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第4話

-ながめせしまに-  わたしのこと、好き?。口にしてみるとナルは白い歯を見せて、涙袋がきゅっと持ち上がった。好き。無邪気な笑顔と強い好意はやはりわたしの何かを揺さぶることはなかった。自己暗示の捌け口にされているなんて知りもしないでナルはわたしの薄っぺらい言葉を信じている。わたしが他の人に手を出すんじゃなく、ナルが他の人と通じたら?わたしはナルを受け入れられる?わたしはナルの移ろう表情から目が離せなくなって、ナルがわたし以外を選ぶことに不思議なまでの喜びがあったのにそんなビジョンが思い描けず、じゃあナルが他の人たちに通じるよう仕向ければいいのだと考えて、ぞっとした。不本意に乱暴にでも、他の人に通じさせられるナルを想像して、それは上級生の集団に囲まれたナルで、わたしはきゃらきゃら笑いながらこっちをみたナルを咄嗟に腕に収めてしまった。腹の底が消え失せたみたいな安定しないちりちりとした痛みはナルの少し高い体温で落ち着いていく。ミヨちゃん?。ナルはわたしの(やま)しい妄想なんて知らずにわたしを曇りのない目で見つめて、毎回毎回裁かれているような気になる。彼といるのは罰だと思う。同時に彼といる資格なんてないことを知る。バカで鈍臭くて間抜けで情けないこの人だけど、この人が一番可哀想なところは、わたしが結局この人を裏切らない自信がないことだ。 「ミヨちゃん」  用もないのにわたしを呼ぶ。本当にわたしが恋人なのか、夢みたいなんだと屈託もなく言う。夢なら覚めないうちに何度でも呼びたいと無垢に言う。あの男の話もしなくなって、他の人たちの話もしなくなって、わたしたちに会話は減った。ただナルがわたしを呼んで、わたしは彼から目が離せなくなって、布越しに触れて、ゴム越しに交わって、手を繋いで、体重を預け合う。ただそれだけでナルは幸せだとか嬉しいとか夢みたいだとか言う。やっぱり何も響かなかった。いっぱいもらった言葉だから。飽きるほど。もうそれが当然みたいに。社交辞令と化してしまった。何の刺激もない。 「ミヨちゃん、どうしたの」  ナルに支えられて、わたしらしくないと思った。ナルを凌辱させようとしてまでわたしはわたしの不安から解放されたくて仕方がない。どうして番いにしようなどと思ったのかあの時の判断が分からなかった。パパが約束を破ったから。パパがあの男を選んだから。お父さんを裏切ったみたいにわたしはなりたくないから。だからナルに執着してみて、パパみたいにはならない。他の人に求められたら、ナルを抱いた手でまた誰かを抱いてしまいそうだった。何故断らないのかも自分が自分で分からないまま。 「ナルだけ。ナルだけにする…ずっとこれからも」  知らず知らずのうちに自己暗示は口をついて出る。ナルはびっくりした顔をして、困って笑う。 「オレはミヨちゃんを束縛したくないよ」  許されたら甘えてしまうのが怖い。どうして何でもかんでもわたしを許す人を選んでしまったのだろう。 「束縛して。怒って。わたしはナルだけにするから、わたしはナルだけにする。ナルがわたしに愛想尽かすまで」 「愛想尽かすのは、ミヨちゃんのほうかも知れないよ」  へらへらと情けない顔をしてナルは言った。 「双子なのに、全然違うし。オレがハルなら、オレがハルならさ、ミヨちゃんにミジメな思いさせなくて済んだのに」  けらけら笑って何でもないふうを装うけど、本当に作り笑いは下手だと思う。 「オレがこんなだからそんなこと言うんだろ?頑張るからオレ…ミヨちゃんに釣り合うようなオトコになるから…」  ナルがバカで鈍臭くて間抜けで情けないことはもう当然のことで、それを含めて、わたしはナルを番いにした。でもそんなことはどうでも良くて。わたしが、誰かひとりを選んでいられる性分じゃなかった、ただそれだけ。それでもパパみたいにはなりたくない。パパみたいにお父さんを傷付けたくない。パパみたいにナルを裏切りたくない。意図しない方向に雪崩れてしまいそうな感情を、ナルを抱き竦めることで抑え込む。胸の中にすっぽり収まって、子犬と戯れているみたいだった。