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3:人形の話[後編]
翌朝。日が昇り始めると同時に目を覚ました僕が視界不良の中部屋を見回すと、ぬいぐるみは変わらずそこにあった。いた、と言うべきだろう。言いたくはないが、実際いるのだから仕方あるまい。
「……お、おはよう」
昨日は玄関扉の方を向いていた気がするのだが、どうして今日はベッドの方を見ているのだろうか。なるべく考えないようにしながら、寝ている間に外れていたらしい眼鏡を手探りで引き寄せて掛ける。
腕の下敷きになっていたせいか妙に緩い気がする。飲める年になっても酒は飲まない方がいいな、と決意を新たにしつつ溜息を吐いた。
ぬいぐるみを出来るだけ意識から除外しつつ朝食を済ませ、シャワーを浴びる。髪の毛まで濡らした辺りで、ああそういえばシャンプーを詰め替えてなかったと気づいた。
この状態から風呂場を出て、買った後に乾物類と一緒に置きっぱなしになっているシャンプーを取りに行くのは面倒くさい。
どうしたもんかな、と溜息を吐いた僕の足元に、突如詰め替え用シャンプーが落ちてきた。
丁度、カーテンの隙間を押し退けて飛んできた。ひゅん、ばしん、べしょっ。極めて雑に放り込まれたシャンプーの詰め替えパックを、固まったまま五秒かけて認識する。
ええと。
その。
いや、はい。
温水を浴びている筈なのに震えが止まらず、かといって見ないままなのも嫌だと本能が言うので、僕はぎゅっと目を瞑り、気合を入れてからカーテンの向こうを覗き込んだ。
浴槽の隣、洗面台と共に備え付けられた便座の蓋の上に、ぬいぐるみがいた。
うさぎのぬいぐるみは無表情だ。表情など作れる筈がないので無表情で当然だが、それでもそれは確かに『無表情』だった。
無表情のまま、カーテンの隙間から覗く僕を見つめている。そこに込められた感情など僕には知る由もないが、それでも親切にされたなら言わねばならない言葉がある。
「アリガトウ、ゴザイマス」
ぎこちなく礼を言い、僕は震えたままシャンプーを詰め替え、髪を洗った。
バームクーヘンが無くなっていたことに気づいたのは、前条さんから連絡が来た後だった。
『あ、けーちゃん? やっぱりお前すごいよ、俺のラッキーアイテムだよ、最高だよ大好き! 急いで事務所来てね、お土産あるからな!』
電話口の前条さんは何故か分からないがやたらとハイテンションだった。ハイテンションついでに聞き流してはいけないようなことを言われた気がしたが、昨日の居酒屋での話がフラッシュバックしそうだったので無理矢理流した。
大好きって言ったな。今。僕のこと大好きって言ったな。あれは僕のことで良いんだろうか。
ご機嫌にはしゃぐ前条さんを落ち着かせつつ、言われた通りに急いで事務所に向かう。流しきれなかったので一度自転車のカギをかけたまま押しかけてつんのめったが、兎に角、鞄とアリスちゃんを乗せて急いで事務所まで向かった。
「いやあ、もう本当、けーちゃんに頼まれなかったら喜久子さんとゆっくり話そうなんて思わなかったからな、ふふ、大収穫。お礼に室温を五度下げて上げよう、出血大サービス!」
「は、はあ、役に立てたなら何よりですけど……お礼も何も、下げて上げたら元通りじゃないですか」
「細かいことは気にすんなよ、美味しいケーキ買って来たから一緒に食べような。そうそう、アリスちゃんにも食わせてやるから、楽しみにしてろよ」
電話口と変わらず何だかテンションが高いままの前条さんは、なんとなく、昨晩よりは仲良くなれたような気がしたので腕に抱えてやってきた僕からアリスちゃんを鷲掴みにして受け取ると機嫌よく笑った。耳を掴まれたうさぎのぬいぐるみが左右に揺れている。
嫌がってるじゃないですか、やめてあげてくださいよ。昨日から思ってましたけど扱いが雑過ぎませんか。
「お別れパーティとお母さんぶっ殺しパーティを兼ねて蝋燭立てて食べようぜ、永遠の五歳をお祝いしてバースデーソングも歌ってやるからさ」
「やめてください、アンタの歌じゃお祝いどころか呪いですよ」
「いいじゃん、呪いの席だぜ?」
音が乱高下する口笛に始まりご機嫌に不気味な鼻歌を響かせる前条さんは、当然のように歌も酷い。声に対して謝罪会見を開くべきレベルである。シルクで雑巾を作り、マスクメロンでハンマー投げをかまし、ロレックスをメリケンサックにするような暴挙だ。早く僕の耳と心に謝って欲しい。
聞いているだけで精神が不安定になりそうな歌声を思い出し、全力で阻止しにかかった僕に、前条さんは明らかな揶揄を込めて笑った。何となく居心地の悪くなる笑みに目を逸らした僕は、今しがた前条さんの口から出てきた物騒なパーティ名をようやく認識し、視線を前条さんへと戻した。
