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Ⅲ-1:先表の話 【前編】

 十歳の頃、僕の中では『二十歳』というのは物凄い大人のようなイメージだった。  二十歳になったら出来ないことは何もなくて、しっかりした大人になっていて、きっと何もかもちゃんとして生きていくんだろう、と思っていた。  十五歳の時にもそう思っていたような気がする。十五の僕は、『現状の自分はろくでもないが、流石に二十歳になったらしっかりした大人になっているだろう』という、妙な希望的観測を持っていた。  しっかりしていない大人を何人も見てきているのに、どうして自分が大人になった時には無条件に『しっかりできているだろう』と変な希望をもってしまうんだろうか。  人間は二十歳になったくらいで変わったりはしないのだ。それまで続けてきた生活と人格が、その先も細々と続いていく。二十歳になったからといってある日突然しっかりしたりなんてしない。どころか、二十歳になったその日にとんでもない失態を犯すことすらある。僕がそうだ。僕はそうだ。今までもそうだったし、多分、これからもそうだろう、と思う。  つまり、何を言いたいのかと言うと、二十歳の誕生日を祝ってもらってから一週間、僕は成人した日を祝われた喜びよりも、自分の醜態への羞恥心と戦い続ける羽目になっていた。  二十歳になったんだし、大人の男としてしっかりしたところを見せなきゃな、と思っていた相手にへにゃんへにゃんのくてんくてんな様を晒してしまったのだ。向こう一ヶ月は度々思い出して唸る他ない。  『俺が飲ませたんだし気にしないでいいのに』と前条さんは言うが、そういう問題ではないのだ。僕の男としてのプライドの話だ。  そりゃ、前条さんは『かわいいね』と全てを許してくれてしまうが、僕は許されたいのではなく頼られたいのである。頼りがいのある男になりたいのである。  頼りがいのある男はへにゃへにゃのくちゃくちゃになって覚束ない手つきでベルトを外したりはしないし、タートルネックのニットにモグラみたいに潜り込んでひたすら乳首を舐めることに執心したりもしないのだ。しないはずだ。僕はしてしまった。  一人きりの自室で言葉の形にもならない呻き声を上げること二十秒。  傍らに放っていたスマホを眺め、今日が五月二十七日であることを確かめた僕は、スワイプして六月のカレンダーを表示し、印のついた九日をタップして、追加の呻き声を響かせた。  六月九日。前条さんの二十七歳の誕生日である。僕と前条さんが再会したのが八月だったから、祝うのは今年が初めてだ。当日までは残り二週間弱。プレゼントは用意した。この間デートした時に前条さんが気に入っていた靴と、同じく気に入っていたベルト。ベルト。いかん、奇声を上げるな。  ベルト。何から始めても必ずあの日の夜に辿り着く連想ゲームを一週間続けている僕には、少々キツい単語だった。  しかしそれを言ってしまうと、そもそも『誕生日』というワード自体が遠ざけていたい代物ではある。ただ、遠ざけている間に当日になってしまって、初めて一緒に祝う誕生日を楽しい思い出に出来ない、なんてことになるのが一番嫌なので、僕は気合いを入れるための掛け声と共に身体を起こした。  司が此処に居たら、一連の奇行にきちんと突っ込みを入れてくれそうな有様である。少し寂しくなった。  初めて一緒に祝う前条さんの誕生日を、今までで一番良いものにしたい。  僕の失態を取り返せるくらいには良いものにしたい。そのためには、どう考えても僕以外の知恵を借りる必要があった。僕の思考は現在もふにゃんふにゃんで熱暴走しては緊急停止するからである。誰か助けて欲しい。 「問題は誰に相談するか、なんだよな……」  前条さんと僕の事情を知っていて、前条さんを喜ばせる方法を思いつきそうな人──という条件は、なんというか、あんまりにも、厳しいものがあった。  前者はまだなんとかなるのだが、後者が難しい。前条さんが喜びそうなもの。イコール僕である。いや、これは、自意識過剰とか、そういうことではなく。  前条昂という人の喜楽は、あまりにも僕個人の存在に寄りすぎているところがあるのだ。  嬉しい話ではあるが、こういう場合は難しい話にもなる。ちなみに僕以外の理由による喜楽は大抵、あまり趣味がいいとは言えない事象に寄る。  それらを総合すると『僕がとんでもない心霊スポットの除霊依頼を持ってきて、怯え泣き喚き前条さんを頼りにする』とかいう、それプレゼントじゃなくて罰ゲームじゃないか?