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3:人形の話[中編]
「おっ、櫛宮じゃねーか。さっきの客は片付いたんかよ」
なんだか憂鬱な気分で帰路についていた僕は、事務所から離れて五分と経たない内に月下部さんに出会った。
缶ビールを片手に電柱に寄りかかっている月下部さんの隣に自転車を停める。顔色が若干悪く、足元に吐瀉物の名残らしきものがあったので、酒に弱いのは意外だと思って聞けば、ひと月も寝ていたところに酒を入れたせいだと返って来た。
なるほど、確かにそうだ。納得したが、しかけたが、そもそもそんな状態で酒を飲むのは間違いでは?と気づいたせいで納得しきれなかった。
「ヤケ酒だよヤケ酒、チケット取って楽しみにしてた解散ライブが、目が覚めたら終わってたんだぞ。吐くまで飲みたくなるのが心情ってもんだろうが」
「それは……確かにそうですね」
「つーわけで丁度いいからお前も付き合え」
「付き合いたいのは山々なんですけど、すみません、未成年なので無理です」
「あー? 生意気言ってんじゃねーよ何が未成ね……ねん゛!?」
両親は特にそういった面で堅い人間でもないが、特別緩い人間でもない。バレないようにしていればわざわざ詮索もしてこないだろうが、そこまでして飲みたい代物にも思えなかったのでこの年まで自分の意志で飲んだ経験は皆無だ。
親戚の集まりでビールを舐めるくらいはあったけれど、あれを飲んだとは言えないだろう。あと一年もすれば堂々と飲めるのだし、それまで待てる程度には飲酒への欲は薄かった。
よって丁重に断りの文句を口にした僕に、月下部さんは犬の糞でも踏んだような声を出して固まった。
「…………えっ、マジで? お前マジで未成年なの? 本気で? せめて二十歳だろ?」
「今年で十九ですけど……」
「………………常々やばいとは思ってたがまさか未成年にまで手を出すド変態野郎だとは」
「はい?」
「悪いな櫛宮、そりゃあ俺だってあんなやばい奴に探されてるような人間に同情しなかったと言えば嘘になる。だが見知らぬ『けーちゃん』よりも自分の身の安全の方が大事だ、俺まだ死にたくねえし。分かんだろ?」
「分かるような分からないような……あの、一体何の話を……?」
どうして月下部さんが狼狽えているのか分からずに狼狽える僕の肩を、月下部さんががっしりと掴んだ。
青白い街灯に照らされる月下部さんの瞳に真剣な光が宿る。眼光が鋭すぎるので心底恐ろしく、僕は緊張と恐怖から背を正した。
「強く生きろ、櫛宮」
「え、なんですか? 僕これから死ぬんですか?」
「…………如何とも言い難い」
「死ぬんですか!?」
まさかもう既に何かの悪霊がついてるとかですか!? 月下部さんも見える人なんですか!? 霊能力者的な!?
焦燥から自転車を放りかけた僕に、月下部さんは痛ましいものを見るような顔で唇を噛んだ。やめてくださいよマジで死にそうな人にする顔じゃないですか、死に際に看取る人の顔じゃないですかなんなんですか!?
