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第2話

-ながめせしまに-  パパはわたしの部屋の前でずっとノックを続けている。十数分間も聞いていると精神を病みそうだった。でも交わす言葉なんてなかった。再来週提出のワークを解いていく。どうせ明日辺り、教えて欲しいと言われるんだから。応用問題で、解法は分かれど面倒な計算に現実逃避によく似た集中が途切れ、再開の兆しがなかった。まだパパはドアを叩いている。感情の爆発とは逆にわたしは頭を抱えて身を竦めた。パパとあの男が番うなんて信じたくなかった。日の光の中に溶けていったお父さんの姿がまた蘇る。微笑んでいたことだけは覚えている。でもパパは裏切った。違う、あの男が無理矢理パパを襲ったんだ。わたしが気に入らないから。それ以外にない。思い込もうとして、それでもナルを抱いた時に出す声をパパもしていた。 『未世ちゃん、開けるんだ。未世ちゃん。いい子だから。未世ちゃん、パパを許しておくれ。未世ちゃん…』  わたしは首を振った。騙されない。パパは新聞配達でも銀行員でも、ピザの宅配でも宗教勧誘の相手とさえ交合う。やめてやめてと拒否の言葉を口にして、身体は全然嫌がってなんかなかった。それでも許せたのはただの処理だったから。誰でも良かったから。お父さんを捨てたわけじゃなくて、ただ性処理道具っていう記号に過ぎなかったから。でもそれがあの男だっていうならまったく話は変わっていた。  わたしはドアを開けた。ひとつの提案が浮かんだ。パパはわたしに首を触れない。安堵の表情に虫酸が走った。 「ねぇパパ。そんっなに飢えてるなら、わたしが相手してあげる。あんな男!やめてよね!」  パパの皺まみれのシャツを掴んで部屋へ引き入れる。一体全体どうして皺まみれなの?わたしがアイロンかけたのに。何をしてたの?あの男と。どっちから誘ったの?受け入れたならどっちからなんて関係ない。 「未世ちゃん、聞いてくれ。あれは、」 「なんだっていいよ。聞きたくない。聞いたって変わらないじゃん。娘の同級生を誑かしてさ、どういうつもり?変態だと思わないの」  まだシーツも剥がしてないベッドへパパを放り投げる。あの男が触ったシャツなんてずっと着てて欲しくない。段違いに留まっているボタンに惨めになって、力任せに割り開いた。ボタンが飛ぶ。 「だめ…だめだよ、未世ちゃん」  でもパパは多分その気になってる。クラスの子とか、ナルが発する熱だった。あの男と済ませたくせにまだ求めてるんだ。 「あの男はやめて。あの男は絶対やめて」 「未世ちゃ、それならパパだって言いたいことが、あっ…」  胸の先端を抓るとパパの目は虚ろになった。ナルのより少し大きくて質感も違うのは経験の差なのかも知れない。色んな人に触られたんだろうな。ナルとは違って。ナルは自分で弄ってるみたいだけど、パパは自分以外にも触らせるんだもんね。乳暈に押し付けて捏ねるとパパは腰を小さく動かしていた。 「パパがわたしに何を言いたいの?そんな改まって言うこと?ねぇパパ、誤解しないで。わたし今日家に来たあの男もその弟も大っ嫌いだから。でもね、ナルっていうんだけどわたし以外とはセックスしないんだって。偉いよね。わたしのこと好きで、わたしと付き合いたいから、わたし以外とはセックスしないんだって。いい子だよね。ねぇパパ、そんな同級生とわたしの関係にパパは何を言いたいっていうの?」  もう片方の胸の突起も摘んで引っ張っては擂り潰す。パパは息を荒くして、顔を赤らめて、腰をぎこちなく前後に揺する。 「あ、あぁ、っそ…んな、未世ちゃ、ァ、」  親指の腹で削るみたいに擦るとパパはビクビク震える。スラックスのファスナー部分に小山が出来ている。 「ねぇ、ナルのことだよね?見てたもんね。気付いてないと思った?ドアの奥で何してたの?わたしがナルを抱いてる間さ。それでわたしとナルのこと口出すの?ねぇパパ、あの男とはやめて。そうすればパパの望みどおり、ナルとはもう遊ばないから」  片手も参加して両胸を刺激する。パパはもう涎を垂らして虚ろな目でわたしを見つめ、腰を跳ねさせていた。