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3.仮初めの距離(20)*

 心地良い気怠さが身体を包む。  このまま眠ってしまえたらどんなに幸せだろう――。  しかし現実はそれを許してくれない。  だってここは学校で、それも通常は立ち入りを禁じられている屋上だ。ついでに言うなら、下校時刻もとっくに過ぎている。  いつのまにか雨が降り出していた。  軒下にいたため俺も先生も濡れてはいないが、散乱したまま放置していた課題のプリントにはところどころ染みができていた。 「あっぶね、もうちょっとでせっかくの苦労が水の泡……」  俺は手早くプリントをかき集め、同じように転がっていた筆記具と一緒にカバンの中へと押し込める。それをおざなりに脇に抱え、背筋を伸ばすようにして立ち上がると、パンパンと軽く制服を叩いて付着していた埃を払った。 「……お前、本当にその格好で帰るのか」  それを見ていた先生が、露骨に訝しげな声で俺に問う。  顔を上げると、先生はすっかり身支度を整えて、あまつさえ口元の煙草には既に火が点いていた。  まるで何事もなかったようだと内心苦笑しながら、俺は改めて自分の姿を省みる。  確かにシャツは皺だらけ。腹部や裾にはまだ雨に打たれてもいないのに濡れた形跡があるし、何より黒いズボンに残っている情痕が妙に生々しい。しかもそのどれもがすぐには落ちそうにない。  かと言って他に方法もなく、俺は冗談めかして肩を竦める。 「だって裸で帰るわけに行かないでしょ。まぁ、幸いと言うか俺は今日傘を持っていないから、濡れて帰ります。そうすればどうにか誤魔化せると思うし」 「そうか……」 「先生こそ大丈夫なの、そんなくたびれきった格好で」 「問題ない」  雨足はどんどん強くなっていた。吹き付ける風の角度によっては、いよいよ足元まで水滴が飛んでくる。 「……結構、いかにもって感じしますよ?」  俺は僅かに背を仰け反らせ、下から見上げるような視線で先生の姿を一望した。 「問題ないと言っている」 「……そうですか」  そうは言っても、俺に比べれば幾らもマシだ。  伸ばしきれない服の皺はどうしようもないとしても、コンクリートの上でついた砂埃は払うだけで随分マシになったし、何より汚れているのはシャツだけで、他には何の痕跡もない。  ――あ、いや、前言撤回。髪はちょっと乱れているかも。  ふと目に付いたのは、つむじの辺りでつんと立ち上がった少量の髪の束。寝癖みたいだと思いながら、俺はその毛をそっと指で梳かした。  先生と俺との距離は、そうして手を伸ばせばぎりぎり届く距離になっていた。

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