「……やっぱり、他の方法は無かったんですか」
「え? ああうん、お母さんを殺させる他に方法はないよ。ごめんな~、色々と探したんだけど無理だったわ。まあほら、俺にも不可能はあるから」
円満に解決する方法が見つけられるのかもしれない、という僕の期待はあっさりと否定されてしまった。前条さんの言う通り、彼は万能という訳ではない。だから、当然そういう結果も在り得ると考えていた。
考えてはいたのだが、それでも、前条さんなら何とか出来るんじゃないかなあ、なんて、無責任に考えていた。頭では理解していたが心は勝手に期待していたというやつだ。
別に、前条さんは慈善事業でやってる訳ではない。商売としてやっている以上、方法が他にないのならそれを取るしかないだろう。
憎しみを吐き続け涙を流していたアリスちゃんの横顔を思い出す。彼女もそれを望んでいて、前条さんもそれしかない、というのなら、そもそも何の手段も持たない僕に出来ることなどない。やるせない話ではあったが、事実だった。
ただ、僕には手段がなくとも誰かが持っている可能性はある。
「……えっと、その、例の謙一さん?でしたっけ、」
「無いよ」
「…………はい」
昨日聞いたばかりの案を持ち出した僕に、前条さんは満面の笑みでどこまでも明るく言い放った。今までのどんな脅しより怖かったので、僕は素直に頷いた。
「パーティが終わったらお母さん呼ぶから、とりあえず美味しいケーキ食べて元気だそうな」
前条さんはローテーブルに皿とフォークを並べると、本当に買って来たらしい苺のショートケーキを取り出した。蝋燭までセットで入っている。五本を等間隔に配置した前条さんは、自分の隣にアリスちゃんを放り投げると僕に対面に座るように促した。
気が進まないながらも腰を落ち着けた僕の前で、蝋燭に火が灯される。ゆらゆらと揺れる炎を眺めていると、前条さんがリモコンで電気を消した。変なところで便利な事務所である。
「ハッピー バースデイ トゥー ユー」
「ちょっと、やめてくださいって言ってんでしょうが」
「ハッピー バースデイ トゥー ユー」
「やめろっつってんだ――――うわっ!? お前!! いつ来た!!」
ただでさえ恐ろしいものが蔓延っている事務所内だ、灯りを落とした中でその不協和音を聞く気にはなれない。リズムを取っているようで全く取れていない、どこか別の次元から音程を参照しているんじゃないかと思えるような歌声に急いでストップをかけた僕は、蝋燭の明かりに照らされる影がひとつ増えていることに気づいてソファの上で飛び跳ねた。
当然みたいな面をした地蔵の頭が僕の隣にいた。ふざけんなよお前。ふざけんな。暗い室内でそういうことをするな。マジでふざけんな。お前の居場所は本棚だ、さっさと帰れ。
「ハッピー バースデイ ディア アリスちゃーん」
「無視して歌うのやめてもらえます!? 心が不安定になるんで!!」
「ハッピー バースデイ トゥー ユー」
くそ、こいつ歌いきりやがった! しかも拍手とかしてる! 腹立つ!
騒ぐ僕など見えないかのように拍手を響かせた前条さんはしばらくアリスちゃんに火を吹き消すように促していたが、無視でもされたのか数秒後には諦めたように自分で吹き消した。待ってください暗いんですけど。
いつもカーテンが引かれているが故に生じた暗闇の中で暖房器具の点灯スイッチだけが輝いている。何とも言えず不気味である。太腿に何か触れている気もする。泣きそうである。
「本棚帰れお前!! お前ケーキ食えないだろ!! 此処にお前の食べるものは無い!!」
「いいじゃん、仲良く分けなよ」
「は!? なんか言いました!? これ以上ふざけたこと言ったら流石に殴りますからね!!」
「アリスちゃんって苺最後に食べる派? いらないなら貰っていい?」
「というかさっさと明かりをつけろ!! 馬鹿!!」
グラスが割れる音がしたので多分嫌だったんだろうな、と頭の片隅で思うのと同時に明かりがついた。
太腿の辺りから重みが消えていたので振り返ると地蔵は本棚に戻っていた。おい、その口元についたクリームはなんだ。食べたのか、食べたのかお前。
喧しく騒ぎ立てる心臓を押さえながらテーブルへと目を戻す。四等分されたらしいケーキは僕の分を残して綺麗に消えていた。良かった。僕の分はちゃんと残っている。上に乗っている苺が無くなっている気がするが、もはやどうでもいい。
やけくそ気味にケーキを食い始めた僕の対面で、前条さんは何とも機嫌よくアリスちゃんに向かって語り掛けていた。