陸に上げた魚みたいだった。可哀想なパパ。 「あの男の手垢が付いたってだけで(はらわた)煮え繰り返りそうなんだよ。ねぇパパ、お風呂沸かすから。あの男の臭い匂い、落としてきて」  パパは欲望に満ち満ちた眼差しで、でもわたしの知ったことじゃなかった。スラックスの前の部分の色が変わっていて、情けないな、と思った。 「パパ、返事聞いてない。あの男だけはやめて?簡単なことだよね?もう二度と来ないんだし」  そうだ、あの男の気まぐれに決まっていた。こんな簡単な約束はなかった。メリットもデメリットもない。それなら本当は、他の人ともやらないで欲しかった。でもそのことをわたしはまだ言えずにいる。 「守る…っ、守るよ。未世ちゃんが嫌な相手なら、守るよ…だから、」 「うん、ナルとはもう遊ばないよ。パパの居ない時に他の子も連れてこない。それでいいでしょ?」  気付かないフリをしてベッドに片膝を上げ、パパに抱き着く。少し湿っている小さな山に膝を押し付けた。 「あ、あ…」 「ナルさえ来なきゃ、あの男だってこの家には近付かないから、安心して?大学卒業するまでパートナーなんて作らないから。パパの二の舞は演じない」  さらに膝で膨らみを踏む。パパは面白いくらいに硬直した。 「い、ぁ、いた…ぃ、」 「痛い?パパ、どこが痛いの?頭?風邪ひいちゃった?」  はくはくと魚みたいだった。パパは顔を赤くして、痛いなんて言うくせに感じてるみたいだった。わざとパパの体中を探りながら押し込んだ膝も動かす。布越しに質量がある。 「ぁ、ひ、ぁ…パ、パパ、ちょっと熱がある、みたいだ…もう、寝ることにす、っるよ…」  わたしはパパの欲にまみれた顔面を眺めていた。あの男も見た。悔しさにパパに()てられた愉悦を踏み(にじ)る怒りが燃えたみたいだった。 「分かった。ちゃんと寝てね。いつもありがとう、パパ」  膝で股間を撫でる。パパは仰け反ってガクガク引き攣る。感じやすい人だと思う。パパは苦笑いしてわたしの部屋を出て行った。枕元に放っていた端末を手にしてナルのアドレスを受信拒否に登録し、また放り投げた。 -こひぞつもりて-  気の迷いだろうな、とは思っていたが何度か柿本さんの姿がちらついた。そのうち忘れるだろう。だってあの人にはこれという華やかさも、目を惹く何かも特にない。強いて言うならあの女の親というくらいで、それは俺が柿本さんを思い描いてしまう理由には程遠い。暫く誰ともしなかったから。これが最も俺の中で納得のいく結論だった。解決しない自問自答に、確かめるか…?という選択も浮かびはしたがあの対敵(おんな)の家には近付きたくないのが本音だった。自ら不快になりにいくのもおかしい話で、本能的で自分でも御せずに沸き起こるあの怒りとも不安とも焦りにも似た感じは正直疲れる。 「ハル!」  ノックもせずに弟は俺の部屋に入ってきた。そんな相手に構ってやれれば人が好くない自覚はある。机に頬杖をついたまま小さな頃からある日焼けし退色した図鑑の背表紙を眺めていた。 「なぁ、ハル!ミヨちゃんと連絡つかないんだ!ハルの端末(ケータイ)も?なんかあったのかな?大丈夫かな?」  喧しい音をシャットアウトする(すべ)は物心ついた頃にはすでに得ていたと思う。同時に産まれたやつが騒音(こんな)なら。 「ハル!人の話聞けよ!ミヨちゃんが、」 「一緒に洗濯でもしたんだろう」  お前みたいに。今手にしているものだって何台目なのか。 「でも…どうしよう!固定電話にかけちゃおうかな?でもお父さんが出ちゃったら気マズイし…ハル、どうしたらいいかな?」  俺は立ち上がってリビングへ下りた。母さんの前ならそんな話はしないだろう。父がホビー雑誌を広げている。プラモデルやフィギュアが載っているもので、どうやらプロの着彩師のメイキングに目を通すのが好きらしかった。いつもなら雑誌を優先するが久々の息子の帰宅に父は顔を上げる。厳しそうな顔立ちでフレームのない角張った眼鏡がさらに厳格さを助長するが、口を開けば穏やかそのもので、弟は両親のどちらにも似ていた。