「僕まだ死にたくないんですけど!?」
「ああそうだな、俺も死にたくない。だからこそ日夜あいつの弱みをなんとかして握り二度と関わりを持たないようにしようとしてんだがさっぱり上手くいかねえ嘘だろ何なんだよあいつ占おうとするとキモいし」
「キ、キモいとは」
「べたべたする」
「月下部さん、もしかして酔ってますか?」
「あ? 酔ってねえよ、ほろ酔いだよ。俺ァ酒つえーんだよ、つーかお前その年で酒飲んだことねえとか嘘だろ舐めてんのか俺が連れてってやるから一杯付き合え」
「はい!?」
言うや否や、月下部さんは掴んでいた僕の肩を抱いて僕の自宅とは逆方向へと歩き出した。引きずられるようにして十数メートル歩いたところで、抵抗にもならない抵抗をしつつ叫ぶ。
「いや、だ、駄目ですよ僕未成年で――!」
「うるせー馬鹿でかい声出すな捕まんだろが!」
「分かっててどうして飲ませようとするんです!?」
「あ? そりゃお前、明日死ぬかもしれねえやつに人生の楽しみのひとつも教えてやりたくなるだろ……うっ、ぐう、死ぬなよ櫛宮……」
やっぱりアンタ酔ってますよね!?という僕のツッコミは、あまりにも悲壮な顔で僕を見る月下部さんの視線のせいで喉に張り付いて出てこなかった。
え、もしかしてそれ占いで分かってるとかですか?という問いが出たのは、居酒屋に辿り着いてからだった。
「あ!? 占い!? やらねーよ金も貰えねえのに! 俺が占ってやるのは金貰った時と命の危機だけだ、あいつはその両方を同時に満たしてくるからもう逆らえない嫌だ一刻も早くあいつがいない地球に行きたい……」
執拗に僕の生死について気にかけてくる月下部さんに、それは占い結果による心配なんですか、と聞けたのは『馴染みの居酒屋』だという個人経営店に入って十五分が経った頃だった。
店の奥の半個室に入り、十五分の間に生ビールを三杯胃に収めた月下部さんは、出くわした時よりも更にテンションの上下が激しくなっている。対する僕のテンションは特に変わらない。手元にあるのがウーロン茶のウーロン茶割りだからだろう。お店にも迷惑がかかるし、酒を頼む勇気はなかった。
「……月下部さんは、前条さんとは付き合いが長いんですか?」
「長いっつうか、長くなっちまったんだよ……気づいたら……五年……」
どうやら泣き上戸らしい月下部さんは、べそをかきながら弱弱しく答えた。僕の質問に食欲を失くしたのか、美味しそうに頬張っていた唐揚げを咀嚼するスピードが四割減になる。
「ご、五年も前条さんと……」
「そう! 五年もだ! 分かるかこの苦しみ!!」
「分かります、出会って三週間ですけど、これが五年続いたらと思うと…………まあ、はい」
想像しようとしたものの、あまりのことに脳味噌が考えることを拒否したので、言葉を濁しておいた。
五年か。五年も前条さんと一緒にいたら、そりゃまあ、扉くらい蹴っ飛ばして開口一番怒鳴りつけもするだろう。それぐらい強く言わなきゃ聞かない人だろうし。というか言っても聞かないだろうし。
今日のように面白がった様子で僕の要望を通してくれることもあるが、恐らく前条さんが本気で我を通そうとすれば僕に拒否権はないのだ。それは時折背に這う、生物として本能的に忌避するような怖気によって理解している。
……もしかしたら僕は本当に死ぬのかもしれない。なんだか心配になって俯いた僕に、泣きながら枝豆を貪っていた月下部さんが顔を上げた。
「しかもあいつ五年前とか今よりひでえからな。今の比じゃねえからな、同じ言葉を喋るだけの別の生き物だからなマジで」
涙ながらに吐き出された言葉の重みに、恐怖と緊張から、ごくりと唾を飲み込んでしまう。
今ですらたまに言葉が通じているのか怪しい前条さんである。それが更に酷かったとなると、駄目だ、想像力の限界を感じる。
薄暗い店内の灯りを眺めながら小さく唸った僕に、月下部さんは焼き鳥を追加しながら涙声で続けた。