みたいなことになりかねない。嫌だ。僕は普通に盛大に祝いたいのである。誕生日には、誕生日くらいは、怪異も霊障も要らないのだ。普通に盛大にってなんだ?  僕よりも前条さんを知っている人に聞かなければならないだろう。なんだかんだ、再会して一年も経っていないのだ。まだまだ知らないことばかりである。  僕よりも前条さんと付き合いのある人。丸眼鏡をかけた笑顔が浮かんだので、とりあえず無言で宙を殴っておいた。僕は一体いつになったらあの人を殴れるんだろうか。というかあのあと事務所に絵葉書が届いたのも妙に腹立たしいのだが、前条さんが呆れ気味に笑っていたので、僕がいつまでも怒っている訳にもいかないのが若干心に引っかかっている。  次に浮かんだのは月下部さんだった。浮かんだ瞬間、たぶん嫌がられるだろうな、と当然の予測が立った。前条さんも月下部さんに聞くことが多いらしいから、多分というか、絶対に嫌がられるだろうな、という確信があった。  二人して迷惑をかけるのは忍びない、と理性は言っている。だが僕の胸に巣くう不安は、前条さんにも相談されているなら月下部さんが一番頼りになるんじゃないか?とも言っている。両者が顔を突き合せて五分ほど経過した頃、僕の指はそっとトークアプリの画面を開いていた。 『何か奢るので相談に乗って下さい』  一分後、『ゴチです』と書かれたブタのスタンプとメッセージが返ってきたので、僕は自転車の鍵と鞄を手に部屋を後にした。   ◇◆◇  夜にでも何処かの居酒屋で会うことになるものだと思っていたのだが、月下部さんから指定されたのは彼の職場である『占いの館 十六夜』だった。  ずっと前に潰れてしまってからそのままの形で残っているというファミレスの裏手にある、二階建ての縦に長い物件だ。一見すると普通の住宅のようだが、一階部分は丸ごと車庫になっていて、左手側の階段を登って二階に上がると扉の向こうに受付が見える。花恋さんから譲り受けたお店のようで、内装は非常にファンシーな造りをしていた。 「オメーら揃いも揃って、俺以外に相談相手いねえのかよ。友達ゼロ人か?」  パステルカラーの壁紙に繊細なレースのカーテンはそのままに、本来使われていたのだろう可愛らしい飾りのついたソファが端に追いやられ、茶色い皮張りのソファと使い古した無骨なデスクが、存在を主張するように部屋のど真ん中に置かれている。  デスクの向こう側でパイプ椅子に座って足を組んだ月下部さんは、訪ねてきた僕の相談内容を聞くなり、なんとも嫌そうな顔でスマホを弄りながらぼやいた。  その後ろではいつぞや花恋さんが言っていた通り、亀治郎が伏せた状態で此方の様子を窺っている。もしも僕が少しでも月下部さんに危害を加えるならばすぐさま吠え掛かってやろう、と言った顔だ。  前も思ったけど、柴犬ってあんな冷たい顔出来るんだな。正直ちょっと胸に来る。 「えーと……まあ、友達が何人か、という話になると、そうですね、確かにゼロです」 「は? …………ウワ……」 「綾音が僕から高橋に乗り換えた時にストーカー呼ばわりされたので、高校の友達はみんないなくなりました。あと、これまでの体質のせいで多分みんな僕との思い出が希薄です。笛戸みたいに顔を合わせれば思い出すみたいですけど、僕から動かない限り絶対に連絡は来ません。よってゼロです」 「…………………お茶飲む?」 「気を遣わないでください。悲しくなるじゃないですか」 「チョコケーキあるぞ」 「優しくしないでください」  言っている間に本当に悲しくなってきたので唇を噛んでしまった僕に、月下部さんはいつも通りの顰め面ながらも奥の冷蔵庫からチョコケーキを出してくれた。これまた、異様にファンシーなお皿に乗ってやって来た。  可愛らしいフォークでケーキを切り分けながら、ちらりと月下部さんを見やる。ついでにビールを持ち出した月下部さんは、迷うことなく口をつけ始めた。いや、ちょっと、まだ昼も回ってないんですけど。 「しゃーねえだろ、飲まなきゃ聞いてらんねえよ。嫌なら真面目に聞いてくれる奴のトコに行くんだな」 「別に何も言ってないじゃないですか……」  僕の視線に気づいたらしい月下部さんが、嫌そうに眉を寄せながら吐き捨てた。  今し方『友達が居ない』と告白したばかりの人間に酷なことを言う。そもそも他に友達が居たとしても、前条さんのことも僕のことも知っていて、尚且つ僕らの事情を知った上で相談に乗ってくれる人が居ないから此処に来たのだ。  