2階が騒がしいことを特に嫌味もなく告げて双子が仲良くやっているらしいことを喜んでさえいるようだった。二親に心配かけるつもりはない。弟に合わせて俺は黙って流されていれば、明るい弟と人見知りな兄で十分通った。母さんは父と俺に果物を剥いてくれた。ドタドタと階段から耳障りな足音が聞こえてきてリビングに弟が入ってくる。 「ハル!話聞けって」  父と母さんの目が俺に向く。俺は構わずフォークにリンゴを刺す。予想に反して、母さんは『(はる)くんは疲れてるのよ』と言った。父さんは、『代わりに父さんが聞いてやるぞ』などと言っていた。俺は家族にさえ人見知りだと思われている。だから弟の押しが強い時、母さんや父は俺を庇う。 「オレはハルと話したいの!」  「あらあら(なる)もお兄ちゃんが帰ってきて嬉しいのね」「ほらほら兄貴なんだから構ってやりなさい」。母さんは双子の仲が良いと信じて疑わないし、父は同時に産まれたはずの双子に明らかな兄弟としての差をつけた。数秒、数分だけの差でしかない。俺は黙ってリンゴを齧る。隣の席が埋まった。 「今リンゴ食ってるから」 「じゃあ待ってる」  それを聞いて斜め対面の父がホビー雑誌を捲りながら笑った。リンゴはあと3つ。父が手を付けたので残り2つ。隣から手が伸びてあと1つ。母さんが来て皿ごと片付けた。 「ハル」 「柿本サンの話なら聞きたくないな」  何かを匂わせるように声音と表情を作る。父が雑誌から顔を上げ、母さんは皿を洗っていた蛇口を止める。沈黙が流れて俺は訳の分からない笑みが浮かんだ。弟は顔を真っ赤にする。 「ちょっと!ハル!」  微妙な雰囲気の中に張本人を残して部屋に戻る。これは家族会議か?母さんは弟がどこに遊びに行ったのか知っていたみたいだし、あの性格なら応援してはいるみたいだが、そこに俺が介入したらどうなるだろう?カレンダーを見る。明日は休みだ。明日にでも顔を合わせて聞けばいい話だが2日もこの喧しさに付き合わなければならないことにうんざりした。うるさい弟をさらにうるさくさせるあの女に怒りがこみ上げながら俺は退色した図鑑の背表紙を眺めて気分を落ち着かせる。幼い頃からの癖で、(すべ)だった。思考が凪ぐと退屈になった脳裏に柿本さんの痴態がコマ送りで再現された。俺が写真家になってあれやこれやと指示を出したみたいにあの人は艶めかしく乱れていた。あの女の弱点ともなれば3割4割くらい増してそう思うだけなのだろう。意識的に探っているうちは、これという遺伝的に優れたものがあの人には見当たらない。もう一度会って確かめようか。だが柿本さんは勤めているようだから、訪ねればあの女が出る可能性のほうが高い。階段を上がる足音が聞こえる。俺はひとり納得の声を漏らした。 -ふりさけみれば-  久々に重之(しげゆき)のもとを訪れたはいいけれど、彼は上の空だった。狭く開いたドアの向こうに未世が見えて僕はそれで満足だったからもう帰ってもいい。重之に案内された居間は然程変わりはなくて、未世は少し緊張した感じでお茶を持ってきてくれた。ありがとうとお礼を言うと照れなくてもいいのに背を向けて行ってしまった。やっぱり覚えてないのかな、僕のこと。対面に座る重之はぼーっとしていてまったく僕の話なんて聞いてなかった。そういうところですれ違って、僕も耐えられなくなって離別を選んだ。未世を置いていきたくはなかったけれど未世を産んで育てたのはほとんど重之で、僕は僕なりに未世を可愛がっていたつもりだった。 「重之、それじゃあそろそろ帰るよ。急に来て悪かったね。未世も元気そうだし。これで美味しい物食べさせてあげてほしい」  諸々の費用とはまた別にいくらか金を入れた封を渡す。 「う、うん。ありがとうみかさ。今度お寿司屋さんにでも連れて行く」  僕が立ち上がってやっと重之の意識は僕に戻った。リビングに出ると階段の踊り場に未世がいた。気付いてくれているのかな。目が合うと隠れてしまう。僕も結局、玄関で見送ってくれる重之には上の空で、彼の肩越しに僕を覗き込む娘に気を取られていた。ドアが閉まると少し胸が苦しくなって、次はいつ訪れるだろうか、とか、その時はまた姿を見せてくれるだろうか、とか期待と不安が半々だった。