「最後に美味しいもの食べられて良かったねえ、お兄さんに感謝しろよ? してる? そりゃ良かった、あ? バームクーヘン? でもケーキの方が美味しかったろ? 嬉しいよな? 子供ってケーキ好きだもんな、嬉しいよな。嬉しいだろ?」
喜びを強制するような物言いでアリスちゃんに詰め寄った前条さんは、何とも嫌そうに耳を倒すアリスちゃんを抱えると、唇の両端を持ち上げた。
「美味しいものを食べさせてくれた優しいお兄さんに感謝の気持ちでもって教えて欲しいことがあるんだけど、いい?」
問いかけは脅迫と同義だった。少なくとも僕にはそう聞こえた。
一体何をするつもりなのだろう。言うだけあってかなり美味しいショートケーキを頬張りつつ耳を傾ける。真面目に聞かねばと思うのに止まらない程度には美味しい。なんだこれ。
「別にそんな難しいことじゃない。お父さんの弟の話が聞きたいんだよ、両足が不自由になっちゃった弟さん。アリスちゃんから見たら叔父さんかな? そう、兎に角その人のことが聞きたい。アリスちゃんも一度会ったことあるんだろ? 会って、見たんだろ? 両足が無い叔父さん。アリスちゃんには両足が無いように見えたんだよな、それって本当? お母さんやお父さんにはあるように見える足が、アリスちゃんには無いように見えたんだよねえ、思い違いじゃないよな? 無かったんだよな、足」
最後の一口を口に運びかけた僕の手が止まった。
機嫌よく、弾むように問いかける前条さんの声は至極明るい。
「お母さん、足が無いだなんて言うからアリスちゃんのこと強く叱ったんだよなあ。そりゃそうだ、お母さんから見たら足はあるしお医者さんから見ても足はあるし、もっと言うなら異常はないし、ないってことは頑張れば歩けるようになるかもしれないし、でも実際は足がないから歩けないし、叔父さんは泣いちゃうし、自分の娘が夫の弟に暴言浴びせて泣かせたと思ったら叱りもするよな。でもアリスちゃんは悪くないよ、だって無かったんだもんな。無いのにあるように見える方が悪いんだよ。大丈夫、アリスちゃんは悪くないからね。だから教えて欲しいな。君、サーカスに行ったことある?」
優しく、柔らかく、耳馴染みの良い声で紡がれたそれに、アリスちゃんの両耳が応えるように震えた。
口元だけは深い笑みの形を取っている前条さんの、光を取り込まない黒い瞳がゆっくりと一度瞬く。
「……そう、無いのか。だとしたらどうやって――…………ん? 何? どうしたの、ゆっくりでいいよ。俺は返事が遅くても髪の毛引っ張ったり水に顔面沈めさせたり耳元で死ねとか言わないよ。ぬいぐるみに髪の毛はないし、水は触りたくないし、もう死んでるからね」
何の慰めにもなってない台詞をまるで慰めているかのように錯覚させてしまうような声音だった。
しばしの沈黙。ここで最後の一口を食べてしまうのが正解だろうか。中途半端な状態で止まっているフォークに一瞬だけ視線をやると同時に、前条さんが口を開いた。
「…………ピエロ?」
目を上げる。何やらアリスちゃんに語り掛けられているらしい前条さんの顔が、徐々に険しくなっていく。前髪の隙間から覗く瞳が、苛立たしげに細められた。
「そう、そいつが君に教えてくれたの? 本当にその方法で合ってた? ああいや、違うな合ってたから入ったのか、そうだね。それで? そのピエロはどこに行ったの? 招待状は? 君には渡さなかった? そう、そうか。そうだろうな、まだ開かれていない。でもおかしいね、君がピエロに会ったのは叔父さんの足を見たずっと後のことだろう? ………………ああ、待った。ひとつ確認しよう」
苛立ちを逃がすように、片足の踵が床を叩いている。
「兎束康介は、君の本当の父親ではない」
付け替えたばかりの蛍光灯が割れた。眼を細めた前条さんが、詰まらなそうに吐息を零す。
「叔父さんが――まあ、ここでは叔父さんって呼んでおこう、面倒だからな。叔父さんがサーカスに行ったことがあるのは確かだ。成る程ね、行った奴が子を作るとそうなるのか。爺と独り身と植物人間にしか当たったことなかったから知らなかったよ、ありがとう、とても参考になった。じゃあこれでパーティはお終いだ、沢山話して疲れただろ? いったんお休み」
前条さんは極めて雑な仕草でアリスちゃんを麻袋に仕舞うと、袋の口を縛ってソファの端に置いた。
そうして、しばらくの間アリスちゃんの入った麻袋をじっと見つめた。薄く開かれた口から、溜息にも似た吐息が零れ出ている。そこに来てようやく最後の一口を咀嚼した僕は、飲み込んでから恐る恐る、無言のまま動きを止めた前条さんに声をかけた。
「あの……大丈夫ですか?」
「うん? 何が?」
「いえ、何か、その……結構大変な話だったように思うので」
未だに落ち着く素振りを見せずに貧乏ゆすりを続ける片足を眺めながら問えば、足を組み替えた前条さんはほんの少し困ったように頭を掻いてから首を振った。