頼りにしてるんですよ、と本心から呟きつつ腰掛けた僕に、月下部さんは先程よりも二割増しで嫌そうな顔をして、長い背もたれに頭を預けた。 「前にも言ったけどよ~、あいつがお前に求めてんのって『完璧』じゃねーし、別に何をどうしようがお前が祝うってだけでいいんじゃねえの?」 「頭では分かってんですよ、でも心が納得しないんです。心のせいで頭まで納得しない為の理由を探している始末です」 「ウゲー、面倒クセェ」 「ええ……仰るとおり、非常に面倒臭いことになっています……だから来ました……」  両手を組み、祈るように俯いた僕に、月下部さんは一本目を飲み干して、椅子のすぐ後ろにある小型冷蔵庫から二本目を取り出しつつぼやいた。 「格好良くて頼りになるパートナーになりたいんですよ……どうすればいいんですか……」 「お前いま俺が『爽やかで人当たりの良い好青年になりたいんだよな~』って言い出したらどんな気持ち?」 「なんですか急に」 「俺は今そんな気持ちになっている」 「ま、まだどんな気持ちになったか答えてないのに……」  目を逸らしながら呟いた僕に、月下部さんは再度、「俺は今そんな気持ちになっている」と繰り返した。つまりは『目指すのは自由だけど多分無理じゃないかな』の意である。悲しい。分かってはいたものの悲しい。 「別に良いだろ、お前のそういう、情けなくてへなへななところが好きなんだろあいつは」 「それは、そうかもしれないですけけど、でもそれは情けなくてへなへなで居続けて良い理由にはならなくないですか……?」 「まーな。つーかこの話前もした気がすんだけど」 「…………そうですね」  どうにも既視感のあるやり取りだった。僕が前条さんを前にした緊張と変なプレッシャーによって少しも勃たず月下部さんに相談したときと、ほぼほぼ同じような空気が漂っていた。  だからきっと、これもまた『気負いすぎ』という結論になるのだろう。薄々分かっているのに相談しに来てしまうのは、要するにその過程を辿ることによって多少なりとも不安を解消したい、という僕の勝手な思惑があってのことだ。  そこに月下部さんを付き合わせてしまうことへの罪悪感も勿論ある。だからこそきちんと対価として何かしらのお礼はするつもりなのだが。 「同じ悩み何度も聞くのってマジでダリィよな」 「それは、その、すみません」 「しかも奢るっつったのに手土産の一つもねーし」 「あ、確かに……忘れてました……」  迷わず辿り着くことだけ考えていたら完全に手ぶらで来てしまった。軽く肩を縮こめた僕に、月下部さんが空いている手で軽く出口を指差す。 「よし、コンビニにダッシュしろ。階段降りたら右手側に真っ直ぐ行って、歩道橋の奥辺りにセブンがあっから。枝豆と餃子と、あとザーサイ。あ、パフェも食いてえ。宇治抹茶のやつ」 「まとめてメッセージ送ってくれますか? 五千円くらいまでなら買ってきます」  財布の中身を確かめ、今の許容範囲はその辺だと決めて告げれば、缶を片手にした月下部さんはやや機嫌の上がった様子で軽く首を傾けた。 「そういやこの間、眼鏡外した時のお前がかわいいとかほざいてたな」 「なんですか突然」 「あ? 俺発信のお得情報だよ、黙って受け取れ」 「眼鏡、ですか。はあ、なるほど」 「コンタクト試してみりゃいいんじゃね? 普段と違うとこも見せれんだろ」 「目になんか入れるの怖くないですか……?」 「はっ、少なくとも頼り甲斐のある奴ぁコンタクトぐれーでビビらねえだろうなー」  真顔で言われてしまったので、僕は誤魔化し笑いを浮かべ、逃げるように受付の前を抜けて玄関を出た。怖いものは怖いのである。  階段を降りて、ガレージの横に停めてある自転車に跨がる。月下部さんの車は自宅の方の駐車場に置いてあるようだった。わざわざ車で移動するには微妙な距離だもんな。 「コンタクト……コンタクトかあ……」  月下部さんに言われた通りに右手側に進むと、十字路に掛かった歩道橋が見えてきた。横断歩道を渡った向こう側に、特徴的なコンビニの看板がある。信号待ちをしている間に月下部さんからメッセージが飛んできたのが分かった。連続する通知音。籠に入るかな、この自転車小さめなんだよな、と思いつつペダルを踏む。  信号が青に変わる。渡った先で幾つか並んでいる自転車の脇に停めて、店内へと向かう。この時点でアプリのメッセージは十を超えていて、思いつく度に付け足されているのが伝わってきた。  ついでに漫画雑誌まで買わされることになっている。月刊の重たいやつだ。出来れば断りたかったので、払うんで電子書籍で買って下さい、と送っておいた。  