45 / 45

Ⅲ-1:先表の話 【後編】

 しかし困ったことになった。誕生日を祝う相談をしに行ったはずなのに、僕の手元には妙案ではなく、妙な噂だけが残ってしまった。しかも、あまりよろしくない噂話である。  『前条統二の遺体を探している男がいる』という話を、僕は一体どういう顔をして前条さんに伝えればいいのだろう。前条さんの方から軽い調子で語られることはあっても、僕からあの男について言及することは殆どないのだ。伝えない、という選択肢が無いが故に困ってしまった。 「もっとスマートな男になりたいもんだよな……」 『すまと? とまと?』 「スマート」 『すまっと』 「…………聡明な男になりたいな」 『…………』 「おい、あからさまに無視すんな」  此処で明らかに気を遣った励ましを貰っても辛いが、黙られても辛いんだよ。この地蔵野郎。しかもわざわざお前に気を遣ってやったのに。いや、この場合は司の方が気を遣って黙ったのか? 考えれば考えるほど切なくなってくるので、僕は石製の後頭部を軽く小突いてこの話を終いにした。  突かれた司はやや不格好な鼻先を使って転がり、電子レンジの上から床へと飛び降りた。ごとん、と鈍い音が響く。 『けちゃは けんめいだと おもうよ』 「…………ありがとよ」 『なやみ おしまい?』 「……あー……いや、他にもある」 『ぽ?』  摘まみ食いに来ただけだと思っていたのだが、司はどうやら本当に、心底僕を気遣って此処に居たらしい。月下部さんの店で相談をしてから数時間後、おやつ時に事務所を訪れた僕を出迎えたのは司だけだった。前条さんは何やら用事があって朝から出掛けているらしい。  おやつなに?とついてくる司と共にキッチンに入って一時間、僕がラングドシャの作り始めから盛り付けまで何かに悩み続けていることは、どうやらこの地蔵にはお見通しだったようだ。 「実は……ちょっと変な噂を聞いちゃってさ」  後片付けを終え、普段なら前条さんにも食べてもらう為に事務所側へと持っていく皿を台に置いたまま、コップに麦茶を注ぐ。キッチンの方がまだ涼しいんだよな、換気扇近いし。いつも通り持っていくと思っていたらしい司が左右に揺れて主張するので、僕は摘まんだラングドシャを口元の辺りに運んでやった。咀嚼の最中は見ない。完全に霊障として頭痛と目眩が酷くなるからだ。  さくさくと謎に生地を囓る音が響く中、僕は数時間前に聞いた噂について、簡単な説明を口にした。前条統二、という名が出たところで、ぽすん、と跳ねるのが聞こえた。  司にとっても、あまり良い思い出は無いのだろう。長く伸びた八つ足を蜘蛛のように伸ばした生首を思い出しかけて、ラングドシャを頬張って記憶を誤魔化す。美味しい。誤魔化す。 「どういう目的で探してるのかはさっぱり分からないんだけどさ、何にせよあんまりいい話じゃないよな、と思って」 『そだね』 「もうすぐ誕生日なのに、こんな話聞かせたくないんだけどさ……」 『たんじょび! きまた?』 「まだ保留中。お前は?」 『つかさは いしで けちゃつくるよ』 「…………いや、なんで僕の地蔵をもっかい作ろうとしてんだよ」 『あおぐが よろこぶ!』  呆れ半分に見やった先では、狸の地蔵が自慢げに薄く輝いていた。こいつ、最近微妙に光るようになっているんだが、一体どういう仕組みなんだろうか。そしてせっかく無くなった筈の僕の地蔵をもう一度作ろうとしているのはどういう了見なんだろうか。要らないぞ。僕は。前条さんだって要らな……どうかな。喜ぶ、のか?  僕の地蔵で喜ぶ前条さん、はあんまり見たくないかもな、と思っている僕に、司はふふん、と得意げに続けた。 『がんばて つくたら また みがわり できるかも』 「…………いや、そんな、残機みたいに増やされても、ちょっとな」 『あたほうが うれしい ない?』 「そりゃ嬉しいけど、流石に命の代替が出来るレベルのってそうそう作れるもんじゃないんだろ。お前が無理すんのも嫌だし」  前条さんはあれで結構、コイツのことを気に入っているから、もしも無茶をしたせいで二度と帰ってくれなくなったりしたら寂しがるだろう。言うまでもなく、僕だって寂しい。  自分でなんとか出来る部分はなんとか頑張るから無理はするなよ、と告げれば、司は『じゃ ふつうに つくるね』とご機嫌に転がっていった。