7 / 45

3:人形の話[前編]

「そういや、今日はお客さんが来るからキリが良いところで遊ぶのやめような」 「……別に僕、遊ぶ為に此処に来てる訳じゃないですからね?」  盤上の角のオセロ石をひっくり返しながら、前条さんは『ゲームは一日一時間ね』と叱る母親のような口調で言った。  僕が遊びたくて仕方がないからやっているみたいな態度で言われてしまったので一応訂正する。依頼人が来ないとすることが無さすぎるから、暇潰しがてら雪辱を果たそうとボードゲームに興じているだけで、決して遊ぶのが目的ではない。 「ん? 別にいつでも遊びに来てもいいよ、けーちゃんなら二十四時間大歓迎だから」 「遠慮しておきます」  誰が好き好んでわざわざこんなクソ暑い場所に遊びに来るか。渋い顔になった僕を見て、前条さんはどういう訳か機嫌よく笑った。  前条さんに雇われて、気づけば三週間が経っていた。  事務所にはいつの間にやら僕が持ち込んだボードゲーム専用のスペースが出来始めている。  囲碁から始まり、将棋にチェスにオセロに花札、はたまたジェンガやら黒ひげ危機一髪まで揃っている始末だ。僕は一体ここに何をしに来ているんだろう。  自問に自答はない。出してもむなしいので出したくない、というのが正直なところである。  囲碁部でありながら回数を重ねれば重ねるほど囲碁で勝てなくなってしまったので何とか勝てるものを探して来た結果である、という事実からは出来る限り目を逸らしていたかった。  ついでに言うと大体三回も遊べば僕が負ける。虚しさが閾値を越えたので考えるのをやめた。 「お客さん、何時くらいに来るんですか?」 「二時くらいとか言ってたかな、そろそろ来ると思う」  時計を見上げた前条さんは午後一時四十五分を示す針を確認すると、この勝負でいったん終わりにするか、と殆どが黒く染まった盤面を示して言った。  僕は置く場所がないのでパスだ。手番継続。白石はものの見事にひっくり返され、僕の負けが決定した。試合終了である。 「……終わっちゃったな」 「ええそうですね、僕の三連敗ですね」  器の小さい僕が拗ねたように口にしたところで、前条さんは笑いながら「もう一回だけする?」なんて聞いてきた。  大体において負けっぱなしの人生であるが、慣れはしても負けること自体は悔しい。  確認した時計の針が一分しか進んでいないのを確認して、僕は石を片付けながら再戦を申し込もうとした────瞬間、扉が勢いよく開いた。  内開きの扉が、蹴り飛ばされたかのような派手な音を立てて開く。  突然の打撃音に身を強張らせた僕は反射的に扉の方へと目を向け、そのままの格好で固まった。 「前条!! テメェ今度という今度は許さねえからな!!」  金髪をオールバックにした目つきの悪い男が、鬼のような形相でそこに立っていた。  赤いTシャツが目に痛い。舌打ちを響かせた彼はやはりというか扉を蹴り飛ばしたらしい足を下ろすと、青筋を立てながら前条さんを怒鳴りつけた。  何やらかなりご立腹の様子である。  怒鳴り声に反応し鈍痛を訴え始めた小心者な胃を押さえながら、理由は分からないが多分きっと恐らく確実に前条さんが悪いんだろうな、と思った。 「ず、随分と、毛色の変わったお客さん、ですね?」  引き攣った笑みを浮かべる僕の対面でおもむろに手帳を広げた前条さんは、緩慢な動作でページを確かめた。 「いや? あいつとは特に約束してないし、来るって連絡も無かった。ちょっとしおんちゃん、来るならアポ取ってよ」 「あ? 誰がアホだぶっ殺すぞ」 「ははは本当にアホみたいだから発言には気を付けた方がいいよ」  慣れた足取りでずかずかと入り込んでくる金髪の彼は、逃げるようにしてソファを降り部屋の隅に寄った僕を一瞥もすることなく、呑気な様子で彼を見上げる前条さんの胸倉を掴んで無理矢理立たせた。  恐ろしい人だ、とその時点で確信した。  態度も目つきも声も怖いが、何よりも前条さんの胸倉を掴み上げているという事実が恐ろしい。恐ろしくて震える。震えることしか出来ない。 「テメェのせいで俺の一大イベント――いや、人生自体が滅茶苦茶なんだよ、責任取れよ責任」  胸倉を掴む彼と、掴まれたまま普段通りの軽薄な笑みを浮かべる前条さんが暫し視線を合わせる。睨み下ろす四白眼が薄っすらと涙の膜を張っていることに、そこで気づいた。  ただならぬ空気に二人から更に距離を取る僕の前で、前条さんは明らかにおちょくるような声音で言った。 「じゃあ責任取って結婚でもする? あっ、でもごめんね、俺にはけーちゃんがいるからさあ」  ただでさえ怒りに歪んでいた彼の顔が、形容しがたいレベルの憤怒に更に歪んだ。  