買い物籠を片手に、送られてきた商品を放り込んでいく。その間にもメッセージが飛んできていたが、前半に頼まれたものだけで籠が相当に重くなっていたので、残り三分の一は今度にしてもらおう、と見なかったことにした。  ついでに自分用にも幾つか欲しいものを買って、レジで精算を終える。お釣りと商品を受け取り、未だに鳴り続けている通知を静かにするべく画面を開いた僕の目に、短文の通知がいくつか入ってきた。 『おい』 『帰ってこい』 『今すぐ』 『そして俺を弁護士ろ』 『ますけ』  酔ってるのか?というのが僕の素直な感想である。月下部さんは酒に強いとは言うものの、それは酔ってから潰れるまでが長いというだけで、結構序盤からテンションがおかしい。ビール数本でも十分に変なテンションになることはありうるのだ。  しかしそれにしては文面がおかしい。ますけ、というのは、察するに『助けて』だろうか?  もしかして、何か勘付いた前条さんが店に来てしまったのだろうか。  そうだとしても別に悪いことをしている訳ではないのだし、前条さんだって僕が月下部さんと遊んだり飲みに行ったくらいで怒ったりはしないだろう。仮に飲酒現場が見つかったとしても、昼から酒盛りをしていることを真剣に咎めるような感性もしていない。  だとすると謙一さんか?とも思ったが、これも違う筈だ。  謙一さんは片足を失ってから、外を出歩くには旦那さんを連れて行かなければならないらしく、外出に向いていない旦那さんをわざわざ連れ出すくらいなら、と此方へ『来て欲しい』と連絡をくれる。電話で酒を飲んでるのがバレたとしてもちょっと怒られるくらいで、こんなに切羽詰まった様子でメッセージを送ってくるような事態にはならないはずだ。  この短時間で何か事故でも起きたんだろうか。前籠に袋を放り込み、少し急いで店へと戻る。  自転車を停め、階段を上がって扉を開けた途端、────店内からの怒鳴り声に気圧された僕の足は不格好な形で止まった。 「職場で昼間から酒を飲むなんて非常識にも程があります! 貴方今年で幾つだと思ってるんですか!? もっと節度のある大人として振る舞ってくださいよ!」 「…………」 「何黙ってるんですか! 怒られた時に黙っているなんて幼稚園児のすることです! 二十八にもなって幼稚園児の真似なんてみっともない! 貴方は花恋さんから十六夜を任されたんですよ! 困っている人がやっとの思いで此処を訪ねて、店主が酒を飲んでいたらどう思うか考えてみて下さい! せめて休業の札を掛けておくのが礼儀ってものじゃありませんか!? どうなんです!?」  ファンシーな装いの店内で、爽やかな好青年といった出で立ちの男性が、非常によく通る声で説教をかましていた。通り過ぎて外まで聞こえそうだったので、僕は一先ず、後ろ手でそっと扉を閉めた。  落ち着いた色合いの青色に髪を染めた彼は、黒いデスクに憤りをぶつけるように片手を突き、未だに缶ビールを手放さずに明後日の方向を向く月下部さんに真正面から説教をかましている。声と同じくなんとも理屈の通った、正論以外の何物でもない説教だった。  あまりの剣幕に、こういう時はとりあえず屁理屈と大声と駄々で逃げ始める月下部さんが黙ってしまっている。並べ立てた方法の全てがろくでもないので、黙っている方が賢い選択だと言えた。  恐らくこの場で唯一、確実に月下部さんの味方であろう亀治郎は冷えた視線を向けていたが、正々堂々、真正面から説教をかます彼は、たとえ噛みつかれてもひとつの言葉も撤回するつもりはないようだった。  一触即発とも言える空気の中で、なんと言い訳したものか、と考えているのを隠しもしていない月下部さんが宙を見つめ続け、デスクの下に隠しているらしいスマホを操作する。ぴこん、と通知音が鳴って、そこで僕が帰ってきていることに気づいたらしい月下部さんは、身体を傾けるようにして扉の方を──つまりは僕がいる方向を覗いた。 「おー、櫛宮。帰ったか、ほら相談聞いてやるから座れ」 「…………お客様ですか?」  月下部さんの声に振り返った青年が、訝しげに問う。 「そーそー、俺ァあいつの相談に、今、たった今乗ってやってる所だったんだよ、あいつが依頼料払えねえっていうから、たまたま休日に酒盛り中だった俺はわざわざ店を開いてツマミを買って来いって優しく提案してやったワケ」 「そうですか、あの人も共犯というわけですね」 「なんでそーなんだよ」 「話の全てが虚偽染みているからです。