「大丈夫、ちょっと聞き覚えのある話聞いて萎えただけ。よし、けーちゃん。これでアリスちゃんには話も聞こえなくなったし、今の内にさっさと説明しちゃおうな」
「説明?」
「そう、お母さんを殺させちゃうけど殺さなくても済む方法」
「え、え? えっと、あるんですかそんな方法」
つい先程存在を否定されたばかりの方法が突如提示され、目を白黒させた僕に、前条さんは悪戯めいた笑みを浮かべた。
立ち上がり、冷蔵庫から紙パックゼリーを取り出してきた前条さんが、ゼリーに牛乳をかけながらご機嫌な鼻歌を響かせる。聴いているだけで不安になるのでやめてほしい。
「勿論、俺がけーちゃんにあんな顔で頼まれて見つけてこない筈無いだろ? 褒めていいよ」
「方法があるならどうしてさっきは無いなんて言ったんですか?」
得意満面で言い放った前条さんの顔には先ほどまでの陰鬱な色は無い。少しだけほっとしつつもドヤ顔がムカついたので特に褒めることなく話を促すと、前条さんは拗ねたように唇を尖らせながら続けた。
「だってアリスちゃんに聞かれると困るし。殺させるのは一緒だからさあ、バレると面倒なことになんだよ。別にずっと袋に突っ込んどいても良かったんだけど、自我が無くなっちゃったら元も子もないし」
「……アレ、そんなに危ないもんなんですか」
「すぐに出すから大丈夫大丈夫。それで、その方法なんだけどね」
五歳児をなんてもんに突っ込んでいるんだ、という僕の非難を視線と声音から感じ取ったのか、前条さんは肩を竦めながら誤魔化すように話を進めた。
どのみち話が進まなければアリスちゃんはずっと麻袋の中なのだし、と素直に前条さんの話に耳を向ける。
僕が素直に聞く姿勢を取ると、前条さんは満足そうに頷きながらソファの脇に置いた袋から気味の悪い人形を取り出した。紙粘土か何かで出来ているのか、いびつな形をした人形はローテーブルに置かれると斜めに立った。出来が酷い。
肩まで伸びる茶色い髪の毛に、少し吊り目がちな手描きの瞳。恐らくはブラウスを模しているのだろう謎のでっぱりと不格好なスカート。足先はパンプスらしき模様で黒く塗られている。
左右のバランスが絶妙に取れていない人形を丸々十秒眺めた僕は、間違っていないだろう推測を迷うことなく口に出した。
「これ前条さんが作ったでしょう」
「分かる? 結構頑張ったんだぜ、可愛いだろ」
「頑張ったのは認めます。それで、これはなんなんです?」
可愛くは無いです。というか不気味です。もしも家に帰ってこれが置いてあったら流石に一も二もなくアンタとは縁を切ります。
諸々の台詞は口から出てくることは無かった。人形を持ち上げて笑う前条さんの表情が、先程の得意満面よりは幾分無邪気だったからかもしれないし、早く話を進めたかったからかもしれない。
「何って、お母さんだけど」
「は?」
「アリスちゃんのお母さんだよ。厳密に言うと違うけど、今からお母さんにするから問題ないな」
「は、はあ、なるほど?」
なるほど? 何も分からないです。相も変わらず何も分からないです。強いて分かることと言えば、これをお母さんだよ~と言って目の前に出されたら作ったやつの精神状態を疑うってことくらいです。つまり今僕はアンタの精神状態を疑っています。
そもそも『お母さんにする』とかいう謎の文言も耳に痛い。眉を顰めて前条さん曰く『アリスちゃんのお母さん』である粘土人形見つめる僕に、前条さんはわざとらしく溜息を吐いた。
「けーちゃん、俺の昨日の話覚えてないの?」
「昨日? すいません、昨日の記憶が結構曖昧で」
「酒なんか飲むからだよ」
「いや別に飲みたくて飲んだ訳じゃないんですけ、ど………………」
「『無機物にも魂を籠めることは出来る』って言っただろ? だから俺は今から魂を突っ込んでこれを喜久子さんにする。おかあさんをつくってあそぼのコーナー」
そんな悍ましいコーナーはいらない。放送禁止になるぞ。いや、違う、今はそんなツッコミをしている場合ではない。
この人、今確かに『酒なんか飲むからだよ』って言ったな。僕が昨晩酒を飲んだと知っているということだ。けれど昨日の時点では言及は無かったし、気づいた様子も無かった。けど今は知っている。
正体不明の気まずさから挙動不審になりはじめた僕を置いて、前条さんはローテーブルに立たせた人形にどこからか取り出した細い糸を巻き始めた。明るい茶色の糸が幾重にも巻き付く。毛羽立ったそれが髪の毛だと気づくのにさほど時間はかからなかった。
結構な量の髪の毛をぐるぐると人形に巻き付けた前条さんは、不気味を通り越して嫌悪感を催す様相になった人形を見下ろすと、ゆっくりと滑らかな声で口にした。
