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第1話

 ランズデール、と言えばロンドン、いや英国でも有数の高級デパートとして世界にその名を響かせている。創業はヴィクトリア期まで遡り、歴史と格式の高さでは他のロンドンのデパートとは一線を画している。  ロンドンの中心部、観光客がもっとも多く訪れる地区のど真ん中に位置しており、地元のロンドナーだけでなく、世界中から観光客が買い物に訪れる有名な店であった。  従業員達は皆、このデパートで働けることを誇りにしており、またその分雇用条件も厳しく、並大抵の人間では勤務することすら許されないのだった。  そんなランズデールで働くリアム・ウッドワードはまだ20歳。ロンドンの大学の学生で、自分の空いている時間帯を使ってアルバイトをしていた。  ランズデールで雇われるパートタイム勤務の学生達はハンサムな男性が多く、噂では書類選考の段階で写真チェックが厳しく行われているらしい、と言われている。  リアムはすらりと背が高く、ダークブラウンの髪とグリーンの瞳の持ち主で、見た目はそれほど悪くはない。とりあえず、今のところ大概の女性スタッフをデートに誘えば、快く誘いに乗ってくれていた。そんな訳で、リアム自身、普通よりは男前なんだろう、と自己満足ながら思っていた。 「こら! ウッドワード! また仕事さぼって何してるんだ!」  マネージャーの声がフロアに響く。  朝10時少し前、ランズデール店内は開店準備で従業員たちが忙しく立ち働いていた。  リアムが働いているのは、GF(グランドフロア/日本式1F)にあるフードホールと呼ばれる食料品を扱うフロアだ。ここは店内の一番の目玉であり、一日中多くの客が訪れる一番忙しい売り場だった。彼は形ばかり「すいません」と謝罪の言葉を口にすると、カウンターの上を布で拭いて掃除する。リアムは、このフードホールの中心部にあるコーヒーバーの仕事を受け持っていた。バリスタの訓練は受けていないので、主に接客と会計、客が飲み終わった後の片付けがメインの役割だ。リアムはバーカウンターの中にいる女性スタッフの側に近づくと「俺、マネージャーに目付けられてるんだよね」とこっそり言って笑った。 「リアムってば、誰でも彼でも見境なく口説くからじゃないの? ケーキ売り場のエミリーが最近デートに誘ってくれない、って愚痴ってたわよ」 「エミリーちゃんか、彼女可愛いんだけど、話題がちょっと合わないんだよね。ね、メアリー、今日の仕事終わったら飲みに行かない?」 「ほんっとにあんた、女だったら誰でもいい訳? 悪いけど、今日は彼氏とデートだから空いてないのよ。お生憎さま」  女性スタッフにすげなく誘いを断られ、リアムはがっかりした顔で肩を落とす。  そこへ件のマネージャーが渋い顔をしてやって来た。 「おい、ウッドワードちょっと来てくれ」 「あ、はい」  リアムはマネージャーの後ろについて、少し離れた人気の無い場所へ行く。周囲にあまり聞こえないような声でマネージャーは「今日から、お前は部署異動だ」と告げた。 「え? どういうことですか?」 「フードホールの女性スタッフ達から、お前への苦情が後を絶たないんだ。クビにしてもいいんだが、これから夏の一番忙しい時期に入るから、今更新しい従業員を探して入れてくれ、と依頼すると人事が嫌がるんだよ。だから、他の売り場のスタッフとお前を交代させることにした」 「そ、そうなんですか……それで、俺はどこの売り場に?」 「お前は紳士靴売り場だ」 「え? 何でそんな一番女性スタッフが少ない上に、女性客に縁が無さそうな売り場に……」 「それがお前の問題なんだよ。女性スタッフからの文句が困るから、そういう売り場に異動するんだろうが。ちなみに紳士靴売り場には女性スタッフは一人もいないから安心しろ」 「えー! ひ、一人もいないんですか?!」  リアムは愕然とした顔で肩を落とした。  マネージャーは「今から行くぞ」とだけ言って、がっかりとした顔のリアムを引き連れて、スタッフ専用の階段を下り紳士靴売り場のある地下階へ向かう。  紳士靴売り場のある地下階へ、リアムは一度も足を運んだ事がなかった。地下階のみならず、自分の担当であるフードホール以外には用事もないし、今まで行くこともなかったのだ。  このデパートはヴィクトリア時代の建物なだけに、地下の売り場は天井が低く、多くの小部屋に分かれていて、まるで迷路のようになっている。壁が多いのと天井が低いせいで、照明が明るく照らしている筈なのにどこか薄暗い。しかもそれほど広い売り場面積がある訳ではなく、せせこましさすら感じる。売り場の半分は紳士用の鞄やサングラス、手袋といったファッション小物、そして残りは紳士靴になっていた。  リアムが今までいたフードホールの華やかさとは正反対の場所だ。随分様子が違うので、彼はきょろきょろと周囲を見回しながら不安な気持ちになった。  マネージャーは、探していた人物を見つけたらしく、キャッシャーカウンターにいる若い男性に声をかける。 「おい、フレミング、今日からここの売り場担当になったウッドワードだ。厳しく指導してやってくれ」  フレミング、と呼ばれてノートに書き物をしていた男性が顔を上げた。ブラウンヘアでブルーアイズが魅力的な小柄な男性だった。年の頃は二十代半ばぐらいだろうか、優しげな表情が人好きする印象を与える。  