傷んだ毛先が首や顎をくすぐる。なんだがわたしがナルを慰めているみたいな体勢で、心臓の音を聞かれているのかと思うと少し恥ずかしくなった。大丈夫かな、と思う。大丈夫かも知れない。温かいナルの身体がわたしを前向きにする。パサついた犬みたいな髪がわたしを慰める。わたしを無垢に見上げる目が、わたしにはこの人しかいないのだと語りかけてくる。半開きの唇を塞いだ。他の人とは乞われてもしたくなかった口付けがナルとは引き寄せられるみたいに何度も重ねた。吐息交じりに小さな悲鳴に似た声を聞くのが心地良かった。耳を塞いで頬を両側から押さえる。潤んだ目が閉じ、無防備な口腔に舌を挿し込む。ナルはキスが好きみたいだった。わたしの舌先を甘く噛んでねだる。腰が揺らぎ、わたしの下の膨らみにその昂りを押し付けた。焦らして炙られるような行為はあまり好きじゃなかったけど、ナルが相手ならいいかな、とも思った。いつもなら、一番感じるところに一番感じるだけ、やるだけやって終わらせるといったものだったけど、やっぱりナルだから、焦らして時間をかけてゆっくり、静かに進めていくのも悪くないと思えた。 「どうしたい?」 「…したい…いい?」  上目遣いでナルは訊ねた。かわいいと思う。計算でやれる(たま)じゃないけど、計算でも、かわいい。ナルだから?番いだから?細かいことは今気にすることじゃないみたいだ。 「いいよ」  嗅ぎ慣れたナルのシャンプーの香りに胸が熱くなる。思い切り甘やかして、またその口から好きだと言わせたい。いつでも手離すつもりでいるくせに。ナルの胸から腹を辿って、汗ばんでいるそこに顔を埋める。口淫はしてもらってばかりで、やったことはない。ナルにあげられる初めては交際経験とキスと口淫しかない。ナルはわたしに交際経験も恋もキスも口淫も後ろの最初もくれたのに。 「ミ、ヨ、ちゃ…何を…!ぁっあ、やぁぁ、ぁっ」  ナルは口元を慌てて押さえた。恥ずかしいのかな。後ろを突かれている時よりはっきりした声で、中で感じるのとは違う感覚みたいだった。相手がわたしでさえなかったら、その快感を当たり前の習慣として享受できたかも知れないのにな。哀れみとも後ろめたさともいえない思いを舌でぶつける。一番上手かった子の真似をしてみても真似すら上手く出来ているか分からなかった。 「な、んで…今日、そん、な…っぁ、うぅ、」  先端を吸う。舌の裏側で均すように舐めると質量が増した。動物的にも性感帯としても弱みを攻められているナルはやっぱり情けなくて可愛かった。胸が絞られるような感覚はナルをさらに意識した。喉の奥まで咥えてみる。ナルは腰を推し進めようとした。 「ミヨちゃ…ミヨちゃ、怖い、手がい、い…こわい…」  泣きそうに言われてしまうとわたしはナルのそこから口を離す。顔を上げると抱き着かれる。 「ミヨちゃんじゃないみたいだった…」  ナルの味がまだ残っている口元を拭った直後にナルから口付けられる。触れるだけの拙いそれは口付けというよりは偶々事故のように接してしまったというような程度のものだったがわたしはびっくりして頭が冷えてしまった。 「ごめん」  華奢なくせ筋肉のついた上体を抱いて柔らかな唇を啄ばみながらゆっくり寝かせる。しがみつかれるのが少し心地良かった。気が緩んでいた。 「好きだよ、ナル」  びくりと震えて、彼が果て、わたしはうっかり笑ってしまった。 -こひぞつもりて-  ソファーでするのが好きだった。多分あの元旦那と選んだものなんじゃないかと俺は思っていて。悪趣味かも知れない。寝取るとか既婚者とかそういうの、特に好きとか嫌いとかなかったはずなんだがな。ほぼ家には帰らず、両親は完全に放蕩息子を見る目で、両親公認の弟が羨ましくもある。だが弟は同級生で、それなりに両親にも信用のある女:(やつ)だが、俺はどうだ。弟の番いの父親だ。いくら寛容で温和で呑気な2人でも発狂ものだろう。だが諦められるかというと、諦められそうではあるが手放したくないのも確かだ。  ソファーで果てて眠りそうな重之さんの後始末をしていると弟が降りてきた。弟はリビングを覗いたがあの女の目はただ玄関を見ていた。