「お前は仁井本喜久子だ」
途端、吐き気を催すような悪寒が背を這った。
「き……ッ!」
気持ち悪い、と言うのが率直な感想だった。いや、別に前条さんが気持ち悪いとかではなく。気味の悪い部分はあったけれどそういうことではなく。
お前は仁井本喜久子だ。宣言であり洗脳であり暗示であり事実確認であり現実だった。人形は確かに、二井本喜久子だった。会ったことが無い僕でも分かるほどに。視覚に映る『人形』という現実と本能が捉える『二井本喜久子』という存在が脳味噌を揺さぶっている。
「けーちゃん大丈夫? お水いる? 塩溶かすと結構効くよ」
眩暈に襲われソファに身体を横たえた僕に、前条さんが白々しくも労わるような声をかけてきた。
アンタ、絶対こうなるって分かってやっただろ。視界がぐるぐる回っているので目を閉じる。これ以上、二井本喜久子を目に入れていたら頭がおかしくなってしまう。
「最っ、悪だ……!」
気持ち悪い。インフルエンザで熱を出した時に同じような感覚に陥ったことがある。部屋が大きくなったり小さくなったりしているかのような、物が近いのか遠いのか分からない感覚。気持ち悪い。
水道で水を汲んでいる音がやたらと大きく聞こえてきた。頭が痛い。顔を伏せて呻いていると、軽く肩を叩かれた。顔を顰めたまま身体を起こし、前条さんが持ってきた水を口に含む。気持ち悪くて吐き出しそうなのを堪えて飲み込むと、幾らか楽になった。
眼鏡をかけ直し、吐き気と共に滲んだ涙を拭って前条さんを睨みつける。その手の中で振り回されている人形からは出来る限り目を逸らした。気持ち悪い。
「…………そんなんで、大丈夫なんですか。造りが酷いですけど」
「んん? 問題ないよ、ああいう、アリスちゃんみたいになっちゃった奴は目で物を見てる訳じゃないからね。魂の形さえ合っていれば騙す事が出来る。だから身代わりなんてことが出来る訳だし、いや、厳密に言うとそこは理屈が違うんだけど、兎に角同じなら良いんだよ。これだって『二井本喜久子』だしアレだって『二井本喜久子』だ。増やしすぎると碌なことにならないけど、これはホラ、殺されるためのものだから問題ない」
分かるような分からないようなことを、聞かせるつもりもない口調で言い放った前条さんは、麻袋の口を開けるとそこに人形を放り込んだ。
お母さんだよ、頑張って殺そうね、などと言いながら放り込んだ前条さんはそのまま袋の口を締めた。そんなんでいいんだろうか。本当に解決するんだろうか。アリスちゃんは本当にアレをお母さんとして認識するんだろうか。
十分後。
人形の造りがあまりにも雑だったのでかなり懐疑的な目で見てしまった僕の前で、麻袋が下からじわじわと赤く染まり始めた。ぎょっとして身を引く僕の耳に、あっ、やべえ、と言う前条さんの声が届く。
待ってください。やべえとか言わないでください。アンタがやべえって言うと冷汗が止まらなくなるんですよ。
袋から滲み出た赤色の液体は、錆びた匂いを放ちながらローテーブルまで汚し始めた。急いで台拭きを取りに走る。霊現象に対する恐怖より、無駄に高そうな絨毯に染みがつく恐怖の方が勝ってしまった。
前条さんが袋の口を開け、掴んだぬいぐるみを引っ張り出す。
ぬいぐるみは前面が真っ赤に染まり、両手の先からぽたぽたと液体を垂らしていた。袋をさかさまにした前条さんが、粉々になった人形に目をやり、次いで汚れたぬいぐるみへと視線を向けてから、不貞腐れたように息を零した。
「あーあ、汚れちゃった。兎束さん怒るかね」
「……洗濯すればいいんじゃないですか」
「血液って何で落ちるの? 洗ったことない」
「ついてすぐなら案外落ちるんで早く洗った方がいいんですけど、えっと、あの、アリスちゃんは……」
流石に中にアリスちゃんがいる状態で洗濯する訳にはいかないだろう。ゴム手袋を装着し、おっかなびっくりローテーブルの血液――じゃないかと思ってはいたが認めたくなかった液体――を拭いつつ問えば、前条さんは血塗れのぬいぐるみを見定めるように覗き込んだ。
「うん、もういないな」
「そう……ですか。成仏したってことでいいんですかね」
「さあどうだろう、消えはしたけどあくまでも成仏的な方法だから、何とも言えない。存在意義の消失を成仏と呼ぶならそうかもしれないし、まあでもけーちゃんが思っているほど悪いもんじゃないし、満足は出来ただろうね」
「満足……」
結局、アリスちゃんにとっては『お母さんを殺した』という結果になった。
それが良いのか悪いのか、僕に判断することは出来ない。僕が判断していいようなことだとも思えない。ただ、依頼に関わった全員にとってこれが最善の結果なのだろうとは思った。