結局作ることは作るのか。もしかして作りたいだけなんじゃないか、お前。  どちらにせよ石で出来た僕の生首が置かれることは確定してしまった。微妙な気持ちで立ち上がり、ラップを掛けた皿を冷蔵庫にしまおうとしたその時、事務所の扉が開いた。 「あれ、けーちゃんじゃん。今日お休みじゃなかった?」  ちょっと話があって来ました、と音にするつもりだった僕の喉は、扉を閉めた前条さんが振り返るのと同時に、絞り上げられた風船みたいな音を出して固まった。きゅキ。怪音である。恐らくは『好き』と発していた、ように思われる。実際にどうかは知らないが、端から聞いていた人にはそう聞こえたかもしれない。何故かと言えば、どう見ても僕が『好き』であろう前条さんがそこに立っていたからである。スーツである。  普段は下ろしきっている前髪を、何とも珍しいことに後ろへ軽く撫でつけている前条さんは、三つ揃えのスーツ姿で大きめなトランクケースを片手に提げていた。  思わず仰け反ってしまった僕がなんとか皿を落とさずに済んでいるところで、脱いだコートをソファの背にかけ、その横にケースを置いた前条さんが、此方へを足を進める。僕は迷うことなく後ずさったが、当然のように背後は壁だった。ごん、と後頭部が鈍い音を立てる。丁度、さっき司が飛び降りた時と同じくらいの音だ。 「どうこれ、似合う?」 「に」 「ちょっと堅苦しい席だったから用意してみたんだけどさ。滅多に着ないからせっかくだし見せようと思ってアパート行こうとしてたんだよね」 「あ」 「ていうか休日もこっちに来るならもう住んじゃえばいいのに。部屋なら幾らでも余ってるし」 「い」 「そうだ、今度けーちゃんも一着仕立てに行こうよ」 「ま」 「ネイビーのとか可愛いんじゃない?」 「すッッ!!!!!!!!」 「遅延が激しいな」  分かっていて会話を続行したくせに文句を言わないで下さい。僕は今全力で視界からの情報を処理して懸命に脳で処理して音にしたんですよ。褒めて下さい。逆に。最初の会話に答えられたことだけで奇跡みたいなものです。話そうとしていたことを忘れずに済んだことも奇跡です。  奇跡的に、それまで口にするつもりだった話題を忘れずに済んだ僕は、『遠方に行ってきた様子なのに僕は今朝前条さんと行為をした覚えが無い』という点には完全に目を瞑って──ついでにいうなら本当に目も瞑って、スーツ姿の前条さんという暴力を視認しないように努めながら、遅れに遅れた会話を一息に取り戻すことにした。 「休日でしたけど少し話さなきゃいけないことがあったのでこっちに来ました事故物件に住む趣味はないので住みたくないです住むなら新しく家を選びたいです事故物件じゃないやつがいいですスーツを仕立てても着ていく場所が無いし僕に似合うかも分からないですとりあえず話を聞いて貰っていいですか!?」 「いいよ」 「ぜっ、『前条統二の遺体を探している男』が居るっ、らしい、です」  この勢いで言う他無い、と吐き出した僕に、それまで上機嫌に壁に手をついて此方を見下ろしていた前条さんが、笑みの形を描いた瞳はそのままに、視線を冷えたものへと変えた。僕の拠り所は手の中のラングドシャだけになってしまった。白い皿を両手で支えることで、僕は僕の精神を支えることにした。 「誰?」 「ひえ……」 「ああ、ごめん。誰から聞いたの?って意味でさ」  自分でも分かるくらいには青ざめてしまった僕に、前条さんは瞳に滲んだ感情を誤魔化すように、嘘みたいに綺麗な笑みを浮かべてみせた。ここでラングドシャを口に放り込んだら、この恐ろしいまでの冷えた空気はどうにかなるだろうか、と錯乱しかけて、錯乱が過ぎるぞ、と堪える。 「……月下部さん、のところに行ってたんですけど」 「うん」 「ミズキさんがそこに来て、聞きました」 「あー、ミズキね。なんて言ってた?」 「え、ええと……捜索に長けた人?に依頼が入っていて、でもみんな嫌な予感がして断ってる、とか」 「ふーん」  聞いた話をそのまま口にしただけの僕に、前条さんは聞いているのかいないのか分からない相鎚を打って、革靴の片足で苛立たしげに床を二度叩いてから、あ、と口を開けた。四秒遅れてラングドシャを差し出した僕の指から、小さく開いた口がクッキー生地を囓り取っていく。  