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第1話

-ながめせしまに-  気まぐれだった。そうじゃないなら見えないなら何かがそうさせた。でも、信じない。  背後から容赦なく飛びかかる腕は昔飼っていた大型犬を思い出させた。頬を当てられる。弾力のある滑らかな皮膚で、仔犬のような同級生はきゃらきゃらと笑っていた。彼は伊集院(いじゅういん)(なる)。わたしはナルと呼んでいる。水泳部で、塩素で傷んだ毛先が外に跳ね、か弱いライオンみたいだった。それをわたしが小さい頃に使っていた赤いヘアピンで留めている。パパから買ってもらったものだけれど、何の感慨もない。いつも元気だけれど、今日はいつにも増して溌剌としてる。理由は知ってる。あの男が帰ってくるからだ。待ち遠しくて仕方がないからわたしと遊んで時間を潰したい、おそらくナルの考えはこんな感じなんだろう。ナルはその男に会うのを楽しみにしているようだけれど、あの男はナルに興味なんて示さないと思うな。  ナルはわたしが特に用事もないことを知ると喜び、返事をする前にすでに了承したものと思い込んでいるらしく、早とちりにはしゃいでいた。小学校の時に中学生たちに襲われかけているところにわたしが割って入ってから、ナルはわたしのところによく来た。わたしと違って明るくて人懐こいナルは他のところでもっと広く人間関係を築けそうなものなのに、いつでも犬みたいに彼はわたしのところへやって来る。わたしに抱かれるために。まるでパパみたいだ。パパもだから。パパみたいにはなって欲しくない。みんなみんな、わたしに「抱いて」って言う。 「ミヨちゃん!」  ぼ~っとするわたしの目の前でナルは手を上下した。あの男と一卵性の双子だというけど、愛らしくて眩しい目に覗き込まれる。異質に思えた。静かで無愛想で何事もソツなくこなして、見透かした態度ばかりのあの男と違ってみえた。求められるままにナルを抱いた日から。 「ミヨちゃんも嬉し?」  軽率げな見た目の割りに聡いけれど、あの男のことになると途端に盲目的になる。まるで恋人よりも、その辺の幼馴染よりも長く居るつもりで、わたしと片割れのソリが合わないことを知ってくれる様子はない。面倒臭いな、と思った。片割れの元に付き合わされるのも、もっと仲良くしてと言われるのも。鈍感さを味方につけて強引になる。何でもかんでもわたしの言いなりのクセに。パパみたいだ。だからナルって嫌いだな。 「ミヨちゃん()、行っていい?」 「うちに来て何するの」  ナルは顔を真っ赤にする。わたしは純粋に訊ねたつもりだった。2人きりになると誘うのはナルのクセに、性に関する話をするとまるでこっちが狙ってるみたいに照れる。 「勉強見てほしい…数学と物理と国語と、外語と…地理と科学…」 「全部?」 「全部………あと、保体…」  機嫌を窺ってちらちらとナルはわたしを見た。わたしがナルを抱く側で、ナルはわたしに抱かれたいというのだから、わたしの疲れや気分を本当に犬みたいに嗅ぎ取る。 「ダメ、かな…?」  開放された空間で言われるのは珍しかった。 「いいけど」  あの男がいない間、わたしはクラスの腫れ物になった。理由は分からない。地味で目立たなくて、テストくらいしか取り柄のないわたしに、抱いて欲しい、付き合って欲しいと言うのだった。あの男が帰ってくるまで、わたしは訳もわからないまま持ち上げられるし、みんなの共有物といった具合でわたしは求められるままに抱くのだろう。ナルは嫌がったけれど、避妊はしているし、させている。昔からそうだった。パパは喜んだ。器用なパパの遺伝だね、と言った。嘘だと思う。だってパパは不器用で、抱かれることしか頭にないんだから。 「お兄さんにみてもらえばいいのに」  あの男が帰ってくればわたしは学力考査も体力テストも2位に落ちる。苦労して手に入れたモノじゃないから、"器用なパパ"からもらったモノだから、別にいいけれど。 -こひぞつもりて-  留学から帰ると母は柿本の家で遊んでいる(なる)のもとに迎えに行けと言った。