「一応は目的を達成したんだから達成感はあったんじゃない? 本当なら最初から終わってたんだし、兎に角これで解決ってことで」
告げた前条さんは上手く頷くことが出来ないでいる僕を置いて洗濯機へと向かった。ぽたぽた垂れている血糊を拭いながら後に続く。僕がせっかく垂らさないように頑張ってたのになんてことしてくれるんだ。
「このまま回しちゃっていい?」
「いや駄目です、洗濯機じゃなくて手洗いにしてください。もしくは手洗いしてから洗濯機に入れて下さいよ」
洗濯用のタグが無いので確かめることは出来ないが大抵のぬいぐるみは手洗いの方が良いはずだ。それに、アンタだって血塗れのぬいぐるみをそのまま放り込んだ洗濯機で洗濯した服なんか着たくないでしょう。
気にしないのかもしれないけど、僕は気にします。この人あの洗濯機で洗った服着てるんだよな……ってなるの嫌なんで、手洗いしてください。
諸々の理由で手洗いを推した僕に、前条さんは何とも嫌そうな顔でぬいぐるみを僕に差し出した。ゴム手袋なのでそのまま素直に受け取る。
はいはい、分かってますよ。水に触るのが嫌なんでしょ。お湯ですら微妙な顔しますもんね。
あまりにも嫌だったのか無言で行われた要請を受けて洗面台に向かい、溜めた水でぬいぐるみの汚れを落とす。幾らか落ちたところで一度流し、今度は流水で洗い始めたが、なかなか落ちない。思ったより時間がかかりそうだったので、ついでに風呂掃除もしてしまうことに決めた。溜めた水に洗剤をぶち込んで人形を浸けておく。風呂場の方は元々大して汚れてもいないので軽く掃除を済ませてスイッチを入れた。
「前条さん、ついでに風呂沸かしておくんで入ってくださいね」
「え、やだ」
「やだじゃないです、最後に入ったのいつですか」
「三日前とか」
「無いです、入ってください」
水に触るだけでこの世の終わりみたいな顔をする前条さんは、言うまでもなく風呂も嫌いだ。
必要がなければ入りたくない、と言い放った前条さんにドン引きしたのは記憶に新しい。拗ねた調子で説明した前条さん曰く、身体的理由で代謝の過程が違うんだから同じ基準で風呂に入る必要はないとのことだが、それでも僕としては入って欲しいと思ってしまう。
理由は洗濯機と一緒だ。この人風呂入ってないんだな、と思いながら過ごすのが嫌だ。
実際は、前条さんは近づくと臭いどころか何だか妙に甘い良い匂いがするし、髪だって癖こそあれどいつまでも指通りの良い質感だし、肌だって氷のように冷たいものの滑らかなので僕だって無理に入ってもらう必要はないかなあと思わなくもないのだが、そこはそれ、いつも怖い目に遭わされる仕返し的な面もある。
ついでに言うと、前条さんはトイレに行かない。僕が居る間に行っていないだけかもしれないが、それでも三週間一度も見たことが無い。此処まで来ると本当に人間なのか?と本格的に疑ってしまうのだが、本人が人間だと言い張る以上は人間として扱っておくつもりだ。深く触れるのが怖いというのもある。
「嫌だ、風呂に入るメリットが無い」
「風呂ってのは入ることそのものがメリットなんですよ、馬鹿なこと言ってないで……メリットがあれば入るんですか?」
前条さんにとってはメリットどころかデメリットしかないのだろう。完全に駄々を捏ねる子供のような声で入浴を拒否した前条さんを呆れつつ諭そうとした僕は、ふとそこで思いついてしまった馬鹿な案に口を滑らせてしまった。
一瞬で何かを悟ったらしい前条さんがぴたりと動きを止める。前髪の隙間から覗く瞳が浴室を確かめた。正確に言えば、浴室の広さを確認した。男二人で入っても問題ないかを正確に読み取っていた。
や、やばい。察しが良すぎる! 気の迷いだったのに!
「ぼ、僕はぬいぐるみ洗ってますから、前条さんはその間に風呂入っててください」
「それは俺にとってどういうメリットがあるの?」
「いや、無いですけど、普通はメリットなんてなくても風呂には入りますから」
「ああ、ごめんな。俺普通でも真っ当でもまともでもないからさあ」
何だか妙に冷えた響きだった。気づけば壁際に追い詰められている。頭一つ分差がある上に筋力差まであるので、追い詰められると逃げる方法が無い。
瞳の奥に微かな苛立ちを滲ませた前条さんは、それでも僕と目が合うと蕩けるような笑みを浮かべた。心拍数が上がる。駄目だ、僕にはぬいぐるみを洗うという使命がある。僕はぬいぐるみを洗わなければならない。職務である。ケーキ食ってぬいぐるみ洗って日給二万である。そこに雇い主と風呂に入るなどという項目が追加されてはならない。
「けーちゃんは俺にどういうメリットを提示して風呂に入らせようと思ったの? 教えてよ」