苛立ちを込めて咀嚼しているらしい前条さんはそれから三枚ほど僕の手からラングドシャを食べ、短く鼻を鳴らしてから事務所のソファへと向かった。 「面倒事って重なるよな」  一旦しまっておこう、と無意識に思ったらしい僕の身体が半ば自動的に冷蔵庫にラングドシャを収めたところで、溜息交じりの呟きが落ちる。  携帯の画面を見つめる前条さんの横顔は、険しいとまではいかないまでもあまり明るいものではない。どうやら何処かにメールを送り終えたらしい前条さんが、閉じた携帯をソファに放る。珈琲を淹れたカップをそっと渡すと、前条さんは再度落ちそうになった溜息を飲み込むように口をつけた。 「前条さんの方でも何かあったんですか?」 「んー、まあね。けーちゃん、しばらくしたら一人研修でうちに来るんだけど気は遣わなくていいからね」 「は、はあ、研修ですか。……研修? えっ、研修って、あの研修ですか?」 「どの研修かは知らないけど、一週間か二週間は居るとか言ってたな」  研修ってこの事務所にですか?と言わずに済んだのは良かった。口に出していたら確実に『この得体の知れない事務所で何を学ぶって言うんですか?』という失礼極まりない文言が、言葉にしても居ないのに明確に伝わってしまっただろうから。  いや、分かっているんですよ。雇われた当初よりはこの事務所がきちんとしていることは理解しているんです。でも。ここに研修って。  前条さんが怪異に対して強いのは彼の知識もあるが、何よりも体質そのものに由来している。  対処法が大抵は殴ったり蹴ったり飲み込んだりするような人間が所長の場所に来て、その、研修に来る人が何かを得て帰ることが出来るんだろうか。 「けーちゃんと同い年だって言うから、仲良く出来るならしてもいいよ」 「え、あ、はい。ええと、名前は?」 「神楽坂神太郎」  何処かで聞いたことがあるような、と記憶を辿りかけた僕は、そこでカップの縁に口を付ける前条さんの目が、やたらと上機嫌を装った視線を向けてきていることに気づいた。やたら上機嫌。つまりは不機嫌を隠すための所作であり、尚且つ、隠していることは隠さないつもりの視線だった。  要するに、僕が先程飲み込んだ筈の失礼な文言は、どうやら一字一句違わず彼には伝わってしまっているらしい。 「…………すみません」 「え? 何が?」 「いえ。ここはすてきなじむしょです。ぼくははたらけてしあわせです」 「ん?」 「あっ!! そうです!! 僕、今日名刺を貰ったんですけどその時に交換する名刺がなくてですね! 作りたいなあ!」  これ以上無いほどに下手な誤魔化しだったが、別に前条さんも本気で怒っている訳ではない──きっと色んなことが重なって普段より沸点が低くなっている──ので、僕が一生懸命格好良いデザインの名刺について話している内に流してくれることになった。僕の名刺は赤地に金の箔押しで狸を描くことになってしまった。何かを思い出す色合いだった。今後一生名刺交換の機会がありませんように、と強く祈った。  それから、ついでに司の名刺も作ってやろうな~、なんて言っている前条さんに司が謹んでお断りをかましたり、晩ご飯のリクエストを聞いたり、ネクタイを外す前条さんがなんかこう、なんかこう、こうだな!となったり、僕が無心を心がけたり、なんだりかんだりあったりしたが、晩ご飯を食べ終える頃には、いつもと同じ空気が戻ってきた。  炊飯器に明日の分のお米を用意して、キッチンの片付けを終えて事務所へと戻る。ソファに横になっている前条さんのお腹の上には司が乗っていた。最近、よくああやって二人で寝転がっていることが増えた気がする。 「一旦戻るつもりなんですけど、明日は何が食べたいですか?」 「あー、司は?」 『たまごやき あまいの』 「あとお麩の味噌汁」 「了解です。毛布持ってきます?」 「まだいい」 「そうですか」  じゃあ、今日はこの辺で、と言いかけた僕に、前条さんが閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げた。見上げてくる瞳に映るのは、微かな戸惑いだ。扉に向けようとしていた爪先をソファ側へと変えて、傍らにしゃがみ込む。  前条さんは寝転んだまま首だけを動かすようにして僕を見つめ、一度視線を外し、此方に向け直すことなく目を閉じた。 