母は当たり前のように俺と成が世間一般が指す一卵性双生児同様に以心伝心一連托生だと思っているみたいだ。出来の悪い弟を、母は母なりに心配しているらしかった。遺伝子はかなり近いはずで、何故差が出てしまったのか。知能も体力も殆どが遺伝で決まり、環境面はほぼ関係がないというが成と比べてしまうと疑心を持たざるを得ない。  柿本の家に向かい、呼び鈴を鳴らす。柿本は苦手だった。特に何がという理由はない。目を惹く美しさはあるが、それだけだ。むしろ何事にも関心がなく、すべてを見下したような態度が癪に触った。よせばいいものを求められるままに応える。そして本人もそれを苦にすることもない。自覚がないのだろう。あの人はそれに気付かない。  柿本の家の玄関扉が開く。出たのは青年とも中年とも判断のつかない眼鏡の男性だった。若いといえば若かったが、少し落ち着いた雰囲気は中年にもなかなか見出せないものだった。家を間違ったかと思い、ドア横の表札を確かめるが「柿本」と木板に彫られている。男性に目を戻すと、彼は俺をじっと見ていた。 「あれ?」  鈴の鳴るような綺麗な声で彼は自宅の2階を見上げた。 「弟がお邪魔していると思います」 「そうだよね。びっくりしたよ。ご兄弟か」  彼は誤魔化すように笑って、自然のままに玄関へ上げるよう促した。俺も流されるままに、気付けばいつの間にかリビングのソファーに座っていた。 「娘がお世話になっています…」  緊張した様子で彼は対面に座った。口振りから柿本の父だ。驚きとショックが同時に襲い、その正体が後を引いた。俺から言うべき言葉を見失い、一言断ってから出された茶を飲む。 「…こちらこそ、弟が世話になっております」  柿本の父は緊張しているのか落ち着かない様子で、頻りに膝を撫で摩っていた。 「未世ちゃんたちはまだ上に、おりまして…」 「弟が長居してしまいすみません。これからはすぐに帰るよう言って聞かせます」  メッセージでも送信できたらよかったが、生憎俺は弟のアドレスを知らない。身内ならば母と父と自宅、祖父母の連絡先で十分だ。そしてこれもポーズでしかなく言って聞かせる義理もない。長居しようがしなかろうが好きにしたらいい。 「い、いいえ!呼びに行きたいところなのですが、その…暫くお待ちいただけますか」  柿本さんはやはり緊張していた。そして恥ずかしがっているようでもあった。内容を理解する。柿本と遊ぶというのはそういうことだ。やはり弟とは相容れないと確信する。少し離れてみれば家族への見方も変わるものだと思っていたがそうもいかなかった。いくら姿形が似ていようと俺はあの女を嫌悪をし、弟はあの女を求めた。弟だけじゃない。誰もがあの女の陰茎に飢えている。 「はい。お邪魔にならない程度に」  柿本さんは火照った顔でにこにこしていた。両手を腿の間に挟んでぎこちなく身動(みじろ)ぐ様はどこか俺の気持ちまで焦らせる。どうしていいのか分からず、沈黙と柿本さんの発する衣擦れの音に甘えた。とにかく喉が渇き、出された茶を飲む。湯呑みから手を引いた時に柿本さんも場をどうにかしようと必死だったのか、湯呑みへと手を伸ばした。熱い指と触れ合ってしまう。思ったよりも生々しく人の指の質感にぎょっとした。娘とはあまり似ていない目と視線がかち合って呼吸を忘れた。 「ああっ!ごめんねッお、お茶…おかわり持ってくるから…」  裏返った声で彼は動揺を隠さなかった。俺は童心に帰って目の前をひらひら舞う蝶を捕まえるが如く、立ち上がった柿本さんを引き止めた。 -ながめせしまに-  家にナルが来て数十分で、対面に座ればいいのに隣にきたこの人はもうまったくわたしの解説なんて聞いちゃいなかった。パパと同じ妙な匂い…嗅覚が刺激される類のものじゃなくて、場を無視したみたいな雰囲気を持った。これは慣れてる。だってほとんどみんながそんな感じでわたしのところに来るのだから。でもわたし、あんまり好きじゃない。わたしばっかり動いて疲弊して。 「聞いてるの?ここ、さっき説明したけど、もう1回説明するね」  物質量を求める計算式をノートの余白に書き込んでいく。浅い吐息が耳に届く。