「ひっでえもんだったぜ、ある日突然謙一さんに『私の甥に当たる男なんだが、どうにもまともな人間になりそうにない。“真っ当な人間”にしろなどとは言わん、せめて“人間”にしてくれないか』とか言われて押し付けられた挙句、やってきたのは天使みたいな面の悪魔だし俺の人生はみぽリンに捧げるって決めてたのにあの野郎は生きた人間が要るからだのなんだのと俺を連れ回しやがるし最悪だったのはマジで女子高生の家、女子高生の家だよ、あークソ、『しおんちゃんさあ、女子高生の家とか興味ある?』なんて言われてノコノコついてった日にはもうおしまいだった居るだけでゲロ吐きそうな異臭の女子高生の部屋に連れ込まれて検分させられた挙句汚物入れ代わりに使われた勉強机の中で『生まれた』とかいう訳分かんねえもんを『乗っけられた』上に女子高生を虐待してたクソ婆の腹にそれをねじ込む様まで実況中継されるわ十月十日後産んだ婆も生まれたガキも二目とみられねえ状態だし俺は三日も飯が喉を通らなかったしなんなんだあいつもうマジでふざけんなよしかもそん時みぽリンの単独ライブだったし!!!!」
「…………ご愁傷さまです」
なんというか、もう、それしか言葉が見つからなかった。
月下部さんはぼんじりを貪るように食べながらおいおいと泣いている。聞いただけでも同情してしまうような話だった。自分が同じ目に遭ったら、多分ゲロ吐いて泣いていると思う。
しかしこの人、僕を心配しているというよりは前条さんの愚痴を共有できる人間を見つけたから語りたいだけなんじゃないだろうか。気持ちは痛いほど分かるので特に止めるつもりもない。聞きたいことが山ほどあるので僕にとってもメリットはある。
「月下部さん、その謙一さんってのは誰なんです? ちょっと思ってたんですけど……もしかしてその人が本当は『けーちゃん』なんじゃないですか?」
「オメェそれ次言ったら鼻にワサビ突っ込んでから腕挫十字固きめるからな」
「せ、せめてどちらか片方にしてください」
ずべずべと泣いていた月下部さんが僕の言葉に一瞬にして青筋を立てて唐辛子の瓶を握った。ワサビを用意するまでもなく両目に唐辛子を突っ込んできそうだったので、僕は両手を上げて降伏の意を示した。
生ビールをおかわりした月下部さんが舌打ちと共に瓶を置く。一先ず怒りは収めてくれたらしい。
「……謙一さんはな、あー……あいつの、アレだ、伯母」
「…………伯父ではなくて?」
「伯母だっつってんだろ脳味噌入ってねえのかよ」
代わりにこれ詰めとけ、と揚げ出し豆腐を差し出されたので有難く頂戴しておいた。紅葉おろしを脇に避けながら口に運ぶ。
ウーロン茶が無くなっていた気がしたが、いつの間にか置いてあった。
「その辺、謙一さんも言いたがらねえから俺も聞いてねーけど、まあ色々あんだよあの家。親族連中、謙一さんとあいつ以外全員死んでるし、死に方もやべーし、ろくでもねえっつうか、いや謙一さんはろくでもなくねえけどな、あの人はちげーから、そういうんじゃねえから、まともじゃねえけど少なくとも真っ当だかんな」
「は、はあ。なるほど?」
「謙一さんは俺の恩人であいつの伯母だ。それ以上でも以下でもねえ。あとな、多分それ、あいつに言ったら半殺しになっから絶対言うなよ」
「えっ、え、ど、どれですか」
「『けーちゃん』が謙一さんってやつだよ、ど真ん中大地雷だろ。あいつの中の『好き』と『嫌い』の極致にあるもんをハイブリッドにしてんじゃねーよ化学反応で爆発すんだろうが爆発しねーかなあいつ、一人で、自爆しねーかな」
勢いよくジョッキを置いた月下部さんの語り口には既に脈絡がなくなりつつあったが、それでも僕が口にした問いがやばいものであるということは理解できた。
このウーロン茶ちょっと苦いな。だし巻き卵を摘まんで誤魔化す。
「…………あともう一個いいですか」
「あ? なんだよ、この際だから一個と言わず全部言えよ。もう二度と会えねーかもしれねえんだぞ遠慮すんな」
「前条さんってもしかして『けーちゃん』のこと好きなんですか? っていうかそもそも『けーちゃん』って誰なんです? 本当に僕で合ってます?」
