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第2話
その後一週間半が何事もなく過ぎ、リアムもようやく紳士靴売り場の雰囲気に慣れてきた。ルシアンは相変わらず無愛想だったが、毎日そんな様子なので、それが普通になってきていた。
こんな態度でよく客商売が出来るな、と最初は疑問に思っていたリアムだが、これが意外にも客には受けが良いのだった。余計なお愛想や世辞を言うこともなく、ずばりと本音で接客し、しかもまたその見立てがとても良いので、客達からは厚い信頼を受けているのだった。
この店では各スタッフが自分の顧客名簿を作成しており、スタッフは自分の売り上げに貢献して貰えるように、常に客と連絡を取り合っている。
ルシアンも分厚い顧客名簿のノートを持っており、時間を見つけてはまめにメールをしたり電話をしたりしていた。
メアリーが言っていた店の年間売り上げナンバー1になる為の努力を、彼は怠ることがなかったのだ。決して枕営業なんかで一番になったのではない、とリアムはルシアンの様子を一週間以上見続けて確信していた。
その日、リアムが接客している最中に、一人の男性客が入ってきた。背の高いブルネットの男性で、高級そうなスーツを着て、スマートな身のこなしで見るからに贅沢が身についている感じの客だ。こういう客は絶対に最初から購入目的でここへ来ていることが多い。冷やかしの客とは雰囲気が全く違う。
彼はきょろきょろと誰かを探すような素振りを見せる。だがリアムは違う客の相手をしているので、声をかけることが出来なかった。そこへ、ルシアンがストックルームから出てくる。そして自分の目の前にいる人物に目を留めると、信じられないという顔をして声を上げた。
「テイラーさん!」
黒髪の男性を見るルシアンの顔がぱっと明るくなる。
リアムが今まで見たことがない表情だった。驚いたことにルシアンはその顔に、微かに笑みすら浮かべている。ルシアンが売り場でこんな嬉しそうな表情を浮かべたことなど、これまで一度もなかった。
「やあ、久しぶりだね」
テイラーと呼ばれたブルネットの男性は、にっこりと笑顔を浮かべると、ルシアンに近づいた。そのまま抱き合ってキスでもするんじゃないか、とリアムが思うくらい、二人の距離は近く、また親密な空気を醸し出していた。
「どうされていたんですか? ずっと連絡も取れなくて……心配していたんですよ」
「ベルリンにいたんだよ。ロンドンを離れたのが突然だったから、きみに挨拶すら出来なかった。すまなかったね」
「いえ……いいんです。またお会い出来て嬉しいです」
「今日はきみに会いたくて来たんだけど、せっかく来たから靴を何足か頂いていくよ。見繕ってくれるかな?」
「……勿論です。どんな感じの靴をお探しですか?」
「きみがいいと思う物を何足か持ってきてくれる? ドイツの靴は機能性は抜群なんだけど、デザインが今一つでね。やっぱり靴はロンドンに限るよ」
「英国の紳士靴は、やはり伝統がありますから」
ルシアンはストックルームから靴の箱を一抱え持ち出すと、跪いて一足ずつテイラーの為に履かせてやる。
彼は楽しそうに、そんなルシアンの姿を上から見下ろしている。テイラーの視線は靴、と言うよりもルシアンに釘付けだった。
リアムは横目でその光景を見て、面白くない気分になる。
――あの人、靴なんか全然見てないじゃないか。
そのくせ、ルシアンに「これはどうですか?」と尋ねられる度に「デザインがいいね」だとか「履き心地が最高だ」などときちんとした答えを口にする。リアムは「なんて嫌味な奴なんだ」と内心苛ついていた。
テイラーは一通り全部試したあと「全部頂くよ」とルシアンに言った。
「いいんですか?」
「ロンドンは四年ぶりだからね。四年分の靴をきみから買っていくことにするよ。本当はこれでも足りないくらいだけど、持ち帰れないから今日はこれくらいにしておくね」
テイラーはにっこりとルシアンに笑いかけた。ルシアンは恥ずかしそうに俯く。
リアムはその様子を見て、何故か胸にもやもやとしたものを感じずにはいられない。
――何だよ、あの男。気障なことばっかり言いやがって……
結局テイラーは五足の靴を購入し、ルシアンから大きな紙袋を二つ受け取ると、両手にぶら下げる。
「テイラーさん、よろしかったんですか? こんなにたくさん……」
テイラーが購入した靴はどれも一流ブランドの靴で、支払いの総額は数千ポンド(数十万円)にもなっていた。だが彼は一向に気にする様子もなく「たった五足しか買えなくてごめんね」と言った。
そして声を低くすると「今晩、食事でもどう? 後で携帯に連絡するから。番号、変わってないよね?」と付け加える。
ルシアンは仄かに頬を染めると「……番号は以前と同じです。あの、連絡……お待ちしてます」と答えた。
リアムはルシアンの顔を直視出来ずに俯いた。
――あの人……あんな表情するんだ……
何故かリアムは激しく動揺していた。