「けーちゃんが嫌だったら良いんだけどさ」 「なんですか、珍しい」 「明日俺と一緒に行ってくれる?」 「はあ、何処に」 「実家」  挨拶、と反射的に浮かんだので、僕の頭は本当に馬鹿なのかも知れない、と思った。いや、結婚式をするなら挨拶をしてからだよね、どうしようね、なんて割と真剣に話していたことが、あるんですよ。あるんです。僕の家にね。説明をしないといけないと思って。そういう記憶が浮かんでしまっただけなんです。何の言い訳なんだろう。これは。  返事なんて肯定以外にないと決まり切っているのに、僕の口は一度開いて、言葉を探して、見つからずに唇に軽く歯を立てて、微かに皮膚の擦れる音を響かせただけだった。  実家。前条さんの、である。それ以外に無い。  そもそも残っていたのか、という驚きが真っ先に来てしまった。前条さんなら跡形も無く壊していてもおかしくない、と思っていたから。  でもそれは僕が勝手に思い込んでいるだけで、前条さんにとっては、もしかしたら、本当に、壊すことも触れることも思い出すことも嫌な場所、なのかもしれない。こんな風に、迷いながら言葉を紡ぐ程度には。 「嫌だったら別に」 「行きます、絶対行きます、本当は僕を置いていかないと不味い場所だったとしても行きます」 「…………まあ、半分くらいはそうかもな」 「でも、行きますよ、僕。地獄でもついていきますよ」 「へえ? 心霊スポットでも半泣きなのに?」  苦笑いにも似た笑みで喉を鳴らした前条さんは、腹の上でころんころんと転がる司を片手で雑に撫でると、そのまましばらく、瞼を閉じたまま笑い続けた。笑い声が響く度に司が小さく揺れる。  されるがままになっていた司がやがて跳ねるように手を押し返し、ぽすんぽすんと本棚に帰っていった辺りで、前条さんは未だ笑いの混じる吐息を細く吐いた。 「実のところさあ、覚えてないんだよね」 「……何をですか?」 「あいつの死体。どう片付けたかなって」 「………………」 「確かめに行こうとしたことは、あったんだけど」 「………………」 「片付けてないかも」 「……………………それは、ええと、大丈夫なんですか?」 「多分ね。俺がいなくなったくらいで揺らぐようなもんじゃないから」  何が?と聞かなかったのはきっと聞いたところで僕には理解出来ない理屈を説明されるだけだと分かっていたのもあるし、僕の右手が前条さんの頭を撫でるのに忙しかったからでもある。  薄く目を開いた前条さんが、なんだよ、とまた小さく笑う。反射的にぐしゃぐしゃに撫で回しそうになったので、僕は衝動を堪えるように唇を引き結んで、そういうロボットみたいな動きで前条さんの頭を撫で続けた。 「俺も撫でていい?」 「いつも聞かないじゃないですか」 「いつもはね」 「……良いですけど、互いに撫でてるの変じゃないですか?」 「そうかな」  伸びてきた手がするりと髪を梳くように撫で、後頭部に回る。引き寄せられるように唇を寄せ、どうにも不格好に膝をついた僕がなんとか腕と足の位置を決めようと藻掻いては決めかねている間に、前条さんは此方のシャツの釦を外しにかかっていた。 「ちょっと、僕、シャワー浴びてないんですけど、」 「別にいいけど」 「僕は嫌です」 「じゃあ、一緒に入る?」  返事の代わりに立ち上がった僕を見て、前条さんが何かがツボに嵌まった様子で身体を起こす。多分だが、今すぐやる気なくせに体裁を保とうとしている僕が何も保てていないところが面白かったんだろう。分かり切っている。バレているのも分かっているので、僕は移動にしては少しばかり威勢の良い足取りでバスルームへと向かった。  どうやら今日はこのまま泊まる羽目になりそうである。    ◇◆◇  翌日。司のリクエスト通りに甘い卵焼きを作って、普段よりも少し口数の少ない前条さんとともに食事を終えて、片付けと戸締まりを済ませた僕は、留守番をする司に見送られて事務所を出た。  僕の少し前を歩く前条さんは、駐車場に着くと真っ直ぐに白のミニバンへ足を向けた。月下部さんを運んだときに使ったものだ。完全にイメージが月下部さんを運んだ車、で固定されてしまっている。別にそれ用の車では無い筈なのだけれど。  乗り込む前に、それとなく車内を覗き込む。以前助手席に乗っていた筈の木彫りの人形は、どういう訳か何処にも居なかった。