弟が一言礼を言って出て行く。送るの送らないのと問答が続く。あの女の声がいつもより穏やかで寒気がした。随分と劣った個体を選んで、どうするつもりなのだろう。あの女は本能を放棄してやしないか。そういうなら多分、俺もだ。重之さんは眠そうに目蓋を動かした。玄関の開く鈴の音を聞いて、勢いよく上体を起こした。 「未世ちゃん、どこに行くんだ?こんな時間に」  掠れて上擦った声が俺を遮って玄関へ叫ぶ。 「お弁当買いに行く。今日は晩御飯、要らないや」 「だめだ。待ちなさい、未世ちゃん」  つまらないな。重之さんにもう俺は映らなくて、玄関に行きかねない身体を掴んでソファーに押し留める。シャツは下2つまで開いているし、ベルトはソファーの背凭れに引っ掛けたままで、俺以外に晒せる状態ではなかった。 「(はる)くん、ちょ…っと、」 「大丈夫です。子供じゃないんですから…俺の弟もいますし」  重之さんは抵抗する。重之さんの中にはひとりしか居られないみたいだった。俺か、娘か。少し前までは俺で、今はあの女。難儀だっただろうな。前の旦那との不和が滲む。 「子供だよ…何歳(いくつ)になったって未世はボクの子供だ」  この人も可哀想な人だ。理性だの良心だの倫理観だのはあるくせに、産むための本能に逆らえないみたいだった。狂気ともいえる切り替えをこの人は分かってはいないみたいだった。御せなかった元の旦那の力量不足だ。一種の(おぞ)ましさ、穢らわしさまであるその部分にも惹かれるものがある。 「放して、(はる)くん…」 「そう簡単に放しませんよ。父親である前に俺の恋人なんですから」 「未世ちゃんに何かあったら…」 「少なくとも重之さんや俺の弟よりも、強いですよ。俺と同類(おなじ)なんですから…前の旦那さんに似て」  俺は寡夫(やもめ)属性とか寝取りとか、特に好きというわけではない。だが元旦那を出すことに悦びがある。その時に重之さんが傷付いた表情(かお)をしたり、強張ったりするのが楽しくて仕方ない。興奮した。激しく。 「あの人の、話は…」 「しますよ。一度は貴方を俺同様に愛した仲間(ひと)なんですから」  抵抗する腕を掴んだ。重之さんは顔を顰める。力んだ腕を、それを上回る力で押さえた。痣が出来てしまうかもしれない。重之さんの眉間に濃い皺が刻まれる。 「身代()わりにしてくださってもいいんですよ」 「そんなこと、するわけない」 「…そうですか?誰でもいいんじゃないんですか。たまたまそのお方と俺が…支配階級(アルファ)雄だから…貴方は恋人に選んだ。違いますか?…違いますかと訊いたって貴方たちにはそんな自覚はありませんもんね」  重之さんは違う、違うと繰り返した。否定しても、残念ながらそれが正解なのだと思う。そのことに重之さんや弟の知能では辿り着けないかも知れないが。でも気付いてはいるはずだ。その嘆きからすれば。 「俺が貴方に孕ませる能があるのなら、俺にとって貴方は素敵なパートナーなのに、貴方にとって俺はただの種馬でしかない。いいんです、それで」 「や、めて…!」  もう片方の腕が俺を拒む。 「分かりました、やめましょう。俺は貴方に恋い焦がれるのをやめられはしないでしょうが抑圧できます。貴方もやめられますね?不特定多数の人と関係を持つことを。娘のために。みんなに頼られて、容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能。だのに父親がこんな淫蕩だなんて知れたら…どうなります?」  どうにもならないだろうな。淫蕩な輩なんぞ腐るほどいて、あの少数派民族(おんな)はいちいち乞われるまま応じているのだから。結局は有能な奴等ほど消費されている。哀れな女だ。支配階級雌に生まれたばかりに。 「どうして俺の弟みたいな抜作(まぬけ)を選んだのか…今なら分かりますよ。貴方への恨みですね、完全に」  重之さんの瞳が濡れている。 「もう、しない…君とも、誰とも…」 「素敵です。そうしたら貴方と身体の関係からではなく新たな一歩目から付き合ってはくださいませんか」  重之さんは何か俺を怖がっているみたいだった。俺のどこに怖がる要素がある? 