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閑話③、④
【閑話③】
「前条さん、僕が勝ったら室温を五度下げてもらえませんか!!」
白い腕から藤倉を取り戻すべく橋へと向かった日の二日後。
自宅からマグネット式の十三路盤を持ち込んだ僕は、本日も何一つ変わりなく地獄のように暑い事務所で、ほうじ茶を啜りながら此方を覗き見る前条さんにとある勝負を持ちかけた。
室温の変更を掛けたボードゲーム対決である。雇われてから暫くが経ち、この最悪の職場環境もまあ致し方ないか、などと思い始めていた僕だったが、先日笛戸から「もしかして櫛宮先輩って汗っかきなせいでフラれました?」などと訝しむような目で言われたことで更なる環境改善を求めることに決めたのだ。
前条さんの体質のせいで来訪者は大抵、暑さを認識しない。自分が汗を掻いていることに気づくのも、事務所から距離を取ったところでようやく、という有様。よって事務所内では僕が一人でめちゃくちゃ汗を掻いているように見えるのである。最悪だ。
大抵事務所に来る人は霊的な事象で切羽詰まっているのでわざわざ僕の様子など見ちゃいないだろうが、それでも「この人めちゃくちゃ汗かいてるな……」と思われるのは居た堪れない。せめて、動かなくても汗が出る気温から動いたら汗が出るくらいの気温に変えてほしい。
切なる願いを込めて勝負を持ちかけた僕に、前条さんはどこか拗ねたような様子で前髪の隙間から覗く目を細めた。
「俺、割と譲歩した気温設定にしてると思うんだけど」
「前条さん的にはそうなんでしょう、寒さが辛いというのも理解はできます。だから僕も無条件で下げてもらおうなどとは考えていません、あくまでも勝負の上で下げてもらいたいという話です」
「……それで囲碁? 元囲碁部なのに? ルールも知らない相手に囲碁で勝負を挑んでくるわけだ」
「だって僕が前条さんに勝てそうなものってこれくらいしか無いんですもん!」
心の底から嘆くように叫ぶと、前条さんは喉を鳴らして笑った。そのまま、笑いを堪えるように口元を押さえて肩を震わせ始める。どうやら何かがツボに入ったらしい。
丸一日考えて出た結果が得意分野で初心者をボコボコにする、というどうしようもない交渉法だったのは我ながら悲しくなるが、それでも手段を選んではいられない。無理矢理下げれば無理矢理上げられる。前条さんが納得したうえで下げるように仕向けなければならない。
そもそも前条さんの言う気温設定とはエアコンのことであって、使用上の注意に真っ向から逆らうが如くそこかしこに乱立する暖房器具は考慮されていないのだ。結果、エアコンvs暖房器具みたいな図式になる。電気代の無駄もいいところだ。
「十三路盤なら僕も打ち慣れてないんで公平と言えなくもないですし、何ならここに初心者用のルールブックもあります」
「はは、必死だな」
「どうですか! 僕もこれで負けたらすっぱり諦めますよ!」
「うーん、そうだなあ……」
湯呑を置いた前条さんは僕が持ち込んだ初心者向けのルールブックをぱらりと捲ると、そのまま一通り目を通した。ぱたん、と軽い音を立てて閉じられたルールブックがテーブルの隅に置かれる。
「分かった、じゃあ三本勝負にしよう。そのうち一回でも俺が勝ったらけーちゃんの負け、今日の昼食は揚げ立ての唐揚げにしてもらう」
「……食べたいんですか、唐揚げ」
「うん」
「いいですよ、乗りましょう」
僕が負けた場合を一切考慮してなかったので、もしかして負けたらとんでもないことを要求されるんじゃ?と今更気づいたのだが、提示された要求が思っていたよりも軽いものだったので一も二もなく頷いた。
これでも一応、部内では部長に次いで二番目に強かったのだ。一番じゃないところが僕の限界だが、まあ初心者相手に完勝することなど容易い。余裕である。
胸中で負けフラグを立てに立てまくっていた僕は、慣れない手つきで碁石を取る前条さんの対面に座りながら、ドヤ顔で眼鏡を押し上げたのだった。
さて二回戦まで完全な勝利を収めた僕ですが。
「…………あっれぇ?」
三回戦目の中盤、何やら様子がおかしいことに気づきました。おかしい。何かがおかしい。具体的に言うと僕が限りなく劣勢であることがおかしい。
盤面を見下ろした僕の口から、ほぼ無意識に唸り声が零れる。
「え? うん? いや、いやいや……まだ分からないから、まだ……まだ死んでないし……僕の石生きてるし……」
「どしたのけーちゃん、なんか震えてるけど。温度上げる?」
手番を待つ前条さんが面白いものを見るかのように眺めてくる。常日頃から殆ど笑みしか浮かべない唇が、殊更に深く口角を上げている。く、くそっ! なんでだ!? こんな筈じゃ!