「…………そっ、うですねえ……えっと…………好きな入浴剤とか買ってきます、けど?」
畜生、良い匂いがする。真面目に風呂入っている僕よりも格段に良い匂いがする。混乱し始める脳味噌を何とか動かし良案を探そうともがく僕に、前条さんは面白そうに笑みを深めた。
「けーちゃんが選んでいいよ。何なら他のも全部選んでいい。そしたら俺からはけーちゃんの好きな匂いがするわけだ。ふーん。ちょっと良いかもな、苦し紛れにしてはポイント高いぜ」
「……………………………………」
揶揄うように告げられた台詞に、僕の脳内は一気に『僕の好きな匂いがする前条さん』に振り切った。やめろ、帰ってこい。頼むから帰ってきてくれ。僕にはぬいぐるみを洗うという使命が。でも別にぬいぐるみを洗うのはいつでもできるし。おい待て。
僕の顔色は顔面にでかでかと『僕の好きな匂いがする前条さんについて考えてます』と書いていたのだろう、楽しげに僕を見下ろしていた前条さんが肩を震わせて笑い始めた。
笑いすぎて力が抜けてきたのか、右肩に寄りかかるようにして顔が埋められる。触れた瞬間に思い切り跳ねてしまった。ひしゃげた笑い声が聞こえる。
そのまま暫く喉を鳴らして笑った前条さんは、笑いすぎて涙の滲んだ瞳を軽く拭うと、ごく優しい声で囁いた。
「心配しなくても一緒に入るだけで何もしないよ?」
「なっ、何もッ、とは!? 何を!?」
「逆に聞くけどけーちゃんは何をされると思ってたの?」
悪戯めいた笑みに、握り締めたゴム手袋が苦しそうな悲鳴をあげた。
何をされるか? さ、さあ。何をされると思っていたんでしょうか僕は。あっ、駄目だこれ、多分僕の顔には『なんかえっちなことをされると思っています』とでかでかと書いてあるに違いない。間違いない。絶対に書いてある。顔を隠すものが欲しいがゴム手袋は汚れているし何もない。距離が近いので隠したところで意味もない。
「けーちゃん、前より反応が過剰だけど、何かあった?」
明らかに、絶対、確実に、分かっているだろう笑みが目の前にあった。腹が立つほど楽しげな笑みだった。実際に腹は立ったが、なんか違うもんもたっちゃいそうだったので落ち着くことに尽力した。
「ああ、違うな。聞き方が悪かった」
壁際に追い詰められたまま細く深呼吸する僕の前で、前条さんは上機嫌に首を傾げた。
「何か聞いた?」
舌が答えるまでもなく、『聞きました』と顔面が答えていた。馬鹿正直ここに極まれり。下手したら『月下部さんから聞きました』まで答えている可能性すらあった。
これ以上口を滑らせる訳にはいかない、と下唇を噛む僕を喜色を滲ませた瞳が見下ろしている。細められた目がなぞるように視線を向けてくるたび、見透かされているかのような感覚に体が強張った。
「しおんちゃんが余計なこと言ったんだろ。俺が誰彼構わず股開いてるとか、一応相手は選んでんだけどな」
「い、いやそんな言い方はしてなかったですけど」
「じゃあどんな言い方?」
「……えっと、前条さんと、その、した人は、大体死んじゃう、とか」
しどろもどろに答えた僕に、前条さんは一瞬面食らったような顔で言葉に詰まった。何度か瞬きした黒い瞳が興味深そうに僕を見下ろす。
「…………けーちゃんそれ聞いてその反応なの?」
「え?」
その反応、とはどの反応でしょう。もしかして僕は既に反応していたのでしょうか。心配になってバレないように股間を見下ろした僕の耳は、ふーん、と何だか気の抜けた様子の呟きを聞いた。
「まあいいや。とりあえず誤解だけ解いておくと、俺としたから死んでるんじゃなくて俺が死にそうな相手を選んでるだけだからな。死ぬ奴は死ぬし、死なないやつは死なない。今にも死にそうな気分だった時に変な男に連れ込まれて精液搾取された記憶が何となく残るだけ」
「ど、どうしてそんなことを……?」
「そりゃ、普段はしないけど長期出張とか謙一に呼び出された時なんかは必要になってくるから。一応、此処も理由があってこんだけ暑いんだよ。対岸町の外に出ると殆ど無意味だし、下手すりゃ寒くて動けなくなるから致し方なく?」
説明を求める箇所をどこに定めればいいのか分からなくなってしまった。放られた情報を唸りながら繋ぎ合わせる。
前条さんは不特定の男の人から精液を搾取してる。精液を搾取。すごい文言だ。やめろ今はそこを考える時じゃない。とにかくそういうことをしている。何故かと言えば、遠出するときに寒くて動けなくなると困るから。つまり?
「……えーっと、前条さんは寒さを軽減するために……あー、えー、えっちなことをしている?」
「何その言い方、かわいいね」
「馬鹿にしないでください」
「してないよお」
してるじゃないですか。今思いきり馬鹿にしたじゃないですか。畜生。ちくしょう!