ああ聞いてないな。 「物質量はここに書いてあるから、こういう場合は掛け算して。逆に物質量を求めるなら割り算して…」  空返事が痛々しい。計算をしようとはしているけれど、わたしの説明がやっぱり下手なのか、彼はなかなか掛け算を始めない。 「じゃあこの問題だけわたしがやっちゃうね」  淡々とワークの問題を解く。ナルは苦しそうだった。けれどやっぱり何も言わないからわたしは黙って説明を続ける。感覚で解いてきたものを言語化するのは難しかった。それもナルが分かりやすく図解までするのは。本当にあの男の双子なのか。苦労しただろうな、比べられて。パパみたい。パパがあんなだから未世ちゃんは可哀想だね。お父さんは帰ってこないの?って小さい頃に何度か言われた。わたしは別に苦労してないし、お父さんは帰って来ない。 「溶液の濃度と溶液の体積を掛け算して…少し休憩する?」  これ以上続けてもナルは話を聞いてないしわたしも分かりきった問題を何問解いたって楽しくもなんともない。あからさまに嫌な顔をしちゃったけれど俯いて耳まで真っ赤にしてるナルに訊いてみた。ナルはしんどそうに頷いた。量の減ったジュースを下げて1階へ持っていく。パパがわたしのために山のように買ってくるスナック菓子を適当に選んでグラスにジュースを入れ直すと部屋に戻る。ナルは項垂れていた。汗ばんでるみたいだった。 「ミヨちゃん…シたい…シたい…だめ?」  わたしは答えず、ナルの前にグラスを置いてスナック菓子の袋を開けた。そわそわしながら縮こまって、ナルはわたしの機嫌を窺う。媚び諂って、パパみたい。 「わたしはその気、ないんだけどな」  決まりきった台詞だった。合図みたいなもので、ナルはわたしの股間を凝視する。彼がわたしの陰茎を舐めて、その気にさせる。そういう流れだった。ナルはわたしのスラックスを寛げてまったく興味を示さないソコに触れた。生温い手が気持ち悪い。ゴムはあったか、股間を襲う感触に顔を顰めてベッドの下に手を伸ばす。前の人が持ってきたやつがある。妊娠させちゃうから。パパがわたしを産んだみたいに。ナルからも。あの男の血を引く子供が産まれるのかと思うとゾッとして的確な刺激によって少しはナルに傾いた気が、またスタート地点に戻る。ゴムを付けても、そういう理由でナルを抱く時は後ろからだった。あの男は水泳部じゃないから塩素で毛先はパリッパリじゃないし、わたしに突かれて甘えた声出してるところなんて考えたくもない。すべてのイライラをぶつけるからナルだって大変でしょうに性懲りもなく脚を開いた。  勃ったは勃ったけれど反してわたしはやっぱり気分じゃなかったし、裸になったナルをベッドに伏せさせた直後にタイミング悪くパパが帰ってきた。詮索されるかな、と思った。真っ直ぐわたしの部屋に来るかも知れない。面倒だな、と思いながらさくらんぼの香り付きという少し黒ずんだ真紅のゴムを被せ、他にも何人か乗せたベッドで腰を突き上げるナルの後頭部を見ていた。遅い挿入に振り向かれる。あの男の面影を強く残す顔面を見ると萎えてしまう。目を逸らした。 「行為のときはわたしのコト見ないで」  何度か言った言葉でそれでもナルが行為中にわたしを盗み見ることは知ってる。いちいち掘り起こして文句を言うのも、なんだか面倒で、わたしがナルを見なければいいだけの話だった。ちらちらちらちら、ちらちらちらちら、パパみたいだ。 「ご、めん…どうしたのかな、って…」  欲情に染まりきった顔をやっぱり直視出来なくて、今日は本当に下にパパもいるのもあってさくらんぼの香りゴムがみるみる弛んでいった。 「手でもいい?今日はムリ」  ナルはもう目まで潤んで、でもわたしに反発することなんてなかった。小さな茎を揺らして、濡れた窄まりが蠢く。わたしはゆっくり指を挿し込んだ。ナルは息を詰めて身を固くする。あの男と同じ声質に再起不能なほどに気分が冷めて、初めての時から抑えるよう言っていた。わたしの枕に顔を埋めてわたしの指を食う穴の下で小さな茎が少しずつ膨らんでいた。 「…っぁ、あ、」  もどかしそうだった。