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第78話

「あ、タバコ買って来て頂戴。メビウスのメンソールなら何でも良いわ。あ、8ミリね。  ついでにライターも」  通りすがりのスタッフにイライラを隠せない感じで詩織莉さんが命じている。 「ライターなら各自のホストが持っていますよ。リョウさんも例外ではなく」  国ぐるみとか区の条例だかでもどんどんとタバコを吸える場所が狭まっているらしいが、お客さんの喫煙率は高いので、タバコを手に取った瞬間にライターの火を点けるというのはもはや習い性になってしまっている。 「良いのよ。お客の言うことが聞けないのかしら、この店は。気が利かないったらありゃしない」  ホールスタッフの言葉を遮っているばかりか、普段の詩織莉さんなら絶対に言わないような言葉を並べているのも、ユキへの心配のあまりのことだろう。  「言う通りにしろ」と視線で合図をすると、そのスタッフは店の華やいだ雰囲気を――別のブースではシャンパンタワーが入って盛り上がっていた――壊さない程度の早足で店内を突っ切っていく。玄関から出れば全力疾走してくれるだろう、多分。 「え?洋幸君がどうして?」  緊急事態というのは当然察した恭子さんが酔いも醒めたという感じで聞いて来た。  ユキのことは話しても良いだろうが、詩織莉さんのプライベートはマスコミに一切報道されていない。多分事務所が圧力でも掛けたのだろうが。  だからどこまで話して良いものかと一瞬迷った。 「ユキは私の腹違いの弟なのよ。  そして私の縁を切った実家が、皇国坂本組なのよね。そして、その9代目総長が私や洋幸の父親に当たるのよ、実は。  あ、でも!ここだけの話しにして下さると嬉しいわ」  震える手で――と言っても詩織莉さんはアル中ではないのも知っている。客の中にはアルコール依存症とか、バレると出入り禁止になるがヤク中も居るので、そういうのを見分けるのも仕事のウチだった。アル中はオレ達の商売では大歓迎だ、何故ならガンガンお酒を呑ませるのも仕事のウチだからだ。ただ、ヤク中の場合は店で知り合ったお客にその薬を売りかねないので厳禁だった。店にまで警察とか麻薬取締官がやってくる恐れがあるので、営業が出来なくなる惧れがある――バカラのグラスを掴んでロマネを流し込んでいる詩織莉さんを心配そうに見つめながら恭子さんは控え目な感じでグラスにピンク色の唇を当てている。 「大丈夫です。行員にも守秘義務が有りますので……。その辺りは気にしないで下さい。  で、洋幸君がユリとかいう人に連れ去られた可能性が高いと、そういうコトですか?」  恭子さんが的確に纏めてくれた。 「実は組の内部で跡目争いが起こっていて、洋幸が大本命だったの。でも……」  詩織莉さんが言いよどんだのは本番ショーのことだろう。中々「あんな」ショーのことは一般人に受け入れがたいだろうと思う。 「ユキは普通の人生を歩みたがっています。だからそういう世界に二度と関わりたくないと言っています。  だから跡目争いなど元々参戦する積もりもないですよ。  しかし、一応本妻の長男で、しかも一人っ子ですよね?」  893の総長ならば水商売の女性には物凄くモテることも知っている。もしかしたら外の女性に子供を儲けている可能性も捨て難い。 「そうよ。愛人であるウチの母がその辺りは目を光らせていたんですもの。  長男だし一人っ子だわ。  だから追い落としのターゲットにされたわけ。  あ、有難う。お釣りは良いわ。むしゃくしゃして当り散らしたので、それで美味しいモノでも食べて頂戴」  スタッフがまだ整わない息を懸命に隠してトレーの上にタバコと使い捨てライターを載せて来た。タバコの箱とライターを取った詩織莉さんは代わりに一万円札を事もなげに置いている。 「スマホが繋がらないんですか?繋がったらリョウもこんなに慌ててはいませんもんね……。ちなみにGPS機能は付いています?」  恭子さんがテキパキとした口調で言っている。 「付けて貰いました。ただ『電源が入っていないか、電波の届かないところに……』という無情なアナウンスが流れるばかりで……」  ユキを信用していないわけではなくて、身の安全が少しでも担保されるようにとユキに黙って付けて貰っていた。 「そのスマホでGPSが分かるって理解で良いんですよね?  で、当然ながら警察には届けたくないと。  あ、そっか、二億円の金額が記帳された通帳を支店長が持って来た時にリョウがあんなに緊張してたのはユキ君のお金だったからかぁ……。ま、それは別に良いんだけれども。あのお店自体は反社チェックにも引っ掛からなかったし、ウチの銀行としては『知らなかった』で通るんですもの。だからノープロブレム。そのスマホ貸して貰える?  ああ、それと!」  恭子さんは考えの有りそうな感じでスタッフを呼んでいる。慣れ切った手つきでスマホを弄りながら。 「お飲み物のオーダーですか?承ります」  空気の読めないヤツだなと内心忌々しく思っていると、詩織莉さんも長いままのタバコを灰皿に思いきり押し付けている。 「ああ、私の鞄、クロークに預けたわよね。あれを持って来て頂戴」  恭子さんの手元に有るのはどう見ても容量の少ないバックだった。まあ、バーキンなどに札束を入れて持ち歩くタイプではないので、預けても平気なのだろう。 「そうよ、注文するわ。  今、お店に来ているお客さん全員に『ルイ・ロデレール・クリスタル』を振る舞って頂戴。  私への御礼などは絶対に不要です!!  そしてクリスタルを持って来たら、このボックス席だけでなくって、二階部分にはお客さんを案内しないで欲しいのだけれど……」  言わずと知れた――そしてコクのある甘みと爽やかな酸味が特徴なので女性が好きな味だ――高級なシャンパンをこの店の客全員に振る舞うということは、二階席を貸し切ってもお釣りが出るほどだった。 「か、畏まりました!」  スタッフも上擦った声を上げて一礼して去っていく。 「あ、私のカバンはちゃんと持って来て下さいね」  恭子さんには何らかの具体案が有りそうだ。  今はそれに掛けるしかない。  画面の黒い点――ちなみに電源が入っていれば点灯する――を空しく見詰めながらそう思った。  ユキは無事でありますようにと願いながら。

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