自分には絶対に向けてくれない顔だ、とリアムには分かっていた。分かっていたからこそ、余計に動揺してしまったのかもしれない。
テイラーが売り場を去った後、ルシアンはそわそわと落ち着かない様子で、何度も携帯を取りだしては見ていた。その様子が余計にリアムを苛立たせた。
リアムとルシアンがランチタイムを交互に取った後、午後の勤務時間が始まる。
午前中よりも紳士靴売り場は昼過ぎから、特にオフィス勤務者が終業時間を迎えた夕方五時過ぎ以降、閉店間際までが一番忙しい。会社帰りの客が靴を探しに来る事が多いのだ。
この時もルシアンは丁度接客しているところだった。
リアムがルシアンのそんな様子を遠目に見ていると、後ろから「ちょっと、リアム」と声をかけられて驚く。彼の後ろには、フードホールのケーキ売り場担当のエミリーが立っていた。
「エミリー!」
「最近、全然誘ってくれないじゃない。待ってるのに。どういうつもりなの?」
「え……あの、いや……その」
リアムは口ごもってしまう。
エミリーはリアムとそう年齢は変わらない筈だが、すでに正社員としてランズデールで数年勤務しているせいか、どこか大人びた雰囲気を醸し出している。そんな様子が気に入ってリアムはデートに何回か誘ったのだが、雰囲気が大人びているだけで、実際に外で会ってみると態度も話の内容も子供っぽくて、とてもリアムは付き合いきれない、とデートに誘うのを止めてしまったのだ。
――だって、毎回彼女の話って、追っかけしているボーイズバンドの話題なんだぜ……付き合いきれないよ。
リアムは内心うんざりしていた。
「今日、仕事終わったら食事行こうよ。ねえ、いいでしょ?」
「いや……ごめん。今日はちょっと用事が……」
「何よ、それ遠回しにもう二度と私とデートしたくない、って言ってるってこと?」
「ちょっ、ちょっと声が大きいから……」
リアムは慌てる。
その様子をルシアンはしっかりと接客しながら見ていた。客に一言「すみません、ちょっと失礼します」と告げると、リアムとエミリーの元へ歩み寄る。
「きみたち、売り場で痴話喧嘩されたら困るんだけど。どこか他所へ行ってやってくれないか」
今までに無いくらい冷たい態度と口調だった。リアムは「すみません」と頭を下げる。それを見ていたエミリーは「もうあんたの顔は二度と見たくないから」と怒って行ってしまった。
「あの、フレミングさん、本当にすいません」
「謝るくらいなら、最初からやらないでよ。お客さんに悪い印象を与えるだろ」
「……そうですよね」
「ただでさえ、きみとうちのスタッフが交代させられて、ここの売り場には痛手なんだ。きみはバイトだから適当にやってればいいや、ぐらいの気持ちだろうけど、僕にとっては大切な仕事なんだ。これ以上迷惑かけないでくれ」
ルシアンは吐き捨てるようにそう言うと、客の元へ戻って行った。
リアムは自分の甘い考えが引き起こした事の次第を思い、悔しそうに唇を噛んで俯いた。
ルシアンは閉店したランズデールの従業員専用の出口を出ると、急いで待ち合わせの場所へ向かう。
閉店間際の六時半少し前に携帯にメッセージが入っていた。メッセージの送信元はジュリアン・テイラー。メッセージには、七時にメイフェアホテルのロビーで待っている、と書かれていた。
ルシアンはメッセージを読むと、閉店後急いで売り場を片付けて店を後にする。リアムが何か話しかけてきたような気がしたが、すでに上の空だったので、何を答えたのかまったく覚えていなかった。
ランズデールから、指定されたホテルまでは徒歩十分ほどの距離だ。メイフェアホテルはロンドンの中心部にあり、富裕層や映画俳優などのセレブレティに人気の五つ星ホテルだった。
車寄せがある入り口には、グリーンの制服を着たドアマンが二人立っている。ルシアンが入ろうとすると「こんばんは」と挨拶してドアを開けてくれた。
ロビーの中はそれほど広くはないが、格式高いインテリアで整えられており、ルシアンはどこか自分が場違いな人間のような気がして落ち着かない。
「ルウ、早かったね」
聞き慣れた声がして振り返ると、ジュリアン・テイラーが立っていた。昼間とはまた違うダークグレーのスーツを着ている。濃い目のカラーが彼のブルネットの髪によく似合っていた。
「テイラーさん……」
「二人だけの時はジュリアン、だろう? 忘れたの?」
「あ……」
ルシアンは遙か昔に交わした約束をふいに思いだして、切ない気持ちでいっぱいになる。
「四年もほったらかしにしてごめんね」
「……いいんです。僕は……あなたの恋人じゃないから」
「じゃあ何? お客さんの一人? きみは客全員とこういう事するの?」
「いえ、そんな事はしません。テイラーさんだけです……」
ルシアンは慌ててジュリアンの言葉を否定する。ジュリアンはそれを聞いて優し気な笑みを浮かべる。
「レストラン、予約してるから、行こう。お腹空いただろう?」
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