どこが悦いのかはもう積み重なった経験で分かっちゃってるんだからそこばかりを指で撫でた。焦らすとか、そういうことは他の人と楽しんでほしい。ナルの体温がわたしを締め上げて、わたしは反応のいい箇所を突く。片手で乳搾りみたいに形の出来てきたナルの前を扱いた。みんなと同じサイズだけれどわたしのと比べるとやっぱり小さくて、大きければ大きいほどいいものらしかった。  物思いに耽っていると小さくドアの開く音がする。パパだ。でも入ってくることも制止することもなかった。不純性交友をしてるっていうのに。わたしたちを眺めている。目の前の背中がパパみたいでうんざりした。 「あ、あっ…ミヨちゃ、…」  ナルは限界を迎えるらしかった。張り詰めた前の根元を掴み、少しだけ勢いを取り戻した屹立を挿入する。声を上げられる前にナルを枕に押し付ける。くぐもった悲鳴があった。漏らしたみたいにシーツに白濁の粘液が途切れ途切れ滴る。セックスに耽る娘とその同級生を見て1人でこそこそやってるパパと、それからわたしもバカにするみたいに間抜けな調子のインターフォンが鳴った。わたしを食い締めるナルがまるでわたしの意識を引き止めているみたいで、詰めの甘いパパは足音を響かせ降りていく。枕に押し付けたままのナルを解放すると荒い呼吸が聞こえた。まだびゅるびゅると射精している。肩で息をして、ぼーっとしている。落ち着いた収縮から何の感慨もなくわたしは自身を抜いた。ゴムを外す。さくらんぼの香りも面白みなんてなかった。ゴムを捨て、虚無感に囚われる。わたしはあまり行為(コレ)好きじゃない。 「ミヨちゃんは…?」  わたしは服を直してウエットティッシュで手を拭いてスナック菓子を口に入れた。ナルは怯えながら裸体を起こす。 「いいや、わたしは。気分じゃない」  ナルの開いたままのワークを借りる。見覚えのある問題はわたしが2日前に解いたものだ。薄くシャープペンで解き方を書いていく。ナルはまだぼうっとしたままだった。 「ミヨちゃん」 「消しゴムですぐ消えるから。来週提出でしょ」  ナルは落胆したみたいな声で、それで射精(アレ)の後の掠れた声で、わたしは不快感に襲われた。 「うん…」 「早く服着て。シーツ剥がさなきゃだから」  ワークと向かいながらでも単純なナルがどんな表情をしているかなんてすぐに分かったけど、兄と違ってナルが鈍臭いことはよく分かってるから別にこれ以上急かすつもりはなかった。 「ミヨちゃん、オレじゃダメかな」 「このペースだと来週提出に間に合いそうにはないかもね」  シャープペンで解き方と間違いやすそうなところを書いていく。行為の後に言われることだった。わたしとの子が欲しいとか、籍を入れたいとか、恋人になって欲しいとか、セフレでもいいから、とか。頭が冷静になってないんだろうな。多分ナルもノリでいってる。頭がバカになってるんだ。 「…っうん、そうだね」  着替え終わってナルはまた隣に来た。寄り添ってるみたいだった。パパに見られた以上はナルだけに決めてしまおうかと少しだけ新たな選択が浮かんだ。だってパパみたいに相手取っ替え引っ替えしてるなんて、パパには一番バレたくない。でも、ナルだけはダメ。 「行為(カラダ)関係(カンケー)で満足してくれないなら、もうナルとは一緒にいられないよ」  まるで自分に言い聞かせるみたいにわたしは言った。彼は躊躇いがちにうん、て返事した。部屋にはわたしがスナック菓子を咀嚼する音だけが響いた。微かに下の階で話し声が聞こえたけど保険屋かなんかが来たんだろう。 「断る方の気持ちは考えてくれないんだ」  特に苦しみなんてなかったけど、人の好いナルはこう言えば過敏に反応した。 「もう言わないから…」  ある分野では欲が満たされたらしく彼はワークと向かい合う。真面目ではある。鈍臭いし空回りで、優秀なところは全部片割れが吸収しちゃったけど。  一通り指定された範囲を終え、まだ本人はついていけてないけど数学のワークを引っ張り出す。室内は静かなのに小さな物音がずっとしていた。階下から。それがなんだか分からないほどわたしは純粋でもなかった。パパの声だ。泣くみたいな(あの)声。