「(はる)くん…ボクは君に、何か怒らせるようなことをしたかな…」  俺に掴まれた腕を引こうとしたが、許さない。 「いいえ、何ひとつ。あったとしたら過去のことで、俺の言えたことでもありません」 「放してくれ…痛い…」  痛めつけたいわけではない。あっさりと俺は赤くなった腕を放す。 「俺は重之さんが好きです。もっと気持ちで繋がりたいと思うのは、(こいびと)としてワガママですか」  重之さんを解放し、乱暴したことを謝った。 「もう…しない…本当に…本当にもう、君だけにする。同じ過ちは繰り返したくない…いい父親になる…それで、君に恥じない恋人に…」 「信じますよ。好いた人のいうことですから」  どこまで続くのだろう。重之さんの意志だの理性だの決意だのを凌駕して、おそらくその欲求は重之さんを動物にするだろう。俺はその時、この人を責めずにいられるだろうか。詰らずにいられるだろうか。そしてそのことに、悦びを感じたりしないだろうか。元の旦那の姿を思い出す。端麗な印象があったが意外にもタフなのかも知れない。 -ふりさけみれば-  未世の恋人が、死んだ。あくまで父親の知り合いを装っていたはずが、娘の悲しみを思うと僕は一度しか目にしたことのない少年を思い出して、酒に溺れた。娘は悄然として、淡々と僕に事のあらましを話した。痛々しさに、彼のことやその家族のことを思うより先に彼女のことを想い、寄り添えない無力感や、人の力ではどうしようもない現実に苛まれる。娘は淡々とこれからの話をする。これからも恋人のことは忘れず、操を立てるという。娘の気丈な声に僕は情けなくなった。同時に重之のカレシのことを思い出す。未世の恋人の双子ではなかったか。僕はそのことに気付いた途端、娘のことなど忘れていた。ただ重之に会う口実が出来たと思ってしまった。娘は声で分かるほど憔悴しきっているというのに。ただ一目見に行きたい。娘を。重之は傍にいてくれるのか。重之の中に君の居場所はあるのかと。だって僕はつらかったから。旦那と娘を捨てた日はもう明日は来ないとまで思ったから。自分で選んだくせに。けれどあのまま重之と暮らすことも出来なかった。重之の不貞を許せない僕が許せなかった。隠し通さない重之のことも許せなかった。1人は好きだったけれど、まるで世界にたった独りという感じがした。好きな人を失うということは、多分もっと。もう声も聞けない。顔も見られない。夢にみて、朝日に絶望する。会社に連絡して休んでしまう。僕は別にどこも悪くない。真面目な勤務態度が罪悪感を軽くした。日頃の行いがいくらよくたって、それが当然になってしまったら、きっと。 もっともっと楽しんでおくんだった。ずっと続くと思っていたから、疑いもせずに。だから僕は未世を連れて行った会社のバーベキューだとか、真夏に行った海浜公園だとか、季節外れのフラワーパークだとかの思い出も断片的でしかない。もっと日常的な、ありふれた出来事にも。少しずつ更新して、少しずつ思い出すものだと思っていたから。連絡も忘れて娘に会いに行く。あの子だって学校に行ってしまったかも知れないのに。そんなことも忘れて。娘にかける言葉ばかりを考えて。  玄関を開けた未世は特に変わった様子がなかった。ただ近所は平日の昼前の閑散とした感じがあって、未世は学校を休んだらしかった。警戒もせず家に通す。嬉しいことだけれど、もう少し警戒心を持って欲しい。恋人を失ったなんて嘘みたいで、拍子抜けしてしまう。目に見えた変化はないけれど、少し肌艶が悪い。 「なんとなくですが…来てくれるかも知れないと思っていました」  冷めた目はどっちに似たんだろう。僕なのかな。それとも僕が、そうさせてしまった? 「関係ないのにごめんなさい。あの、会社は…」 「大丈夫だよ。有給取ったから」  急だったから病欠の扱いになっているはずだけれど。 「他に話す人もいなくて」  僕を見ていた黒い目がどこかに外れた。 「気にしないで。親友の娘だもの。僕でよかったら」  娘は話したいとは言っていなかった。僕が勝手に押しかけた。 「父は遺族の方と一緒にいます。わたしが一緒に行くべきなんですけど、まだ…」  娘の口調は淡々としていた。