月下部さん、貴方は嘘が悲しい程に下手なので黙っておいた方が寧ろ良いかもしれません」 「あ? さっき黙ってるなんて幼稚園児がどうこう、とか言ってなかったか?」 「喋っていても幼稚園児並だということがよく分かりました。それで、貴方は? ただの客には見えませんが、この碌でなしとはどういう関係なのですか」  本来は優しげな眼差しなのだろう丸みを帯びた瞳から、なんとも冷えた視線が向けられる。  一瞬で、これは帰った方がいいやつだな、と察した。察したが、僕の足は動かなかった。足は動かないのに、片手に持ったビニール袋はそっと背後に回してしまった辺り、僕もあまり月下部さんのことは言えない性質をしているのだろう。完全に、悪さがバレた小学生みたいな挙動だった。 「え、えーと……と、友達?です」 「…………悪いことは言わないので縁を切った方がいいですよ。この人にとっては友達とは概ね歩く財布を指します」 「さっきから悪評振りまいてんじゃねえ、名誉毀損で訴えるぞ」 「裁判を起こす金があれば風俗に行く、貴方はそういう人です」 「……………………」 「反論出来ないようなので以後は口を挟まないでくれませんか。まあ、友人の職場で酒盛りをしようなどと考える辺り、あの方も見た目に反して、貴方に似合いの非常識な方なのかも知れませんが」  不信感を露わにした瞳が、僕の頭の先から足下までを眺める。見た目に反して、と言ってくれている辺り初対面としての印象は悪くなかったんだろう。ただ、それも『職場で酒盛りする為のツマミを買ってくる』という点でゼロを通り越してマイナスになっているようだが。まあ当然だ。職場で酒盛りするような人間は信用がならない。 「いえ、その……まあ、あの、僕はちょっと、僕の……奥さんのことで相談に来たと言いますか」 「奥様の?」 「ええ、近々誕生日なので、その相談を」  正気かコイツ、という目で見られてしまったので、僕はそのまま両手でビニール袋の持ち手を握り締めて顔を逸らしてしまった。いや、その、これで案外頼りになったりするんですよ、月下部さんは、という弁明を口から出す勇気は、ちょっと湧かなかった。  あまりのことに絶句していたらしい彼は、ふと気を取り直したように咳払いを響かせると、幾分棘の和らいだ視線を僕へと向けた。 「失礼、貴方が交友関係に乏しいが為にこのような事態に陥ったことは理解しました。わたしで良ければ力になります、女性へのプレゼントや家族への贈り物についても相談されることがありますので、この男よりは参考になるかと」 「え、えー、あ、はい?」 「申し遅れました、わたしは新宿で占い師をしている高木水希という者です。一応、ミズキという名で活動してします」 「あ、ああ、ミズキさん……」  以前、花恋さんの家にお邪魔した時に聞いたことがある名前だ。花恋さんからタロットカードを譲り受ける予定だった人かな。曖昧な記憶を辿って当たりを付けた僕に、ミズキさんが名刺を差し出す。  髪色と同じく落ち着いた色合いの青みがかった用紙に、金色の箔押しで幾つも記号化された波紋が描かれている。タロットやルーン、ホロスコープなどという記載と共に名前が並んでいた。下にあるのは連絡先だ。 「どうも、ええと、僕は櫛宮慧一と言います。ちょっと名刺を持ち合わせてないんですが、前条異能相談事務所で助手をやっています」 「………………」  ビニール袋を一旦置き、受け取った名刺を財布にしまい込む。こういうことがあるとやっぱり名刺を作っておいた方が良いかな、とも思うのだが、考えると同時に頭の片隅で必ず、『でもなあ』と声がするのが毎度のことでもあった。  前条さん自身はあれで結構、何だかんだ事務処理とかはやってたりするし、何より実際怪異や霊障に対してきちんと対応できる『所長』だ。肩書き通りの名刺を持っていても特に不自然ではない。不審ではあるが。  一方の僕は名目上は助手となっているが、やっていることはハウスキーパーみたいなものである。助手と名乗って堂々と名刺を出すのも、何だか恥ずかしい。  ついでに、正直に言わせて貰えば、『異能相談事務所』の名刺を落としたりなんかした日には舌を噛み切ってしまいそうになるので持ち歩きたくない、と言うのもある。もしかしたらこれが一番強い動機かもしれない。  前条さんが聞いたら拗ねそうだな、なんて思いながら今後も名刺は作らない方向で結論づけた僕は、そこで対面のミズキさんが何とも言えない顔で此方を見つめていることに気付いた。  何ゆえそんな顔をしているのかも分からないためかける言葉が見つけられずに首を傾げた僕に、ミズキさんがゆっくりと月下部さんを振り返る。 