ヒェ、と僕の口から小さな悲鳴が零れる。どうしてアンタはわざわざ怒ってる人間の神経を逆撫でしに行くんだ、趣味か? 趣味なのか? 頼むから今すぐ家庭菜園とかに変えてくれ。  ……ん? 今この人なんか変な事言わなかったか?  恐怖でまともに働いていない脳味噌が何かを拾い上げた気がしたが、金髪の彼が響かせた歯軋りの音に掻き消されてしまった。  度々、何か言いたげに口が開かれるが、すぐに憎しみを込めて噛み締められる。怒りのあまり言葉が出てこないのだろう。前条さんの胸倉を掴んだままの右手がぶるぶると震えている。  下手したら自分で自分の歯を削るんじゃないかって勢いで奥歯を軋ませていた彼は、ふと大きく深呼吸をすると悔しげに下唇を噛み、前条さんを突き飛ばした。  難なく座り直した前条さんが、掴まれていた胸元を整えながらこれ見よがしに溜息を吐く。 「なんだよ、機嫌悪いな。年下に八つ当たりするなんて格好悪いと思わないの?」 「八つ当たりじゃねえから格好もクソもねえよ。俺のコレは正当な怒りだ!! 然るべき憤りだわボケが!!」  自分より体格の良い人間の怒鳴り声というのはそれだけで恐ろしい。金髪の彼が怒鳴るたびにびくりと震える僕は、それでも閉じた瞳から涙が一筋零れ堕ちたのを見た瞬間、謎のシンパシーを感じた。謎の。謎だろうか。片手をひらひら振りながら笑っている黒ずくめの不審者を見れば、理由は一目瞭然ではないだろうか。  恐る恐る見守る僕の前で、彼の四白眼からは見る見るうちに涙が溢れ、やがてジーンズの膝が絨毯に力なく落ちた。 「……テメェのせいで俺の生き甲斐は消え失せたんだよ……ぐっ……責任取れよ……」 「パチンコもスロットも近所の居酒屋も健在じゃん。あ、分かった、馴染みのデリヘル潰れたんだろ。そんなの俺のせいにされてもなあ」 「うるせえ!! そんなちゃちなもんじゃねえんだよ!! 生き甲斐だぞ生き甲斐!! 俺の人生の支えだよ!!」  失意に飲まれ、四つん這いのまますすり泣きを始めていた彼は、あくまでも心当たりがないと言いたげな前条さんにがばりと顔を上げた。  涙を拭う彼の様子に、カーテンの裏に隠れていた僕もつい、気になって顔を出してしまう。勢いを失った彼は顔と態度こそ怖いものの、どうやら僕と同じく前条さんの被害者――という他ない――に思えたからだ。 「あの……その生き甲斐って一体……?」  つい、気になって尋ねてしまった僕に、四つん這いの彼はぐるりと首の向きを変えて叫んだ。 「こいつのせいで俺はなあ、十年応援し続けたアイドルの解散ライブに行けなかったんだよ!!」  怒号にも似た悲鳴が事務所に響いた。残響さえ聞こえるような叫びだった。そして沈黙が落ちる。  低い這うような暖房器具の稼働音だけが響く中、丸々十秒の間を開けて、前条さんは呆れたように首を傾げた。 「……なんだよ、そんなこと? 謙一に無理難題押し付けられたとかではなく?」 「アァ!? テメェ今『そんなこと』とか言いやがったか!?」 「いや、だってそんなことだろ」 「前条さん、流石にそれは『そんなこと』じゃ済まないと思いますよ……ちょっと酷すぎますよ……」 「あれ、けーちゃんなんでしおんちゃんの肩持ってんの?」  多分きっと恐らく確実に前条さんが悪いんだろうなあ、とは思っていたが、ここまで酷い仕打ちとは思わなかった。  十年間応援したアイドルの解散ライブ。それがどれほどの生き甲斐かは、アイドルにハマったことのない僕でも少し想像すれば分かる。  解散、というのが特に大きい。もう二度と会えないかもしれないのだ。個々の活動の場所はあるかもしれない。だが同じメンバーが揃うことはないだろう。彼が箱推しか単推しかは知らないが、それでも愛した空気が再び流れる可能性は限りなく低い――というようなことを、当時の囲碁部部長が熱弁していた覚えがある。 「経緯は分かりませんが、多分きっと恐らく確実に前条さんが悪いんでしょう。災難でしたね、心中お察しします」 「あ? テメェには分かんねえよ俺の苦しみなんざ……」 「ええ、そうでしょう。十年も応援してきたアイドルですもん、僕にはその思いの深さは理解しきれません。でも前条さんに振り回されてなんかとんでもない目に遭って滅茶苦茶辛い思いをする気持ちは分かります。あとその辛さを前条さん自身は大体くみ取ってくれない辛さも分かります」  真摯な気持ちで向き合いはっきりと告げると、蹲った彼は僕の目に自分の苦労と同じものを感じ取ったのか、力なく目を伏せて笑った。 「……そんだけ分かりゃ充分だ」  すすり泣く彼の傍に寄り添い、そっと労わるように肩を叩く。