この現実を受け入れられてないんだ。少し緩んだ口元がニヒルに笑う。この子の祖母が、僕の母がよくやる笑み。僕側の遺伝が強いみたいだ。嬉しくもある。ただ重之と結ばれた証みたいなのが欲しくて、この子の中に重之を探すけれど、そのたび見出してしまうのは僕のエゴで。 「ごめんなさい。1人にはなりたくないんですけど、ただ話せそうにも…」 「うん、僕のことは気にしないで。ここにいるから」  娘はごめんなさいとまた謝って、声を震わせた。昼を告げるポーという音が小さな通りを2つ隔てた古風な商店街から聞こえてきた。懐かしい。この音を聞きながら、まだ小さな未世とテレビを観たり、小さな手がおもちゃで遊ぶのを眺めながら洗濯物を畳んでいたな。 「ご飯はどうする?作ろうか。昔よく台所は借りたから、勝手は分かってるのだけれど…いじらないほうがいいかな」 「お腹、空きました…卵とご飯ならあったと思います…」 「分かった。ぱぱっと簡単に何か作るよ」  台所に移動すると、啜り泣く声が聞こえて、僕は気付かないふりをして冷蔵庫を開けた。配置も家電も変わらない。トースターが変わったくらいだ。それから知らない箸。僕だけまだ過去に囚われて、足踏みをしている。重之に、娘に囚われて、巻き込むつもりなんだ。野菜室の半分になった長ネギと魚肉ソーセージを出す。オールステンレスの包丁も変わらない。重之から初めて不貞を告げられた時、みんなで死のうかと思った。直後はまだ持ち堪えられたけれど、衝動はまったく予測不可能な時にやってきて、2人を殺して僕も死のうかと思った。むしろ未世と2人だけで死んで、当て付けてやろうとすら思った。それでも僕は未世を殺すなんてことは考えるだけでも膝が震えたし、何よりきっと重之は僕らが居なくなっても変わらず、目に留まった者を誘うのだろうと思うと、そんなことのために未世を巻き込むなんて出来なかった。重之と死ぬことも考えたけれど未世を遺すことも出来ず、すべて妄想で終わった。未遂ですらなかった。 「何か…手伝えることはありますか」  タッパーに入ったご飯を電子レンジに入れている時に少し落ち着きを取り戻した未世が背後から声を掛けた。今は休んでいてほしいけれど、終わらせたくなかった。 「具材、炒めておいてくれる?」  未世は頷いて僕が手を離したフライパンに向かう。 「料理、よくするんですか…」 「あまりしないかな。一人暮らしだし、買ったほうが安いから」  未世は少しの間僕を見ていたけれど、目が合うと逸らしてしまった。 「ナルのこと、少しお話してもいいですか」 「うん。遠慮しなくていいから」  未世はぼうっと長ネギや魚肉ソーセージを眺めながら雑に菜箸を動かしていた。電子レンジが鳴って場所を変わる。未世は話すといったけれど無言のままレトルト食品とかインスタント食品とか調味料の備蓄をしてある棚を探った。 「小学生の時に知り合ったんです。そのまま、ずっと一緒でした。ずっと…明るい子でした。人懐こくて。勉強はあまりできたほうじゃなかったんですけど、素直で、活発で」  炒飯が出来上がり、未世はインスタントのワカメスープを作ってくれた。2人で暮らしたいという思いが強くなって、口を開けば打ち明けてしまいそうになる。言うなら今だ。しかし違う。恋人を亡くしたばかりの娘に何故そんな選択を迫れるのだろう。 「彼の好意には気付いていましたが…応える気はずっとありませんでした。それでも彼が居れば、わたしの浮ついてるに等しい悪癖は治まるものかと思って…父は反対しました」  若いうちから家庭を持って、楽しかったけれど同じくらい苦労もあった。止めるに決まっている。引き取ったのが僕でも。 「父は反対したけど、ナルはわたしを家族に紹介してくれました。あとは時期がくれば、籍も入れようって話になっていたんです。それでもナルの気持ちが変わるならわたしは手離すつもりでいました。利用しているも同然でしたから」  ご飯を食べながら未世は恋人とのことをよく話した。明確なことを言いはしないけれど好きだったのだろう。血の繋がりのせいかな、長く一緒には暮らせなかったけれど、声音や表情でなんとなく分かる。 「何も気付いていないふりをして劣等感にまみれた人でした。