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営業の堀江は男が好きで、誰とでも寝る。 真偽不明の噂の出処はわからずとも、噂は尾鰭を付けて部署の中を泳ぎ回る。否定も肯定もせずに涼しい顔をしている自分を案ずるように見守る視線を、堀江は知っていた。 「…否定、すれば良いだろ」 昼休みの屋上、貯水タンクの影に設置された喫煙所で肩を並べた大河はコンクリートに視線を落としたままぽつりと落とす。曇天に向かって煙を吐き出した堀江はうっとおしげに眉を寄せて見せるも、それはただのポーズだ。 「なにが、」 「…お前、…誰とでも寝たり…、…枕営業とか、するわけないのに」 「俺がお前に惚れてるままだから?」 さらりと口にしては大河の手に目を向ける。左手の薬指に嵌った真新しいリングをなんの感慨も無しに見遣る堀江は、大河の動揺した表情を見ていない。 「俺としか、…寝ないんだろ」 「……自惚れんなよ」 その左手の薬指をーーその手首から先を切り落として自分の物にしてしまえば、大河の手はずっと自分に触れているのだろうか。 どうでも良い妄想を巡らせたのは、彼が婚約を報告してきた夜の事だ。あれはもう数ヶ月前の事になる。 「俺と寝ておいてとっとと見合いで結婚決めるような奴と誰が寝たいんだよ」 「……」 例えば今、この左手を取って指を絡め、繋いだのなら、大河はその手を振りほどくだろうか。優しい眼差しが逃げ場を失って泳ぐ様子を見上げて思う。フィルターを唇に寄せ、深く息を吸い込む。吐き出す煙を大河の横顔に向かって吹き掛けた。 「お前がやめろって言うなら、やめるよ」 「……」 根も葉もない噂は、本当に噂の域を出ない。 何故ならその噂が立つように仄めかしたのは自分だからだ。 大河のこの自分を思って困惑する目を、自分に追い詰められて戸惑う目を見たかった。理由はただ、それだけだ。 「枕、」 「……やめて、欲しい」 人の良い顔をして酷いことを言う。 逸らす視線を取り戻すように空の左手首を掴んだ。自分の手元の白筒を傍の灰皿に落とし、その手で大河の指にある同じ物を攫う。唇に運び、味の違う空気を吸い込んだ。 「もう俺とは寝ないのに?」 「……」 「俺はもうお前のものでも何でもないのに?」 握り込んだ手首は逃げて行かない。 本当は、握り返して欲しいのに。 ただ、それだけの話なのに。 追い詰められ、行き場を失った視線がさまよう。噛み締めた唇に触れられたのなら。 この煙草と同じ味の唇にもう一度触れられたのなら。 ただ、それだけの話だというのに。 「……お前が、…俺以外の男と寝るのは、…嫌だ」 絞り出すような声に、一瞬呆気に取られた。 その強欲さ。自分を棄てた振りをして、なおも自分を手放したくはないと呟く誠実な瞳。 自分は随分酷い男に惚れた。 叫び出し、すがりつきたくなる衝動が追い掛けて来る。堪えて、指先で薬指の輪を擦った。 「お前は、俺以外の人間と寝るのに?」 「……、」 「…人でなし」 もし噂通りに他の誰かと簡単に寝られるような自分なら、今こんな風にこの男には縋っていない。 その事すらひた隠しにしては、この優しい男の手を握ろうとする。 踵を上げる。詰られ、また引き結ばれる唇に唇で触れた。互いにぶら下げたままのネームタグの紐が軽く絡み合う。大河の方からは決して堀江に触れる事が無い。振りほどくも、自分の体を押しやりもしない手を視界の端で見下ろし、堀江は胸の苦しさを耐える為に眉間に皺を刻んだ。 (Fin.)

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