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第3話 時分の花

 気の利いた返しなどできるはずもなかった。  それはずっと、僕が悩んできたことだったから。そして、まだ答えが出せていないことだったから。  蓉子みたいに。蓉子の兄さんみたいに。志野先生みたいに。大先生みたいに。迷うことなく三味線が、長唄という世界が、自分の生きる道だと言えたらいいと、ずっと思っていた。  でも僕は、彼らのように言い切ることができなかった。バスケ部に入りたかったし、夏休みには日本縦断ひとり旅にでも挑戦してみたかったし、ライブハウスで思い切り盛り上がってみたかったのだ。――それらは全部、()めるように言われてしまった。バスケは指を怪我するかもしれないから。旅に出られそうな長期休みは先生の演奏旅行のお供をしなくちゃならないから。大音量は耳を傷めてしまうから。蓉子から恋愛を止められたと聞かされたって、だから、そこまで驚きもしなかった。  とにかく、「夢中」になっていいのは、三味線だけ。そう叩き込まれて、僕はいつしかいろんなことを諦めるようになった。諦めれば諦めるほど、芸の神様は僕に"才"を与えてくれるのだと思い込むようになった。  でも、そうなんだろうか。  才能って、何かと引き換えにすれば手に入るものなのだろうか。  青春を謳歌する同級生がしなかった努力をすれば、彼らよりもっと「優れた何者か」になれるのだろうか。  高校二年の秋。同級生の一人が中退していった。  原宿を歩いていたらスカウトされて、ちょっとした雑誌モデルの仕事をいくつかやって、そのうち漫画原作のミュージカル舞台の端役を務めるようになり、遂にアイドルユニットの一人としてデビューしないかと声を掛けられた、のだそうだ。その頃の彼はもう、通学中の姿を勝手に写真を撮られ、更にそれをSNSで拡散され、制服から高校名を特定され、下校時刻になると校門付近にファンの女の子たちが集まってくるようになっていた。僕らの高校はそういったタレントの卵やスポーツ選手も多く在籍していて、だから僕も三味線修業と両立しやすいこの高校を選んだぐらいなのだけれど、それでも彼みたいに校外活動の比重が大きくなって中退していく生徒が年に数人はいた。  理由が理由だから、「高校中退」という、一般的にはマイナスイメージの行動も僕らにとっては羨望の的だった。彼らは「選ばれた」のだ。  でも。  少なくともその時のその同級生は、僕の努力に比べれば、何の努力も我慢もしていないように見えた。彼はただ原宿を歩いていただけだ。付け焼刃のボイストレーニングをしただけで舞台に立った。「華がある」なんて、理由になっていない理由でアイドルデビューも決まった。努力じゃない。持って生まれたルックスだけで、彼は「選ばれた」のだ。  けれど、芸能界だってそんなに甘いもんじゃないだろう。あんな見た目だけの奴はすぐに飽きられる。――そう毒づきながら、僕には分かっていた。それでも彼は「選ばれる」にふさわしかったってことを。何故って、僕もまた、彼を「選んだ」一人だったから。  彼のことが好きだった。蓉子の兄さんの次に好きになった人。そこにいるだけで輝いて見えた。そう、「華がある」とはこういうことかと思った。歩いているだけで目を惹いた。原宿の人波でも満員の東京ドームでも年末のアメ横でも、どこにいたって僕は彼を見つけられただろう。彼と同じようなタレントの卵の可愛い女の子たちがたくさんいる環境の中で、僕が彼に「選ばれる」可能性は万に一つもなかったけれど、あの頃の僕が生きている意味の一つには、確かに彼の存在があった。努力も我慢も関係なく、ただそこにいるだけで他人を幸せにできる人間が、世の中にはいるんだ。それを才能と言わずして何を才能と言うのか。  僕が何年、何十年修業しても、そんな風に誰かを幸せにできる気がしない。  そう思った瞬間、僕の音はボロボロになった。  何も弾けなかった。いや、当然、耳が覚えているから調弦はできる。手が覚えているから、音は出る。けれど、僕の出したい音じゃなかったし、そもそも僕の出したい音がなんなのかも分からなくなった。  それでも三味線を辞めなかったのは、覚悟なんかじゃない。単なる惰性。それしかやってこなかったから、他の「やりたいこと」が分からなかっただけだ。もう僕はバスケ選手になりたいとも、野宿しながら日本縦断したいとも、ライブで騒ぎたいとも思わなくなっていた。今更それらに手を出したところで、三味線以外の世界については周回遅れの僕なんか、恥をかくばかりに違いないと思った。  そんな迷いを抱えたまま現役で受験した音大は、当然のように落ちた。迷いつつもそのための準備は頑張ったつもりだったけれど、そのすべてが水泡に帰した。かと言って、抜け殻のようにもならなかった。だってとっくに抜け殻だったんだから。  五月のある日。高校生ではなくなり、そして大学生にも三味線奏者にもなれていない宙ぶらりんの僕は、あてもなくただ歩いた。気づいたら家からだいぶ離れたところにいた。足元を何かがすり抜けた。猫だった。猫は僕の数歩前で足を止め、「先回りしてやったわ」とでも言いたげに振り返った。目が合った、と思うと同時に猫は再び歩き出した。それに着いていくと公園があった。猫は人の通れない植栽の隙間へと消えていき、追跡はそこでゲームオーバーとなった。

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