5 / 5
第三章・重力の楔⑤
其れは僅か数十秒、一分にも満たない刻だった。二人にとってはとても長い時間に感じられた。
最悪な出逢いから最低の別離。嫌いな気持ちを持った儘あの時殺して――殺されて――いれば善かったのだと。今は其れが一番の最適解であると判っていても。
ぽたぽたと、太宰の頬に滴が落ちる。月が奇麗な夜、薄雲は流れても其処に雨を呼ぶ暗雲は存在しない。
「……ろせ、……訳……ね、……だろ……」
太宰の頬に落ちる中也の涙。奥歯を噛み締め、口許には無理に笑みを作り乍らも止め処なく湧き上がる涙は重力に従い真下に位置する太宰に落ちる。頬を伝い流れる涙が口許へと滑り落ちると少ししょっぱかった。
「何でっ……俺が、此の手で……手前をっ……!」
中也は身を起こし両手で顔を覆う。短刀は手から滑り落ち草の上へと落ちる。
――愛サナケレバ、殺スコトハ、出来タノニ。
「何で! 何でだ!!」
中也が短刀を落とした事で太宰は肘を付いて上半身を起こす。
「……御免」
子供の癇癪の様に喚く中也へと腕を伸ばし抱き寄せれば、中也は痛い程強く太宰の背肉を掴む。
「ふざ、巫山ッ戯んな! 俺が、どれ程ッ……!」
――愛シテイルカモ、知ラナイ癖ニ。
「……中也、ねえ中也、泣かないで」
両手で中也の顔を包み、頬を濡らす涙を親指で拭うも、其れだけでは足りないと解ると目許に唇を寄せて零れる涙を吸い上げる。
「中也……」
続けて顔全体に余す処無く口吻けていくと、中也は怒りと哀しみが入り混じる震えた両手で太宰の手を掴む。
「…………」
「…………」
沈黙の後、中也は噛み付く様に口吻ける。此れが最後と解っているように角度を変え何度も口吻け、やがて雲が月明かりを遮り二人の姿を闇に隠した。
どんなに汚れても中也にとっての太宰はこんなにも奇麗で、今此の場で凡てを捨てて誰も知らない土地へ二人で逃げる事が出来たのならば、其の選択が出来たのならば屹度倖せにだってなれたのだろう。
凡てを忘れて一から遣り直すには互いに血を浴び過ぎた。
「……手前を、殺した後……俺に独りで生きていけって……云うのかよぉ……」
「そうだね、私も君を独り残して逝く選択は忍びない……」
――此処迄深ク愛シテイナケレバ、屹度簡単ニ此ノ手ヲ離セタ。
絶対に二度と、離さないように
太宰は中也の背中に両腕を回して強く抱き締めた。
中也も其れに呼応するように両腕を背中に回す。
「離さないで、絶対に」
――君ダケヲ愛シテイルカラ。
太宰は中也を、中也は太宰を。
二人は互いを固く抱き締めた儘、崖から夜の海へと呑み込まれる事を【選択】した。
ともだちにシェアしよう!