「此方が『けーちゃん』さんですか?」 「そーだよ」 「…………使い走りにして大丈夫なんですか?」 「今んとこ文句言われたことねーな」 「……そうですか。まあ、文句を言われずとも人を対価もなく使い走りにするのはどうかと思いますけど」 「うるせーなー、対価ならあるっつの。言ったろ、俺はこいつに前条の誕生日プレゼントの相談を受けてんだよ。ツマミくらい奢ってもらわなきゃ割に合わねーだろうが」 「それはそうですが、そもそも職場で酒盛りをするのが間違いなので営業中ならば謝礼は日を改めるべきではないですか?」  極めて正論だった。それはそうなのもそうだし、日を改めるべきなのもそうだった。  ミズキさんは何一つ間違っていない。反論の余地が微塵も無かったらしい月下部さんは、一度うんざりとした様子で背もたれに背を預けると、天井を見上げてしばらく唸り、空いている手を払うように振った。 「お前と話してっと疲れるわ、ご高説垂れに来ただけなら帰れよ」 「貴方が訪ねただけで出合い頭に説教をさせるような生活をしなければいいんです」 「説教しなきゃいいだけじゃね? 何様のつもりか知らねーけど他人の生活に口出すなよ、そういううざってえとこ変わんねーなー」  心底呆れた声で零した月下部さんに、それまでは怒りを表す形で強く眉根を寄せていたミズキさんの顔が、僅かに気圧される様子で強張った。  淀みなく紡がれていた言葉が呼吸と共に短く詰まり、間をつなぐように咳払いを零す。握った拳を口元に当てたミズキさんが、一度ゆっくりと瞬いてから視線を外した。 「……失礼、言い過ぎました。確かにそうですね、月下部さんが昼間から飲んだくれていようと下呂吐いていようと競馬で負けて床に転がっていようとパチンコに十万を溶かして泣き喚いていようと、それは月下部さんの生活であって、わたしが口を出すことではありません」  その声には確かに諦めが滲んでいた。気を取り直すように背を正したミズキさんは、月下部さんへの指摘はそこで打ち切ることにしたのか、見えない物は無い物として扱うように、片手の缶ビールとテーブルのツマミを視界に入れない状態で口を開いた。 「月下部さんから彼に聞いて貰いたいことがあって立ち寄ったのですが、櫛宮さんが居るのなら丁度良いです。相談を中断させてしまって申し訳ないのですが、少し話を聞いて頂いても構いませんか?」 「え? 僕も、ですか?」 「ええ。櫛宮さんも、というより、櫛宮さんに、という感じです」  促されるままにソファに腰を下ろした僕の斜め前に立つミズキさんは、用件だけ伝えてすぐに立ち去るつもりなのか、なるべく月下部さんを視界から外していた。  多分、目に入るととやかく言いたくなってしまうんだろう。まあ、僕も人の話の途中にカルパスを囓る人にはとやかく言いたくなってしまいますが。多分前条さんが相手だったら言っていたかもしれない。いやでも前条さんは流石に人が話してる時にカルパス食べたりはしないな、とぼんやり思う。 「わたしは月下部さんや彼と違って同業者とはそれなりに円満な関係を築いているんですが、この間、知り合いと顔を合わせた時に妙な話を耳に挟みまして」 「妙な話ですか、ええと、どのような?」 「『とある男が前条統二の遺体を探している』ようで、そうした捜索が長けた方に何度か依頼をしようとしているらしいんです。頼まれた方々はどうも嫌な予感がして断っているそうなんですが、この『前条』というのが彼の関係者なのかが気になったので、念の為聞いておこうと────ああ、その顔は……どうやらそうらしいですね」  『前条統二』の名が出た途端に明らかに表情を変えた僕を見て、ミズキさんは一人納得したように軽く頷いた。レンジで温めたおつまみを片手に戻ってきていた月下部さんも、耳に拾った名前に顔を顰める。 「前条統二は……ええと、前条さんの……親戚です」  父親、だとはどうしても言いたくなくて言葉を濁した僕に、ミズキさんは特に深く立ち入る気はない、と示すように目を伏せた。 「そうですか。では一応、伝えておいた方がいいかもしれませんね。彼はかなり恨みも買っていますから、何方か危害を加えたい方が血縁者の遺体を探している……といった事態だった場合には厄介なことになるかもしれません」 「それは、つまり、前条さんを……えーと、呪ったりするために、使おうとしている、と?」 「そうと決まった訳ではありませんが、どうもその男の様子が普通ではなかったようなので……そうした悪意のある動機なのでは、と私は考えています。