純粋な労わりの気持ちを感じ取ったらしい彼は肩を叩いた僕の手を強く握り締めた。  もう恐怖は無く、ただ同じ感情を共有できる相手として、僕と彼は固い握手を交わす。  詰まらなそうに組んだ足を揺らす前条さんが「そろそろお客さん来るから帰ってくんない?」などとほざいているのは無視しておいた。  金髪の彼は、月下部(かすかべ)しおんと名乗った。下の名前で呼ぶな、と低い声で唸る彼が恨めし気に前条さんを睨みつけているのを見やりながら頷いた。  月下部さんは占い師を生業としているらしい。僕が前条さんと会った日に言っていた『知り合いの占い師』というのが彼のことで、今回乗り込んできた件にもその『占い』が関わっているのだそうだ。  僕にはどういう理屈かさっぱり理解できないが、月下部さんは占った結果に応じて、対価として寿命を払わなければならないらしい。寿命、というとおどろおどろしいが、要するに結果に見合った期間『眠って』しまうそうだ。意識を失っている間に月日が流れ失われていくのならば、なるほど、それは確かに寿命と言えるだろう。 「えーと、じゃあ、占ったら寝ちゃうってことですか?」 「ああ、占ってしばらく経ったら寝落ちすんだよ。客が未来の旦那といつどこで会うか占えば三十分寝るし、明日どの台が当たるか占えば六時間寝るし、ロト6で五等狙おうとすれば買いに行く前に一年間寝る」 「配分おかしくないですか?」  五等で一年間って割に合わなすぎだろ、しかも買えてないし、買えたとしても一年経ったら換金できないし。理不尽さに思わず問えば、月下部さんは「俺多分ロト6の才能ねえんだわ」と答えた。はあ、ロト6の才能とは一体。  訝しむ僕に、月下部さんは気だるそうに続ける。曰く、私利私欲の為に使おうとすればするほど対価が大きくなるのだという。他人の未来を占うのと、自分の未来を占うのでは同じ事柄でもあまりにも対価が違う。世の為人の為に使えと言われているようで気分が悪い、と月下部さんは愚痴っぽく零した。 「ちなみにこいつとお前がどこで会うのか占った時はひと月だ。占った日は八月十九日、解散ライブは八月三十一日。あとは分かるな?」 「…………ええと、なんかすみません」  僕が直接の原因ではないとはいえ関わったことは確かだ。何だか申し訳ない思いで頭を下げた僕に、月下部さんは煙草の煙を吐き出しながら緩く首を振った。  別にお前のせいじゃねえよ、と。  そもそも人間同士がどう引き合うかなんて占いは大抵が大した対価もなく行える筈で、たまたまイレギュラーとして長期間眠ってしまっただけだから気にするな、という意味合いの言葉がそれに続いた。  見目は恐ろしいが、案外優しい人なのかもしれない。右目の下、涙の痕が残る目尻にある泣き黒子がチャームポイントに見えてきた。 「それなら俺のせいでもなくない?」 「は? テメェが呪われた絵画片手に脅してこなけりゃそもそもこんなことになってねえんだよ良いからさっさと謝れ、せめて謝罪を口にしろ」 「はいはい、 “謝罪” 」 「ぶん殴るぞテメェ」  まあ、緊張が消え去った一番の理由はこの人が前条さんの被害者であることに強いシンパシーを感じているから、だと思うけど。  再度掴みかかる月下部さんに見せつけるかのように口角を上げた前条さんは、ひらひらと追い払うように片手を振った。 「謝罪謝罪ってうるさいな、つまりは金が欲しいんだろ? あとで適当に包んでやるからさ、一先ず出てけよ。そろそろお客さんも来るし、どうも喋った感じ気弱そうだったしさあ、しおんちゃんの厳つい顔見たら帰っちゃうかもしれないじゃん」 「あぁ!? 金で解決しようとしてんのはテメェの方だろうが! 言っとくが今回ばかりは金の問題じゃねえからな、死ぬ気で取ったチケットが紙切れと化した挙句俺はもう二度とメルハニで輝くみぽリンを見ることも無い、分かるか、この苦しみがお前に分かるか!?」 「え? なんで見れないの? 別にそのみほりん?が死んだ訳でもないだろ? それとも何、芸能界引退すんの?」 「そういうんじゃねえんだよ!! そういうんじゃ!! 分かれよ!!」 「駄目です月下部さん、あの人普通の感覚持ち合わせてないのでそういうの理解できないです、諦めましょう」  分からない人にはいくら言っても分からない感覚に違いない。  僕だって本当の意味で理解しているかと言われれば自信を持って頷くことは出来ない。月下部さんの苦しみは月下部さんにしか分からないし、きっと前条さんには特に分からないだろう。  鼻を啜りながら吸い殻を灰皿にねじ込む月下部さんの背を摩っていると、前髪越しに冷えた視線を感じた。背に走る怖気に、びく、と肩が跳ねる。 