それでもわたしを選んでくれた。わたしといることでその穴を埋められるのかも…結局のところ分かりません。でもあの身体で受け入れるというのは、多分容易なことでもないと思います」  綺麗に炒飯を食べ、品の良い子になった。僕がいなくてもきちんと育った。僕がいなくても。親としてならこんなに喜ばしいことはない。けれど僕一個人としては寂しいことだった。僕はいなくてもよかった。父親の代理として終わってしまう。互いに確信はあれど、暗黙の了解で守らねばならない一線がある。もしチャンスがあるのなら、今ではない。そして重之に知られてはならない。 「不安からは解放された?」  僕は訊ねた。意外にも未世は首を横に振った。 「ただ、あまりにも小さいことだったと気付きました。今となっては」  未世は可愛らしい顔を一度大きく歪めたが、下を向いて持ち直す。重之はあまり気強いタイプではないから未世は自ずと意地っ張りに育ったのかな。僕の傍で育てていたら我慢せず声を上げて、みっともなさなんて考えもせずに泣いたって。育ちかな、性分かな。 「食器洗うね。食材使っちゃったし、ご飯もいただいちゃったから。それくらいさせてね」  空いた皿を持って水場へ持っていく。育児は僕、家事は重之だった。じゃぶじゃぶと水の音に気を取られていた。また後ろに未世が窺うように立っている。僕は気付かないふりをした。幼い頃に自分を捨てた父を、どんな思いで見ているのだろう。恨んでいるかな。憎んでいるかな。はたまた、もっと別のものを抱いてくれているのかな。  玄関のドアが開いた。未世は肩を跳ねさせる。インターフォンは鳴らなかった。足音が近付き、昔の家族が揃ってしまう。 「みかさ…どうして…」  重之は台所に立つ僕に驚く。そうだろうな。不法侵入にもなりかねない。 「わたしが呼んだの」  未世は重之の腕に吊り下がる。そのことにも重之はびっくりしていた。 「パパがいない時に…ダメじゃないか…」 「お父さんの知り合いなんでしょ?この前も来ていたし…」 「急に僕が訪問して、通してくれたのが未世ちゃんってだけですよ。お忙しいのにすみません。今日のところは帰ります」  未世は僕を見て、僕は笑いかける。重之は未世を僕から隠す。 「…また日を改めて連絡するよ。今は忙しいんだ」  未世は僕に何か言いかけていたけれど僕は気付かないふりをして柿本家を出る。しかし少し遅れてから重之が玄関から飛び出してきた。 「みかさ!」 「安心して、父とは名乗ってない」  両腕を上げて戯けた。重之は不機嫌そうだった。 「この前会っただろう…伊集院くん…彼の弟が、亡くなったんだよ。未世の目の前で。一昨日のことで不安定だろうから…あの子が何か言ったなら本気に受け取らないで」  未世は何も、僕が期待して本気で受け取るようなことは言っていない。言ってくれたら、少しは僕だって。 「うん。何しろ僕は、あの子の父親の知り合いってことになっているから」  重之はまだ納得していなそうだった。僕をじと…っとした目で見ている。 「恋人の弟さんが亡くなったなら、お前も大変だね、重之」 「別にボクは…大変なのは未世ちゃんだよ」  重之の濡れた目が僕を見た。恋人の弟、娘の恋人が亡くなって悲しみとは違うその潤んだ瞳は、僕も当事者としてよく知っているものだった。難儀な人だと思う。でもこの人には僕じゃない恋人がいる。娘の恋人の兄。感情と状況の板挟みになってつらいのは重之で。それはきっと重之の人格とは違うはずなのにね。 「少しだけ、未世を1人にさせてあげようか?」  僕は何の気なしに、1人になりたくないと言ったあの子を1人にさせようだなんて唆す。結局は僕も重之を責める資格なんてなかった。親になりきれず、手前の恋を追っている。重之の濡れた唇がふわりと動いた。どういう返事を求めていたのか、僕自身もう分からないでいた。ただ目の前にいる、本当はまだ冷めてなんていない元番いをあの日出来なかった道連れにしたかったのかも知れない。最低な親同士、堕ちていきたかった。

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