あれはどういった依頼だったんだろう。それとも趣味、なんだろうか。  乗りな、と手で示され、おずおずと助手席にお邪魔する。いつもなら此処に乗っても大丈夫かの問答をするのだが、今日はどうにもそういう空気では無かったので、僕は素直に何も言わずシートベルトを締めた。 「別にそんな気張って行くようなところじゃないから、緊張しなくてもいいよ」 「そ、そうですか」 「実家に挨拶するようなもんだと思えば良いし」 「いや、それは緊張の代表みたいなところありますよ」  何度目かの信号待ちのタイミングで、ようやく隣の前条さんから声がかかった。知らず縮こめていた肩が、言葉を返す内に少しは緩む。声のトーンこそ普段よりも落ち着いていたが、会話自体はいつもとあまり変わらない空気だった。 「前条さんだって、僕の家に挨拶するってなったら、緊張するでしょ」  一度口を開いてしまうと、喋る前よりも沈黙が怖くなる。間を埋めるように言葉を重ねた僕に、前条さんは軽く首を傾けて小さく唸った。どうやら状況を想像しているらしい。 「そうだなあ……大晦日に会いに行った時のままだったらしたかもしれないけど、敦子さん優しいしな」 「あれは優しいっていうか喧しいんですよ」 「いいじゃん、元気で。この間会った時も可愛かったよ」 「…………そっすか」 「はは、露骨に渋い顔するなよ」 「だってデート中だって察してるのについてくるんですよ!? おかしいじゃないですか!!」  一月ほど前、僕と前条さんはデート中に母さんに遭遇した。向こうは服を買いに来ていたらしい。ちょうど対岸町と僕の実家から行きやすい位置にある、映画館の入ったショッピングモールで、よりにもよって僕らが映画館から出たタイミングで鉢合わせてしまった。  上映前なら適当に切り上げて別れられたのに、なまじ見終わったあとだから世間話が始まってしまって、前条さんもまるで善良な好青年みたいな面して母さんが買い込んだ荷物を「持ちますよ」なんて言い出して、あらやだ悪いわ~、アンタもこのくらい気を利かせなさいよ、って断れよって感じで、なんでかそのまま三人でカフェに入ることにもなっちゃって、僕は家族に向ける顔と前条さんに向ける顔のどっちを取ればいいのか分からず口数を減らす他に対処法がなかった、という話だ。  『アンタ誕生日はどうするの? 戻ってくる?』なんて聞かれて、「いや、もう予定入ってるから」とか口を滑らせたもんだから──だって本当に『空けておいてね』って言われていたし──今し方笑いを堪えている隣の人に──、あらそう、よかったわね~などと面白そうに微笑まれてしまって、やめてくれ、と思ったのを強く覚えている。  そこで『彼女?』とか聞いてこなかった時点で分かっているのだ。というか、前条さんが常軌を逸した美形である時点で分かっているのだ。分からない筈がないのだ。  お父さんがお祝い渡したいって言ってたから、当日じゃなくて良いからこっち来なさいね、とか、来た時はオムライスでいい?とか、まあ、そんなような話をして、僕はそういえば母の日はどうしよう、とか考えていた。今年は僕が贈った物を忘れずに取っておいてくれるだろうか、とか、そんなことを考えていた。  前条さんから『敦子さん』と呼ばれた瞬間に、やだ~!そんな呼び方最近お父さんにもされてないのに、とはしゃぎだした母に、絶対に僕が美人に弱いのは母の血だろう、と思ったりもした。  母に言ったらきっと『あたしは美人が出ているからってテレビに貼り付いて梃子でも動かなかったりはしません』と返されるだろうけど。いつの話だよ。多分十歳よりは下だ。母が強く覚えているのは、僕が名前を失う前のことばかりだから。  逆に言えば、僕がサーカスに名前を奪われる前のことは、僕という存在が失われ続けても、母の中には残っている。母の中では十歳までの僕と今の僕が乖離していて、どちらかといえば十歳までの僕を『僕』という存在として扱っている節があるのだ。  それって凄いことだよ、と母の背を見送りながら、前条さんは素直な賞賛を口にした。 『世の中には子供に興味の無い親だって幾らでもいて、そういう人の元に帰って、名前を付け直してもらえずにいたら、幾ら俺が頑張ったって「けーちゃん」を残せたか分からないんだよ。敦子さんは本当にけーちゃんが大事なんだろうね』  ある種の憧憬が滲んだ声だった。