「好きも何もあいつの頭の八割は『けーちゃん』で出来てるし『けーちゃん』が誰かは俺も知らねえしそもそもお前が『けーちゃん』かも分かんねえ。あいつがそういうならそうなんじゃねーの」
「一個しか答えてないじゃないですか! なんでも聞けって言ったのに!」
「答えるとも言ってねえけど~~!? 俺ウィキペディアじゃねえからさあ~~~!! ごめんな~~!?」
「だったら聞けとか言わないでくださいよぉ!?」
割と本気でムカついたので空になったグラスを叩きつけてしまった。なんでだ、感情の制御が利かない。店員さんがもう一杯ウーロン茶を持ってきた。仕事が早い。
拾い上げた揚げ出し豆腐にポン酢をかけはじめた月下部さんは、半分残った生ビールをぐるぐると回しながら苦々しげに言った。
「俺だって知らねーよ、あいつそもそも会話通じねえし。出会った時は特にそうだし。ただ俺と会った時には既にけーちゃんけーちゃん煩かったぜ、五年前だろ。お前いくつよ」
「十四?」
「ウヘェ、中学生じゃねーか。何、お前その時にはあいつと会って……るわけねーわな、でなきゃあいつが俺に『けーちゃんを探すか死ぬか選べ』とか言わねえもんな」
「待ってくださいそんなこと言ったんですかあの人」
「いや口には出してねーよ。でも目が言ってた。俺は死を覚悟した。あのな、最初はまだマシだったんだよ、『いつ会えるか占って』って言われて占ってやろうとした時にマジで血ぃ吐いて死ぬかと思ったから無理、っつった時も一応我慢してたんだよ。
ただ、俺が占おうとして血反吐吐いて耐え切れない時ってのが『その時点では成し得ない結果』の時だと知ってからがヤバかった。そんなはずないからもう一度占えって煩くなって、マジで俺を殺してでも『けーちゃん』に会う気だと思ったわ。ただ、なんだっけな、そうそう、半年くらい前から急に漠然と『夏ごろには会える』って結果になり始めたんだよな。
理由は知らねえけど、有り得なかった未来が有り得る可能性に変わったんだろーな。見えねえもんは見えねえし、別に俺自身に未来を変える力とかねえし、まあとにかく、会えるってなってから急激に落ち着き始めたな、確か。今が一番マシだろ? マシかどうか知らねーだろうが、まあとにかくマシだから、アレでも――あ? どうした、櫛宮。なんかひでぇ面してっけど」
「……いえ、別に」
「…………あー、悪い。急にこんな話聞かされたらそんな面にもなるわな、いやもうお前てっきり知ってるもんだと思ってたんだよだってあいつ執着ぶりがやべーだろ、とっくに囲って一発ハメてんじゃねーかとばかり、」
「い、いえ、話の内容はまあ、置いといて、置いとけないところが今しがた出ましたけど、いや、なんというか……」
どうして『成し得ない結果』だった未来が、『夏ごろには会える』ことになったのか、僕には心当たりがある。
なんだか妙に涙が出そうな気持ちだった。鼻を啜りながらウーロン茶を飲む。
月下部さんは半年くらい前から、僕(かどうかは知らないが)と前条さんが出会う未来が起こりうる結果として占えるようになった。多分、その頃ちょうど、綾音が僕に愛想をつかしたのだ。少なくとも夏ごろ、いや、前だろうか、その辺りには別れることが決まっていた。
僕が特に何の目標もなく人生を歩んだことで、綾音と共に歩む未来は閉じ、前条さんと出会う未来が開かれた。要するに自業自得である。
あんなやばい人に巻き込まれちゃって僕の人生本当にろくでもないな、などと思っていたがなんのことはない、僕自身の選択のせいだったのだ。
それが良かったのか悪かったのか、と聞かれればどちらと答えることも出来ない。あのまま綾音と付き合い続けることが僕の幸せだったのかと言えば、そうと言い切ることも出来ないし、かといって前条さんと出会えて良かったかと言えば、良いこと以上に良くないことが多い気もする。
そもそも良いことってなんだろう。外国人のチンピラにタコ殴りにされずに済んだことと、日給二万の仕事にありつけたことと、あとは……雇い主の顔が超絶好みだということくらいか?