敷地を出てすぐに同じ顔をした2人組のかっこいい男の子たちとすれ違った。目鼻立ちがよく似ている。双子だろうか。もし僕と重之の間に産まれたのが双子だったなら引き離しただろうか。それとも重之に2人任せただろうか。2人とも僕が引き取る選択はない。重之は寂しがり屋だから。 「未世ちゃんのお父さん?」  2人組の片方の、明るい感じの子が言った。きゃぴきゃぴした声で、そのボリュームにも出された名前にも僕は反射的に振り向いてしまった。ほとんど同じ顔をしていても髪型や服装や表情でこうも違うのか、冷めた感じの子は対照的に僕を睨む。きらきらした少年みたいな子が僕のほうへ人懐こく近付いてくる。 「ミヨちゃんに似てるから…」  未世の名前を何の躊躇いもなく呼べる。胸がちくんとして、けれどそんな無邪気に呼ぶ同年代の子がいることに嬉しくもあった。 「…はい。未世のお父さんです。未世のお友達かな。娘をよろしくお願いします」  未世とは正反対だけれど、陽気で爛漫な子が傍にいるのはいいことだ。少し軽率な雰囲気があるのは気になったが未世の友人なら悪いことを考えたくない。明るげな子と、少し機嫌の悪そうな無愛想な子に会釈してこの地区を去る。 「あっ、ミヨちゃん!」  後ろであの明るげな子のきゃぴきゃぴした声がした。もう一度我が子を目にしたくなる。かっこいい2人組の男の子を振り切って未世がやってきた。重之にはあまり似ていない。僕に似た。 「人違いだったらごめんなさい…変なことをお訊ねしますが…わたしの父ですか」  僕はどうしていいか分からなくなってしまう。誰よりも、重之よりも傷付けたくない相手だから無闇矢鱈なことは言えなくて。この質問を投げてくるのも内気なこの子には相当な勇気だっただろうし。重之への建前もある。難解だ。僕に何かを感じてはいたみたいだけれど確信には至っていない。 「君のお父さんの友達だよ。代理で来たんだ。挨拶しなくてごめんね、おじさん緊張しちゃってさ」  僕に似て娘は、強者の立場に産まれてそれでもやっぱり背丈はその辺りの男たちよりも大きくないし同じ世代の女の子たちより華奢かも知れない。少食は重之似かな。僕は屈んで目線を合わせ、強気な目を見ていた。 「そ、うですか。お父さんによろしくお伝えください」  小さな肩が落ちる。可哀想だな、と思ってしまうのは僕の負い目で。耐えるべきだった。誰も彼も誘ってしまう重之ごと愛するべきで、その負い目に打ち克って、未世と一緒に暮らせばよかった。選ばない方に幻想を抱いてしまう。 「うん、よく伝えておくよ」  未世は立ち去ろうとしなかった。僕だって未世を見届けたいのに。家の前でかっこいい子が待ってるよ。 「ほらお友達が待ってる。待たせちゃ悪いから僕はもう行くよ。君も行ってあげなきゃ」  未世はこくりと頷いて背を向けた。重之譲りの綺麗な髪が揺れて、美しく育った。満たされた心地がした。未世がお友達に合流して僕も歩き出す。 -ながめせしまに-  視界が滲んで家に入る。きゃんきゃん子犬が鳴いていたけどわたしの知ったことじゃなかった。お父さんに違いなかった。どうして嘘を言うのか、大人の事情だから仕方がない。お父さんの嘘だからわたしは守る。インターフォンにはパパが出た。誰とも喋りたくない。部屋に戻って蹲る。新しい家庭を持っているのかも知れない。鼻がぐずぐずだった。ナルが昔ピーピー泣くの煩わしかったけど、今のわたしもほんとに煩わしいだろうな。  扉がノックされるけど、こんな姿は誰にも晒したくなかった。 「ミヨちゃん!開けてよ。電話も繋がらないしさ…どうしたの?」  いいな、ナルは。両親がいて、兄弟がいて。大人の事情を呑み込むしかない気持ちなんて分かるわけない。分かってほしいわけじゃないけど。気休めにもならない、誰も傷付かないし誰も救われない優しいことばっか並べて、それで勘違いしちゃうんだから。好い気なものだと思う。 「ミヨちゃん、開けて?」  お父さんの代理なんて嘘。懐かれたら困るんだ。新しい家庭があるんだ。わたしより可愛くて、ナルみたいな無邪気な子供がいるに違いなかった。わたしにはパパしかいないのだと知る。 