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君よ その手を、

「ーーーまだ諦めてなかったのかよ」 声だけは呆れた色が乗っていたものの、上司である彼の顔は眉根を下げた苦笑いだった。その相貌すら、降りたブラインドの隙間から射す西日に照らされてしまい、逆光になっているからよく伺えない。少しずつ日は長くなっているのだなと明後日の事を思いながら、久坂は自分のデスクから動けずにいた。 「しつこいっつうか、…困ったなあ。お前も」 距離さえ近ければ頭を撫でられていたかもしれない。そんな声音が続いた。 貴方が好きです、と初めて伝えてからどれくらいの時間が経ったのだろう。その経過した時間の間、何度同じ言葉を繰り返しただろう。言葉は呪いにも魔法にもならなかった。上司はーーー名取は相変わらず部長の浮気相手のままで、終わらない不倫を続けている。 変化球だったのか、やけくそだったのかは忘れてしまったが、1度投げ付けた言葉に、名取は普段の人を食ったような表情からほんの一瞬泣き出しそうな顔をしたことを覚えている。ーーーあの顔を見てしまった後、一層モノにしたいと思ってしまったから我ながらタチが悪い。 「…部長は人ものじゃないですか、だっけ」 弾かれたように顔を上げる。 以前投げ付け、後悔と恋慕とを沸き立たせた久坂の言葉を名取はそのまま口にした。一呼吸置くように胸ポケットに押し込んだ煙草の箱に指を掛けるも、ここがオフィスだということを思い出して舌打ちし、子供のような仕草で硬いフロアを革靴の先で蹴り上げた。 「お前正解しか投げて来ねえし。なに?部長は俺だけの物にはならないじゃないですか。だっけ」 自分はずいぶん酷い事を言った。 磨かれた靴の爪先に視線を落としたままの名取の頭を眺めながら思う。きちんとまとめた猫っ毛のような柔らかい髪は、夕方にもなるとひと房、ふた房と前髪が降りている。深い溜め息が零れた。 「…お前まだ諦めてねえんだな」 今度は諦念したような声だった。 だが落ちたという手応えは生まれない。久坂は黙って頷いたがその動作は名取は目にしていない。空気の動く気配だけで察し、眉を寄せたまま前髪を掻き上げた。 「あいにく俺も諦めてねえんだよ。…あのオヤジ。……けどな、あっちからもうおしまい、つまて言われちゃあーーー諦めるしかねえだろ、」 「ーーー、」 紡がれた言葉を飲み込むまでに時間がかかった。 名取もまた自分が口にした言葉を確かめるように、そう告げられたのだという事実を噛み締めるように時間を置く。つまらなそうに唇を尖らせる。あの唇に触れたい。衝動が久坂を立ち上がらせた。 「まだ、諦めてねえんだな」 諦められたらどんなに楽だろう。 好き好んで人のものを欲しがりたいなどとは思わない。行く先の無い恋などしている年齢でもない。さっさと見切りを付けて次に行けたのなら。 ーーーだがそれはきっと、この上司も同じようにーーー。 「俺はオヤジのこと諦めて…っつか、しばらく忘れられねえと思う。いきなりは無理だ。そういうもんだろ。…それでも良いなら」 西日が眩しい。 相変わらず表情は覗けない。それでも久坂は靴の底を軋ませて1歩だけ距離を詰める。心拍数が上がる。脈や鼓動が伝わってしまわないかと不安になったが、今更だとも思った。 「はい、」 「あとは、お前次第だけど?」 距離を縮めきる前に堪らず指を伸ばし、肩に触れた。ようやく上げられた顔が泣きそうに笑う。 次行くか。 名取の呟いた言葉がそのまま久坂の胸に染み、同意するように唇を寄せた。 (Fin.)

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