思い浮かべた好条件のアレさに唸ってしまった僕を見て、月下部さんは何かを取り繕うように空々しい言葉を重ねた。
「いや、まあ、いいんじゃねーの。頭イカれてっけど、面はイイし、そこが良いってんなら俺が止めることもねえし、ただまあ命の保証はしねーけど」
「……なんでそこまで僕の生死に悲観的なんです? そりゃ業務内容的に、死ぬかもしれないとは度々思いますけど……」
「あー? そりゃお前、アレだろ、アレ」
「アレじゃ分かんないですってば」
「あいつとヤった奴、大体死んでんだよ」
「…………へ、は?」
物の味が分からなくなるというのは比喩ではないんだな、と僕はその日初めて実感した。
「だーかーら、あいつとハメたやつぁ大体お亡くなりになってんだって! 分かったか!?」
「えっ、いや、分かんないです、全然分かんないです! 分かんないとこが一気に増えましたよ!?」
「ははーん、テメェさては頭悪いな?」
「それは否定しませんけど月下部さんの話運びにも大分問題があべふっ」
至極真っ当な指摘をしようとした瞬間、僕の口には唐辛子が投げ込まれていた。しかも一味唐辛子である。最悪だった。
味がしないどころの話ではない。強烈な辛味に涙を零しながら咳き込む僕に、月下部さんは何杯目かも分からない生ビールを呷りながら告げた。
「テメェ、あいつの『けーちゃん』なんだろ? 事実そうかは知らねえけど少なくともあいつはそう思ってんだろ? ってことは今すぐじゃないにしろいずれ一発ハメるんだろ? じゃあ今までのやつみたいにぽっくり逝くんじゃねーの、知らねーけど」
「ちょっとすいません、話を整理しますね」
「オウ好きに整理整頓しとけよ」
「月下部さんは僕がいずれ死ぬかもしれないと思っていて、それは前条さんとその、ごにゃごにゃした人達、達?が死んじゃったからで、だから僕も前条さんとごにゃごにゃしちゃったら死ぬかもしれないと、思って、いらっしゃる?」
「さっきからそう言ってんだろ、分かれよ」
「分かってますけど分かりたくないんですよ!! えっ、何!? 前条さんは、その、ええと、僕とそういうことをするつもりなんですか!?」
「知ーらねーよそんなことぉー! 俺は今まで見てきた事実から推測したこと言ってるだけだっつーの! テメェらがホモセックスするかどうかなんざ俺の興味の範疇外だかんな!! 仮にヤったとしても聞かせんじゃねーぞ!!」
「わざわざ報告する訳ないでしょうが!? っていうかデカい声でそういうこと言わないでください!!」
ボックス席ではあるものの、仕切りなどほぼ無いに等しい。別の席の声も聞こえているのだから、当然此方の声も聞こえているだろう。
誰と誰がセックスしてようが恥じることは無いだろうが、逆を言えば言いふらすことでもない。一応、引っ越してきたからには此処で暮らしていくつもりなのだ。大っぴらにセックスがどうとかこうとか言う人間として見られる羽目にはなりたくない。
テンションが上がって声量も上がっていく月下部さんを宥めつつ、最終的にはトイレで吐く彼の背中を摩って店員さんに預けてから、僕はあらゆる事柄で混乱した頭を抱えつつ居酒屋を後にした。
熱気に当てられたのか妙にふわふわしている頭に夜風が当たって気持ちいい。すっかり夜も更けてしまった帰り道を、若干ふらつきながら走っていた僕は、途中でふと、あれ?これ酔ってんじゃないか?と気づいた。
慌ててブレーキをかけ、自転車を降りる。やはり足元がふわふわしていた。こんな風になったことは一度もない。畜生、ハメられた。あのウーロン茶、絶対途中で酒に変わってた。畜生。僕まだ飲まないって決めてたのに。いや別に決めてはなかったけど。
思考も足取りもふわふわしている中、僕は自転車置き場に自転車を停め、ゆっくりとアパートの階段を上がった。
ゆっくり上がらないと落ちそうだったし、考え事で忙しかったからでもある。考え事。『けーちゃん』のこととか、前条さんのこととか、……ごにゃごにゃのこととか。
一段踏み外して脛を打ち付けかけたので、手すりを掴んだまま深呼吸した。ごにゃごにゃのことを考えるのはやめよう。もっと真面目なことを考えよう。
月下部さんは前条さんなら『けーちゃん』とすぐにでもそういうことをするだろうと言っていたが、そもそも本当に僕が『けーちゃん』なのだろうか。問いには答えを得られなかった。
だって月下部さんは前条さんが言うがままに『けーちゃん』に会えるかどうか占っただけだ。僕が『けーちゃん』かどうかなど判別しようがない。分かっているのは前条さんだけだ。
「『けーちゃん』って誰なんだよ……」