「ねぇってば!どうして電話出てくれないの?オレ、何かしたかなぁ」  玄関から出て行く姿しか覚えていないけどお父さんは綺麗な人だった。日光を浴びて麗らかに微笑みかけてくれたあの日から何も変わってない。お父さんだった。少し淡い髪色もサラサラの髪の毛も、白い肌も。でももうわたしのお父さんじゃない。色褪せない思い出を真っ黒く塗り潰したい。 「寝てるの?」  枕をドアに投げ付ける。 「ミヨちゃん端末どうしたの?壊れちゃった?新しく契約したらアドレス教えてよ!」  ナルは呑気だ。そういうところが本当に嫌い。 「さっきの人、ミヨちゃんのお父さんなんだって?めっちゃ似てるね。かっこよかった!」  雷が落ちたような感じがあって、すっと悲しみが消えた。ナルの軽快な語調が無機質に感じられる。ドアに向かい、枕を拾うとベッドへ投げて戻した。それから鍵を外す。ナルは目を円くした。わたしは冷めた頭が彼に対して何をするのか分からなかった。 「ミヨちゃん…?」 「帰って」  ナルを押し退け、リビングに行く。パパはあの男と一緒にいる。冷め切って、実際凍えそうになった。パパがまたあの男に。もうしないって言った。もうしないって何度言った?お父さんはどうして出て行ったの?パパはいつから?疑問が浮かんで、微かな頭痛を伴いながら幼い頃の記憶が蘇る。おそるおそるリビングを覗く。一体あの2人に何を話すことがある?わたしの背に体温が当たる。 「わっ」  背後で聞こえた間の抜けた声で、リビングにいるパパはわたしに気付いた。あの男の下でソファに敷かれている。約束したはずだった。守ると言った。日の光に包まれて出て行ったお父さんの姿と嘘に顔面がぐしゃりと寄ってしまった。パパは慌ててあの男の下から這い出る。あの男のしっかりした肩を掴んで上体を起こす。 「パパ、その人のこと、好きなの?」 「未世ちゃん、違うんだ、これは…ッ」 「違うとか違くないとかどっちでもいいから。その人のこと好きなの?答えて」  パパの濡れた唇が開きかけてあの男の後頭部が動く。 「ぁ、ぅん…ンむ、」  パパの手を握ってソファに倒す。角度を変える後頭部が生々しかった。 「ちょ、と…ハル…何して…」  水を浅く掻き回すような音がした。わたしは鳥肌が止まらず、両腕を抱く。 「あ、ふぁぁ…みよ、ちゃァぁ…っ」 「俺は好きですよ?柿本さん」  眼球が乾いていく。伊集院陽の聞いたこともない甘ったるい鼻にかかった声。喉を締められるみたいだった。口の中はカラカラで、温和に微笑んで太陽に消えていくお父さんに激しい同情が起こった。 「い、や…だめ、だめ…」 「ミヨちゃん、行こう。ちょっと散歩しに行こ?」  あの男と同じ面がわたしの肩に親しげに触れる。はたき落としてしまった。それでもナルはわたしを玄関へ連れ出した。もうどうにでもなれとナルに介護されるみたいに外に出ていた。アスファルトに雨が降る。でも2粒で終わり。 「わたし、あんたのお兄ちゃん嫌いなの。分かってる?分かってなかった?誰とでも仲良しこよしってタイプじゃないから」 「うん…」  ナルは分かってないだろうなと思った。多分伝わってない。わたしは冷静じゃないと(のたま)うつもりだろうな。 「行こ。アイス買ってあげる。一緒に食べよ」  無邪気にわたしを掴む。拒まれたってナルはわたしを引っ張っていく。わたしはお父さんにあれ以上踏み込めなかった。拒まれたら。家族がいるって言われたら。もう会いたくないって思われたら。引かれるままコンビニでアイスを買ってもらった。ナルは呑気に美味しいとか冷たいとか言った。公園に寄ってブランコに揺られていると少しずつ冷静になった。 「ナルはショックじゃないの」  ナルはきょとんとしていた。何の話か分かっていないみたいだった。呆れ半分ナルらしいと思った。 「口の中スースーする。チョコミント食べた後に舐めたら気持ちいいかな?」  頭悪いなぁと思いながら、適当な返事をした。何と言ったのかすぐに忘れてしまった。 「ミヨちゃんと連絡つかなかったから、何があったらどうしようかと思ったけどなんかヤバそうなことに巻き込まれてなくて良かったなって思ったんだ。