月下部さんはどう思いますか?」 「んあ? あー……さー、どーかな。興味ねえわ」  いつの間にか二缶目を開けていた月下部さんが雑な返答を寄越す。一瞬、再び眉根を寄せかけたミズキさんは、自ら指先で眉間の皺を解すと、僕の方へと目を向けた。 「とりあえず、そういう噂がある、ということだけでも櫛宮さんから伝えておいて貰えますか?」 「あ、はい。それは勿論」  『前条統二の遺体を探している男』なんて、どう考えたって明らかに不味い存在だ。  ミズキさんは前条統二については知らないから、先程彼が口にした推測通りの心配をして伝えに来てくれたのだろう。確かにそうした方法で危害を加えられることも十分に不味いとは思うのだが、僕の心配は別の所にあった。  『前条統二』という男は、『前条昂の血縁者』として以外に、純粋に存在自体が不味いのだ。  人の振りをした、人ではないもの。人間として振る舞う化け物。その遺体をわざわざ探している────だなんて、どう考えても用途はまともではないに決まっている。  その点に関しては月下部さんも懸念があるのか、統二の名前が出てからは酔いの回っていた視線にやや剣呑な色が宿っていた。彼の場合は謙一さんのことを心配しているのかもしれない。  そして、これは僕の予想だが、月下部さんは事情を詳しく知らない人の前では前条さんや謙一さんについてはあまり話したくないんだろう。それは僕も同じだった。  ミズキさんも薄々察しているようで、頷いた僕を見たミズキさんは、それ以上特に突っ込んだ話をするでもなく、「贈り物の相談は本当に受け付けてますからね」と、幾分柔らかい声で言い残して去って行った。  ミズキさんを見送って二人きりになった部屋で、月下部さんが二本目のビールを空ける。空になった缶を適当にテーブルの端に置いた彼は、明太子を囓ってから、気が乗らない様子で呟いた。 「んで? プレゼントの話、してくか?」 「いえ、一旦帰ろうと思います。ツマミ買ってきただけになっちゃいましたけど」 「そーかよ。言っとくがこのツマミは既に俺のモンだからな」 「良いですよ別に。今日の所は帰りますってだけなので」  また何かあったら相談に乗って下さいね、と鞄を肩にかける僕に、月下部さんはやや投げやりな声で相槌を打つ。なんだか覇気がない。訝しんで振り返った僕と目が合った月下部さんが、とん、とん、と指先でテーブルを叩きながら口を開いた。 「櫛宮、オメーが阿呆の馬鹿で意識からすっかり抜け落ちてるみてーだから俺がわざわざ教えてやるんだけどよ」 「な、なんですか。事実でも言って良いことと悪いことがありますよ」 「前条統二ってのは、あの野郎に殺されてんだよな?」  箸で切り分けられた明太子が、月下部さんの口に運ばれる。  そのまま、視線を僕から壁際のレースのカーテンに移した月下部さんが明太子を飲み込むまでが、僕が彼の言葉の意味を捉えるのにかかった時間だった。  前条さんは父親である前条統二を殺している。それは彼自身がはっきりと認めている事実だ。  殺された前条統二がどのような処理をされたのか、僕は知らない。ただ、少なくとも人の法で裁けるような案件ではないだろう。裁かれないのだから無罪放免だ、などと言うつもりは毛頭ないが、僕は、僕が彼を愛している、という点を抜いても、前条さんの行いを許してしまうと思う。  ただ、それは僕から見た場合の話だ。もしも仮に『前条統二』のことを大事に思っている人間が居たとして、その彼が殺されてしまったら──殺されてしまったと知ったら、きっとそれは、その人にとっては許せないことに違いない。  あくまでも予測の話だが、その可能性について考えてしまったのは、きっとあの男の名を焦がれるように呼んだ存在を知っているからだろう。脳裏に長い嘴を持った異形の鳥が浮かび、握られた心臓へと変わる。無数の虫が地を這う様を振り払うように、僕は一度、強く目を閉じた。 「…………でも、その……今更、そんなことは」 「まあ、そもそも事件として認められてねーのかもしれねえけど。罪に問われてねえからって罰を受けねえとも限らねえよなー、と思うぜ、俺は」 「……………………でも」  社会的には生死すら判明していない男の遺体を、探している人間が居る。遺体、と断定して探しているのだ。その男はもう既に何らかの事情で統二が殺されたことを知っていて、繋がりを調べる為に探している、というのも、有り得えなくはない話だった。  