櫛宮司のどこを取ってけーちゃんなんだ。なんだ? KUSHIMIYAのKか? クソダサいあだ名だが、前条さんのセンスは割と酷いので有り得そうな気もする。
いや、そもそも名前が由来でもそうでないにしても、そんな風に呼ばれたことはあっただろうか。小学生の頃はみんな結構、突拍子もないところからあだ名を持ってきたりはするけれど、それでも、十九年間そんな呼び方をされた記憶はなかった。
記憶。記憶か。
ひとつだけ、僕の中で仮説がある。
サーカスだ。僕はサーカスに行ったことがある。でなければ前条さんの異常を知覚することは無いからだ。
月下部さんですら、「あいつが言ってる『サーカス』が死ぬほどやべーことと、あいつが死ぬほどやべーことしか分かんねえ」と言っていた。あの部屋の暑さを認識しているわけでも、前条さんの厚着について深く意識出来る訳でもない。
だから、きっと、僕はサーカスに行ったことがある筈なのだ。けれども覚えていない。ならば、僕が入場料として払ったのは『記憶』なんだろうか。違うような、合っているような、何とも言えない感覚だった。酒のせいかもしれない。
だとしたら、僕の記憶は戻ってこないんじゃないか? 前条さんが十年かけて探しても、未だにサーカスの手がかりは無いのだし。無いから、探しているのだし。
テントはあんなにも近くにあるのに、あそこでサーカスが開かれるのだと言われても、到底信じられる気がしなかった。それほどまでに寂れていて、もう二度と使われないもののような気がした。
僕が仮に、失くしているかもしれない記憶を取り戻したとして、そしたら前条さんにとっては僕は本当の意味で『けーちゃん』になるんだろうか。それってつまり、今は本当の意味では『けーちゃん』ではないんじゃないだろうか。あの人は誰を呼んでいるのだろうか。
僕ではないのかもしれない。そう思って、そこで、ああこれ、前にもやられたな、とも思った。
綾音の笑顔を思い出す。真っ赤な顔で告白してくれたことを。休み時間のたびに僕の元にやってきて、時間ギリギリまで愉しそうな笑顔で他愛無い話をしていったことを。風邪をひいた時にお粥を作ってくれたことを。温かい思い出の全てを思い出し、そして、それが『求めている理想の彼氏像』に向けられていたことを思い出して、胸が痛くなった。急激に酔いが醒めていく。
『歌の上手い彼氏が欲しかった』のだという。
特に取り柄のない僕だが、まあ、歌だけは聴けなくもない。上手いと言うだけで印象には残らないらしいが、それでも多少は聴ける。
綾音は入学当初クラスの親睦会で行ったカラオケで僕を気に入って、その時求めていた理想の彼氏像に僕を当てはめた。あれをして、これをして、と求められることは時にはしんどかったけれど、それでも期待され慣れていない僕にとっては嬉しかった。
慣れないなりに頑張って応えてみた結果は、理想を叶えられなくなったら挿げ替えられて、お終いだ。
死ぬほど悔しかったのに、まあ高橋ならしょうがないな、と思う僕もいた。だってしょうがない。高橋と僕だったら、僕でも高橋を選ぶ。
そういう諦めが根底にあって、それでも、ただ諦めたという事実には耐え切れなかったからこの街に来た。
そのあとは外国人に絡まれて、前条さんに助けられて、『けーちゃん』として雇われて、求められて、今ここでよく分からない虚しさに包まれている。
「結局、どこまでいっても代わりなんだなあ、僕」
そういうことだった。あの人にとっても僕は代わりなのだ。また同じことをされている。
なんだかなあ、と思った。なんなんだろうなあ、とも思った。
そもそも好きな相手を危険な場所に連れて行くなよ、なんなんだよ。頭おかしいんじゃないか、と吐き捨てかけ、そうだった、頭がおかしいんだあの人は、と飲み込んだ。
自室の扉の前で鍵が上手く取り出せずにもたつきながら、僕は自嘲の笑みを零した。
なんとか扉を開けて、平時よりも更に働かない頭で靴を脱ぎ散らかし、電気をつける。
今日はもう水飲んで寝よう、酒なんて飲んでも楽しくも無い。
うんざりした気持ちで足を踏み出し、ふと顔を上げた僕は、リビング兼寝室の真ん中に置いてあるローテーブルの上に座るそれを見た瞬間、眠気も酔いも吹っ飛ばして玄関扉にへばりついた。
うさぎのぬいぐるみが居た。
冷や汗がどっと噴き出す。震える手で慌ててドアノブを握るが、どういうことだ。開かない。回らない。まるで何かに押さえつけられているかのように。
間違いない、あのぬいぐるみだ。よく似た同じ人形ではない。よく似た同じ人形が部屋に置いてあるのもそれはそれで恐ろしいが、亡くなった娘さんが入っていると言われた人形が知らぬ間に自宅に居るのも怖い。どっちにしろ怖い。怖くないところがない。大体、どうして僕の家に居るんだ?
