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第1話 気まぐれな神様
僕が三味線と出会ったのは小学四年生。自分の恋愛対象が同性だと気づいたのと、ほぼ同時期だった。
無論、その二つに因果関係はない。多くのギターキッズが超絶技巧のギタリストに憧れるように僕は三味線奏者に憧れ、多くの男の子が女の子を好きになるように僕は男の子を好きになった。それだけのことだ。
「周 はいいな」と、姉弟子 の蓉子 が言った。姉弟子と言っても入門が僕より早かったからで、年齢は僕と同じ。この発言はお互い高校に入った頃の話だ。稽古が終わるタイミングが同じ時には駅までの道のりを一緒に帰ることもあって、その日もそんな帰り道だった。
「何が」
「今日、志野 先生にね、マニキュアを注意されちゃった。爪も長いから切れって。それはいいの、叱られるの分かっててやったことだから。でもそこからお小言が始まって、最後はついに恋愛禁止だって」
蓉子の爪先は不格好に切られていた。きっと稽古場のお小言の際、その場で切るように言われたのだろう。でも、それは仕方のないことだ。弦は指の腹で押さえるもので、爪では正確に押さえられない。黒檀の糸巻と絹の弦は弾いている間にもすぐに緩み、容易に調子が狂う。ギターのようにフレットもなく、耳と指先の感覚を研ぎ澄まして、的確な位置と力加減を探りながら弾く三味線において、長い爪なんて論外だ。当然蓉子だってそんな基礎的なことは分かっているはずだった。
僕は蓉子の反抗的な態度に苛つき「なんで?」と言った。何故そんなことをしたのかと問いかけたんじゃない。理由がどうであれ、やるべきではない行為を責めたのだ。だが、蓉子はそれを恋愛禁止の理由を尋ねられたものと解釈したらしい。
「お稽古に集中しないからでしょ」
「それと爪とは関係なくない?」
「女がそういうことにうつつを抜かすのは恋をするからで、恋をした女は男優先になって、芸に身が入らなくなるんだって。だから、お師匠さんも志野先生も、女の先生はみんな結婚してないって」
「大 先生は結婚して、孫までいる」大先生とは、一門のトップの先生のことだ。
「男の先生だからよ」
「男はいいんだ?」
「そう。だから、周が羨ましい」
「蓉子はそれだと困るわけ?」
「は?」
「好きな奴、いるの?」
「周がそれ聞く?」
「……」
蓉子に告白されたのは中一の時のことだから、もうとっくに時効だと思っていた。同性愛者だとは言わず、今は稽古に集中したいとだけ伝えて断った。
「あはは、そんな顔するんだ?」蓉子は僕の顔を覗き込んで笑った。「バカね、周のことはもうそんな風に思ってるわけないでしょ。今好きなのはね、山風の松木くん」
「アイドルだろ、それ」
「悪い? そうそうそう、あのね、山風のコンサート当たったんだよ、すごくない?」
「知らん、そんなの」
「ファンクラブ入ってる子だって当たらない子いっぱいいたんだから。これは運命だよね、うん」
「勝手に言ってろ」
「早く帰ってうちわ作らなきゃ」
話の決着もつかないままに、嬉々としてそんなことを語る蓉子を見て、僕は「なるほど、アイドル相手でこれなら、本当の恋愛なんかしたら稽古に身が入らないだろう」と思った。自分だって「本当の恋愛」の意味なんか知らなかったくせに。
――恋をすると、稽古に打ち込めない
――音楽の神様は嫉妬深くて気まぐれだから、恋愛に浮かれているような人間には才も運も与えない
その手の言葉は、確かに何度も聞いた。その反面、同じ芸の道の先人の男たちについては、「芸の肥やし」と言って女遊びを肯定的にとらえている意見も多く聞いた。中には奥さん公認で愛人を持つ大御所もいた。
男にしろ女にしろ、上達の妨げになるほどの恋愛などしなければいいだけのことだ。
まあ、僕には関係ない話だけれど。
――だって僕の好きになる人は、僕を好きにはならないんだから。
たとえば蓉子に告白された頃、僕が好きだったのは彼女の兄だった。その人は今も同門にいて、音大の邦楽科に通っている。蓉子伝いに彼に彼女がいることを聞いて、僕の恋は始まる前に打ち砕かれたわけだけれど、彼の在籍する音大を目指してしまうあたり、なんとも未練がましい自分が嫌になる。
そんな僕は、恋心はもちろん自分の感情というもの全般を表に出すことが苦手だ。唯一の例外は猫で、行き場のない想いはもっぱら猫たちへと注いだ。
男が好きだと言うことはできなくても、猫が好きとは堂々と言える。誰に咎められることもない。
「でも、三味線って猫の皮で作るんだろ?」
目の前の画家が、そんなデリカシーの欠片もないことを言った。僕が地域猫の保護ボランティアをしていると聞いての返事が、これだ。画家ってもっと、繊細で、感受性豊かなものではないのだろうか。
「僕のは犬皮です。でも、牛の皮だって豚の皮だって普通に皮製品として使われるでしょ? それと同じことだと思うんだけど」
「最近は動物愛護がどうのって、合皮が増えたらしいじゃないか。三味線は合皮じゃだめなのか?」
「初心者用のは合皮も多いです。でも、どうしても鳴りが違うから」
「猫も使う、と」
「……ええ、そうですよ。もっと言うと撥は象牙です。もしかして、玄 さんは動物愛護の人なんですか?」
「全然。昔から皮革製品てのは作られてたんだ。なんでもかんでも合成品にすればいいってもんでもないだろうよ。まあ、必要のない殺生は良くないし、いくら伝統と言えど、変えられるものは変えていけばいいと思うけど」
僕は昨日初めてこのアトリエに来て、何故か今日もここにいる。目の前にいる"デリカシーのない画家"、奈良橋玄 のアトリエだ。ナラハシ・ゲンはアーティスト活動の時の名前で、本名は「玄」で「しずか」と読むのだとか。僕の「周 」という名前よりも読みにくい。
そして、何故かここにいる、などと言っているが、勝手に押しかけてきたのは僕だ。
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