「さっきからしおんちゃんの肩ばっか持つよなあ。今日会ったばっかりのチンピラだろ? どこが気に入ったんだよ。黒目と泣き黒子同じサイズじゃんそいつ」 「何を突然暴言吐いてんですかアンタは」  そもそも暴言なのかそれは。つい、ちらりと見やってしまった月下部さんの泣き黒子と四白眼が僕を見つめていたので慌てて目を逸らした。おいテメェ今サイズ確認したろ、と舌打ち交じりに言い放つ月下部さんに全力で首を横に振る。 「き、気に入ったっていうか、少なくとも前条さんよりはまともかなーって」 「……………まとも、ねえ」  何か話を逸らさなければと思って考えなしに言葉を繋げた瞬間、前条さんが熱の失せた声で呟いた。  いかん、何かが気に障ってしまったらしい。苛立たしげに貧乏揺すりを始める前条さんに妙な緊張を感じつつ、固まっていく空気を解そうと試みる。 「えーと、冷蔵庫にコーヒーゼリーがあるんですよ、食べるかなと思って買って来たんですけどいります?」 「……もしかしてけーちゃんゼリーごときで俺の機嫌取ろうと思ってる?」 「まあまあ、聞いてください見てください。1Lの紙パックコーヒーゼリーです、絶対絵面やばいやつですよ」 「ええー? 何それ気になる」  よっしゃ、機嫌が上方修正された。ありがとう昨日買い出しに行った僕、ありがとう紙パックコーヒーゼリー。  冷蔵庫に向かい、三本並んだ紙パックコーヒーゼリーを見た前条さんは爆笑しながら戻ってきて「おやつにする」と上機嫌に呟いた。  それにしても買いすぎだろ、と笑みの残った声音で言う前条さんを、月下部さんが不気味なものでも見るかのような目で見ている。薄い唇が何か言いたげに幾度か開閉したが、やがて諦めたように溜息が落とされた。 「まあ、上手くやってるようで何よりだわ。俺の一大イベント滅茶苦茶にしておいて結果『人違いでした、てへ☆』とか言われた日にゃあ、俺は間違いなくテメェを殺すからな。刺し違えてでも殺す」 「もう、しおんちゃん。軽々しく人に向かって殺すなんて言っちゃ駄目だろ」 「どの口が言ってんだ」  うんざりした声で吐き出した月下部さんが向かい側の前条さんの足を蹴り飛ばしたその時、 「あのう……電話した兎束ですが……入っても大丈夫ですか?」  何とも気弱そうな声が、開け放たれたままの扉から聞こえてきた。  納得がいかないながらも幾らかの札を手に事務所を後にした月下部さんと入れ替わるように入って来た依頼人、兎束康介さんは、有名な洋菓子店の袋をローテーブルの上に置くと、困ったように眉を下げて笑った。  年齢は三十代前半といったところだろうか。人が良さそうな、けれども押しに弱そうな顔立ちの優しげな男性だ。取り付け型の浄水器を売りに来られたら断れないタイプの顔をしている。麦茶を出すと、軽い会釈と共に礼を言われた。  体を縮こまらせてソファに浅く腰掛けた兎束さんの対面に座った前条さんが、身を乗り出して紙袋を覗き込む。  小さく鼻を鳴らし、迷うことなく紙袋の中からうさぎのぬいぐるみを取り出した前条さんは、少し古びたそれを無造作にローテーブルの上に置いた。 「伺った話ですと、娘さんの形見だそうですね」 「ええ、そうなんです。離婚した妻から少し前に送られてきたものなんですが……どうも、こう、変なことが起きるようになりまして……ええと、それで……お願いできますでしょうか……?」  不安げに首を傾げる兎束さんは、膝の上で組んだ手を落ち着きなく動かしている。  何度も指を組み替え、時折祈るように握り締めるその様子は、見ている此方に伝播しそうな程の緊張を滲ませていた。  この、水色のエプロンドレスを着たうさぎのぬいぐるみは、兎束さんが娘に買い与えたものだったそうだ。  誕生日プレゼントだったか、クリスマスプレゼントだったかは忘れてしまったけれど、娘さんは大層気に入り、いつもぬいぐるみを抱いて眠っていたらしい。  まだ妻とも上手くいっていて、幸せだったころの話です、と兎束さんは寂しそうに続けた。  結婚して七年、娘さんが五歳になった頃、兎束さんは奥さんの不倫が原因で離婚した。親権は奥さんが取ることになり、月に一度の面会以外では子供に会うことも出来なくなった。  そして、三回目の面会のあと、兎束さんは二度と娘さんに会うことはなかった。  自宅で、目を離した隙の事故だったという。遊んでいた娘さんは走り回って絨毯がずれたことでバランスを崩し、テーブルの角に頭をぶつけて亡くなった。  家族だけで葬式を上げ、泣き腫らした目の元妻を責めることも出来ずに立ち尽くしていた兎束さんは、遺品として娘が最も気に入っていたこのぬいぐるみを貰いたいと頼んだそうだ。  