思わずソファに座り直してしまった僕を、月下部さんは特に責めるでもなく、呆れるでもなく、言うなればどうでもよさそうに眺めていた。恐らく、本当にどうでもいいんだろう。月下部さんにとっては。  だが僕にとっては大問題だった。もし仮に『前条統二』の捜索の動機が報復だったしたら、方法の相手は当然前条さんだろう。たとえその人が統二に深い思い入れがあるのだとしても、僕はきっと、前条さんに危害を加えようとする相手を許容できない。人を殺しておいて、と言われても。そんなことを言ったら、そもそも前条さんに死と同等の仕打ちをしたのはあの男なのだ。 「どーせあの野郎なら大抵何が来ても平気じゃねーの。そんな思い悩むなよ、鬱陶しいから。つかさっきまで忘れてたんだから忘れとけ」 「……思い出させたのは月下部さんじゃないですか」 「そりゃー、アレだろ、いや、殺してんのに忘れてんのはやべーから言っとくしかねえだろ。俺ァ、お前のそーいうとこ、若干正気じゃねえとは思ってらぁな。あいつとお似合いだぜ」 「…………だって、…………あの……僕、間違ってますか?」 「あ? なんだ? 間違ってるつったらどうすんだよ、警察にでも突き出すのかよ目出度い頭してんな」 「いえ」 「ならそんなこと聞くんじゃねえよ馬鹿が。あと言っとくが、今回は俺を当てにすんなよ」  さっさと帰れ、というように手を払われたので、一度気合いを入れて腰を持ち上げる。  鞄を抱え直した僕が頭を下げるのと同時に、月下部さんは最後に付け足すように呟いた。 「え?」 「あいつの父親が何にどう使われそうだとか、厄介事になりそうでも視ねーからな」  言われてから数秒返答に詰まり、斜め上方向を二度確かめてからようやく、僕の脳は月下部さんが『凄腕の占い師』であることを思い出した。  すっかり忘れていた。いや、忘れる筈がないことなのだが、月下部さんという人は、どうにも、距離が近くなればなるほど、アルコールやギャンブルが大好きな所だとか、アルコールやギャンブルに振り回されている所ばかりが目につくようになるので、つい、物凄い人だということを失念してしまうのだ。だからきっと、僕の記憶力だけが問題ではないだろう。この場合。 「それは、ええと、視るのが難しいとか、危ないってことですか?」 「今の間はなんだよ」 「一応、謙一さんからも月下部さんの力には頼りすぎるなって言われてるので、僕から頼むことはないと思うんですけど……」 「おいコラふざけんなよ、スルーすんな。どうせオメー俺の占いのこと忘れてたんだろ、居酒屋ならともかく此処で忘れてんじゃねーよはっ倒すぞ」 「……ビール片手に言われても」 「はあハイそっすね~~~~じゃあ焼酎にします~~~~」  呟いた僕に瞬く間に冷蔵庫から焼酎を取り出した月下部さんは、なんだかやたらファンシーなカップに氷と共に注いだそれを一口二口、いや半分飲んで、大きな溜息を吐いた。 「予約入ってっから少なくとも向こう一ヶ月は視れねえし、場合によっちゃそのあと数ヶ月寝てもおかしくねーから無理」 「なるほど」  月下部さんは、占った後は内容に応じてしばらく眠ってしまう。期間は月下部さん自身にも予測不能のようだから、どうしても占って欲しい場合は前もってスケジュールを空けておいて貰う必要があるということか。  占う事柄への期間が近ければ近いほど詳細に見えるだとか、ある程度期間を空けてからの方が良いとか、なんだかんだ制約もあるものらしい。寿命を代償にしている、というのも、もしかしたら睡眠時間以外の意味があるのかもしれない。  月下部さんは割と気軽に使っているが、未来を視る力なんて使い方を誤れば大変なことにもなるのだからしっかりと状況を見極めて使いなさい、と謙一さんも言っていた。言っていた、というか、怒っていた、というか、叱っていた。多分聞いていないと思うが。それでいいのだろうか。 「前条にも伝えとけよ。まああいつが代わりに五百万払うってんなら占ってやってもいいけど」 「……そんなに報酬貰ってるのにどうしてすぐ無くなっちゃうんですか?」 「は? 欲しいものを欲しいだけ買うからに決まってんだろ。あと税金」 「…………」  あ、そこはちゃんとしてるんだ、と思った僕と、『あ、そこはちゃんとしてるんだ』と思ってやがるなこいつ、と目を細めた月下部さんの視線が交わる。  数秒の間を空け、これ以上やり取りが長引いてもしょうがないだろう、という互いの判断の下、僕は穏便に十六夜を出ることとなった。

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