僕はなんと返したら良いか分からなくて、買い物袋を手にバス停に向かう母を見ながら、そうですかね、と変に拗ねたような、完全に反抗期の息子みたいな声で呟いてしまった。 『そうだよ、だってけーちゃん、家族が好きでしょ?』  笑いながら告げた前条さんの顔があんまりにも嬉しそうだったものだから、僕は結局あの日、上手く返す言葉を見つけられなかったのだ。 「別れなさい、なんて言われないだけ良かったじゃん。分かってて好意的でいてくれるんだからさ」 「好意があれば何をしてもいい訳ではないんですよ! 分かりますか! 僕のあの、どうすりゃいいのか分からん気持ち!」 「え~、好意があれば何をしてもよくない?」 「よくないです。仮によかったとしてもこっちにも怒る権利がある筈です」 「ふふ、そっか」  何が面白いのかは分からないが笑い混じりに相鎚を打った前条さんは、県境を示す看板を見やると、斜めに曲がった道へとハンドルを切った。  遠くの方に大きな山が見えている。住宅街だが勾配の急な道が多いように思えた。坂を登る自転車は大体が電動自転車だ。大通りに当たる道から外れて、徐々に人気の少ない通りへと車を進める。途中、大きな病院が立っているのが見えた。そこから更に進むと、小さな丘がある。  他には何も無い、と思ったところで、前条さんは路肩に車を停めた。 「降りるよ」 「え」  此処ですか、と聞こうとして、一先ず口を噤んで後に続く。真っ直ぐに伸びた道を振り返れば住宅街が確かに見えるのに、なんだか妙に遠く思えた。  雲一つ無い、青い空の下、前条さんの足が鈍い靴音を立ててアスファルトの道を進む。  少し遅れて駆け寄った僕が隣に並ぶのと同時に、黒手袋を外した前条さんが僕の手を握った。もう五月も終わりで、薄らと汗を掻くような気候だけれど、前条さんの手はいつも通り、氷のように冷えていた。  肌が痺れるような冷気を受けて、頭にすっと冷えるような感覚が染み込んでくる。瞬きをした一瞬の内に、僕の視界には白い一軒家が現れていた。確かに何もなかった筈なのに。 「……えっと、これは」 「事務所と同じような仕組みだよ、入る権利が無い奴には辿り着けないようになってる。一応ね」 「…………成る程」  可愛らしい造りの、白い家だった。玄関には淡い色合いの木目調の扉がついていて、隣接した庭が同じ色の柵で囲まれている。階段のついた玄関ポーチへ上がって、扉の前に立ったところで、前条さんが僕を振り返った。 「けーちゃん、少し下がってついてきな。もしそのままだったら、あいつが転がったままだから」 「…………」  無言で頷いた僕を確かめてから、やっぱり思い出せないんだよな、なんてぼやいた前条さんが扉に手をかける。鍵は掛かっていないようで、緩い曲線を描く取っ手を引かれた扉はすんなりと開いた。腐臭はしない。が、それが判断材料になる相手でもなかった。  前条さんの背に半分隠れるようにして足を進める。当然のように土足だった。屋内も白を基調にしているようだ。壁紙が白く、床は柔らかい印象のフローリング。血痕が赤黒く、斑に残っていた。革靴が転がっている。急いで脱ぎ捨てたみたいに。  廊下の奥、リビングに続く扉は半開きになっていて、やはりというか、取っ手には赤黒い手形が残っていた。恐らくは、前条さんの。  扉そのものを手のひらで押すようにして開いた前条さんは、左手側にあるらしいキッチンを覗くと、それまで躊躇いなく進めていた足を、そこでやや虚を突かれたように止めた。 「ぜ、前条さん……?」  大丈夫ですか、と声を掛けるには何もかもが大丈夫ではなさ過ぎる空間で、僕は握った手を引くようにして呼び掛ける。前条さんは僕の声に応えることなく、訝しげな様子で目を眇めると、更に一歩、奥へと進んだ。同じく足を進めた僕の目にも、前条さんが足を止めた理由である光景が映る。  オープンキッチンのカウンターと壁の間。おびただしい量の血でべったりと汚れた床には、ちょうど僕が両腕で抱えるようなサイズのぬいぐるみが座っていた。  水色のエプロンドレスを着た、うさぎのぬいぐるみだ。見覚えがある、が、ここまで大きかった覚えは無い。前側に下ろした両腕と胴の間に、赤い手紙を挟んで持っている。 「…………あ?」  