保険屋でも誘い込んだんだ。もしくは国内放送局の受信料の徴収屋。ナルも気付いてるみたいだった。でも1回ガス抜きしたんだし、気にするほどのことじゃないはずだった。でもパパのそういうのを同級生に聞かれるのは心苦しいものはあって、平静を装うしかなかった。でも段々と声はエスカレートしてうるさくて、暗黙の了解で聞こえないフリをしていのにもう形振り構っていられなくなった。数学のワークを放って階段を下りる。大きくクリアになっていくパパの高い声が胸に重くのしかかって、足までも重くした。引っ切り無しに上がるパパの声と肌のぶつかる生々しい音がわたしの足音を隠す。わたしは泣きそうになってしまった。玄関が見えて、お父さんが家を出ていく時の背中を思い出す。何度かわたしを振り返ったけど、太陽の光を浴びたお父さんの顔をわたしは思い出せなかった。 『柿本さん…素敵です…ッ』  リビングを覗く前に重くて重くて仕方なかった足が止まって、胃の中は全部鉛玉になったみたいだった。ナルによく似た声がする。なんで。わたしはパパの相手を見るのが怖くなった。見てしまったら最後、戻れない気がした。どこに戻ろうとしたのかも分からずに。漠然と。何かが変わると思った。それもわたしの予想外で、厄介で、不安しかないような方向に。 -こひぞつもりて-  柿本さんと目が合った時、身体は暑いが寒気がした。俺は意識を持っていながら無意識に柿本さんを捕まえて迫っていた。まだ体温の残るソファーに引き倒して、それでも少しだけ怯えをみせた年上の、それも同級生で、しかも気に入らない女子の父親の顔に、確かにほんの一瞬正気に戻っていた。すぐに謝るつもりだった。だが柿本さんは俺のめでたい妄想かも知れないが、受け入れるみたいな妖しい手付きで俺の腕を摩った。怯えはどこかへ消え、涙ぐんだ穏和な眼差しにまた俺は正気を失ったみたいだった。互いに熱くなっていたみたいで柿本さんの肌に触れると境界線が溶けた。気障な感想だが、どこからどこまでが俺の指で、どこからどこまでが柿本さんの肌なのか判別できなくなっていた。俺と同い年の娘の親とは思えない瑞々しく張りのある肌で、俺は撫でる手をやめられないでいた。どこまで許されているのか分からず、身体の疼きとおかしくなっていく頭とそれから悩ましげな表情をみせながら声を抑える彼の姿に浮かれていた。汗を塗りつけ塗りつけられ、必死に腰を打ち付け、脂肪の少ない腰に縋り付く。結合部から伝わる直接の快感も、耳に届くソファーの軋みと柿本さんの喘ぎ声に本当に俺は頭がおかしくなっていた。今まで交わった誰よりも肌のフィット感も、スキン越しでないことを差し引いたとしても締め付ける間隔、うねる加減も吐息混じりに漏れる声まで良かった。 「柿本さん…素敵です…ッ」 「ぁっ…っあ、ン、」  流石に柿本さんの配偶者(パートナー)に悪い気がして避けていた唇に堪らず噛み付いた。弾力と瀞(とろ)んだ柔らかさにさらに腰を打ち付ける。高い悲鳴がくぐもった。痙攣している柿本さんを強く抱き締め、熱く柔らかく俺を締める奥の奥に目の前が真っ白になるほどの快楽を吐き出した。脳味噌が擦すられているような余韻に浸る。 「パパ…?」  背後で女の声がした。不安と心配の入り混じった優しげなものだった。しかし聞き覚えのあるその性質はいつもなら顔を合わせるだけで互いに1日を不穏にさせる女の口から出るものだった。ひくひくと俺を締める柿本さんは目を丸くして俺の肩の奥を凝視していた。 「未世ちゃ…」  あの女は少しの間気配を消したが、荒々しい足音を立て俺たちの傍に来た。 「何、してんの…?」  柿本さんは口を半開きに娘を見ていた。俺は面白くなくなった。柿本さんの腰をもう一度抱いて密着する。柿本さんは俺の不意打ちに小さな声を出した。柿本がいつもの透かした態度で柿本さんだけをみて、リビングから出て行こうとしていた。 「未世ちゃん、違うんだ。未世ちゃん、待って。未世ちゃん、行かないで、未世ちゃん!」  俺のことなんか忘れて、物を相手していたみたいに身を捩る。 「ミヨちゃん?どうしたの?」  おそらく俺は楽しんでいたのだろう。