快く承諾され、うさぎのぬいぐるみは兎束さんの手元にやって来た。  娘のことは守れなかったが、せめて娘の代わりに大切にしよう。  そう決意した兎束さんだったが、最近になって不気味な現象を起こすようになったのだという。  気が付けば置いてあった場所から移動して至り、夜中に不気味な音を立てたり、下手するとベッドの上に乗っていたり、寂しくないようにと脇に置いた他のぬいぐるみがズタズタに切り裂かれていたり。そういう、ぬいぐるみというか人形関係ではありがちな、けれど十二分に恐ろしい現象が連日続いた。  お焚き上げを薦められるも娘の遺品を手元に残しておきたく、しかしそれでいて遺品を残すとなると難しいと断られてしまう。困り果てた兎束さんが途方に暮れているところで、知り合いから前条さんの事務所を薦められたのだという。  つまり、ここで前条さんが断れば兎束さんにはもう打つ手がない、ということだ。後のない緊張が、落ち着きのなさとして仕草に出ているのだった。 「遺品は残して、不可思議な現象だけをどうにかしてほしいということですよね」 「ええ。出来ますでしょうか?」 「そうですねえ……正直なところ、私もそういう方面は少し不得手でして。やはり物を失くした方が早いんですよ」 「では……その……」  探し回り、やっとの思いで辿り着いた先でも断られるのか、と兎束さんが徒労から顔を曇らせる。  前条さんはそんな兎束さんの様子をちらりと覗き見ると、顎に手を当て、首を傾げながら小さく唸った。 「まあ、なんとかしてみましょう。お代は霊障が全て解決してからで結構ですので、一先ず此方で預からせて頂きます」 「ほ、本当ですか? よろしくお願いします……!」 「ついでに一つお願いがあるんですが、元奥さんの連絡先を教えていただけませんかね?」  一転、光明が差したかのように顔を上げた兎束さんに、前条さんは携帯電話を取り出しながら言った。  唐突な申し出に面食らった兎束さんだが、必要なことだと告げられると少し躊躇いつつも素直に従った。 「うーん、どうしたもんかね」  連絡先を交換し、二、三言葉を交わしてから兎束さんを送り出した前条さんは、へたりと身体を傾けているぬいぐるみを前に再び唸り始めた。  呪いのぬいぐるみ、となっては近づくのも恐ろしいと距離を取る僕の対面で、黒手袋の指先が何度か唇を叩く。 「そんなに難しいんですか?」 「難しい。正直、こっちは壊して同じものを購入した方が早いな」  即答だった。前条さんが苦戦するような代物なのか、と更に後退った僕を見て、前条さんはぬいぐるみを鷲掴みながら軽い調子で言葉を重ねた。 「ああ、違う違う。壊さずにこの中から娘ちゃんを取り出すのが難しいって話で、娘ちゃん自身をどうこうするのは訳ないんだよ、ただそれだと依頼内容に反するだろ。だから困ってんだよ」 「はあ、なるほど。…………なるほど?」  僕には心霊現象に対する心得なんてひとつもないので理解が追い付かないまま適当に頷いてしまったのだが、未だ顎に手を当て唸り続ける前条さんの言葉を脳内で三周回したところで、言葉に出来ない薄気味悪さから下唇を噛んだ。  前条さんの吐き出した文言の中に、何か入っていてはいけない単語が入っていた気がする。  兎束さんが飲み干していった麦茶のグラスを片付け、紙パックコーヒーゼリーをおやつとして用意して戻った僕は、黒い巨大羊羹のようになっているそれを前条さんの前に差し出しながら掠れた声で問いかけた。 「アンタ今、娘ちゃんとか言いませんでした?」 「あ? 息子だったっけ? 娘って言ってなかった?」 「……いや、娘って言ってました。僕が聞きたいのはそこではなくてですね」  今、そのぬいぐるみの中に『娘ちゃん』が入っているとか言いませんでした?  中に入っている綿もとっくにくたびれてしまっているのか、斜めに傾くようにして座っているうさぎのぬいぐるみ。生前、戯れに食んでいたのか片耳の先が妙に毛羽立っている。  その上半身が微かに左右に揺れているように見えて、僕はそっと目を逸らした。スプーンが馬鹿でかいコーヒーゼリーを掬いあげる様だけを注視する。  ミルクポットの牛乳を回しかけたゼリーを三口飲み込んでから、前条さんは僕の無言の問いに答えた。 「まあ、厳密には本人じゃないな。娘ちゃんが、このぬいぐるみに与えた分の『娘ちゃん』が入ってるに過ぎない。ただそれでも相当量入ってるから、ほぼ本人と言ってもいいとは思う」 「また分かんないこと言い出しましたね……」 「んー、そうだなあ、身代わり人形って言って分かる?」 「はあ、ポケモンですか」 「何それ」  きょとんとした前条さんがまた一匙ゼリーを口に運んだ。