もしかしてこれ、と記憶を辿った僕が言葉にしようとした名称を、苛立ちを含んだ声が遮った。  視界に映る光景に対し、明確な敵意を向けている類いの、棘のある声だった。神経を逆撫でされたのだと、一音で分かる。僕に向けられたものではないというのに、背中に嫌な冷や汗が伝った。   握り合ったままの指が、制御しきれない感情に釣られてか痙攣するように動く。どうか握り潰されませんように、と祈りながらそっと見上げた僕に、前条さんは細く、長い息を吐いてから、蹴り飛ばす気じゃないか、という勢いで大きく踏み出した。  ぬいぐるみが抱えている手紙を引っ手繰り、繊細で豪奢な装飾が施された赤地の封筒を開く。力を抜いていた僕の手は当然振り解かれて、所在なさげに宙を彷徨いた。  赤地に金の箔押し。そんなまさか、とも思ったが、見ている者の目を楽しませる美しい造りの封筒は、確かに、過去に僕と、前条さんが受け取ったことのあるそれと同じものだった。  固唾を飲んで見守る僕の横で、前条さんが乱暴な手つきで便箋を広げる。万年筆で描かれた嫌味なまでに美しい文字は、深みのある赤色をしていた。 『拝啓  木々の緑が目にまぶしい今日このごろ、ご清祥のことと拝察いたします。  御父様の御遺体ですが、少しばかり厄介な事情を抱えましたので、誠に勝手ながら此方で処分させて頂きました。近々干渉による反動が起こるかと思いますが、ご理解いただきますようお願い申し上げます。  敬具  二〇××年 五月二八日  ギース・アルベルト・チェン・ニコラウス・ミエス・ポール・ディートリヒ後略  ジョン・スミス   追伸 件の男は別件となりますが、此方では対応しかねます。ご了承下さい』  すぐ側に立つ僕の耳が、喰い締められた歯が微かに軋む音を拾う。殺意を込めた舌打ちを響かせた前条さんは忌々しげに便箋を見下ろした後、二つに折り直したそれを僕に渡した。多分、破り捨てたりしない為に。  脳裏に、笑みが描かれた白黒の仮面がちらつく。慇懃無礼なピエロの顔を、まさかこのタイミングで思い出す羽目になるとは思わなかった。そもそも、どうしてピエロが統二の遺体を処分する必要があるのだろう。『件の男』というのも分からないし、ピエロが此方に干渉してこなければならないような『厄介な事情』というのも引っ掛かる。  口振りだけは妙に丁寧なくせに何もかもが説明不足な点は、サーカスで出会った頃と何一つ変わっていないようだった。  飲み込むには少々難解すぎる事態を何とか噛み砕こうとする僕の前で、前条さんが床に置かれたぬいぐるみの頭を鷲掴みにする。  可哀想なほどに歪んだ兎の顔は、サイズが違う為か違った種類のボタンが瞳としてついていて、アリスちゃんが持っていたものとは少し異なる印象の顔立ちになっていた。いや、顔立ちとか、もはや分からないくらいになっているが。  手紙が破れない代わりにこっちを破る気かもしれない、という強さでぬいぐるみを握り締めた前条さんは、そのまま片手にぬいぐるみをぶら下げた状態で踵を返した。 「か、帰りますか?」 「帰る」 「あっ、はい、じゃあ、えと、はい」  今にもぬいぐるみを壁に叩き付けそうな様子で進む前条さんを、小走りに追う。苛立ちは最もだろう。意を決して来たくもなかった場所にわざわざ赴いたのに、目的はとうに勝手に『処分』されていて、しかもわざわざ此方を煽るような手紙まで残されていたのだ。苛立たない方がおかしい。  玄関で振り返って僕を待つ前条さんの元へ駆け、開かれた扉を先に抜ける。血溜まり以外は全てが平穏と幸福を形作っているような室内を一瞥した前条さんは、何かを切り離すように一度瞬くと、閉じた扉を振り返ることなく歩き出した。僕の手を引いて。というか、腕を掴んで。 「あの、これ、ど、どういうことなんですか?」 「知るかよ」 「で、ですよね」 「謙一の話通りにあいつの肉体そのものをピエロが用意したなら、使わなくなった後に処分する権利はあるだろうな。ただ、よりにもよって今日処分する理由はなんだ? ご丁寧に、俺に向けたメッセージまで残しやがって。あいつの死体を探してる『男』が関係してるとしても、もっと早く、好きな時に処分出来ただろ。大体、ピエロがわざわざ干渉してくるレベルの厄介事ってなんだよ、世界でも終わるってのか」  清々しいまでの晴天の下、地を這うような声で言葉を紡ぎ続けた前条さんは僕の腕を引いたまま真っ直ぐに車へと戻り、後部座席にぬいぐるみを放り投げた。