それを知った。弟の声を聞いた直後に。 「もう帰って」  柿本が言った。俺に言ったのか弟に言ったのか分からなかった。 「ミヨちゃん…?あれ、ハル…?え、なんで?」 「帰って。(あれ)も連れ帰って」  柿本さんはもうおろおろして柿本とナルを見ていた。 「ハルが何かしたの…?ハル…」  間抜けな弟は何も分かっていないみたいだった。俺は柿本さんから抜け出ていった。繋がったところからまだ白さを残す液体が溢れ、ソファーに滴る。柿本さんの吐息にまた欲が燃える。 「ハル、ミヨちゃんにまた失礼なコト言ったのかよ」  廊下の弟はすでに断定していた。(やつ)が思っているようにはならない。俺と柿本はどうしたって打ち解けることができない。縄張りを争うべき相手で、あの女が孕ませた子孫を喰い潰す子を孕ませる相手を探さねばならない。本能があの女を敵視している。弟は俺とほぼほぼ同じであるというのにどうして(やつ)は違かったのだろう。ありがたいことだった。家族内に居るのは厄介なことこの上ない。 「なんとか言えって」  弟がやって来る。それから狼狽する。 「また来ます、柿本さん」  あの女の子孫を凌駕する子を産める相手なのか正直分からない。本能的というのか、霊感に打たれるようなものは感じられなかった。ただ柿本さんがいいと思った。誘われるままにあれこれと応えるより。あの女みたいに。もう特定の相手を作ってしまう気はあった。この人と会う前から、消極的に。柿本さんはまたぎょっとしたが、拒否しきれない迷いをその中に感じ取った。 「帰るぞ。母さんが待ってる」  弟と一緒に帰る必要はなかった。もたついてる(やつ)を置いて柿本さんの家を出る。身体は軽快な感じがあった。あの女の透かした態度の下でどんなことを考えているのかと思うと顔面が緩む。 「待ってよ!」  近所迷惑も考えず弟は大声を出した。何もかもが遅く、それでいて俺に要求する。父も母も鈍臭い弟に何も言わない。甘ったれた子供が可愛いのだろう。 「どうして仲良くしないんだ?どうしてミヨちゃんのコト傷付けるんだよ?」  走ってきた甘ったれは俺の腕に腕を絡めるが反射的に払ってしまう。別個体(たにん)の体温が嫌いだと何度言っても愚鈍な弟は分からない。 「聞いてんのか?久しぶりに会えたのにこんなコト言いたくないケド、ハルは…」  弟の前を通り抜ける。能天気に無邪気に、当然に弟は俺を評する。的外れで、筋違いで、人を評する立場にもなく、そういった目も肥えていないというのに。 「なぁ、ハル!」  諦めればいいものを、弟は俺にも同じライン、同じものを求める。それが当たり前で、常識みたいに。あの女への対応だってそうだ。何故敵視し、縄張りから追い払うべきような相手と仲良しこよしを求めるのか。脳足りんになれば理解出来るのか、見えてくるのか?周りによく言われたように、本当に双子なのか、俺自身が疑った。 「うるさい。お前はあの女とよろしくやっていればいいだろう。俺には関係ない。お前が俺の弟だろうが、一緒に仲良くする必要なんてないだろう。あの女だって俺と一悶着あったくらいで傷付く器量(タマ)じゃない。あれだけ長くいて分からないのか?俺や彼女(あいつ)と、お前はデキが違う。その足りない頭で分かれ。分からないなら黙ってろ」  弟は俺の言っていることも分からないのか情けない顔を晒していた。一歩間違えた俺の顔を見ているようで、こいつの顔も嫌いだった。うんざりした。同時にあの女の父親を抱いたことに言いようのない喜びを感じた。 「応援はしてやる。あの女と(つが)えるといいな」  鼻で嗤うと何を勘違いしたのか弟は機嫌を良くした。 「うん、でも今日もフられちゃったんだ」  弟は大きな独り言を言う。脳足りんのことはやはりよく理解出来なかった。同時の帰宅ではないが母の言ったとおり迎えには行ったのだ。あちこちから漂う夕飯の香りを楽しみながら自宅へ向かう。あの女の抑圧的な態度と柿本さんとの情事が俺の足取りを軽くさせた。

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