そのまま不思議そうに首を傾げるのでゲームでそういう技を使うのがいてその人形があるんですよ、とだけ説明しておいた。話の腰を折る趣味はない。  続けて下さいと手で示すと、前条さんは少し気にする素振りを見せつつもそこまでの興味はなかったのか話を続けた。 「じゃああれだ、ブードゥー人形とかは? 相手の魂を込めて呪いをかける、呪術的な人形なんだけど。もしくは藁人形って言った方が分かりやすい? まあ、それに近いもんだと思ってくれていいよ。相手の魂を引き寄せて危害を加えるのが呪いの人形なら、こっちは自分の魂を込めていざという時の身代わりにする。人形じゃなくても、御守とか鈴とか地蔵とか何でもあるけどさ、兎に角、無機物にも魂を込めることは出来るとだけ理解すればいい」 「……じゃあ、生きてる魂を運ぶことも出来るんじゃないんですか?」  橋の件を思い出して尋ねた僕に、前条さんは笑いながら首を振った。 「無理だな、入れることは出来るけど出すことが出来ないから、それだと藤倉君は一生無機物として生きてくことになる。だから娘ちゃんを人形から切り離すのが難しいって話なんだよ。特に、類似性が高いから深く結びついてるしな」 「類似性?」 「和紙で身代わりを作る時、わざわざ人型に切るのはその方がより容れ物に相応しくなるからだ。注ぎやすい形ってもんがあるんだよ、ブードゥー人形なんか特に顕著で呪いたい相手の特徴を模した人形を作る。まあ、藁人形なんかは髪の毛使ったりするけどな。どちらにせよ引き寄せる形や性質ってのが必要なんだ。それで、多分このぬいぐるみは娘ちゃんの魂を引き寄せるのに凄く向いてたんだろう」 「向いてた? このうさぎのぬいぐるみがですか?」  話の全貌は掴めないが、要するに人に似たものには魂を入れやすいってことなんだよな?  確かにうさぎのぬいぐるみは、一般的なぬいぐるみらしく二足歩行が出来そうな造形にはなっているし、洋服だって着ているけれど、それでも妙に納得がいかなかった。  というより、この中に兎束さんの娘さんが入っている、などという話を信じたくなかったのだ。まだ、ただの呪いの人形だと言われた方がマシな気分である。  訝しむ僕の前で、すっかりコーヒーゼリーを平らげた前条さんは最後の一口を飲み込んでからスプーンを振った。 「娘ちゃんの名前は聞いてなかったけど、多分当たると思うよ」  銀色の匙の先端が、ぴたりと人形に指し示す。 「ね、アリスちゃん」  途端、ミルクポットが派手な音を立てて割れた。  ソファの上で小さく跳ねた僕の対面で、前条さんはほら当たった、などと何やら得意げな笑みを浮かべている。割れたミルクポットを丁寧に拾い上げて皿に乗せた前条さんは、笑みを残したまま僕にそれを差し出した。  片付けろってことなんでしょうが、嫌です。とりあえず此処から離れたい気持ちでいっぱいですが、一人でパーテーションに区切られたキッチンに向かうのも、それはそれで嫌です。  震えを唇を噛むことでごまかしながら人形を見つめる。水色のエプロンを着た、うさぎのぬいぐるみ。そうか、『うさぎのアリス』か。 「兎束アリスちゃんか、どういう漢字書くの? あ、漢字書けないか。まだ五歳だもんね。まだ、っていうか一生五歳だけどさ」  皿も割れた。僕はソファの上に乗った。 「こっちの声が聞こえてるなら話が早いな。君のお父さんが困ってるからさ、さっさと適当に消えていなくなろうぜ?」  ガラス製のローテーブルにヒビが入った。僕はソファの背に乗り上げた。前条さんはああこれ高かったのに、とぼやいた。 「実を言うと君をそこから引き剥がすのは、難しいけど出来ない訳じゃない。ただ俺はしんどいから極力そうしたくないし、幾らお父さんが知らないからって愛娘を圧搾機にかけるような真似をするのも忍びないし、君が納得して消えてくれるのが一番いいと思ってるんだよ」  蛍光灯が一つ割れ、落下した破片が床に降り注いだ。僕はソファの後ろに避難し、前条さんはうわー、替えるの面倒くさい、と嘆いた。幸いにも誰もいない場所だった。  そこまで来てようやく、前条さんは溜息と共にぬいぐるみを鷲掴みにした。うさぎの耳がびくん、びくん、と震えているように見える。気のせいだと思う。思いたい。 「駄目だ、やっぱりこういうの向いてねえな」  備品庫から漏れ出すように広がる段ボールから麻袋を取り出した前条さんは、ぬいぐるみをその中へと放り込むと同じく段ボールから引っ張り出した網紐で袋の口を縛った。  窓際の小さな丸テーブル、たまに地蔵が乗っている小洒落たそれに麻袋を放り投げた前条さんは、袋を一瞥することもなくソファに腰を下ろした。  