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第4話 Invisible
「あの子ね、ここを根城にしてるのよ」と背中に声をかけられて、僕は驚いて振り向いた。「今の黒猫ちゃん。人懐っこいのよ」声の主は母親世代の女性で、斜め掛けにしているバッグから何やら取り出した。「私はねえ、こういう活動してるの。あの子は野良じゃなくて地域猫。可愛いからと言って、勝手に餌をあげたりしないでね。ここにもいるのよ、勝手に餌やりしちゃうお爺ちゃん。困るのよ、ここのベンチで缶チューハイ飲みながら、おつまみで裂きイカとか食べるらしくてね、それを餌のつもりでちぎって地面にそのまま置いたりするから、他の猫や動物も来ちゃって」
女性から渡されたのはチラシで、捨て猫や、捨てられて野良化してしまった猫を保護するボランティア団体のものだった。その団体がどういう活動をしているかとか、野良猫と地域猫の違いなんてことが書いてある。
「ああ、腰が痛い。運動になるからいいと思ったけど、この年で三つも公園回るとしんどいわあ」女性は腰を自分で叩く仕草をした。「興味があったらねえ、ここに電話頂戴。お手伝いしてくれる人を探してるの。あとねえ、里親ボランティアというのもやっていて」女性はぺらぺらとよくしゃべった。
僕はチラシの隅にあるコードをスマホで読み取り、彼女の所属しているボランティア団体のサイトを見る。怪しいものではなさそうだった。
「あらあ、そんなことができるのねえ。インターネットでしょう?」
インターネットだけれど、おそらく彼女の言いたいことはそこじゃない。どう答えればいいのか分からなくて、黙ったままでいる。と言うか、僕は最初から一言も発していない。
「気が向いたら参加してね。さてさて、クロちゃんは戻ってくるかなあ。後でもういっぺん来なきゃだめかしらねえ」女性は独り言を言いながら去って行く。
僕はその場で、開いたサイトの申し込みフォームからボランティア登録をした。
何かをしていたかった。
何者かになりたかった。
それが「地域猫の保護ボランティア」でもいいから、僕は自分に貼るラベルが欲しかった。
目の前の画家にこの話をしたら嘲笑されるに違いない。他人が貼ってくれるラベルが欲しいなんてアーティストの言うことじゃない。ついさっきだって、彼が若い頃に賞を獲っていることを称賛して、自分もそうでありたかったと弱音を吐いたら、返ってきた言葉はこうだ。
「ポスターにソリストとしてドーンと名前が載って、その名前だけでチケットがバンバン売れるような、そういう演奏家になるためにはそういう要素は武器になるかもしれないよ。でも、君はそういう人になりたいの?」
僕の今までの努力も、それが実らないことも、この先も実りそうにない不安も知らないくせに、何を勝手なことを。そう思ったら腹が立って、つい「そんなこと分かってる」と怒鳴ってしまった。日頃そんな風に感情を爆発させたことのない僕なのに、どうしてだか玄さんの前ではこうなってしまう。
そんな僕に怒鳴り返しもせずに言ってきたのが、「くるぶし」だ。
――見えているのに、見ないもの。
わざわざ考えたこともないけれど、くるぶしなら、同世代の男性の中では見る機会が多いほうだと思う。舞台に上がる時には着物だから、足袋のコハゼをはめる時など、くるぶしは嫌でも目に入る。
目に入ってはいても、それがどんな見た目をしているかなんて知らない。玄さんの言う通りだ。
――それは、自分で鳴らしている音が誰に何を伝えようとしているのか分からないのと同じなんじゃないのか?
そんな問いかけを喉元に突き付けられた気がした。
僕は玄さんを見る。さぞかし冷ややかな目で僕を軽蔑していることだろう。そんな予想を裏切って、玄さんはニコニコしながら僕を見ていた。
ただ僕を混乱させて楽しんでいるんだろうか。だとしたらなんて意地が悪い。僕はなけなしの意地で言ってやった。できる限りの上から目線を心がけて。「アーティストっぽいこと、言ってる」
それでも玄さんは「またそんな言い方して」と苦笑いするだけだ。
僕は玄さんが描いたスケッチ画に目を落とす。僕の顔が百面相している。こんな表情をしてるなんて、自分では知らなかった。それから僕の腕。背中。昨日のあの短時間で、彼はどれほど僕を「見て」いたのかが、よく分かる。
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