喧しく騒ぎ始める心臓をもう片方の手で押さえつけ、僕は丸々二十秒ドアノブと格闘し、涙目になりながらカバンからスマートフォンを取り出した。
急いで前条さんに電話をかける。出やしねえ。思わず舌打ちが零れる。一度切り、もう一度かけ直す。早く出ろ。早く、いいから早く出ろ、出て下さいお願いします。
緊張で思いきり唇を噛み締めつつ五度ほどかけ直したところで、ようやく寝ぼけ半分で能天気な声が電話口から聞こえてきた。
『はぁい、もしもしー?』
「前条さん!? あ、あの、あのあのあの、あのの、」
『どーしたけーちゃん、とりあえず落ち着きな』
深呼吸深呼吸、と促してくる声に従って、大きく深呼吸する。吸って吐いてを二度繰り返す。歯が鳴っているせいで吐息は細切れになった。
「アリスちゃんが!」
『アリスちゃんが?』
「うちに居ます!!」
『ああうん、俺が置いたからな。用件ってそれだけ? じゃあ俺もう眠いから切るね、おやすみけーちゃん』
良い夢見ろよ、なんて言い残して切ろうとした前条さんに、予期しない言葉に固まりかけていた僕の口が反射的に動いた。
「置いたんですか!? アンタが!? 待ってくださいまだ寝かせませんよ!!」
『ええ~? 明日朝早いのになあ……』
「何がどう早いって言うんです!? いつも僕が行くまでだらだらしてるでしょうが!」
『アリスちゃんのお母さんに会ってくんだよ。その間、その子預かっといて。大丈夫、けーちゃんに危害を加えたらどうなるかはちゃんと教えておいたからさ』
「でも現状扉が開かないんですけど!? これは危害には入らないんですか!?」
『鍵締まってんじゃない?』
「はあ!? そんな訳――――」
あった。
鍵が閉まっていた。僕が閉めたので当然と言えば当然である。戸締りは大事ですからね。偉いぞ僕。ぶん殴ってやりたい。
どうやら頭に残るアルコールのせいで鍵を回すのを忘れていたらしい。我ながらアホすぎて涙が出てきた。ずるずるとへたり込み、鼻を啜る僕の耳に、子馬鹿にしたような笑い声が響く。クソ、笑ってんじゃねーよ、アンタのせいだろうが。
『まあ何も言わずに置いて行った俺も悪かったよ』
「悪いのはアンタだけだと思いますけど」
『持って行った時にはけーちゃん家にいなかったみたいだから。で、今ようやく帰って来たんだな? 事務所出たあとどこか寄ったの?』
「へっ? あ、ああ、ええと、ハイ、まあちょっと軽く買い物的な……」
月下部さんと飲みに行ってしまったことは秘密にしておかなければならない気がして、僕はとっさに出まかせを口にした。電話口からは信じているんだかいないんだか、分からない生返事が聞こえてくる。
朝が早いと言うのは本当らしく、前条さんは僕の拙い嘘に言及することなく電話を切った。戻ってきたら連絡するから、と言い残して。
後には、玄関の三和土で腰が抜けた僕と、くったりと身体を傾けたぬいぐるみだけが残った。
もし仮にこれが恨みを抱えて死んだ女児ではなく、普通に生きている五歳児だったとしても、僕は同じように疲弊を困惑を覚えただろう。
小さな女の子との関わり方など分からない。妹とはおよそ十歳差だが、それでも妹だからこそ可愛がったり邪険にしたりと上手く付き合えるのであって、他所の女の子なんてどう扱えばいいのかさっぱりだ。
力の抜けた身体でテーブルを避け、ベッドまで這っていった僕の視界の端にゆっくりと揺れるぬいぐるみが映る。
五歳の女の子にはどういうもてなしをすればいいのだろう。スマートフォンで検索する。折り紙、絵本、お絵描き。幼稚園児が好むものが上がる。
「え、ええと……その、今日はもう遅いから寝るけど、……あー……て、適当にくつろいでおいてね」
ゆらゆらと揺れるぬいぐるみに語り掛けると、ぴたりと動きが止まった。動いているのも恐ろしいが、急に止まられるのも恐怖が煽られる。気に障っていませんように。
頼むからこれで許してくれ。供え物のつもりでおやつボックスの中からバームクーヘンを取り出し、人形の後ろに置いたところで僕は眠気に負けて寝落ちした。
――――気づいたらベンチに座っていた。