「そうそう、前条さんは寒くてしょうがないからそれを誤魔化す為にえっちなことしてんの」
細められた瞳が揶揄うように僕を見下ろしている。僕だって別に好きでこんな童貞みたいな反応してる訳じゃないんですよ、童貞じゃないですし。そうです、僕は童貞ではない。だからこんなことはどうってこと――、
「けーちゃんも俺とえっちなことしてくれる?」
――ない、と言えなかった。
黒手袋の指先が僕のズボンのチャックを撫でていた。下から撫で上げ、チャックを弄ぶように指先で掻いている。
もしかして今、地球の時間は止まっているのでは?と真剣に思った。真剣に思うほどの威力だった。少なくとも僕の時間は数秒止まっていた。
ご丁寧にもぬいぐるみに触れていない方の手袋だった。それを判別するだけの冷静さは残っていたし、逆を言えばそんなことを判別している場合ではないと指摘してくれる冷静さは残っていなかった。
「ぜんっ、ぜっ、ぜぜぜぜぜっ、前条さん!? 何をなさっておられるので!?」
「うん? えっちなこと」
「耳元で囁かないでください!!」
「耳元で叫ばないでくださーい」
けらけらと楽しそうに笑う声が耳を通って脳を侵食し思考を錆び付かせる。股間を撫でる指先が錆び付いた思考をそのまま砕きそうな勢いの威力を伝えてくる。駄目です、直接攻撃は卑怯すぎません!?
どうしようどうしようどうしよう、どうすればいいんだろうか。別にこのままやっちゃってもよくないか、と思う僕もいないこともなくもなかったこともないような気がしなくもないが、よくなくないだったのでやっちゃってもいいということにはならなかった。何故なら。何故ならば。
「待って下さい前条さん!」
「なんだよ、焦らしプレイが好きなタイプ?」
「されるよりする方が好きです! そうではなく! あのですね! 聞いてください!」
「はいはい聞くよ」
半泣きで主張した僕に、前条さんは手を止めることなく優しく答えた。声よりも手を優しくしてください。いや優しくてもしないでください。今すぐ手を止めろ。止めろっつってんだよ! 止まんなくなっちゃうだろ!
「僕は!! 今!! 職務中です!!」
「んー、まあ、そうとも言えるな」
「つまりこのまますると格安のデリヘルみたくなります!! なんかダメです!!」
「格安のデリヘル」
「あるいはハウスキーパーの業務内容に性行為が含まれるようなもんです。どちらにせよ僕の中ではアウトです。なんかダメです」
呆けたように復唱した前条さんの指が止まった。これ幸いと若干押し退けるようにして距離を取った僕が真っ直ぐな目で主張すると前条さんは少し困ったように頬を掻いた。
「うーん、俺としてはなんもダメじゃないけど……けーちゃんがダメっていうなら、まあダメってことにしてもいいよ」
あれっ、なんだろう。結構あっさり諦めてもらえた。
何故だか若干残念な気持ちを抱えてしまって変な顔になった僕に、前条さんはにんまりと笑みを深めて言った。
「それなら、けーちゃんが遊びに来た時には『えっちなこと』してもいいんだな? 業務外なら、『なんかダメ』じゃないもんな?」
「…………………………………………まあ、そう、なります、ね」
そうなっちゃいますね。僕が言いましたもんね。
上手いこと反論することが出来ずに頷いてしまった僕に、前条さんはご満悦な様子で笑った。
「いつでも遊びに来てもいいよ、けーちゃんなら二十四時間大歓迎だから」
「遠ッ慮、して…………」
おきます、と言えなかった僕の弱さを、僕は心底恨んだ。恨み倒した。どうしてそこで止まってしまうんだ。前条さんが爆笑してるじゃないか。悪かったですね馬鹿正直で。悪かったですね!
コートが汚れるのも構わずにゴム手袋で殴りにかかった僕を軽くいなした前条さんは、丁度そこで風呂が沸いたと告げた機械音声に返事をしながらマフラーを取った。
一緒に入りませんよ!?と脱衣所から逃げ出して主張する僕に、「今日は良いよ」と返ってくる。今日はって何だ。今日以外でも入らないですからね!?
楽しかったから我慢してやる、次来るときは好きな香りのシャンプーでも買って来いよ、とほざいた前条さんはコートを脱ぎ捨て、セーターに手をかけたところで「服着たまま入るのってセーフ?」などと舐めたことを抜かした。アウトだよ。
扉を閉めた僕の耳に、風呂場の暖房って実質ただの風だから何もあったかくない、と泣きごとが聞こえてくる。扉を閉めた音がすると同時に別の家事でもやろうかと思い立ったのだが、話し相手になってくれとねだられたのでぬいぐるみを洗いがてら前条さんの気晴らしに付き合うことにした。
人形をつけておいた水が抜かれている。薄っすらと黒く染まっている洗面台を見ながら、終わったら台も洗わないとな、と溜息を吐いた。
勿論、前条さんが僕に求める『話し相手』がただの話し相手でないのは明白だった。「俺ねえ、舐めるの上手いって言われるんだよ」などと言い始めた辺りで逃げ出せばよかったのだが、何故かそのまま最後まで付き合ってしまったのは、偏に僕が馬鹿だからである。
ひたすらぬいぐるみを洗い倒すことで鉄の精神を保った。ぬいぐるみに頼っている時点で鉄の精神ではないし、洗いすぎたのかぺちゃんこになった人形に必死こいて綿を詰め、何度も頭を下げながら兎束さんに返却する羽目になったので軽く泣いた。
了
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