リアムは、優しそうな人で良かった、と内心ホッとしていた。 「ああ、はい。よろしく」  優しそうな表情とは裏腹な、素っ気ない態度。 「あ、あのリアム・ウッドワードです。よろしくお願いします」  リアムは慌てて挨拶する。もしかすると、自分がここのスタッフと交代になったことが、彼を苛立たせているのかもしれない。これ以上気分を悪くさせたらいけないような、そんな気がしてリアムは気が咎めた。 「ルシアン・フレミングです」  ルシアンは青い瞳を真っ直ぐにリアムに向けてそう言った。  リアムは思わずどきり、とする。  その瞳は迷いがなく、冷たい光を放っていた。 「それじゃ、フレミング頼んだぞ」  マネージャーはそう言って売り場を離れた。  残されたリアムはどうしたら良いのか分からずに、もじもじとする。フードホールのコーヒーバーのカウンターの仕事とは、だいぶ勝手が違う。一体何をしたら良いのか、まったく見当も付かなかった。 「こういう売り場の経験あるの?」  ルシアンはノートから目を離すことなく、リアムに尋ねる。顔を向ける価値すらない、と言いたげな態度だ。そんな彼の様子にリアムは少し傷ついた。 「……いえ、初めてです」 「そう。じゃ、レジの使い方から教えるから」  面倒臭そうにそう言って、ルシアンは顔を上げると、リアムにキャッシャーカウンターの上に載せられているレジの打ち方を教え始めた。 ――意外と丁寧に教えてくれるんだな……  しばらくルシアンの説明を聞いていたリアムは、彼へのイメージが変わるのを感じていた。態度は相変わらず素っ気ないが、一つ一つの説明は丁寧で分かりやすい。リアムがこういう売り場での経験がない、と言ったこともあるのだろう。リアムがきちんと理解するまで、根気よく細かく教えてくれた。 「あの、フレミングさんは、ここの売り場長いんですか?」  売り場での一通りの仕事の流れについての説明が終わった後、リアムはふとルシアンに尋ねてみた。  ルシアンはちらり、とリアムを見た後「もう五年になるかな……大学卒業した後ランズデールに就職してから、ずっとこの売り場だから」と言った。 「きみ大学の最終学年だろ? 卒業試験終わったの?」 「あ、はい。あと残りの授業が少しあるぐらいで……」 「そう。……もう昼休みの時間だから、きみ先に食事行っていいよ」  ルシアンはそう言うと、自分はキャッシャーカウンターの中に入って、またノートに書き物を始めた。 「……はい」  リアムはルシアンの冷たい態度に呆然としながら「じゃあ、お先に……」と言って従業員用の食堂へ向かった。  食堂に行くと丁度、コーヒーバーで一緒に働いていたメアリーが食事中だった。リアムは急いでサンドイッチをピックすると、紅茶の入った紙コップを片手にメアリーの隣に座る。 「あら、リアム。新しい職場はどう? もう慣れたの?」  メアリーは興味津々、と言った風に尋ねる。 「あのさ、紳士靴売り場のフレミングさん、って知ってる?」 「知ってるわよ。ルシアンでしょ? あの子、顔は可愛いけど態度悪いわよねー」 「あ、やっぱりそうなんだ……」  リアムはその言葉を聞くと、自分だけにあの態度ではなかったのか、とちょっと安心した。 「でもあれで、彼このデパートの中で一番売り上げ取ってるのよ。大したもんよね。枕営業してるんじゃないか、って噂もあるけど……」 「え? どういうこと?」 「ああ、あんた、売り場の経験ないから知らないんだよね。このデパートって、コミッション制取ってるから、正規の従業員だったら、売り上げの10%を給料に上乗せしてくれることになってるのよ。リアムはバイトだから関係ないけどね。それで毎年売上高が一番のスタッフは表彰されて、ここ三年くらいずっとルシアンが一番を取ってるの。でもそれをやっかむスタッフもいて、彼は客と寝てるからそれだけ売り上げが取れるんだ、なんて陰口叩かれててさ。あの子態度が悪いから、多分それも影響してるんだろうね」 「……そ、そうなの?」 「やっだ、本気にしてんの? ただの噂話に決まってるじゃない。ルシアンって顔が可愛いから、そういう事言われちゃってるんでしょ?」 「……確かに、態度悪いけど、顔は可愛い……かも」 「あんた、女の子だけじゃなくて、男にまで手出すつもり? いくら紳士靴売り場に女性スタッフが一人もいないからって、手近に済ませようとか止めなさいよ。今度こそクビになるわよ」 「ま、まさか。俺、男には全然興味ないし……」 「そうだよねー、あんた女の子にしか手出さないもんね。って言うか、それって逆に女なら誰でもいい訳?」  メアリーがしかめ面してリアムに尋ねる。 「そんなことある訳ないだろ。一応俺の中にも基準ってものがあるんだから……」 「あんたの基準、ゆるゆるじゃない」 「それを言われると……」 「あ、私もう時間だから、行かないと。じゃね、新しい売り場で頑張ってね」  メアリーは食事が終わった後のトレイを返却しに行くと、先に自分の持ち場へ戻っていった。 ――別に、手近に済ませようとか、そんなこと思ってる訳じゃ……メアリーの奴、変なこと言いやがって……  ふとリアムの脳裏に、冷たい目をしたルシアンの顔が浮かぶ。 ――あの人笑ったら、絶対もっと可愛い顔なのに……勿体ないよな。

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