でも…ハルのこと、ほんと、ごめん。オレバカだからなんて言っていいか分からないけど、ほんと…」 「なんでナルが謝るの?」 「ハルはオレの双子だから」 「わたしの父親のほうが誘ったかも知れないのに?」  ナルはまたきょとんとした。アイスの棒を咥えている。 「でも、手、出してるのハルだった。ミヨちゃんのお父さんのコト、好きだって言ってた。今日ここ来ようって言ったのハルでさ。そういうことだったんだなって繋がった」  日が落ちていく空を見上げて時間が止まればいいと思った。このまま夜になってどこに帰ればいいのだろう。 「ミヨちゃんのもう片方のお父さんにもちゃんと謝らないと…ハルにはちゃんと言っておくし、」  バカ正直で、双子の片割れが大切みたいだった。双子が片割れに向ける気持ちなんてさっぱり分からないけど。 「いい。要らない。だってあの人は離婚したお父さんだから」  言いたくなかった。口にすると窮屈になる。 「今日たまたま来てただけ」  バカ正直で素直なナルの顔を見られなかった。同情なんてされたら堪ったものじゃない。 「双子のお兄さんに言っておいて。パパは誰でもいいんだって。若くて体力のあるカラダに目が眩んでるだけだって。わたしが把握してるだけでも何人もいるから感染(ビョーキ)の検査もしたほうがいいよ。パパ、いっつも生だから」  ナルは戦慄してるみたいだった。さすがに脅しすぎたかな。でも本当のことだから留意点ではあるけど。 「ミヨ、ちゃん…?」 「安心して、わたしはゴム付けてるから」  笑い飛ばさないとやるせなかった。どうしてよりにもよってバカでマヌケなナルに話してるんだろう。 「ちゃんと言っておいて」 「う、ん…あのさ、ミヨちゃん…」  パパが盛り上がっちゃう時と同じ声の掠れ。わたしはナルの股間を見た。その視線にナルも気付いたみたいだった。 「今ゴム持ってないよ」  利き手を見る。手を洗いたかった。古びたトイレがある。ふしだらだな。 「手でいい?」  ナルは頷く。ナルのは小さいからやりづらい。他の子だってもう少しあるのに。ゴミを捨ててトイレに入る。あまり清潔ではなくて、壁も黒ずんでゴミだらけだった。ビニール袋が排水口に張り付いた洗面台に手をつかせ、後ろから抱き込む。ちょっとお洒落なベルトのバックルを外して下着に手を突っ込んだ。筋肉の感じがわたしとは違った。肉を抓ってみる。余分な脂肪はない。 「な、に…?」 「別に」  少し芯を持ってるナルの茎を握り込む。臀部にわたしのが当たってしまって心地が悪くなる。 「ぅ、…ん」  ゆっくり指の輪でナルのを扱く。わたしにこだわらないで、陰茎(ここ)を使える相手と番えればいいのに。前いじられるの好きみたいだから。 「そこ、きもち…ぃい、ぁっ」  先端部を指で遊ぶ。ぬとついた液体が滑りを助ける。はぁはぁ言いながらナルは洗面台を見下ろして、わたしは鏡の中の自分を見ていた。パパには似てない。でもお父さんにも似てない。 「あっ、あっ、ぁ、ぅん、」  茎の頭の部分の穴を指の腹で抉るとナルは尻をわたしのそこに押し付ける。欲しがるのかな。ゴムないんだけどな。パパみたいになる前に、ナルに決めちゃおうかな。でもきっとナルのこと、蔑ろにするんだろうな。求められるままに抱いちゃって。ナルは笑って出て行ってくれる?お父さんみたいに。 「ナル」  耳元まで背が届かなかった。顔を押し付けた背中の質感はパパみたいで、微かな浮遊感を伴った弱い頭痛と共にお父さんの背中も思い出す。 「わたしの子、産みたい?」  萎えちゃうかな。わたしにさえこだわらなければ、ナルだって産ませる立場の人なのに。少しだけ刺激を強くする。ナルの快いところ、嫌でも知っちゃってた。 「あっ、はっッぁ、ミヨ、ちゃ…」 「わたしのこと、諦めなよ」  お父さんがわたしに嘘を吐く。お父さんが可哀想だった。パパはわたしに嘘を吐く。パパは酷い人だ。 「も、あぁ、イく、だめ、ミヨちゃ…あっ!」  びくりびくりと震えた背中に悲しくなった。

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