条さんは、無駄に綺麗な顔ににたりと嫌な笑みを浮かべると、震える僕の頬を指先ですうっと撫でた。 「けーちゃん、面食いなんだって? 元カノ、校内で三番目に可愛いって有名だったらしいな」 「え、えぇ? そっ、そうですねえ、そんな勝手なランキングをつけてた輩もいたようないないような、というか、あの、それがこれとどういう関係が、」 「けーちゃん俺の顔好き?」  いや別に、と返そうとした舌は、見下ろしてくる美貌の笑みによって完全に動きを止めた。ぴくりとも動かなかった。だって好きだもの。僕の舌は追い詰められている時に意に反した言葉を吐き出せるほど器用ではない。  前条さんの声がやけに甘ったるいのもいけない。雇われてから一度も聞いたことのない類いの声色だ。元から妙に耳馴染みの良い声をしているとは思っていたが、こういう風に使われると最早一種の兵器か何かだった。 「…………す、好きです」  肯定以外に僕に残された道は無かった。引き出されるようにして言葉にしたそれに、前条さんは満足そうに目を細めて笑った。心拍数が急上昇する。やめろ、笑うと益々似る。  口から飛び出るんじゃないかってくらいに煩い心臓を服の上から押さえつけながら、ふと、この状況ってかなり不味いんじゃ?と気づいた。  初対面からやけに執着してくる変人に同意とはいえ半ば無理矢理雇われ、ソファに押し倒された挙句に自分の顔を好きかどうか聞かれている。  …………あれ? 待ってくれもしかして、僕、いやまさかな、そんなわけないだろ。でも一応聞いた方が良いんじゃないか? 前条さんって男の人が好きだったりします? もしかして僕が好みとか?みたいなことを聞いた方が良いんじゃないか。しかし聞いてから「え? 別に?」とか言われたら自意識過剰すぎて僕は恥ずかしさのあまり窓から飛び出すかもしれない。やめておいた方が賢明か。  などと混乱しきった頭で考えていた僕の上で、前条さんは少し困ったように眉を下げて、小さく息を吐いた。 「そう。俺はあんまり俺の顔好きじゃないけど、けーちゃんがそういうなら取っておいて良かったな」 「えっ、なんでですか。そんな綺麗なのに」 「…………元カノにもそういうこと言ってたろ?」  少し色褪せたような声音の呟きに反射的に疑問を返すと、前条さんは茶化すような口ぶりで言い、笑いながら身を起こした。  垂れたマフラーを巻き直しながらソファを降り、置きっぱなしだった朝食のテーブルへと向かう。  置いて行かれた僕は、味噌汁を温め直しに行く前条さんの背中を眺めながら、呆然と横たわっていることしか出来なかった。  今のは何だったんだ。僕は一体何を確かめられたんだ。なんだ? からかわれただけなのか?  その日、僕は終業まで混乱を極めたまま過ごした。嘘だ。終業後も混乱を極めていた。だが、いくら混乱を極めようと答えは一向に出てこなかったので、しまいには考えることを放棄した。  どうしてあんなことをされたのか考えるよりも、僕相手に自分の顔が『使える』と判断した前条さんが要求を通そうとする時に顔面に頼り始めたことへの対策の方が重要だったのである。  その対策が功を奏したかどうかは、推して知るべし、というやつだ。     了

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