どことなく疲れたように見える。多分気のせいではないだろう。ニット帽を脱ぎ捨て、ぐしゃりと髪を掻き混ぜた前条さんは苛立たし気に髪を掻き上げると溜息を吐いた。 「……もう壊して同じの買っちゃおうか」 「だ、駄目ですよ。娘さんの形見なんですから、同じ人形を買ったとしても意味がないじゃないですか」 「そうは言っても娘本人が死んでも――死んでも退く気が無いってんだから、壊した方が早いだろ」  何笑ってんですか、何も面白くないですよ。  死んでも、がツボに入ったらしく不謹慎にも笑い出した前条さんを胡乱気な目つきで睨みつけると、肩を竦めながらおざなりに誤魔化された。  ぴくりとも動かない麻袋へ警戒の視線を向けつつ、割れた食器を片付け、テーブルの破損がこれ以上広がらないか確認し、蛍光灯の破片を掃き集める。事務所が土足なのは危険物の片づけには都合が良かった。 「……あのぬいぐるみに娘さんが、その、入ってる?のは分かりました。それで、何か方法はないんですか?」 「うーん、三つある」 「三つも」 「でも一つは俺がしんどいし、一つは俺がしんどいし、一つは俺がしんどいからやりたくない」 「全部同じじゃないですか」  しかも理由がしんどいって。不可能とか難しいとかじゃないんですか。さっきそんなようなこと言ってませんでした?  どこまでが本当でどこからが嘘なのか分からない。もしかしたら全部嘘かもしれないし、全部が本当かもしれない。が、いちいち考えるのは疲れるし、考えられるほどの頭も無いので早々に思考放棄した。 「一つ、俺にアリスちゃんを突っ込んでバラバラのぐちゃぐちゃにして消化してサヨナラする。前に見せた通りゲロ吐いて動けなくなるからやりたくない」 「それだけ聞くととんでもない変態に聞こえますね」 「一つ、謙一に頼んでアリスちゃんと人形の糸を切ってもらう。めちゃくちゃ楽だけどあいつに頼み事をすること自体が精神が壊れるレベルでしんどいし死んでも御免なので無理、やりたくない」 「気になってたんですけど誰なんですかその人」 「一つ、アリスちゃんにお母さんをぶっ殺させて満足して成仏してもらう。正攻法だけどわざわざ遠出してお母さんに会わなきゃいけないし処理も面倒だし行方不明になったら関わった俺たちが疑われるから面倒くさい、やりたくない」 「いやいや正攻法が一番物騒じゃ――――え、は?」  途中で固まった僕を置いて、前条さんはうーん、どれにすっかなあ、なんて、三時のおやつを選ぶような調子で悩み始めた。  何一つ噛み砕けないまま呆然とする僕の前で、前条さんがボードゲームの山からトランプを取り出した。  カードの束からスペードのA、2、3を取り出した前条さんが三枚を伏せて並べ、混ぜて位置を変えてから置き直す。逡巡してからさりげなく一枚外しましたけど、多分それ2ですよね?  実質二択となったカードの前で唸る前条さんが一枚を捲ろうとした時点で、僕の硬直はようやく解けた。 「あの、ひとつ聞き捨てならない物騒な方法があったと思うんですけど」 「ひとつ? ふたつの間違いじゃねえかな」 「まあひとつでもふたつでもいいんですけど、とにかく最後に聞き捨てならないこと言いませんでした?」 「確かに母親を連れてきただけで重要参考人になるかもしれないってのは聞き捨てならないか。分かった、もし3を引き当てた時には俺一人でやるから、けーちゃんは事務所で俺の応援でもしててくれ」 「いえそこではなくてですね」  そこも確かに聞き捨てはならないんですけどね。  日給二万で人生が破滅しかねないというのは確かに聞き捨てならない。  万が一にも捕まったりすれば、異能相談事務所などという胡散臭さ極まりない名前の事務所に所属しているという事実のみならず、恥知らずの犯罪者として元3-Aグループで拡散されてしまうことだろう。  ニュースになんぞなった日には『大人しそうな顔して元カノをストーキングしてたみたいなんです……』やら『いつかはやると思ってたんすよ~』やらと好き勝手言われたインタビュー映像が流れるのだ。想像するだけで背筋が凍る。極めて恐ろしい。  が、聞き捨てならなかったのはそこではない。起こりうるかもしれない恐ろしい未来の話ではなく、今吐き出された悍ましい提案の話がしたいのだ、僕は。 「……娘さん、アリスちゃんに母親を……殺させるだとか、なんだとか、言いましたよね」 「ああ、うん。まあ処理が面倒だけど一番満足させやすい方法だと思うよ、そもそもがその為にそうなっちゃったんだからさ」 「…………その為に?」  次から次へと聞き捨てならない事柄が溢れてくるのでいっそもう全てを聞き捨ててしまいたい気分になったが、なんとか堪えて言葉を拾い上げる。  