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0.prologue(1)
「――え、あれ?」
思わず呟かずにはいられない。
ざわついた教室の最後列に腰を下ろしながらも、俺の視線は教壇へと釘付けだった。
予鈴のチャイムは、校門を潜ったときには既に鳴っていた。だからできるだけ急いで教室に滑り込んだ。
「おはよ、仲矢 」
そこに隣の席から声がかかる。小学からの悪友である加治 だった。
「おはよじゃねぇよ……何、今日、……名木先生?」
それをきっかけに幾分平静を取り戻した俺は、一旦加治を見遣ってから、再び目線を前方に戻す。つられるように加治も教壇に目を向けた。
「あー、なんか今日、瀬名 が休みとかって」
「瀬名が休み?」
「ほら、あれだよ。ちょっと前に噂あったじゃん、一部の女子の間で。瀬名に子供ができたとか何とかってヤツ。どうもあれがホントだったっぽいんだよな」
加治は明るめに脱色した長めの髪をかき上げ、控えめに苦笑した。
「……瀬名に、子供……」
ほとんど呼気だけで繰り返し、改めて現状を反芻する。
毎日嫌でも繰り返される朝のショートホームルーム。教卓を前に佇む一人の教師。出席をとる際、生徒一人一人の名をあえてフルネームで呼ぶところも何もかも普段通り。
なのに、それを取り仕切っている人物だけがいつもと違う。
いつもは担任である瀬名広明 が立っているはずの場所に、今朝は副担任である名木 瑞希 先生が立っていた。しかもその理由が、瀬名に子供ができたからだと言う。
……マジかよ。
内心閉口する。
その刹那、
「仲矢遼介 」
普段と変わらない、抑揚の乏しい声が耳に届いた。
出席簿を眺めていた名木先生が顔を上げ、俺を見る。
思いがけずかちあった視線に鼓動が跳ねた。
俺は努めて平然と「はい」と答える。
先生はすぐに視線を落とした。次の生徒の名を呼ぶために。
俺はそのまま様子を窺うように、先生の顔をじっと見ていた。
俺が絶句してしまったのは、何も瀬名の噂の真相に驚いたからではなかった。
っていうか、ぶっちゃけ瀬名のプライベートなんてどうでもいい。
それより何より気になったのは、名木先生の心境の方だ。
だって名木先生は――その瀬名広明に、いまでもずっと片想いを続けているはずだから。
それを思うと、どうしてもそんな反応しかできなかった。
俺の通う高校では、基本、担任、副担任は持ち上がりだ。
とは言え、生徒にはクラス替えがあり、それなのに、俺は偶然にも一年のときからずっと瀬名と名木先生のクラスだった。
担任である瀬名は、化学教師でありながらスポーツが得意で、ほどよく引き締まった体型や高い身長のせいだけでなく、その明朗快活で誠実な人柄からしても、同僚や生徒、そしてその親たちにも人気の教師だ。
名木先生はと言うと、年を聞けば「自称ぎりぎり二十代」と適当なことを言うような、一見ものぐさで無愛想な数学教師。
身長は俺と大差ないから一七〇半ばはあるだろうが、もともと運動は好まないのか、肉付きの薄い身体は華奢とは言わないまでも、日頃痩せ気味に見られる俺よりも更に線が細かった。
そんな名木先生が、いわば自分とは正反対とも言える瀬名に惹かれてしまうのも解らなくはない。それも、互いに教師になる前からの知り合いだと聞けばなおさらだ。
だが、瀬名の方はそのことにはまったく気付いていないらしく、かと言って名木先生の方もそれをどうこう思っているようにも見えなかった。
要するに、どれだけ瀬名を一途に想い続けても、その気持ちを伝えるつもりは一切ないということ――なんだろう。
……瀬名にだけは、あんなにも無防備な笑顔を見せるくせに。
明確な理由はわからない。
だけど、少なくとも俺は、初めて先生の気持ちに気付いた時にそう直感した。
そしてそれが確信に変わったのも、それから間も無くのことだった。
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