どこの公園にもあるような木製のベンチだ。長いことペンキが塗り直されていないのか、ほとんどが剥げてしまっている。
どうしてこんなところに、と思いながら周りを見回す僕の視界に、回転遊具で遊ぶ家族の姿が入った。
近頃では撤去されていることの多い球場の遊具の中に入った女の子が、父親らしき男性にゆっくりと遊具を動かされて楽しそうに笑っている。傍にはカメラを構えた母親らしき女性が立っていた。
幸せそうな家族の図だ。降り注ぐ太陽光の下で、笑顔の絶えない家族が楽しそうに笑い合っている。
微笑ましいな、なんて思いながら眺めていた僕は、ふと遊具を回している男性の顔に見覚えがあると気づいた。
「あれ、兎束さん?」
事務所で見た時の草臥れた表情とは違ったために気づくのが遅れたが、確かに依頼人の兎束さんだった。……ということは、あの遊具の中で無邪気に笑っているのが、娘のアリスちゃんだろうか。
家族全員揃った光景が、幸せそうであればあるほど悲しく思えて目を伏せる。どうしてこんな夢を見たんだろう。昼間聞いた話のせいだろうか、などと思っていた僕は、次の瞬間、左隣から感じる怖気に思わず縋るように両手を握り合わせていた。
公園のベンチに座る僕の隣に、何かが座っている。
はっきりと分かるほどの異常に思わず腰を浮かしかけるが、逃げ腰になった僕の耳にすすり泣く様な声が届くと同時に、弾かれるように隣を確かめてしまっていた。
人ひとり分の隙間を開けて、小さな少女が座っていた。白い襟のついた紺色のワンピースを着た少女は、大事そうにうさぎのぬいぐるみを抱えながら、ただ真っ直ぐに回転遊具で遊ぶ家族を見つめていた。
暗く淀んだ瞳から、透明な雫が零れ落ちていく。一切の表情なく、ただ時折鼻を啜っては確かめるようにぬいぐるみを撫でるその少女が誰なのかは、聞かずとも分かった。
「……アリスちゃん?」
返事はない。微かに声を零しながら身じろぎもせず泣き続ける彼女は、震える唇を小さく動かし、何か呟いていた。
距離は空いていては聞き取れないほどの声量だ。絶え間なく吐き出されるそれがどうにも気になり、身を寄せながら耳を澄ませ、そして、聞かなければ良かった、と後悔した。
「しね、しね、しね、しね、しね、しね」
僅かに動く唇の奥からは、聞こえるか聞こえないかの声量で、それでも確かに呪詛染みた憎しみが吐き出されていた。
しね、と舌足らずに繰り返す少女の視線の先には幸せそうに遊ぶ自身と父親ではなく、その後ろに立つ母親の姿がある。なぞるようにして母親の姿を確かめた僕は、どうにもやるせない思いを抱えながら握った手に力を込めた。
ただ憎しみがあるだけなら、きっと彼女は泣いていないだろう。幸福だったころの自分たちの姿を視ることもないだろう。彼女は確かに家族を愛していて、だからこそ憎くて堪らないのだ。
どうにかしてあげたくて、でもどうすることも出来ずに溜息と共に頭を掻いた僕は、ふと彼女に抱えられているうさぎのぬいぐるみが何かを手にしていることに気づいて目を瞬かせた。
このうさぎ、バームクーヘン持ってるな。
見覚えのあるバームクーヘンを、両手でしっかりと持っている。それでいて、僕がそのバームクーヘンに指を伸ばすとくたりと力を抜いてそれを渡してきた。
「……あの、ええと、アリスちゃん。バームクーヘン、食べる? 美味しいよ」
しね、と繰り返す少女に努めて明るく話しかける。当然のように返事は無い。だが、恐る恐るその口元に差し出してみると、呪詛を吐き出す唇が微かに息を呑むように止まり、僕の手にしたバームクーヘンに齧りついた。
小さな口が歯型を残して端を齧り取る。ゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ彼女は、空いている手で僕からバームクーヘンを受け取ると、無表情のまま呟いた。
「おいしい」
その声は呪詛と変わらず平坦だったけれど、確かに本心からの言葉に聞こえて、僕は何だか泣きそうになってしまった。
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