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第5話 Sound of rain on the canvas

 僕は僕自身のことを玄さんより知らない。そんな気がした。  玄さんはこんなに僕のことを知ろうとしてくれているのに。  でも、僕だってそうだ、昨日は家に帰ってすぐ彼のことを調べた。借りたTシャツのサインをキーワードにしてネット検索したら瞬時にたくさんの情報が出てきた。彼は画家でありイラストレーターでありグラフィックデザイナーであり、その違いは僕にはよく分からないけれど、とにかくそういった世界ではかなり成功している類の人物で、その輝かしいキャリアは今の僕の年齢からスタートしていた。大手新聞社主催の広告デザイン賞の学生部門で大賞を獲っていたのだ。  順風満帆に成功してきた人に、こんな風にくすぶっている僕の気持ちなんか分かるはずがないと。  そう思っていたのに。  気が付いたら今日、豪雨の中、このアトリエに向かっていた。  玄さんのスケッチ画。自発的に描きたくて描いた人物は僕が初めてだと、彼はそう言った。そんなことがあるわけない、と言おうとしてやめた。10枚以上の紙にびっしりと描かれた、僕のあらゆる「形」。興味がない相手をここまで執拗に描こうとはしないだろうと思った。  ならばきっと、彼の言葉はすべて本心なのだ。僕をからかったり説教したりしたいのではなくて。  僕を描きたいと思ったのも本音なら、僕のやるべきことはなんなのかを考えろというメッセージも本音で。  見えているものを見ない人が多いというのも、だから自分がそれを描くのだ、それが自分の仕事だというのも本音で。その意志も覚悟も、きっとすべてが本音なんだろう。  そうか。  僕はこの人の、そんな剥き出しの感情に惹かれているのだ。  我慢だ忍耐だと言われ続けて、僕は僕の気持ちを押し隠すようになっていた。同性愛者であることも含めて。自分の本心を言葉に出したら、態度に出したらいけないんだって思っていた。だから、蓉子のマニキュアひとつ許せなかった。  本当は、そんなの、言い訳だ。  僕の本音。僕の感情。それを伝えようとしないのは、教えを守っているからじゃない。怖かったからだ。本当のことをさらけ出して、それを否定されるのが。  これなんかよく描けてる。さっき自画自賛するように玄さんが指し示した絵は、僕の横顔だった。しかも彼は「モデルへの愛情がよく伝わる」だなんて言い切った。愛情。会ったばかりの、生意気な態度を取っていた僕への?  社交辞令だろうと思ったんだ。玄さんは大人だし。成功している人だから、悪くなりそうな空気をそうやって冗談半分の言葉で紛らわせてくれただけだろうって。  でもそれだって僕の予防線だ。社交辞令だと思っておけば傷つかないから。  本当は違う。  僕はそれが玄さんの本心だと思いたかった。  理由がなくてもアトリエにおいで、という言葉も。  モデルへの愛情、という言葉も。  初めて誰かを描きたいと思って描いたのが僕だって言葉も。  本当にそう思っていてくれたらいいなって。  そう思う僕の本心は。 ――この人に好かれたい。  机の上の自分の顔のスケッチを見ながら、僕は言った。「考えてみるよ、もう一度。何度も考えたつもりだけど、見えてるつもりで見えてなかったこと、あるかも」 「うん」  ふいに肩が温かくなった。そこには、玄さんの手が置かれていた。その手にそっと僕の手を重ねてみた。彼はそれを嫌がる素振りはしなかった。 「まずは、玄さんに、聞いてほしいことがあるんだけど」  僕は僕の音に、そんな感情を乗せたい。そういう演奏者になりたい。このアトリエに置いてある数々の絵。そこに描かれた疾走する馬からも、憂いを秘めた女性からも、モノトーンでデザインされたロゴマークからでさえ、あなたの奏でる音楽が聞こえてくるようで。僕も僕の音に、そんな色や形を乗せたい。あなたの絵からあなたの音が流れてくるように、僕の音を聴いてくれた人に、僕の描くイメージが伝えられたらどんなにいいかと、そう思うんだ。  そして、それを。  見えているのに見ようとしなかった僕の気持ちを、見つけてくれたあなたに。  伝えたいんだ。  僕がどんな演奏者になりたいのか。 ――僕が今どんな風にあなたを想っているのか。  シャッターが風でガタガタ鳴った。激しい雨はまだ止んでいないのだろう。締め切ったシャッターのほかには明かりとり程度の窓しかないガレージにいると、雨音は聞こえない。けれど、見えないだけで、聞こえないだけで、雨は降っている。 「……今は雨音が騒がしいから、()んだらね」  騒がしいのは僕の胸の(うち)。もう少しだけ時間が欲しい。今から僕は一世一代の告白をするんだから。ずっとずっと感情を押し隠してきた僕が、昨日会ったばかりの、倍近くも年上の人に向かって。  玄さんは僕の気持ちなどお見通しという風に静かに微笑みを浮かべて、視線を逸らした。その先にはまだ何も描かれていない、白いキャンバス。 (完)

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