僕が一から十まで何ひとつ理解していないことを理解したらしい前条さんは、ああ、と納得したように頷いた。 「分かっていないけーちゃんにざっくり説明してあげよう」 「お願いします」 「兎束アリスちゃんはママにいじめられていました。とてもとても辛いので逃げる場所を探しましたが、逃げ場所はありませんでした。大好きなパパがくれたぬいぐるみといつも一緒に居ました。大好きな絵本に出てきた女の子の格好をしたうさぎのぬいぐるみです。絵本の中ではうさぎは不思議の国に連れて行ってくれる案内役さんでした、それでいて、うさぎは女の子の格好もしていました。うさぎはアリスちゃんでしたし、アリスちゃんはうさぎでした。アリスちゃんはうさぎさんにお願いしました、アリスを不思議の国につれていってください。アリスをアリスにしてください。毎日毎日お願いしました。アリスちゃんは不思議の国にはいけませんでしたし、ある日苦しんで死にましたが、それでもアリスちゃんはうさぎのアリスになれました。後には憎しみと殺意だけが残りました、めでたしめでたし」 「…………………………………………………………」  何一つめでたくねえよ、と言う気力もなくきつく目を閉じた僕に、前条さんは「この方がマイルドかなって」などと宣った。うるさい。  眼鏡を外し、顔を覆って溜息を吐く。正直に言えば、前条さんが三つ目の案を出した時点で嫌な予感がしていたのだ。不気味な現象を起こすぬいぐるみ、その中で消えることを拒絶する娘、突如提案された母親の殺害。どういう結末に向かおうとしていて、どういう発端があったのかくらいは想像がつく。  再度、深い溜息を吐いた僕に、前条さんは手慰みにトランプを弄りながら言った。 「目的があって残ってるんだから、遂げれば消えるんだよ。消える、というか形を保っていられなくなる。母親の元に居た頃はまだ殺せるほどには成長してなかったから機会を伺っていたら、まごついている内に父親の元に送られた訳だ。母親の元に戻ろうと思ったが、如何せん人形なものだから所有されることに弱い。父親が手放そうとしない限り母親の元に向かうことは出来ないから捨てられようとしたが、父親は未だ娘の形見を手放すつもりはない。まあ、ここが最後のチャンスってやつかな」 「…………いや、でも、そんなこと……もっと他に良い方法があったりとか、」 「俺がバラバラのぐちゃぐちゃに潰して吐き出すか、俺がバラバラのぐちゃぐちゃになる思いで吐きながら頼むかの二択だなあ。どっちもやだ」 「も、もっとこう、成仏的な方法はないんですか? だって、そんな、五歳の女の子ですよ……」  聞かなきゃよかった、と思った。あまりにも今更だったが、それでも事情を聞いたりしなければなんだかよく分かんないまま終わったかもしれない。  だがもしも終わった後に聞かされたりしたら、僕は多分二度と前条さんの為に紙パックコーヒーゼリーを買ってきてあげよう、などとは思えなくなるだろうな、と思った。  正直に言って、橋の上で黒い液体を吐く前条さんを見た時よりも、今ここで平然と五歳児の女の子に母親を殺させようとする前条さんの方が、そう、なんというか、気味が悪かった。  戸惑った僕の視線を感じ取ったらしい。妙に拗ねた様子で唇を尖らせた前条さんは、テーブルに置いたトランプのカードをしまうと、少し困ったように首を回した。 「あーもう、分かったよ。けーちゃんにとってはぬいぐるみに詰め込まれてようが憎悪に身を焦がしていようがミルクカップとテーブルと蛍光灯を割ろうが五歳の女の子は五歳の女の子、労わりと慈愛を持って接しろと。そういうことだな」 「いえ……、僕は、ええと、こういった面で役に立つことは無いので……どうしても無理ならどんな方法でもいいとは思うんですけど……」 「本当に? 今ここで俺が五歳の女の子を圧搾機で潰して搾り滓だけ吐き出すような真似しても明日から普通に此処に来る?」 「……………………………………」 「馬鹿正直だなあ、けーちゃんは」  答えることが出来ずに黙り込んだ僕を見て、前条さんは口元に満足げな笑みを浮かべた。かわいいね、なんて言いながらぐしゃぐしゃに髪を掻き混ぜられる。  抵抗もせずにそれを受け入れていると、前条さんはぐしゃぐしゃにした髪を梳き直して、あやすように旋毛の辺りを撫でながら再び笑った。 「紙パックゼリーが面白かったから、もう少しだけ他の方法がないか考えてやるよ」  冗談めかしてそんなことを言った前条さんは、そのまま僕に終業を告げると麻袋と共に備品庫に籠ってしまった。

ともだちにシェアしよう!