「あんた本当に囲碁やったことないんですよね!?」
「無いけど、要するに陣地を取るゲームなんだろ? だったらそう動けばいいだけだし」
さらりと、どうということはない口調で答えた前条さんに、悔しさから思わず歯軋りしてしまう。別に僕だって囲碁にマジだった訳じゃないが、それでもそれなりに色々とやってここまで来たのである。それをあっさり越えられるというのは耐え難いものがあった。めちゃくちゃ悔しい。何だこの人。
「ぐっ、ぐゥ……! くそぉっ、あとでリベンジしますからね!!」
「負け認めてんじゃん」
けらけらと笑いながら僕の一手を受けた前条さんはその後、迷うことなく最善手を打って僕を負かした。
もう、部屋の暑さとかどうでもよくなるくらい悔しかったので、僕は半泣きになりながら鶏もも肉を買いに走った。この悲しみと憤りと悔しさはもも肉にぶつけるしかない。揉んで揉んで揉みまくってやる。
「そんなに暑いなら来なきゃいいのにねえ、律儀っていうか馬……いや、そこが可愛いんだけどさ」
前条さんが楽しげに地蔵に語り掛けていたことなど、キッチンでもも肉に八つ当たりする僕には知る由も無かった。
【閑話④】
天気がいいので散歩することにした。引っ越して来てからスーパーと自宅とバイト先の往復しかしていないのだ。十代最後の夏にしては寂しすぎる。
よく晴れている割に日差しはそこまで強くなく、心地の良い風が吹いている。途中、コンビニでアイスを買って食べながら歩く。マンションの合間に隠れている寂れた公園だとか、潰れかけている駄菓子屋だとか、客が入っていないどころか店員すらいない小さな電器店だとか、どうにも寂しい印象を受ける物ばかり見つけてしまう。大通りから逸れた道を選んだのは間違いだったろうか。
もう少し明るいものを見つけたいな、と思っていたら立派な邸宅を囲む塀の上に猫が寝ているのを見つけた。
白猫だ。尻尾の先だけが黒い。ゆらゆらと尾だけを塀から垂らして微睡む猫にスマホを向ける。猫は好きでも嫌いでも無いが、暇潰しの散歩中に会うと少し嬉しい。
白を基調にした邸宅を囲む塀には横並びで五つほど、小さな四角い穴が開いていた。下の方にはまばらに煉瓦があしらわれている。高そうだなあ、なんて貧乏人丸出しの感想を抱きながら眺めていた僕は、左から三つ目の穴へと目線を向けたところで、ぎくりと身体を強張らせた。
老人の目が僕を見つめていた。
四角い穴から右目が覗いている。
どっと冷汗が滲んだ。やばい、人様の家をじろじろと眺め回してしまった。不躾にも程がある。
「す、すみません、ちょっと散歩してたら、その……」
誤魔化し笑いを浮かべながら、謝罪を置いて立ち去ろうと後退る。少し距離が開いた。意識と視界に入る範囲が広がり、息を呑む羽目になった。
四つ目の穴から、老人の左目が覗いている。冷汗どころか足が震えた。確認する。三つ目の穴からは右目が覗いているままだ。
穴の間隔は1メートルもあるのに。
駄目だ、完全にやばい案件である。別名前条さん案件である。叫び出さないように唇を噛んだ僕は、大きく鼻で息を吸うと、涙目になりながら踵を返して逃げ出した。
途中、怖くて振り返ってしまった。右目も左目も未だに僕を眺めていた。
ひええごめんなさい、と叫びながら逃げ出した僕は、逃げた足でそのまま前条さんの事務所まで駆け込んだ。
「あ? 三丁目行ったの? 駄目だよあそこやばいんだから」
「や、ややややっぱりやばいんですか」
「やばいよお、日中はずっと双子の爺が壁に張り付いてる」
年中夢中で地獄のように暑い事務所にて。けーちゃんが買って来たこれ便利だね、なんて言いながらスティックタイプの粉末ほうじ茶を啜っていた前条さんは、汗だくで飛び込んできた僕の話を聞くなりほんの少しだけ眉を顰めた。
やばいことなど百も承知だが実際に専門家の口から聞くと重みが違う。震え始めた僕に「寒いの?」などとふざけたことを抜かす前条さんとリモコンの奪い合いを十秒ほど繰り広げ、見事壁に放り投げることに成功した僕は肩で息をしながら前条さんに詰め寄った。
「だ、大丈夫ですかね? 憑りつかれたりとかしてないですかね!?」
「平気じゃない? まだ死んでないし、生霊飛ばしたらそのまま死ぬだろうし、死んだら殺せるからな」
「なら良かっ………………」
良かった、と言いかけて、文言の中に一つも良かったところが無いことに気づいてしまった。自覚があるほどに間抜けな面で前条さんを見上げる。
「まだ生きてるんですか?」
「うん。日中はずっと張り付いてるよ、ずっと」
「………………やばいじゃないですか」
「だからやばいって言ったじゃん」
俺の話聞いてた?などと言う前条さんに答えを返すことも出来ずにソファに沈み込むように座る。
待ってくれ。完全に前条さん案件だと思っていたら警察案件だった。いや、警察ってああいうの何とかしてくれるのか? どうなんだろう分からない。分からないが、怖いと言うことだけは分かる。
「……とりあえず二度と行きません」
幽霊も怖いが生きている人間も怖い。溜息と共に呟いた僕の頭を、慰めるようにして黒手袋が撫でた。
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