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第1話
「君に、結婚を前提にした付き合いを申し込みます」
いかにもエグゼクティブなαが好んで利用しそうな一流ホテルの最上階レストランで、一流のコックが作った一流料理を目の前に、俺は十年来の付き合いになる直属の上司から、ありえない申し込みをされていた。
「……今日は四月一日、エイプリルフールではありませんが」
「私は、嘘は嫌いです」
「ですね」
貴方はいつだって騙す側じゃなく騙される側ですもんね。
喉元まで出かかったツッコミを辛うじてごくんと飲み込むことに成功した俺は、未練がましくご馳走が並んだテーブルに視線を落とした。
告白するなら、せめて食事の後にして欲しかった。
というのが、この時の俺の偽らざる心境であった。
(エサで釣ろうとしてるな、この人)
伊達に長年付き合っていない。
互いの弱いところなどすでに知り尽くしている。俺は食い意地がはっているタチだ。貧乏性ともいう。
そしてこの上司は、そんな俺の勿体ない精神を完全に把握していた。
しかし、俺はぎりぎりのところで上司のあざとい誘惑に耐え抜くと、
「お断りします」
きっぱりと言い切り、席を立つ。さらばシャトーブリアンよ、と詩人のように嘆きつつ,
部下の攻略失敗に固まった上司を残し、悲劇のヒロインさながらにその場から脱兎のごとく逃げ出した。
一流ホテルのレストランでプロポーズまがいの告白をかましてくれた上司との出会いは、ざっと十年前まで遡る。
俺が高校二年でヒラの風紀委員、上司――夢川 理 が高校三年、生徒会副会長を務めていた時代だ。
……あの頃は互いに若かった。と、回想する。
俺が夢川と個人的な接触を持った切っ掛けは、失恋だった。
もちろん相手は夢川ではなく別の人間だ。
初恋の相手に告白し、見事木っ端みじんに玉砕した直後のことである。甘酸っぱい青春の一ページだ。
でも、その当時はそんな甘酸っぱさなど微塵も感じる余裕などなく、世界一自分が不幸になった気で己を憐れみ、悲嘆にくれながら垂れ落ちる涙だか鼻水だかのしょっぱさを味わっていた。
そして、絶賛自己憐憫中の俺の前方不注意によって、その青春のしょっぱさの犠牲になったのが、夢川副会長その人だった。
出会い頭にぶつかり、天下の副会長様の制服には俺の涙だか鼻水だかがべっとりとなすりつけられる…という大惨事の犠牲者になってしまわれたのだ。お気の毒である。俺も彼も。まったくもって不幸な遭遇だった。
ぴしっと皺ひとつない制服に、でろーんと糸を引く涙だか鼻水が付着したことに顔面蒼白になって慌てて拭ったが、――被害を拡大しただけに終わった。涙も引っ込む悲劇的展開だった。
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