向こう側の窓に当たって落下したぬいぐるみが、くったりと四肢を投げ出す。恐らく中にアリスちゃんはいない、と分かってはいるものの、なまじ形が似ている分、妙な気まずさがあった。  エンジンをかけ、ハンドルに手を置いた前条さんが苛立ちを逃がすように指先で縁を叩きながら、来た道を戻るように進む。  余程腹に据えかねているらしく、その口からは珍しく思考の端が零れ落ちていた。 「身体は人間でしかないんだからサーカス側で困るような使用法なんて無い筈だろ。中身は俺の方で始末したし、今度こそ世界の何処にも…………逆か? 俺が始末したから、肉体側に変化でもあったのか」 「…………」 「はーあ、……溢元ってまだ生きてっかな」 「…………」  口を挟むべきかどうか迷い、便箋を手にただ黙って隣に控える僕を置いて、前条さんは何事かを呟き続けている。面倒臭い、と思っているのがありありと分かる口振りだった。  何度か軽い舌打ちが響いて、所在なさげに目を逸らして、ルームミラーへ視線を向けたりして、いつの間にか後部座席でシートベルトを締めているぬいぐるみに息を呑んだりもして、今度は逸らすのが怖くなってそのままでいる僕に、前条さんは進行方向を見やりつつ雑に言葉を投げた。 「アリスちゃんじゃないから心配しなくていいよ」 「えっ!? そっ、そっちの方が心配じゃないですか!?」 「バッタが入ってる」 「ば、バッタ」  最近のバッタはちゃんとシートベルトを締めるのか。偉いな。  手紙を手にしていた時と同じく、しゃんと背筋を伸ばして座っているバッタ、いやうさぎは、シートベルトを締め終えてからは、駐車場に辿り着くまで微動だにしなかった。  どんなに苛立っていても運転は落ち着いている、というのは前条さんの美点かもしれない、などと思いつつ、助手席から降りる。  ぬいぐるみは一体どうするんだろうか、と目をやった僕の視界で、前条さんがベルトの隙間からうさぎを掴んで引き摺り出していた。そ、そんな……バッタ……。 「ぜ、前条さん、僕が持ちますよ」 「別に良いよ」 「いや、その、あの、ハイ」  ごめん、バッタ。僕には今の前条さんからお前を解放することは出来そうにない。少しばかり付き合ってやってくれ。  再び顔面を掴まれ、しんなりと四肢を垂らした人形を片手に進む前条さんがしばらく進んでから足を止め、少し後ろを歩いていた僕を振り返る。 「キムチ鍋が食べたい」 「……成る程」 「締めはうどんがいい」 「卵もつけましょうか」 「なんか馬鹿みたいじゃない?」 「そんなことないと思いますけど」 「結構嫌だったのにさ、俺」  吐き捨てるような、拗ねたような、重みと軽さをどちらも持ち合わせた響きだった。ちくはぐなトーンのそれが、ちぐはぐだからこそ何よりも本心であると伝わってくる。 「馬鹿みたいじゃない? なんか」 「そんなことないですよ」 「そうかな」 「頑張りましたね」 「特に頑張ってないけど」 「頑張ったことにしときましょうよ」 「ぬいぐるみと手紙持ってきただけだろ」 「じゃあ、これから頑張りましょう」 「何を?」  何をだろう。分からないが、恐らくは頑張らなければいけない事象が起こる気がする。嫌な予感、というやつだ。  曖昧なそれを込めた僕の視線を受け止めた前条さんは、軽く肩を竦めてから、そうだね、と諦めを含んだ声で呟いた。そうして、気を取り直したように軽い調子で言葉を紡ぐ。 「あーあ、やだなー、もうすぐ誕生日だからけーちゃんが今世紀最大に凄いお祝いしてくれる筈なのに、面倒事ばっかり来そうだなー」 「…………こ、今年一くらいで期待しといて下さい」 「誕生日って年一じゃん」 「いや、だから、その年一を最高にしますよってことですよ!」 「へえ、頼もしいなー、期待しとこ」  僕がここ最近何に悩んでいるかなんてお見通しの顔で笑った前条さんが、幾分機嫌を直した顔で頬に軽く口付けて、事務所へと歩き出す。往来で何するんですかバカップルだと思われますよ、と言いたかったが幸い通りに人気はなかったし、事実として大分バカップルの様相を呈しているのが最近の僕らだったので、僕は一先ず何もかもを飲み込んで、いつものように前条さんの後を追った。

ともだちにシェアしよう!